本論 その3

 さて、この「章」の補足、というか蛇足である。

 アイデア練成の場が語られるとき、定番中の定番、代表例としての「国際都市」について、少しだけ触れておこう。言うまでもなく、この「国際都市」もメタファーである。論者ごとにさまざまな言い方・言い換えがなされている言葉である(柄谷行人のいう『交通』の概念が、説明としては一番シャープであろう)。この共通項、というかエッセンスを抜き出せば、多様な文化背景を持つ人々が一同に会すことにより、未見の知識方法論を会得したり、その新知識等から新しいアイデアをひねり出す、という論である。これは本論冒頭であえて検討から除外すると断っている内容、心理学だの脳科学だの、基本アタマの中のシンボル操作の作業の分野だ(ページを割いて検討しないのは、決して手抜きなのではない)。

 もちろん、この手の文化交流によって、個々人の発言を抑止している内部ストッパーが緩むこともあろう。各人が本来属する「ムラ」(これもメタファーである)と国際都市では言論に対するルールが違ってくる。心ある者なら、言説発露の自由のために、十分利用するだろうこの差異は、憲法50条不逮捕特権的線引きの、変形ルールであるともいえるだろう。


 さて、「国際都市」「ムラ」というキーワードが出たついでに、「地理学」と「情報資本主義」というテーマで、一席漫談をぶっておきたい。私が今ここで議論しているヌーディスト村はもちろん紙上の産物である。リアルのヌーディスト村も観念上のと同様にアイデア産出に貢献するとして、他に、情報資本主義に適応できる「場」は存在しないのだろうか? 「匿名性」等、内部ルールと境界の性質を鑑みると、観念上でない乱交パーティー等もそれにあたるけれど、地理学上の概念には該当しない。判例では公然わいせつ罪等で処罰されるけれど、果たして保護法益があるのか? という疑問に加え、「ヌーディズムの倫理」を学ぶ貴重な場の逸失につながるような気がする。ここ宮城県警はこの手の取締にこと熱心な県警のひとつで、もしかしたら、将来、経済思想史の教科書に『二十一世紀初頭、情報資本主義の勃興期、その適合する倫理を学ぶ場として、ヌーディスト村や「健全」な乱交パーティーの存在があった。しかし宮城県警をはじめとする厳しい風紀取締の結果、日本社会ではそれを学ぶ機会を逸してしまった』と記述される日が来るかもしれない……冗談はこのへんにして、地理学の話を続ける。

 本論を貫くキーワードのひとつ、「匿名性」が地理学において明解に現れる単元がある。すなわち、「村落と都市」だ。人口密度や第一次産業の偏在などによって対比される二つの集落だが、さらに明確な特徴として、「都市」には「匿名性」が付与されている(オシノビ匿名性ではなくて、クロコ匿名性)。二項対立的なこの扱いに対して、匿名性を軸に、さらに集落概念を拡張したい。具体的に何が言いたいのかというと、この二項にさらにひとつ、村落でも都市でもない典型集落をつけ加えることによって、三項にしようという試みだ。そしてこれは、プライバシーの扱いの方法論からして、線形進行しているとみなしてよい典型集落である。フランスには人口二万に及ぶ世界最大のヌーディスト村があり、今述べたプライバシー取扱方法によって分類するとすれば、新区分に入れたいところだが、現存の地理学の範疇ではちょっと毛色の変わった都市とされて、終わりだろう。私が三項目としてあげたいのは、もっと明確に他の二項から区分された集落である。実は、現状SFの産物でもある。何を言いたいかというと、近未来に実現するであろう人工集落、スペースコロニーを第三項として提案したいのだ。この手の研究に、未来地理学というのか宇宙地理学というのか想定地理学というのか、ともかくどんな名称があてがわれているのかは知らない。しかし、現代の工学科学的に類推できる宇宙植民地、たとえば金星の上空に浮かべるコロニー、月面に設営される半地下コロニー等の技術的予測から、その他の集落の様子と産業を類推するのは、学問の一分野とみなしてよいのではないか?

