本音 その3

 二人を連れて旅館に戻ると、目の下にクマを作った福島君が、B棟玄関先で待っていた。部屋に戻って休んでは? と私が声をかけると、「今まで休んでいたから、疲れたんだ」という返事である。

 そういえば、彼はミニスカノーパンによる妙な昂ぶりを抑えるために、自室で『自家発電」していたはずである。

「ポトフさん。実験の趣旨からいったら、あんま、抜き過ぎちまったら、マズイんスよね」

 私は、そうだ、と返事した。

 しかし、下品な会話だ。

 大学時代は体育会、その後はトラック運転手として港湾やら工事現場やら散々回ってきた私だが、荒くれ男だけの職場だって、この手の話題をあけすけにしゃべったりはしない。

「右手じゃあきたらず、リアルな女の子、欲しくなったとか?」

 アマネ君があっけらかんと言ってのける。堂々女装や同性愛を隠さないのと同様、性に関してはカラッとしているな、と思う。しかし、まあ、知らないひとが見たら、どう思うだろう。ミニスカ姿の若い男三人が、玄関先で立ち話。そうこうしているうちに、大宮君がするりと靴を脱ぎ、自室に上がっていった。ズボンに着替えたあと、妹を探してくる、とのことだった。

「この、腕時計型血圧計の使い方、もう一回、教えて欲しいっス」

 工場から持ってきたときに取扱説明書も持ってきたはずだが、メーカーも様々、もしかして同梱してあったのと違うのを渡してしまったか?

「いや、機種と紙はあってたっスけど」

 たっての望みで、アマネ君が教授することになった。別に玄関先でもよさそうなものだけれど、ぜひ部屋に来てくれ、と福島君はなにやら黄色みがかった瞳で彼を誘った。

「ズボンに着替えてこようか?」

「そのままで、いいっス」

 以下、福島君の部屋で一時間ほどレクチャーをかましてきたアマネ君の話。

 B棟管理室、要するに私の自室に来るなり、アマネ君はわざとらしい体育座りをして、部屋奥でパソコンに向かっていた私を呼んだ。

「アマネ君、見えてますよ」

「だって、見せてるんだもん」

「セックスアピール、好きなんですね」

 私のイヤミは華麗にスルーされた。福島君にも好評だった、とアマネ君は続ける。

「彼、ドンデンきたみたいです」

「ドンデン?」

「めくるめく世界に目覚めちゃったかもしれないってこと」

 部屋に通したアマネ君に、名目通り取扱いのレクチャーを頼むでなく、スカートの中の見せ方を伝授するようにね頼んできたそうだ。なんでわざわざそんなことを? とアマネ君が素朴に質問すると、福島君はもじもじためらっていたが、やがて何かひらめいたようだった。自分は見る側でなく、一方的に見せる側だから、せめて上手な見せ方をマスターしておきたいのだ……そんなふうな「言い訳」だった。蹲踞の姿勢になったり四つんばいにさせられたり、はたまた体育座りを命じられたり、アマネ君は興奮さめやらぬ妖しげな時間を過ごしてきたらしい。そして、今までだったら腐肉に集るゴキブリでも見るような目つきを隠そうともしなかったのに、逆に熱心に、熱心すぎるくらい熱心にアマネ君のスカートの中を覗き込んでいたという。

「得意中の得意、十八番を披露してきたわけですね」

「ええ。その手の皮肉は、もういいですから。福島君、悪酔いしているときの白石さんみたいだったなあ」

「いや、まあ、ねえ。なかなか大胆な比喩で」

「ポーズの注文がうるさくなってきたから、公式で堂々セクハラ・パワハラできるなんていいですねって、遠まわしに抗議してきました」

「それ、全然遠まわしじゃないと思います」

「そしたら、セクハラっていうのは、こういうのだよーって、福島君、ボクの尻を撫ぜ回しはじめて……尻だけでなく、前にも手が伸びてきたもんだから、一目散に逃げてきたんですよ」

