本論 その4

 私の長広舌が終わるころには、三船ゼミの女性陣は既に一人もいなかった。

 風呂に入りにいったり、白石さんのように外に飲みに行ったり。地図子さん自身は既に床についたという。福島君は焼酎の一升瓶を抱いて、高いびき。アマネ君は女性陣と一緒に部屋に引き上げ、一応当事者のウエノ君が、申し訳程度にメモを取っていた。いつもは妹と一心同体、どこにでも連れ立って歩く大宮兄が珍しく一人テーブルに残っている。

 私は厨房の冷蔵庫作り置きの麦茶で、咽喉を潤した。

 完全にはアタマに入らなかったので、明日もう一度、ダイジェストを頼む、とウエノ君からリクエストがあった。望むところだ、と私は返事した。

 ボクも興味あります、と大宮兄が少しく頬を紅潮させていう。彼が感情をあらわにするのは、初めてみた。

「君も経済学や倫理学に興味、あるんですか?」

 ちまたの近親相姦の漫画やアニメが、情報資本主義に適応しつつあるかもしれないというくだりが気にいったのだ、と大宮君はいかにも彼らしい返答をくれた。


 ウエノ君が研究テーマをヌーディズムの研究に決めたのは、翌朝のミーティングのときである。朝の七時には既に強烈な日差しが駐車場に濃い影を作っていた。ここ数年、秋に鈴虫や蟋蟀の鳴き声は聞こえるけど、家で夏の蝉しぐれは耳にしていない。季節の風物詩がないほうが、なぜか炎天下をより暑苦しく感じさせるように思える。

 他の、復興工事の宿泊客は、いつにもまして早く出かけていった。のんびりしているのは、わが大学院生たちだけだ。

 ゼミの面々の朝食後、私は乞われて、ダイジェストを再三説明することになっていた。私は少し遅刻して食卓に参上した。工場に居つく半ダース以上の野良猫の一匹、白と灰のまだら模様のオスが交通事故にあったのだ。亡くなった祖母の茶飲み友達が、早朝散歩の途中で見つけてくれた。車にはねられた野生動物は、たいてい内臓が潰れていて、毛皮の下に血溜りを作っているものだけれど、その白灰オスは首が背にくっつくほど曲がっただけだった。早くもカラスが目玉や腹を突っついていた。工場の片隅にスコップで穴を掘っていると、早朝散歩中の他の老人が処理方法を教えてくれた。女川交番でも町の建設課でも石巻保健所でも、連絡を入れればいいらしい。最終的には街のクリーンセンターかな、とそのおじいさんは教えてくれた。「それとも大事なペットなの?」私は首を横に振った。この手の野良猫に憐憫の情はないのだ。

 食堂では、みんながテレビを見て私を待っていてくれた。仙台七夕の特集をキャスターが精力的に語っていた。そう、東北の夏は祭りの季節なのだ。厨房ではオフクロが黙々と皿を洗っていた。朝にはアルバイトが来ない。食洗機の助けを借りても、ムダに皿数が多いので、いつもはかどらない。チカが何を思ったか、お膳下げを手伝っている。総領の甚六が嫁を貰わないせいで……とか、声なき声で愚痴るのが、なぜか私の耳にも届く。戻ってきたチカの顔がほころんでいる。嫁に来る気はないか、と誘われたそうだ。もう、年齢差とかおかまいなしだな。「女将さん、悪くありませんって、答えておいた」。謎の微笑で、席に着く。着々地盤固めをしているというわけが。旅館乗っ取りが近づいてくる。そして、私の結婚が、着実に遠のいていく……。

 台所の一番奥では、オヤジが今朝魚市場で競ってきたばかりのカレイの仕込みをしていた。毎度不思議に思うのだが、朝のこのひととき、どんなに大量の魚介類に包丁を入れていても、生臭さは漂ってこない。カレイという魚の生命力がどれくらい強いのか、たいてい、軽トラの荷台どころか、この台所のまな板の上に乗せられた時点でも元気に動いていて、バタバタともがく。抑えようとしても、片栗粉を濃厚に溶かしたようなヌメリで、始末におえない。私にとって「新鮮」とは、匂いなき音だけの魚のことだ。

 ともあれ。

 私は麦茶入りのコップ片手に腰を下ろした。地図子さんと大宮妹だけが、コーヒー、他のゼミ生は麦茶を思い思いに喫している。

 昨日の今日だけど、長年温めておいたテーマなので、ヌーディズム云々については、簡単なメモ書きをパソコンファイルとしてとってある。プリントアウトしてもっていったが、その朝に使うぶんとしてはムダになった。

