本音 その2

 慌てて帰ってくる必要はないのに、お昼過ぎには全員B棟大広間の六号室に集合する。

 オフクロが昔使っていたミシンを、布団部屋の奥から引っ張り出してくる。保管がよかったのか、コンセントを挿して試運転するとだいぶ軽快で、白石さんはご機嫌だった。

 裁縫は瞬く間に終わり、男性陣の試着が始まる。普段から、というが時々女装しているというアマネ君は、余裕綽々だ。セーラー服に合わせるのがぴったりの、紺のフレアスカートである。「ホントにパンツまで脱ぐんかよお」と情けない声を張り上げていたのは福島君。少しでも抵抗感がないようにと、スコットランドのキルトみたいな、赤黒チェック柄のをはいている。バンドマンって、ステージじゃとっぴな格好もするんでしょう、と私が励ましても「いや、オレ、ドラムだから……」とわけのわからない言い訳をする。誰もアンタのこと、見たりしないよ、と白石さんが言っても、両手でしっかり股間を隠したままだ。大宮兄は、どちらかと言えば青ざめた表情。こちらも福島君同様「あんまり恥ずかしくない」のを選んできたという。テニス選手がつけているような、白い四枚はぎのスカートである。「スポーティだから」と言っていたけれど、それがどうして抵抗減につながるのかは分からない。男子が三人並ぶと、やたら大宮君のすね毛が目立った。体格はともかく、脚だけはしっかり男らしい。ボーボーだ。経験者アマネ君は語る。「大宮君だけが特別濃いわけじゃない。男性陣、基本、こんなもんです。シェービングクリーム、結構使うんで、買い足しておいてください」。チカがパンストの提供を申し出たが、大宮兄はあっさり断った。のち、アマネ君が、間違ったふりをして(というか、私に言いつけられたとホラをふいて)両人の股間までツルツルにしてしまったこと、それを知って地図子さんが手を叩いて喜んだことを、付記しておこう。

 直接実験対象にはならないけれど、もちろんウエノ君も一緒にスカートを購入してきた。こちらは男子にしても少し太め、なんとか着られるウエストサイズのはオバチャンぽいデザインのしかなかったとのこと。丈がどうしても長く、調整に時間がかかるから、と白石さんは後回しにしたそうだ。

 女性陣も、もちろん指定のドレスコードである。チカは地図子さんに借りたシンプルな水色のタイトスカート。地図子さん自身は黒い下地に三食のアジサイがちりばめられた、派手なマイクロミニだ。


「やっぱり。やりたくない」

 自己申告になってしまうけれど、本当にノーパンかどうか確認しようとすると、チカがこの期に及んでグズりだした。地図子さんがたしなめる。

「もう、男性陣、スカート買っちゃったのに」

「だって、やっぱり恥ずかしい」お母さんみたいにネジ一本外れてるひとなら、平気なんだろうけど。

「私、ネジ一本なんて、外れてないよ?」でも、愛するひとのためなら、二本でも三本でも外すけど。

 臆面もなく言い放つと、地図子さんはぺロリとスカートをめくって、ペロリとそのまま下げた。下には何もはいてなかった。チカが、思いっきり赤面した。羞恥心からか怒りからかは、分からない。

「ねえ。ポトフさん。これ、見たいひと、覗きたいひとがいるから成り立ってるんですよね」

 そうだ、と私は答えた。

「見たくない、さっさとしまってよっていう気持ちのひとが混ざってた場合、どうするの?」

 うむむ。全員が両性愛的傾向があるのなら、実験がシンプルになっていいのだろうけれど。たとえ両性愛女性ばかりが参加したとしても、母親のストリップショーに満足する娘なんて、いないか。