「でもアマネ君、自他ともに認めるバイ、じゃないんですか? そういうの、好きじゃないんです?」

「好みの男だったらねえ。彼、そもそも差別主義者でしょう。ゲイ自体は嫌いなのに、チンコだけは好きなんて、いかにも性欲だけって感じで、やっぱ、イヤかなって。それに、あの髪を赤く染めてるの、チャラチャラした雰囲気が嫌いなんです。ガタイもよくないし、それになにより、イチモツが小さい。小学生みたい、とまでは言わないけれど、持続力も勃起力もなさそうで」

「……ようするに、最後のが本音ですね」

「見るほうは堪能したから、今度は存分に見せるほうをやりたいって。何度も繰り返し言ってたから、福島君、実験に関してはホンキで改心したのかな、と思います」

 アマネ君の観察にケチをつける気はないけれど、彼の本心は分からない。

 あれだけ同性愛を毛嫌いしていた彼のこと、ゲイに目覚めたと言い張って、女性陣のスカートの中身を拝見するつもりかもしれない。

「いや、だから、そこんところに関しては、フェィクには見えませんでしたって。福島君がバイになったほうが、実験しの自由度は上がるんでしたっけ」

 そうだ、と私は答えた。

「じゃあ。たとえ女の子のスカートの中を覗くための方便だったとしても、これを機に福島君をホンモノのバイにすべく作戦を考えませんか?」

 人間関係が面倒くさくならないようなら、それもいいんだが。

「大丈夫ですよ。白石さんに頼んで、ウイッグつけさせて、化粧させるだけですから」

 ナルシストこそ、ゲイへの第一歩です。そのうち、尻の穴がむずむずするとか、言い出すかも。

 私は思わず、アマネ君の言葉に反応した。

「アマネ君も、そうやってオトコの味を覚えたんですか?」

「内緒」

 結局この美少年、いや美青年は、これ以上自分のことを語ろうとはしなかった。


 面倒くさくなっていたのは、福島君だけではなかった。

 娘とケンカしていた地図子さんも、取扱注意状態になっていた。

 娘の、告げ口のせいだ。

 実験参加の覚悟を決めたよ、とチカは確かに約束していたはずなのに、どうも自室に一人になると、決心が揺らいでしまうらしい。何を思ったか、実験の詳細をウエノ君の指導教官、塩原教授にバラしてしまったのだ。

 詳細は後の祭り……とまではいかなくとも、出店の店じまいぐらいの遅いタイミングで、聞くはめになった。

 昼食時にどうしてもカレーを食べたい、というウエノ君を連れて、チカと三人で教授は中里の石巻バイパスまで昼食に行ってきたそうだ。出かけるときは仲良さげだったのが、戻ってきたときには、三人ともひどく疲れた感じだった。私とアマネ君は取り込み中だった。例によって彼がポーズを決めているときに、三人が私の自室に来たのである。また「フケツ」とか何とか、氷の視線を向けられると思いきや、三人とも何も言わない。食後のコーヒーはいかが? とアマネ君は急ぎスカートの裾を直し、廊下の冷蔵庫を漁りにいった。我が管理人室には座布団、座椅子がそれぞれひとつずつしかなく、あぶれたウエノ君が畳に直に座ることになった。ついでに来客用のコップもない。コーヒーメイトなし、シュガースティックなし、残念ながらガラスのコップもないコーヒーをみんなに振舞う。しかも、ガム抜きでないためちょっぴりくどいコーヒーなのだけど、三人とも無言で茶碗を空にした。

 以下、まず、チカの言い訳。

「だって、いずれバレることでしょ。指導教官の了解なしに見切り発車して実験するよりも、一言知らせてスタートしたほうが、心象いいかなって。やっぱり、この手のこと、ごまかすの、ヨクナイ」