 空想的なものも含めた類推からして、おそらく、スペースコロニーにある一定以上の時間居住し、その生活に馴染んだ住人は、ヌーディスト村住人とよく似たエートスが身につくのではないかと思う。もちろんこの倫理の習得に要する時間・年齢・経験等がどんな具合かは、別問題だ。私自身の生年昭和四十五年には、日本人の人口のうち四分の一が、第一次産業に従事していた。私のオヤジの生まれた年には、五十パーセント以上に及ぶ。日本で非都市住民の割合が数パーセントまで落ちたのはここ十数年のことで、私たちはこの事実を忘れがちだ。そして、三つ子の魂百までということわざほどではないにせよ、長らく親しんだ倫理から抜け出せないひとは、少なからずいる。東京の住人の何分の一かが東北出身かは知らないが、匿名性を前提とした行動パターン、あるいはそれを前提とするエートスを年配の人々が持ち合わせていなくとも、ある意味当然ではないかと思うのだ。世界一の巨大都市ながら、各種の犯罪率が非常に低いという美点は、この村落の住人の倫理の持ち越しとは無関係であるまい。また、芸能人・有名人のプライバシーの暴露が、商売として意図的になされているのならともかく、有名税として許容されているのも、この名残ではあるまいか?

 長らく京都に在住して思ったのは、同じ政令指定都市といえども、仙台に比較して、関西の各都市は住民そのものの「都市化」が著しいのでは、ということだ。大阪・京都・神戸・奈良と関西各都市には強烈な「個性」があり、同じ住民の都市化といっても、「はんなり」から「ノリ・ツッコミ」まで人当たりは色々である。けれど共通しているのは、いいたい事、言うべきことはズケズケという、ある意味「空気を読まない」「あえて空気を読もうとしない」押しの強さであり、ズーズーしさだ。京都在住時代は絶えず感じていた違和感だか、女川に戻ると逆に私がその違和感の対象になっていた。そして、ユーターン前の都市は東京・横浜・千葉と違えど、出戻ってきた人間に生粋の地元人(生まれも育ちもここだけの人)は似たりよったりの雑感をよせるらしい。東京のひとから見れば関西からの「帰還者」も違和感たっぷりなのだろうけれど、田舎に戻れば一緒くた、というのが新鮮な体験ではあった。この雑感違和感の狭間にあって、地元人からすれば東京からのユーターン組も関西からの帰還者も共通にヨソ者であって、その違いは個性というより程度の差とみなされている。おそらく、関西独特と思われている個性は、地域特有の「らしさ」というより、実は都市住民化の産物、その深化による分化、ではないかという類推は、こんな個人的体験からのものだ。

 ちなみに、この手の匿名性を前提とした行動倫理、いわば村落の倫理に対する都市の倫理は、いったん身につけると遡る、というかぶり返すことはほとんどないという印象だ。上京した人間が出身地に帰りたがらないのは、巨大都市の魅力や就職等色々理由があろうが、このプライバシーという贅沢を味わったがため、田舎の風習に馴染みがたくなってしまうのもあるだろう。地方で過疎化が進む遠因のひとつであり、地方が何がしか謂れのない軽蔑を受ける遠因のひとつでもあるだろう。