 実の娘だけあって、チカは辛らつだ。

「それに、いい年したオバサンっていうか、おばあさんの尻だって、見たくないでしょ」

 ほら、さっきの農民の家の例。

 しかし地図子さんの反論も明快だった。

「いい年して色気のないオバサンだったら、自分の息子みたいな男の子、恋人にはできないでしょ」

「蓼食う虫も好き好きっていうことわざ、お母さん、知ってる?」

「まあまあ」

「ウエノさんは、恋人が他人の前で露出狂やるの、我慢できるの?」

 そもそも彼の立場では、どうしてもどうこう言えないだろう。

 母娘ケンカの仲裁は、意外なところから助っ人が入った。

「単体ならそんなにそそられないけど、シチュエーション考えたら、いくらでもエロくなるっスよ。母娘丼で尻見せって、結構楽しみッス」

 オランウータンのように鼻の下を伸ばし、目じりを気持ち悪いくらい垂れさせた福島君であった。

「そもそもお堅い大学教授が指導中に大学院生の前でストリップショーっつーのが、そそられるっつーか、なんていうか」

 エロ漫画の読みすぎだよ、とアマネ君がたしなめる。教授を除く女性陣が、福島君にチラ見せするくらいならボイコットすると言い出した。

 ぱん、ぱんと大きく手を叩いて、地図子さんは事態の収拾を図る。

「ポトフ君。一方的に見せるだけって、実験として、アリよね」

「まあ、アリでしょうね」

 こうして、福島君は一方的に見せてまわるだけの要員に、成り下がった。

「くっそう。それなら、オレのほうがボイコットするっちゅーのっ」

 特にチカとは険悪な雰囲気の福島君だったが、一行の中で一番親しくしてくれるウエノ君の悲しい目を見せられて、最終的に、その損な役回りを承諾した。

「ね。一方的に見せる役があるなら、一方的に見る役があっても、いいんじゃないですか、ポトフさん」

「総監督は私、主執筆者はウエノ君よ、チカ。了解を得たいなら、まず、私たちに言いなさい」

「じゃあお母さん」

「却下。一方的に見るだけなら、ポトフ君がいるでしょ」

 チカはそれでも粘りに粘って、自分への観客から大宮兄を外させた。アマネ君に対してはね完全女装すると全くオトコに見えないから、私に対しては実験実務上どうしても外せないから、と自分を納得させたようである。現実問題、脚を九十度に広げたのと、三十度しか広げてないのでは、見え方が違う。タイマで開脚時間を測定する以上、その判定員はどうしても必要になる、ということだろうか。スカートの中身をさりげなく見せる方法論について、部屋の片隅で体育座りするとか、階段上りかけで脚を止めるとか、色々代表的ケースを紹介していると、チカがすすっと私の脇によってきて、言った。ホントは、実験実務のためじゃなく、「お父さん」だから見せるんだよっと……。

 最終手直しをするから、という白石さんに従って、男性陣は、いったん普通の服に戻った。

 腕時計型血圧計をみんなに支給したのは、午後のおやつを食べてからである。糖分補給も兼ねてアイスを所望したが、女性陣に拒否された。カロリー低くさっぱりしたものを、というリクエストに答えて、結局はトコロテンになった。食べながら機械の使い方を伝授する。ゼミメンバーの誰も、この手の腕時計型を使ったことがあるひとはいなかった。そのせいか、アマネ君以上に計測値が一定しない。練習かたがた、予備期間を設けることになった。


 考案者は自分自身とはいえ、地図子さんたちの実験につき合って、本業をおろそかにすることはできない。夕食後のミーティングを今度こそ断り、私はパソコンにかじりついた。仕事のやりくりをつけるための計画を立てる。漁業関係者の朝は早く、夜明けとともに仕事開始、という人が大半だ。松島方面への商品配達は朝四時に起きれば、こなせるだろう。そう、地図子さんゼミの面々が起床する前に、一発決着をつければいいのである。問題は仕入れで岩手方面を回るほうか。一番近い大船渡でも、きっちり一日かかる。アルバイトの運転手を頼むなり代車を頼むなりしなければならないけれど、人手不足の昨今、そもそも大型免許持ちがなかなかつかまらない……。

 知らないアドレス、知らない名前から、画像添付のメールが入った。

 スパムか、ウイルスか?

 違った。

 挨拶の口上からするに、白石さんの取り巻きらしい。福島君から、詳細な事情は聞いた、と書いてある。「姫」をノーパンミニスカにするとは何事か、と怒り心頭の様子でもある。そんなハレンチなことはやめてくれよお、という哀願と、万一映像に収めたら、こっそり、姫には絶対見つからない方法で譲ってくれ、という姑息な一文もあった。最後に、自分も参加したいから、資格審査してくれという結びである。私は添付画像を開いた。小太りなお兄さんが、満面の笑みを浮かべて、ミニスカノーパンでポーズをとっていた。単なるスマホのカメラより上位機種で撮ったのか、写りは大変よい。そのまま女装者向けのネット掲示板に……いや、海鳴館『サムソン』に投稿してもいいくらい。下半身は、普段からそうしているのか、ツルツルだった。メール本文を読み直すと、福島君の指示で急遽かつ丁寧に処理したと書いてある。そうこうしているうちに、二通目のメール。内容はそっくり一緒、イヤ、一枚目よりさらに小太りな……というか大太りなオタクの人が、やはりミニスカノーパンでツルツルの股間を晒す写真だった。ツルツルの理由に、やはり「盟友」福島殿の応援によりうんぬん、と添え書きしてある。この時点でガンガン頭痛はしていたが、もちろんこれで終わるはずはなかった。三通目は、友達同士で撮ったとかで、三人の小太りと二人のガリガリ男が並んでポーズをキメていた。例によってノーパンミニスカつるつる。添付写真は「姫」へのサプライズとして使ってくれ、彼女に美少年趣味があるのは知っていたが、こういう「男の娘」まで愛でるひととは……と、ある。いや、君ら美少年と違うだろ、と私は思わずつっこんでいた。白石さんが見たら、逆にトリマキのサークル、追放となるかもしれない。いや、オタサーの姫たるもの、こういう「問題児」も上手にあしらわなければ、やっていけないものかもしれない。というか、白石さんの取り巻きというのは、こういう問題児ばかりなのかもしれない。姫関連のメールは、さらにひっきりなしにやってきた。神社かお寺か、風光明媚な竹林を散歩しているオタクの図。お尻に何かぶっささっている図。歌舞伎役者か京劇のの俳優みたいな厚化粧をしている図……。予想通り、一般的にオタクと呼ばれる人たちの中でも、白石さんの取り巻きはレア中のレア、とは後で知った。そういえば、姫自体、学部時代、ふつうのオタクの人々に全く相手にされず「姫」になるために大学院まで進学した、という極めつけだった。ちょっと前に涙ぐましい努力の数々を伺ったはずなのに、というか、だからこそ、良質なオタク、オタクの中でも上澄みのキレイなオタクの人々ばかり獲得したと思い込んでいた。でも、そんなはずはない。そもそも黙っても取り巻きがよってくるような美人なら、色気ばっかりに頼った「営業活動」はしていない。そして、色気を惑わせて「囲いの騎士」をやるようなヤカラ、大学院にまで進学して、まだ「サークルの姫」を祭り上げているような面々が、一癖も二癖もあって何の不思議もない。