 教授の娘への反論。

「そんな心象なんて、研究が有無を言わせないくらい画期的だったら、どうにでもなっちゃうって。そもそも教授連中から否定されたから論文執筆しないっていう法はないの。歴史に残るような研究の多くは、いつだって既存の学会やら教授会に相手、してもらえなかったりするもんだし。ほら、フロイトとかガリレイとかメンデルとか」

 ずいぶんとビックネームな例を上げるんですね、と私は感想をさしはさんだ。

 なんだか、本職の大学教授っぽくない、ひどい認識だ。言いだしっぺとして、少なくとも、ウエノ君がこれからやろうとしている研究が、そんなふうに大化けする感じがしないのだが。そもそも博士号をとって、助教でも何でもアカポスにつければいい、という話のはずだろう。男に目がくらむと、正常な判断が難しくなるらしい。

 とばっちりは、ウエノ君に来ているみたいだった。

「スマホにメールがひっきりなしに来てますよ。連絡はいつも不精するひとなのに」

 地図子さんが代わりに返答しようとするも、生返事ならぬ生メールでスルーされるらしい。場を和ませるために、ウエノ君熟女にモテモテなんですね、と言ってみた。地図子さん母娘から、今度こそ冷たい視線を浴びせられるはめになった……。

「で。どーするんです? 中止?」

 母娘が同時に発言する。

「断固、やり遂げるに決まってるでしょ」

「塩原センセを説得してからのほうがいいと思います。なんていったって、事前審査会でハネられたらおしまいなんだし。ここは、少しでも、教授に従順なところ、見せたほうがいいかなって」

 まとまんねー。

 私は地図子さんにコーヒーのお代わりを勧めた。アマネ君が注いでくれたのを、教授はたちまち飲み干して、まくし立てた。

「何を言ってるのよ、チカ。エログロと研究のインパクトって、全く別の問題でしょ。これでウエノ君に博士号をくれなかったら、権力をカサに着た横暴としかいいようがないわ。こういう、一方的独善的えこひいき的押しつけは断固粉砕しないと」

「お母さん、フンサイって……学生運動のアジテーターでもあるまいし」

 あきれるチカに、教授は畳み掛ける。

「そもそも、指導教授に口答えする大学教授なんて、言語道断よ、チカ」

「それ、ウエノさんにとってはブーメランだから。今、論文書いて、塩原センセにに謀反を起こそうとしてるところなんだし」

「黙らっしゃい。ああいえば、こういう。ホント、減らず口なんだから。いったい、誰に似たのかしら」

「お母さんに」

「そういう素直じゃない性格だと、大学に残るのがタイヘンになるって言ってるわけよ。チカ、分ってる? 私は、私があなたの指導教授だから言ってるわけじゃなくて、一般論として語ってるの」