 さて、スペースコロニーに話を戻すと、おそらく「村落と都市」という対比に用いられる地理学的特性をこの宇宙植民地に当てはめても、未来技術の産物であるゆえに、他の二項目との比較はできない。スペースコロニー内の人口密度は地球の都市に比して高いかもしれないし、低いかもしれない。植民地が他の惑星・衛星等に気づかれるなら、おそらく鉱業が盛んになるだろうと予測はつくが、完全な人工飛翔体の場合、果たして農業等第一次産業が行われるかも予測できない。というか、単にスペースコロニーと言っても、今から千年後と三千年後ではその様相も地理学的特性も全く違ったものになっているだろう。しかし、その黎明期、建設維持に莫大なカネがかかることを思えば、おそらく住人の数・人口密度とも匿名性を維持できるほど送り込めはしない、と思うのだ。つまり、最初期のスペースコロニーは「村落」によく似た人口構成を持つと思われる。けれど、そこに送り込まれる住人は「村落」のエートスを持った住人だろうか? 日本では既に都市住民が大多数を占めることは述べた。また、スペースコロニーが完全にコモディティ化する前、実験的試験的な段階でなら、住民にはなんらかの形でコロニー維持に貢献するような技術を持つことが求められるだろうことも予想でき。居住困難地という意味で、少し異質な例を挙げるとすれば、南極観測隊への参加者などを思い浮かべるとよいかもしれない。現代社会では、この手の技術者養成の教育機関のほとんどが都市にあり、結果、宇宙植民地の住人はプライバシーの観念を最初からしっかり持ち合わせていることになろう。

 さて、以上の推論を踏まえて、整理する。

「村落」では「匿名性」を維持できず、その住人はじゅうぶんな「プライバシー」を享受できない。「都市」では「匿名性」を維持できるゆえ、その住民は「プライバシー」の有り難味をしっかり知っている。そして、「スペースコロニー」では「匿名性」が維持できないのに、その住民は「プライバシー」が当たり前の生活倫理を有している。つまり、人口構成面で言えば、「村落」的地理的特性を持ちながら、その住人は「都市」的地理的特性の行動倫理を持つという特異な集落が、「スペースコロニー」ということになるだろう。東京を「大きなムラ社会」にたとえた評論批評のたぐいは昔からあるが、その単純化しすぎの議論に従えば、わが国の首都は「都市」的地理的特性を持ちながら、その住民は「村落」的地理的特性を持ちうる集落、ちょうどスペースコロニーと対偶の関係にある集落かもしれない。

 ちなみに、都市住民がすっぽり村落に移り住んだことによって、住民のプライバシーに関する生活倫理が都市のそれから村落のそれに「後退」することはありそうにないことは、少し前に述べた。わが町女川には知っての通り原子力発電所があり、その運転中に町内に在住する原発関係者は下請けや家族等を合わせると千五百人という数になるそうだ。町の人口は津波前に一万、津波後は六千前後で落ち着いているが、今後過疎化が進んでいき、この千五百という閾値に近づいた場合、どこかで今想定中の「スペースコロニー」的集落になるか、住民の一人として興味があるところである。