 私は無言でメール添付の写真を鑑賞し続けた。

 彼らには姫にしか分からないいいところもあるのかもしれない。大学院という、そもそも絶対数が少ない戦場で、曲りなりにもこれだけの「戦果」を上げてきたのだ。部外者があれこれケチをつけることではないのだろう。

 私のメールアドレスを知り、というかノーパンミニスカの実験の情報を漏らしたのは、間違いなく福島君らしかっとた。どのメールにも彼の推奨でこんな格好をした(剃毛も含めて)と明記してある。

 しかし私は男性参加者をこれ以上募集していない。

 ツルツルに毛を剃る必要がある、とも言っていない。

 福島君の説得が、よほどうまかったのか?

 オタクとは対極にいるような人種だけれど、信頼を勝ち得るのは、別問題なのか?

 それにしても……。

 全くのアカの他人に、自分の局部丸出しの写真を送りつけてくる非常識さ、無用心さ、そして破廉恥さはいったいなんだ、と思ってしまう。

 総監督は地図子さん、論文執筆者はウエノ君なので、白石さんのをノーパンにさせる責任を、私にもってこられても困る。それに、姫自身、そんなにものすごい抵抗があるとは言ってなかったはずだ。確か「囲いの騎士」たち獲得の過程で結構大胆なマネもしてきたから……と最初にパンツを脱ぐとき、はっきりいっていたぞ。彼女が実験につきあってパンツを脱ぐ理由、それはこのゼミの面々より、彼らオタサーの連中のほうが、知っているはずではないかっ。

 ひとりゴモゴモつぶやいている間も、メールはやってくる。パンクしそうとは言わないけれど、主導で全部消すとして、いったい何時間かかるんだ? と思う。

 もう一度言おう。

 福島君が元凶であることは、ハッキリしている。

 彼があることないこと……いや、ないことないこと、吹き込んだせいだろう。

 彼がこんなイヤがらせをした理由も、ハッキリしている。

 やっぱり、あれだ。

 女子のスカートの中身を覗かせない、という協定にヘソを曲げた結果なのだろう。陸続と続くメールに嫌気がさして、福島君の携帯電話に連絡をとってみるが、全然でない。やはり石巻のパチンコ屋だろうか? それとももう少し足を伸ばして、多賀城あたりのライブハウスにでもシケ込んだか? そもそもこれは白石さんがらみのメールなのだから、彼女に一喝してもらえば、済む話である。そう思って姫に連絡を取る。彼女の元にも、ガンガン連絡が入っているという返事があった。「アタシが違うって言ってるのにぃ、ぜんぜん話を聞いてくんないのぉ」研究ミーティングのときには常識的な話し方に戻っていたのに、「信者」たちを口説いていたのか、白石さんの口調は、最大限オトコに媚びるような、かったるく、甘ったるいものになっていた……。

「今日も、飲みに、町に繰り出してるんですか?」

「いま、おトイレ」

 エッチ、というつぶやきとともに、クスクス笑い声が聞こえる。

「失礼しました。電話、あとでかけなおします」

「いいわよぉ。別にぃ」夕食を食べたものを吐き出して、化粧を直していたという。

「体調悪いんですか? それとも、何か食中毒めいたものでも?」

 私に気を使ってか、今日も食事はおいしかった、という答えが返ってきた。しかし……。

「ダイエット」

「は?」

 風呂に入ろうとして、ふと体重計に乗ったら、一キロ半、体重が増えていた、という。急遽入浴は中断、もちろん居酒屋に行くのも中断、これから少し夜のジョギングに行くつもり、と白石さんは言う。

「姫、やり続けるのも、結構タイヘンなのよぉ」

「はあ」

「下僕たちの前に光臨する前にぃ、痩せて、もとの姫ちゃんに戻らないとぉ。ねぇ?」

「はあ」

「それでぇ、オタサーの取り巻き全員でぇ、ノーパンミニスカで女川来るって言ってるけど、部屋、開いてる?」

「は?」

「だからぁ」これも福島君にそそのかされたのか、複数の大学院生サークルが、やってくる意向らしいのだ。

「無理です」

 いったい何人来るつもりか、メール数から判断して観光バスの一台や二台では足りない人数だ。

「じゃあ、駐車場にキャンプ張りたいって言ってるけど、大丈夫ぅ?」

「大丈夫じゃないです」

 メール内容からして、容姿・中身とも濃すぎる連中が大挙して押しかけてくる、ということだ。アマネ君クラスの美形ならともかく、ウチの宿は百鬼夜行がうごめくホラーハウスになるに違いない。分宿してもらうにしても、スカートの中身をぶらぶらさせたまま、となると、おいそれと他の旅館に紹介はできない……。かといって、彼らの言うまま、駐車場を提供するわけにもいかない。単純に車が入らなくなるという物理的理由もさることながら、ドラッグクイーン崩れみたいなフルチンブラザーズが目の前をウロウロするというシュールな光景を想像できない。