「私。無理に大学に残らなくてもいいし」

「じゃあ、なんで院に進学したのよ」

「進学しろって言ったのは、お母さんでしょ」

「そうよ。黙って私の言ったとおりにしてれば、ちゃんとアカポスにつける。出世ルートだって、ちゃんと約束してあげられるわけだし」

「大学以外にも研究職って、あるでしょ」

「だから、そういう研究職につくのだって、指導教授の陰の力が……」

「あーあ。ウチが底辺大学じゃなきゃ、こんな陰謀めいた実情人事なんて、通りっこないのに……お母さんの言いなりになるのが、もう、ホトホトいやになったの」

 いつまでたっても堂々巡りだ。私が口を挟んでもよいものか分らなかったけど、とにかく口を挟まずにはいられない。

「まあまあまあ。どんどん本題から外れていってますよ」

「ねえ、ポトフさん。お母さんの娘でいるの、もう、いやになっちゃったし。これからポトフさんの娘にしてよ」

 また、それか。そういえば、私の口から粘膜をとっていった遺伝子検査は、どうなったのだろう。

「遺伝子検査? ばっちり大丈夫に決まってるじゃない。それに、愛さえあれば、母親なしでもやってけると思うな」

「だそうですけど。地図子さん」

「反省するまで、来月からお小遣いナシ、にします」

 チカは、しょんぼりした。大人になるのをやめるには、経済的自立が不可避、ということか。

「子どものままだって、お母さんの娘をやめる方法があるかもしれないって、この町まで来たのに」

 それが本音か。

 当初からマザコン娘には見えなかったけど。というか、マザコンやめたい娘には、さらさら見えなかったけれど。

「好きの反対は嫌い、じゃなくて無関心なの。じゃあ、ポトフ君、嫌いの反対は何? 好きじゃなくて?」

 突然、そんな禅問答のようなことを言われても。

「甘え、よ。私に対する甘え。それが、チカの、行動原理」

 ばっさり言われ、チカは自室に逃げていった。興奮冷めやらぬのか、地図子さんは、明日からの実験計画を至極冷静に語りだした。手持ち無沙汰のアマネ君に逃げていき、ようやく落ち着きを取り戻した教授は、娘を追っていった。私の部屋にはひどく憂鬱なウエノ君と私が残った。


 実際問題として、塩原教授のゴーサインが出ない限り、私たちが行おうとする実験は徒労に終わる。もちろん、博士論文以外の、それこそ査読付業界誌への掲載を目標として執筆しても、かまいはしない。実績の積み重ねという意味では無駄ではないだろう。次なる論文へつながる。それこそ、博士論文のための肥やしになる。けれど、指導教授の心象がこれ以上なく悪くなるのも、また間違いないように思える。

 ウエノ君は、私の部屋に居残り続け、そして指導教授の叱咤を受け続けた。具体的に言うと、これまでにないメールの嵐に対して、返事し続けた。電話と違って、私の同席を隠すのはむつかしくない。箱根の向こうでは、私の想像を絶する事態が進行しているらしかった。どうやら、ノーパンミニスカの小太り男子が、院生用の研究室・校舎フロアを徘徊しはじめているらしいのだ。ある意味、シュールだ。カオスだ。秋葉原に縁があり、コスプレに免疫があり、そしてサブカルに精通している彼らお仲間以外には、カオス以外の何者でもない。言うまでもなく、彼ら「女装者」は姫の取り巻きだ。そして彼らは一様にウエノ君の名前を挙げて、自らの行動を正当化しようとしていた。

 ウエノ君は謝罪し続けた。塩原教授のみならず、彼女から連絡先を聞きだした有象無象の抗議者にも謝罪し続けた。メールの合間に鳴る電話のベルに、ウエノ君は怯えた……。

「ポトフさん。僕、いったい、何をしているんでしょう」

「謝ってるんでしょう」

「いや、そうじゃなくて。というか、じゃあ、なぜ、こんなにも謝らねばならないんでしょう」

「それは。ノーパンミニスカの白石さんの取り巻きが、大学でいろいろやらかしているせいで……」

「頭を下げてまわっても、取り巻きさんたち、いまの行動をやめないんですよね」

「たぶん、そうです」

 一般人に対して聞く耳もたない人たちも、同じカテゴリーの人間の言葉なら届くかもしれない。正義のオタク、常識弁えた普通のオタクの人たちを味方にして、説得を頼むしかないだろう。姫取巻きがヘンなのだ。彼らがオタクの全てではない。