 地図子さんが、私の挨拶をあっさり遮って、結論から入ったせいだ。

 おどおど、昨夜のメモを読み返しているウエノ君に、教授はニベもなく言った。

「本来、誰かに相談して決めることじゃないでしょ。腹、くくりなさい」

 もういい加減タイムリミットが来るし、と地図子さんは続ける。そう、旅費はムダにできない。いったん関西に戻ったら、何度も遊びに来る距離に、女川はない……。

 私は安堵のため息をついた。

 三度目の正直とは、このことだろうか。

 交通違反地図、水産系労働ときて、ようやく私のネタにゴーサインが出たわけだ。

「ちょっとした心境の変化?」

 娘が、それとなく口を出す。そういえば、この日の朝はチカだけでなく、白石さんも大宮妹も、だらしなくジャージ姿である。

「それがね……」

 ウエノ君の指導教授、塩原教授から地図子さん宛てに連絡があったらしい。地図子さんは、うっかり、もうテーマが決まってしまったと言ってしまったそうだ。福島君が手を打って、賛成した。「で? 誰か脱ぐンすか? ヌーディズムの研究なんスよね?」

 ヌードどうのこうのというのは、塩原教授に教えなかった、と地図子さんは誰ともなしに言った。そう、ウエノ君の指導教授は、潔癖症なのだ。

「研究計画、とか博士論文執筆計画、みたいなのを提出、と言われてたら、どーするんですか?」

 遅かれ早かれ、必ず、通達しなければならない相手だ。

「既成事実を作ってから、説得する。もう、後戻りはできないからって」

「そう、うまくいきますかね」

「私には前科があるから。あ。博士論文のことじゃなくて。チカを身ごもって、結婚したってこと」

「なるほど。既成事実だ」

 実に地図子さんらしい。

 チカが私と母親をにらむ。

「イヤなたとえ」

 福島君がしつこい。

「で。誰が脱ぐンすか? 誰がハダカになんの? ハダカになったついでに、イングリモングリ、したりとか、いーなーって思うンスけどねえ」

 チカが軽蔑を隠さず、言う。「朝っぱらから、お盛んね」

「なんじゃい、それ。オーレーは、ただ、ウエノさんの研究の話をしてるだけだって」なんせ貴重なパチンコ仲間だからな……という福島君の戯言は、もちろん、ゼミの面々に無視された。

「ボク、そんなにパチンコ好きじゃありませんよ」

 ぼそぼそ、ウエノ君のつぶやき声も、もちろん誰も聞いちゃいなかった。

「でも。エッチよね。ヘンタイよ」

 チカは、賛同者を求めて、ぐるりとゼミメンバーを見渡した。味方になりそうなのは、見つめられて下を向いてしまった大宮妹、くらいだろうか。

 単なる知的ゲームよ、アタマの体操よ、と母親が娘をたしなめた。

 会話が途切れたところで、アマネ君がさわやかに言う。

「でも、具体的にどうするんです? ポトフさんの研究の丸写し? 文献調査にしたって、この町じゃ限界がありますよね。それとも福島君が言うとおり、誰かを裸にするとか?」もう性癖を遠慮するのはやめたのか、この朝のアマネ君は朝から薄化粧をしていた。ゼミには妙齢のそれなり美人が揃っているはずなのに、「ついてる」はずのアマネ君がダントツでかわいく見える。チョーカーをつけた首のつけ根がかゆいのか、しきりに人差し指を当てる仕草さえ、この日はなんだかかわいく見える。

 ゼミのみなさん、協力してくれるんですよね、と私は教授にダメ押しの確認をした。

 それは大丈夫、と地図子さんは即答した。

「アマネ君。協力してもらえるんですよね」

 それはもちろん、と彼は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、うなずいた。

「女装、頼みたいんですが」

 OKです、とアマネ君はうなずいた。今更、と涼しい表情だ。

 黙って聞いていた白石さんが、ニタッと口元を緩めた。

「アマネ君自身だけでなく、ウエノ君たちの女装の指導も頼みたいんです」

 白石さんのニタニタ笑いが、顔中に広がった。

 ボクはやるとも、やらないとも言ってないのに……ウエノ君のボヤキをまた、聞こえなかったふりをして、地図子さんはコーヒーをすする。

「もう、決まったことでしょ」

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