「ごめんねぇ、ポトフさん。姫ぇ、人気者だからぁ」

 全くだ。

 三々五々来られても、配宿に困るから、数がまとまったら連絡をくれ、とサークル会長(正確には連合会長らしい……どっちでもいいけど)に白石さんからメールしてもらう。彼らが大挙して押しかけてくる前に、この実験を終わらせてしまう必要がある。まさに、喫緊だ。


 しかし、翌朝になっても肝心の血圧計の数字は安定しなかった。

 洗顔に行くと、女性グループが部屋に引き上げるところだった。

 もういい年だし、健康のためにも毎日計ったほうがいいかしら、と地図子さんに相談された。ボクは少し上が高い、高血圧気味かも、とアマネ君が寝起き顔で言っていた。健康器具本来の使用法をされて、私の血圧計は私自身に扱われていたときよりも、少し幸福だったかもしれない。いきなり数値安定は難しそうだし、あとはノーパンミニスカの練習をしましょ、と地図子さんは提案した。いつたん決断したはずなのに、女性陣はまだグズグズ言っているとのこと。「肝心の本番で、やっぱり脱ぐのイヤと言われちゃ、目も当てられない」。それなら、オトコどもも同じですよ、とアマネ君が歯ブラシを口に突っ込んだまま、不明瞭に言った。

 朝食時は全員が無言だった。示し合わせたかのように、他の宿泊グループが出勤したあとに集合だ。白石さんの手直しが終わったとかで、ウエノ君も含め全員がミニスカート姿。男子諸兄の脚はツルツルだった。私は昨夜のおぞましいメールの数々を少し思いだした。スカートの中身について、自己申告でかまわないのでチェックを入れたかったが、とても聞ける雰囲気ではなかった。

 特に、福島君の尻が落ち着かない。不機嫌な彼に代わって、ウエノ君が説明する。食事中尾篭な話で恐縮だが、勃起しっぱなしでトイレだ大変なのだそうだ。プリアピズムなんていう、ネットでしか見たことのない病気にでもかかったのだろうか……とウエノ君が本気で心配する。単にスケベ心が収まらないだけでしょ、とチカがあっさり切って捨てた。

 今朝はきゅうりの味噌汁で、地図子さんは娘と愛弟子のやり取りをよそに、「ここに来て、はじめて、ハズレの料理ね」とげんなりしていた。

 食事後はチカが洗物を手伝ってくれた。いつのまにオフクロと仲良くなったのか、業務用食洗機の使用法を伝授されていた。ムスコよりよっぽど役立つわ、と全く台所仕事をしない私を、オフクロがチカ相手にあてこすっている声が、食堂まで聞こえる。「そうですよ。旅館の跡継ぎにはやっぱり男より女です。家事全般ができて若くて客あしらいが得意な若女将に限ります」。陰に陽にチカは乗っ取りをアピールしているのだけれど、オフクロはそのニュアンスに全く気づかず、目を細めている……。

 こちらも、さっさとお引取り願わないと、厄介なことになりそうだ。洗物を終え、チカが今度はオヤジの魚捌きを見学に行くのを見るにつれ、まさか本当に乗っ取りなんてできないだろうとタカをくくっていたのが、リアルになりそうで背筋が寒くなっていく。


 血圧計の数字が安定するまで、サッカーの試合を見に行きたいとアマネ君が提案した。

 どうせ普段から女装しているから、とそのままの格好でいくつもりらしい。残念ながらコバルトーレの試合は日曜限定、しかも試合の半分はホームゲームでない。日程的に、アマネ君たちの滞在期間に、観戦機会はなさそうだった。2015年の現状、東北社会人サッカーリーグ一部一位なので、応援に行くのは楽しくはあるよ、と私は教えた。被災から復興までの立役者の「一人」であり、関連本出版があったり、海外でもサポーターができたり、国内外で有名ではある。残念ながら、個人的にものすごく思いいれがあるわけではない。津波到来のだいぶ前、石巻市民リーグに出場するかしないかという黎明期、町内で開かれた高校の同窓会で、寄付を頼まれたことがあるのだ。依頼してきたのは後援会だったか役場のひとだったか、お互いベロンベロンに酔っていたと記憶している。選手の動向やサッカーにかける情熱うんぬんという前振りもなく、いきなり寄付を持ちかけられて、戸惑ったというか、違和感を抱いた。いくら原発の町といっても、当時でも人口一万そこそこの田舎町、カネがいくらあっても足りないという状況は理解できたし、年配の同窓会参加者はみな立派な肩書きがついていたから、そのチームの世話役のひとは、次々声をかけて歩いていたのだろう。壮大なチーム構想を知ったのは、その後だいぶ経ってからだ。子どものみる夢にはカネはかからないが、大人の夢は金銭抜きで語れない。というか、金銭抜きで語ってはいけない。こんな当たり前すぎることがリアルに実感されて、その宴会の席では、なんだか醒めてしまったのだ。以来、ずっと醒め続けているような気がする。大人はいくつになっても夢を売ることができるが、夢を買うほうは、ほどほどにすべきなのだろう。