「やっぱり、白石さんが……」

 確かに彼女の取巻きだが、焚きつけたのは白石さんでなく、福島君だ。

 姫の名誉のために力説してあげたが、ウエノ君にとってはどちらでも同じことらしかった。

「まさか、実験をやめる、なんて言いださないでしょうね」

 ウエノ君はうつろな目で地図子さんの座っていた座布団を眺めていたが、やがて、言った。

「やめたくとも、地図子さんが許してくれそうにもありません」

 胸をなでおろす私に、ウエノ君は冷や水を浴びせるように言う。

「実験は止められなくとも、彼女との交際はやめられます」

「ちょっ、ウエノ君」

「福島君にもからかわれたんですけど、僕、別段、熟女マニアとか、そういうのではないんですよ」

「……たまたま好きだった相手が、年増だった、とか?」

「なし崩しの相手が、たまたま彼女だったってことです。今を遡ること二年半前、大学院の新歓コンパでヘベレケに酔っ払った地図子さんを家まで送り届ける役目、仰せつかりましてね。彼女は送り狼だったって未だに言いますけど、逆に、僕のほうが襲われたんですよ。玄関前でやおら服を脱ぎだす彼女を押しとどめることができなくて……」

「チカちゃんに見つかって、既成事実にされた?」

「下駄箱の上で、童貞を奪われました」

「ナマナマしいなあ」

 ウエノ君の遠い目が、いっそう遠くいってしまった感じがした。

「感謝してなくはない……こういう言い方は少し傲慢ですが。あれがなければ、一生童貞だったんじゃない? とか、高校からの親友たちと一緒にメイド喫茶に行ったとき、からかわれました。実際、三十間近なのに童貞の友達、いっぱいいますし。けれど、ですよ。たった一回きりのことだったのに、交際の『こ』の字もなかったのに、翌週には彼氏扱いされるなんて。いや、少なくとも、そう紹介されるようになりました」

 最初は地図子さん御用達、大阪はミナミにあるショットバーのバーテンダーに。顎鬚こそ立派だったけれど、どう見ても自分より年下のバーテンダー相手に、ウエノ君は頭をかきかき自己紹介するハメになったという。カクテルの種類も分らないウエノ君を内心どう思っていたか伺いしれなかったけれど、「実直そうでいいじゃないですか」とバーテンは上から目線で褒め言葉をくれたとのこと。彼氏ナシってわかっていれば、自分が立候補したのに……というバーテンのおべんちゃらに、地図子さんがしつこく食いついていくのを見て、「若い男なら誰でもいいんかい? 少なくとも彼氏と紹介した男の前で、他の男を口説くなよ……」とウエノ君は暗澹たる気分になったそうだ。

 このバーテンダーを皮切りに、ひいきのタクシー運転手、井戸端会議常連のご近所の主婦、学会仲間に顔見知りの院生たち、そしてかつての彼氏で今は気の置けない友人たちにと、ウエノ君は次々お披露目されていった。本丸の娘さんには、正式に紹介される前に、公認されるようになっていた。

「でも僕……いまさらですけど、本当は、中学生くらいの女の子が好きなんです」

 なんと、ロリコンかいっ。

「こう見えて、れっきとしたオタクですから」

 そこは、胸を張って自慢するところじゃないと思う。

「でも、いまさら分かれるだなんて、自分から切り出せないですよね」

「ウエノ君、反動が怖いですか? 確かに、地図子さんがどんな反応をするか、想像つかないですよね。自分から男を振るときはサバサバした感じでしょうけど。ストーカーみたいに粘着するかな? 立ち位置だけを見れば同じ大学院の教授と学生だし、交際の経緯を考えれば、セクハラパワハラって言えなくもない。でも、そこまで言い張ったら、ドロ沼間違いなしですよ」

「分かれるって、本気じゃないですよ。単に言ってみただけです。今、ポトフさん、パワハラって言いましたけど、立場を利用して結構甘い汁を吸ってきてもいるわけですし……」

 すねに傷を持つ身なわけか。

「でも、仮にですよ。教授と僕、うまくいかなかった場合、ポトフさん、どっちの味方をしますか?」

 それは、四半世紀に亘る知人である地図子さんのほうに、決まっている。でも、それよりなにより、二人の仲が壊れないように全力で応援する所存、である。

「無責任な本音を言えば、分かれるくらいなら関西戻ってからにしてくれっていう気持ちもあります」

 自暴自棄になった地図子さんがまかり間違って、私を彼氏になんて言いだしたら、目も当てられない。そんなのうぬぼれの最たるものと言われればそれまでだけれど、チカという「娘」が存在するからには、あながち妄想とばかり片付けられない。

 恋愛の駆け引きを楽しむには、面倒くさい相手も面白いだろうが、そんなのを女房にした日には、家庭生活のせいで過労死してしまうに違いない。

 私の徒然なる返答に、ウエノ君はやがて黙りこくってしまった。

 そうやっているうちにも、スマホには抗議のメールがひっきりなしにきている。メールの合間合間には直接クレームの電話がかかっている。やかましい。ウエノ君は居留守を決め込んだが、早晩出ざるをえないだろう。

 ぷつんとウエノ君の緊張の糸が切れ、メールでのぽちぽち、平謝りをやめてしまったのは、何時間後だったろうか。

 糖分が足りなくなりましたか? と私があれこれ話しかけても、反応しなくなった。

 結局彼は夕食に呼ばれるまで、私の部屋に居続けた。大事な客には違いないが、石地蔵につきあって一緒に黙想するくらい、私はヒマではない。彼を無視して、私自身の仕事をするしかなかった。契約しているホタテ加工会社から殻回収の催促電話が何回かあり、うっちゃっていた本業に、そろそろ復帰しないとマズい事態になりつつもあったのだ。


 夕食の席では、地図子さんが躁状態だった。

 どんよりした雰囲気を漂わせている娘や彼氏とは、真逆だ。その娘や彼氏、そして大学の同僚にして大切な友人たちと気まずい関係に陥った反動なのだろう。やかましくはあるけれど、注意するのは憚られる、異様な雰囲気。

 ウエノ君は、相変わらず、抗議のメールに返事し続けていた。

 無視できない筋からの電話を受ける気になったらしく、時折廊下に出てはぼそぼそ話す。平常運転なのはアマネ君と白石さんだけで、この日は大宮兄妹も通夜の席でのように黙りこくっていた。地図子さんの独演を除けば、取立てて書き連ねることもないので、ここで一丁、久々に夕食の描写をするのも悪くないだろう。

 滞在の長い客にありがちなのだけれど、いつもいつも刺身に煮魚という献立に飽きてきたというゼミメンバーのために、この日は盛夏を一歩先取りしたメニューになった。ごはんの代わりにほどよく冷やしたソーメン、冷奴、いつもと趣向が違う海産の一品として、サワラの味噌漬けを軽く炭火で焙ったもの。フキとミズナとシーチキンによる山菜サラダ風味、そしてメインディッシュに鶏ササミと赤カブラのカルパッチョ。

 そしてもちろん、私はキャベツの千切り定食である。オフクロが思い切ってアレンジしたという千切りは、名前にふさわしくない太ましい短冊切りになっており(これなら千じゃなく、百切りとか、十切りとか言ったほうがいい)、ワカメ、ヒジキ、そしてモズクが和えられていた。コンビニの惣菜コーナーにおいてある贅沢なサラダを、無理にまずくした感じ。「健康的なのよ」。なぜか、オフクロでも伊藤さんでもなく、地図子さんが私の背中をバンバン叩きながら、言い放った。塩気がダメなら甘酢のドレッシングでもかけたかったところだが、「カロリーを取るのは、その関脇みたいな腹を引っ込めてからにしなさい」と、これまた地図子さんに言われ、断念した……こう、たんぱく質が少なくてはいずれインポになってしまうかもしれない。学生時代懐かしのパウダー式プロテインでも買ってきて栄養素を補うか、と私はとりとめなく夢想した。ロバから、せめてタヌキくらいの雑食に戻るのだ。

 けれど、こんな悠長な妄想に浸っている場合でもなかったのだ。

 食事が終わるや否や、女川交番のお巡りさんたちが、事情聴取にやってきた。

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