 私は事情を話し、代替案として原子力PRセンターを提案した。

 入場料等のカネがかからず、一時間弱で見て回れる。基本原子力関係の「お勉強」用アトラクションが並んでいる。ボタンを押すと、炉内の模型展示がピカピカ光って、温水の流れや制御棒の動きなんぞを説明してくれる。そんな、ある意味「子ども向け」にアピールする見学施設だ、と思う。津波後は、廃炉決定の福島との比較からか、至極真面目な、大人の見学者の訪問が多いらしい。けれど、私たちのような「不真面目」な客も、たまにはいいのでは、と思う。原子力発電そのものが岐路に立たされているような危機的状況だからこそ、シビアな訪問者ばかりが訪れるのだから。

「これって、デート?」

 駐車場で待っていると、アマネ君は上機嫌で女装をキメてきた。刺繍の入った大きな襟のついた白ブラウスは明らかに女性用で、初めてみる首のピンク色のチョーカー(銀のハートアクセント付)がなまめかしい。いつものは? と問うと、「特別な場合だから特別なのをつけてきた」という返事。助手席に乗り込んで、もう一度血圧計の測定をするようにお願いした。

「そう、しょっちゅう意識させるから、数値が落ち着かないんですよ」

 空気のような存在にならないと、そう、長年連れ添った夫婦みたいに……アマネ君が茶目っ気たっぷりにアピールしてくる。はて、彼女は、いや彼は本当に「ついてる」ひとだっけっけ? と思わず錯覚してしまう……。

「他の面々は?」

 地図子さんたちは母娘ケンカの真っ最中。白石さん、ウエノ君は各人の仕事の下準備。福島君は勃起したモノを落ち着かせるべく、自家発電中。大宮兄妹は部屋に閉じこもったまま出てこないらしい。

「……自家発電中って……」

「しかも、スカートをはいたまま」

 アマネ君は見てきたように語ったが、私は聞かなかったことにした。

「プライバシーの侵害ですよ」

 普通、知っててもしゃべらないたぐいのことだろう。下品、というかネジが一本外れているような。

「そりゃ、教授の一番弟子ですから。そういうところも、ちゃんと受け継いでるってことで」

 私は、やっぱり聞かなかったことにした。

「せっかくの見学だから、みなさんも連れていきたいところですけど」

「えー。チカちゃんとは、一体一でデートしたって、聞きましたけどねえ。やっぱオトコ相手はイヤですか?」

 クルマの中でグズグズしていると、大宮兄がやってきた。なにやら我々についていきたいらしい。

「妹さんをおいてですか? 珍しい」

「ノーパンミニスカじゃなきゃ、同乗禁止。そのための練習に行くんだから」

 大宮兄は、アマネ君のいじわるに何か言いかけたが、「彼女」が私の腕にしがみついて見せたので、言葉を飲み込んだらしかった。せっかくズボン姿に戻ったのに、「着替えてきます」とバタバタ部屋に戻っていった。「上も、妹さんの服を借りて、ちゃんと化粧してきなよ。上手にやれば、君ならパスできるレベルになれる」。後ろからの声に、いちいちうなずきながら、走っていった。

 結局、三人での出発である。

 途中のコバルトラインは霧が深くて閉口する。裾野は晴れ渡っているのに、初夏からお盆にかけてのこの時期、山頂付近はしょっちゅう濃霧に包まれる。

 三十分後、私は二人の女装者を連れてPRセンターにいた。

 両手に花だ。

 残念ながら、大宮兄のほうは、ちょっと観察するだけで正体がバレてしまうレベルである。何より、立ち振る舞いからオトコっぽさが抜けてない。アマネ君は完全に女の子になりきっているのか、私から離れたがらない。挙措動作も完璧だが、一度だけスカートの中を見てしまった。うむ。わざとだ。見られたことに気づいて、アマネ君はペロリと舌を出す。

 そういえば、ここに遊びに来るのは久しぶりである。津波の前々年だったか、気仙沼の妹夫婦、小学校に上がる前の甥っ子を案内したのだった。なんだか、少し目新しくなっている。東日本大震災特集のコーナーができていた。名物バラ園で行われるローズガーデンフェアは先月終わったと知らされ、結局常設展のみ、見て回る。

 アマネ君のみならず、大宮兄もなぜかしきりと、私と二人っきりになりたがる。お互い無言のうち、もう一人の「男の娘」を邪魔者扱いしていたけれど、大宮兄の動機は、アマネ君と違い、不純異性交遊、もとい不純同性交遊にあるのではないらしい。何か相談で? と二階展望台から海を眺めながら尋ねる。アマネ君がいては、まずい話か?

「いや。まあ」

 わざわざ要約するまでもなく話は簡単で、彼は妹をノーパンミニスカにしたくないらしかった。

「いまさら、また、ですか」

 本人が煮え切らないというならともかく、兄が妹をガードしたい、というのはいかにもこの兄妹らしい。

「妹さん本人が、やりたくないって、言ってるんですか?」

 チカに続いて二人目だと、実験、成り立たなくなるかな、と思う。

「……それが、結構やる気で」姫が洗脳してるんですよ。

 大宮兄の不機嫌は、いつのまにかマックスになっている。

「ご本人がやる気なら、口出しする問題では、ないでしょう」

 そもそも、私はヌーディストラボ推進派だ。つまり、大宮兄の敵だ。

「ぐぬぬ」

 せっかく女装までして媚びているのに……と嘆く大宮兄のほうを逆に、私は説得することにした。

 ちょうど、大宮兄好みの論文ネタがあるのだ。

「ネタと引き換えに、妹さんの研究参加を認めてほしいのです。日本の近親婚は、なぜ従兄弟婚までで留まってしまっているのか? 研究を通して、兄弟姉妹に関する合法的な結婚を目指す。題して『現行民法七三四条と中央集権主義』。どうです?」

「まず、話を聞きましょう」

「歴史のおさらいをします。現代民法の成立過程について。明治政府が近代法典の成立に取組んだのは、欧米諸外国との不平等条約撤廃を目指してでした。外交交渉の場で近代法典の不在が、治外法権等の正当化理由として使われたのです。当時の政府はボワソナード等お雇い外国人を活用して法整備を急ぎました」

 新旧民法草案編纂の経緯や民法典論争など、成立過程の法制史に詳しい部分は割愛する。

「現行民法の物権法・債権法にあたる部分は論争こそありましたが、基本英仏等欧州を模範としたものが採用に至りました。民法典論争自体は、明治二十二年五月法学士会の『意見書』から始まり、一応明治二十五年第三回帝國議会にて政治的決着ついたとされています。通俗的な、というかネタ出し的に面白い部分は、もちろんこの英仏派の対立という玄人好みの論争ではなく、起草から日本人の手に委ねられたという親族法・相続法の論争でしょう。実際、戦後の一時期、民法典論争の再評価があったわけですけど、その再評価を、今ここでさらに検討する、つまり『再評価の再評価』をしてみれば、論争の残滓ははっきりしている。敗戦後復活したマルクス主義からの読み直し云々というのを除けば、一回転してシンプルなのに落ち着きます。つまり、家族法関連では、どれだけ家父長的だったか、あるいは個人主義的だったか、という対立軸になっていた、ということです」

 自分で言うのもなんだが、どうも前置き、長くなっちまうなあ。

「常識を繰り返し言うのも非常識なので、焦点を家族法成立時に戻しましょう。時の司法卿大木喬任は、参考資料とすべく全国の慣例習俗の調査を命じました。『全国民事慣例類集』です。これ、しょっぱなに穢多非人の話が出てきてめんくらっちゃったりするんですが、そういう時代だったんでしょう。畿内から始まって西海道まで、確かに全国調査していますが、調査の趣旨に忠実に、民事の手続き収集が中心となっている。婚姻に関してももちろん同じで、諸国ごとの相違をきちんと調査しています。ところが、どこをとっても、近親婚の範囲、なんていう話は出てこない。もしかして実務レベルの役人学者では話題に上がっていたかもしれません。が、しかし、戦後の論争に至るまで関心の埒外にあったことは確かです。検討の俎上に載らなかったということは、一般通念として、日本全国一律に近親婚の範囲が決まっていたのか? 民俗学や最近の判例の教えてくれるところ、どうやらそうではない。そもそも奈良時代には叔姪婚、同父異母兄弟姉妹婚は普通に許可されていました。現代までその慣習が残り続けている地域もどうやら存在するらしい。2007年茨城県における叔父と姪の内縁関係関連の訴訟。そして2009年兵庫県における同様の裁判。現行民法施行から一世紀以上維持され続けてきたことを鑑みるに、民法典論争当時は、今以上に広範で常識に根を下ろしていたはずです。現行民法が法律婚外の事実上の夫婦関係、要するに内縁を罰しないのも、この慣習維持に与って力があったことでしょう。国によっては「近親相姦」として単に禁止されるだけでなく、処罰対象となったりもしますから。では、なぜ、そもそもの民法編纂時にそんな地域慣習が考慮に入れられなかったのか? これには三つの理由があると、私は考えています。一つ目。先ほど述べたように、民法編纂時家族法で焦点になったのが、個人主義的か家父長的か、要するにリベラル・保守という分かりやすい対立軸を基に展開したから。政治的に言えば左対右というこの対立軸のほかに、中央対地方という対立軸があったはずなんですが、こちらのほうの対立軸は意図的に潰されていった。というか、そもそもこれを潰すこと、中央集権化が各種法典の目的のひとつだった。民法典整備に先立ち、刑法典編纂があったわけですが、こちらのほうが露骨なだけ分かりやすいかもしれません。つまり、藩ごとにまちまちだった刑罰の統一を図るという目的のもと、地方の刑罰権を政府が一元的に独占することにした。この刑法典編纂の精神がそのまま民法典編纂にも流用された。これが二つ目の理由。三つ目の理由は、この手の婚姻慣習を研究対象にする民俗学が未だ成立していなかった。先ほど述べたように、民法整備のための侃々諤々があったのは明治二十年代、そして現行民法施行が明治三十一年です。他方、柳田国男の『遠野物語』刊行が明治四十三年。農商務省官僚だった柳田が性の問題に意図的に言及しなかったというのは今更の知識で、歴史に『もし』はないですけど、民俗学成立が民法編纂に先立っていたとしても、条文のこの部分に変更はなかったかもしれない。だからこそ、三回目の民法典論争が必要だ。明治、戦後に続くグダグダを語るべく、研究をする余地がある、と思うわけです」

「具体的には?」

「グーグルの叔姪婚の欄を見ると、どうやら現代でも叔姪婚慣習が残っているかどうか調査している研究者、いるみたいですね。大宮君は、さらに一歩踏み込んで、兄弟姉妹婚が残っている地域の調査にあたるっていうのは、どうでしょう」

 ちなみに従兄弟で四親等、叔父叔母甥姪で三親等。同父同母兄妹で二親等なら、言葉は熟さないが異父あるいは異母の兄妹で二親等半といったところか。こういった区切りの「数字」がひとつずれるだけで、つまり四ならよくて三はダメ、三ならよくて二はダメ、なんていう線引きに、生物学由来でないなんらかの倫理、合理的説明があるなら教えてほしいものである。

 さて、一夫多妻制の時代ならともかく、今の世の中、同父異母兄弟姉妹なんていう関係は少数派だろう。同父同母兄弟姉妹婚というのは、上代でもタブーだった。しかし探索しようとしているのは、もともと全国一律に流布していた制度の名残だけ、ではない。隠れ里、落人部落、その他、時の政権の変遷にかかわらず、頑固に自分たちの慣習を守り通してきた集落も対象に含むのである。

「そういう集落の発見、が最終目標ではありません。民法条文の改正こそ、攻略すべきラスボスです。すなわち、婚姻における地方慣習の尊重。今こそ、民法成立時の中央集権化から、地方分権化へ。現行民法七三四条改正『法律婚における禁則事項は、別途、条例で定める』。違和感があるかもしれませんが、海外では普通に例がありますね。州ごとに近親婚の範囲が違っているアメリカ合衆国。半分の州で、従兄弟婚が不可だとか。インドなんかでは、属人法的というかっ、信仰している宗教宗派ごとに規制が変わってくる。ちなみに、先ほどの叔姪婚に戻れば、ロシアやドイツ、そしてタイなんかでは現在でも法律婚の許可範囲になっています。さらに言えば、法律婚の許可範囲への違和感は、まったく別なところであがっている。たとえば同性婚。日本でなら、欧米から持ち越しの流行と切って捨てるわけにはいかない歴史がある。空海以来衆道は認められてきたわけで、ホモフォビアになったのは、ここ百五十年くらいのものでしょう。在野の研究者も少なからずいそうな分野で、もしかしたら、一般に知られていない同性結婚慣習が、あるかもしれない……話を戻します。法律婚許可範囲の地方分権化は、日本に馴染まない制度か? けれど、たとえば、性交同意年齢に関する淫行条例なんかは都道府県単位で条例を制定しています。銭湯の子どもの混浴の年齢制限なんかも地方条例や当地の銭湯組合の自主基準なんかに委ねられていますね。それとこれとは話が別か? 結婚を性に関するイベント、としてだけ扱えば、もちろん極端な矮小化という謗りを免れないのは確かですが、それなら成人式や七五三など、人生の各ステージの祭祀だって、地方ごとにまちまち、地方ごとに特色がある。どうです、説得力、ありますか?」

 黙って眼下の景色を眺めていたアマネ君が、大宮君の代わりに、口を挟む。

「今のポトフさんの論旨が世間的に説得力があるとしたら、今までそういう議論が起こらなかったのは、なぜです?」

「人の移動やマスコミの力が大きかったから。地方の慣習も、均一化・『東京』化してきています。そして何より、現状の民法由来の倫理が、無意識的にせよ意識的にせよ、絶えず強化・再生産されているような状況がある。オーソドックスに立つ側は、異端が異端である理由がどうあれ、悪、として切捨てがちなんです」

 私が学生の頃には、パソコンでやるエロゲーが全盛期の頃で、目立つ分PTA等「公序良俗の守護神」の槍玉にあがっていたものだ。まだ「実の」兄妹の性交を描写するのは解禁になっていなかったと思うが、その反対の声は、個別のゲームへの攻撃という形をとりながら、実は「日本の現行民法」が禁ずる近親相姦一般に対する反対にまで言及していたと思う。しかしエロゲーの出版点数が増えるにつれ、ジャンルも様々に枝分かれしていったわけで、擬似的にせよ結婚エンドを選択肢の一つに持っているような近親相姦モノも、一緒くたに切り捨てるのはいかがなものか、と思ったものだ。叔姪婚、もしかしたら兄妹婚の慣習を、隠れキリシタンみたいに律儀に守り続けている地域にとっては、この手の「公序良俗の守護神」による「正統派」的正論の主張は、正義の皮を被った価値観の押し付け、中央政府政策の一方的代弁者以外の何ものでもなかっただろう。

 黙って聞いていたアマネ君が、また、おずおずと口を挟む。

「民法とか、この手の法律はまず一般市民の倫理観を元に構築されているというのが、普通でしょう。逆に民法が倫理の土台になっているというのが、イマイチ飲み込めないんですけど」

「じゃあ、傍証です。まず、民法が人間関係と拮抗して、倫理観の基礎となっている場合。いろいろとあるんですが……」

 最近の例で言えば、漫画『うさぎドロップ』後日譚に対するコメントに、この臭いが感じられる。アニメ等で育児シーンに共感を覚えた視聴者が、では漫画読者になってみると、結末は主人公が自分の育てた子どもと結ばれる、という光源氏っぽい結末だった。主人公とヒロインは甥と叔母であって、年齢だけ見れば保護者・被保護者の関係ではあるけれど、世代を考えれば関係が逆転している(実際には血縁関係がなかった)。このケースの、擬似親子に対する擬似近親相姦めいた関係に嫌悪感を覚えるというのは、その倫理が人間関係に重きをおくためである。育ての親との結婚の禁止、というのは養子縁組に関する民法の禁止事項でもあるのだけれど、この場合は正式な縁組はしていない(実に用意周到に、人間関係以外の婚姻禁止事項を排除する仕掛けになっている)。本作結末へのコメントには嫌悪感の他に、擁護容認する声もあった。法的に可能ならいいだろう、というこの倫理観は、人間関係より民法を基礎と選び取った結果と言えなくはないだろうか?

 もうひとつ。今度は、血縁関係を民法が凌駕する例をあげる。

 代理母出産の問題である。

 昭和三十五年の最高裁判例では「母子関係は分娩の事実により発生する」とされており、遺伝的なつながりの有無とは関係なく親子関係が確定される(この小説の時間設定は2015年だから本当はここまでしか書けないけれど、2016年民法特例法案が成立している)。代理母出産によって生まれた男の子が、遺伝子上の母親と婚姻するという場合を考える。つまり、このケースは、遺伝的に親子であっても、戸籍等で親子関係が否定されているカップルなわけだけれど、これに嫌悪感を覚えるか、という問題だ。倫理の担保が血縁関係なら、実質的な親子生活がなくとも、嫌悪感を覚えるはずである。また、倫理の根が人間関係なら、血縁関係にかかわらず、親子生活がなければ否定的感情など沸き起こらないはずである。倫理の基礎を民法におくなら、このカップルが実質親子生活をしていても、婚姻を祝福するという運びになろう。

 単に、民法の倫理への浸透具合だけ見れば、『うさぎドロップ』後日譚ケースの是非論のように、個々人ごとに影響が違う、ということになりそうだ。他の宗教信条と同様、そう、仏教やキリスト教と同様「民法教」みたいな信心のあり方、法律万能主義者がいてもおかしくない。今述べているのはもちろん完全なるフィクションだけれど、おそらく、代理母出産による母子婚がリアルにあっても、一定数の支持者は出るだろう。

 これらの事象・ケースごとに嫌悪感や好感を表明するのは正しいが、単なる嫌悪感をもって反対論者を折伏するのは「粋」でないと考える。理由はいろいろある。「折伏」で調べれば既に私が「粋」でないと考える理由は議論し尽くされているので、さらに重ねては述べない。ただ、あえてもっともくだらないのをあげれば、たいてい説得に当たるほうは何か「酔って」いて、その犠牲者は「クソうぜえ」と感じるもの、というのがそのひとつだ……。

 少し脱線したので、話を元に戻して、終わりにする。

 過去、現在について近親婚禁止規定の中央集権主義批判をしてきたわけだけれど、将来、というかあり得る未来のためにも、この主張は繰り返すべきだと考える。

 北方領土が日本返還されたケースだ。

 先に述べたとおり、ロシアが現在実行支配している地域に、ロシアの婚姻慣習・婚姻法(叔姪婚可)が行われているとしたら、日本の婚姻慣習・婚姻法(叔姪婚不可)との齟齬があるのは予想できる。領土返還という大イベントの前に、この手の相違というのは、政策当事者たる政府・国際社会にとっては数ある瑣末な事項の一つかもしれないが、現実の北方領土の住人、そして隣接する根室や釧路の住人にとっては、瑣末と無視できない案件ではあるだろう。かといって、もちろん、択捉島等の住民すべてをロシア本土に帰すというのも現実的でない。返還実務にあたる官僚・役人・地域社会の人々が、「そのとき」、膨大な工数の実務に追われるだろうことを予想すれば、今からでもできる政策のひとつを、今実行してしまうというのは悪くないアイデアではないか? と思うのだ。法律改正というのは一朝一夕にできるようなモノデハナク、モスクワと東京の合意と履行がスムースにいっているときに、親族法の扱いがブレーキにならないような前倒し策に、この改正案はなりうる。紗那村村議会や留別村村議会のために、日本語版のみならずロシア語版の条例テンプレートを準備しておけばよい。

「大宮君。納得していただけたでしょうか?」

 苦難の道のりでしょうが、足を棒にして兄妹婚容認の地域を探し出し、合法化への道を目指すのです。これは、あなたの望みを叶える唯一にして無二の研究です。そう、キンゼイのひそみに倣って、学術的に(?)説得力のある論文を書いて自分の性癖をトコトン肯定するのです。

「このアイデアのお代は、もちろん妹さんのミニスカノーパンの生尻で払ってもらいます。勝手に利用した場合、あなたが勤務するであろう大学・研究所・ラボを問わず、アイデア泥棒と陰湿な迷惑メールを送り続けますからねっ」

 苦悩する大宮君に、アマネ君がダメ押ししてくれる。

「ゴメン。もう、昨日、サイズ合わせをしたときに、妹さんのお尻、見ちゃったよ。二度も三度も同じじゃない。もう既に犠牲を払ってるんだから、なんらかの意味で果実をもぎ取らなきゃ、もったいないよ。それに……ボクだけじゃなく、ポトフさんだって。ね?」

 アマネ君が、彼に気づかれないようにウインクを送ってくる。

「見た」

 私が重々しくうなずくと、大宮君はがっくりと膝をついた。

 結果、これでゼミメンバーの全員が納得のいく形で、実験参加をすることになったのである。

「納得、ねえ」

 アマネ君の含み笑いを、私は見なかったことにした。

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