 話が女川に脱線したところで、もうひとつ。わが女川町の消防団は七つの分団に分かれており、そのうち第三分団までが町中心部の言わば「市街地」担当、四、五分団が魚市場から南北に走る海岸線に点在する小漁港のいわゆる「浜」担当、そして六、七分団が江ノ島、出島の離島担当、というふうになっている。消防技術を競う町内操法大会などで毎度一番弱いのが我が三分団で、これは町の西郊浦宿地区担当で石巻市への主要幹線の玄関口に当たり、町外の職場に通うサラリーマンが少なくないことも影響しているかもしれない(単なるヘタレという声もあるが、そうじゃない…………と思う)。他方、四~七分団は慨して熱心な団員が多い。たいていは地元の浜の漁師さんたちであり、北浦地区等、一家の跡継ぎの息子は必ず加入せねばならない、という鉄の掟・鉄の結束を誇る分団もある。これは歴史的な経緯があって、道路整備が十分でなかった過去、本職の消防士が駆けつけるまでに地元の人間が消火活動する必要があったからだ。こと離島の消防団は、そうである。女川消防署の設備がどれだけ充実していても、いまだ海上を走って渡る消防車は開発されていないのであり、離島で火事等が起こった場合、消防団が唯一の消防力にならざるを得ないという事情による。島民全員を集めて消火器の使い方を講習等、団員以外の住民に対する教育活動も盛んだ。消防団というポンプ車やホースの扱い方ばかり練習しているような印象だけれど、春秋には予防査察と称して担当地区の各家庭を個別訪問、「火の用心」のチラシ配り等もする。その際、各家庭の事情、どこそこの家は独居老人で車椅子生活中とか、あそこの過程は嫁を貰って赤子が生まれたばかりとか、詳しく聞き及んだりする。この地元密着の知識を買われてか、消防団向けの原子力防災訓練講習の際には避難誘導の役割が特に強調されていたように思う……。で、ここまで何が言いたいかというと、スペースコロニーの「離島」的性格から、おそらく防災面で「消防団」的ボランティア組織の役割が地球上の集落で以上に、大切になるだろうということだ。そ、宇宙植民地は、災害が集落を危機的状況に追い込むという程度を考えると、地球上の離島以上に離島的性格を持ち合わせている。十分なインフラを整えればそんなボランティア組織なんぞいらん、というのは人間が無尽蔵に湧いて出る都会的発想で、実際に津波前に二度ほど火事出動した経験からすると、短時間に大量の、ある程度訓練されたマンパワーが必要になる場合、やはり「消防団」的組織は欠かせないのでは、と推測する。これは同時に、スペースコロニーでは、かなりの人口数・人口密度になったとしても、匿名性を確保するのが難しい、ということを意味する。今論じているスペースコロニーは、村落・都会に次ぐ第三項としての集落として、であるけれど、もしこの三分法を認めない場合、地球上における「村落と都市」の性格と、宇宙における「村落と都市」は、地理学概念上かなり違ったものになるだろう。一見都市であるのにプライバシーの面では不自由、誰かに一挙一動を見張られているような不思議な印象の街、ということになるかもしれない。

 さて、近未来SFの多数は、監修に当たっている科学者技術者の未来予測を裏づけとして、理学工学的には大方正確であり、ふつう、文芸批評家・映画評論家等がこの点で難癖をつけることは少ない。人文社会的にいえば、プロットやテーマ自体が何らかの社会批評、政治主張、そして風刺になっていることもある。そう、「正しさ」という観念において、意識的にせよ無意識的にせよ、いわゆるポリティカルコネクトネスを遵守しているのが普通であろう。では、理学工学的未来予測の反映である「正しさ」に対応する、経済学法学社会学等の未来予測からくる「正しさ」についてはどうだろうか? そもそも、経済学法学等は、理工系の学者研究者のするような未来予測をなしえるのか? 偉そうにしているが、その実地理学シロウトの私の推論なんぞ理工系の未来予測に及ぶべくもないのは百も承知しているが、他の人文社会系の未来予測のしずらさを鑑みれば、完全に荒唐無稽な空想の産物ともいえまい。アマチュア批評はもしかして頓珍漢かもしれないが、しばしご容赦願いたい……。

 匿名性が成立しにくい言説集団内のなかにあって、それでもなんらかの形でプライバシー保護を優先させるには、その集団内ルールがなんらかの形で改変されることは、既に述べた。スペースコロニーと地球、あるいはスペースコロニー同士を結ぶシャトルが、どれくらいの頻度になるか、全般的な予想はもちろん不可能だが、今現在想定中の宇宙殖民初期には、コストの面、技術的な制約等のせいで、そうそう便指数を増やせないだろうことは予測できる。この単純な制約が、集落の内外を隔てる協力な結界になる。

 ある種の常識を裏切る行動をしても、法に抵触しない限りスペースコロニーを追放されないというルールが適応され、また、ここにプライバシー保護の大切さを知っていながら、その保護が不可能という集落サイズなら、ここにヌーディズムの倫理が働く余地がある。これが「ヌーディスト村」的であるか否かは、その行動原理の発露に責任を負うかどうかにかかっているわけだけれど、コロニー外部が南極同様本来人間生存が不可能である地であることを考えると、なんらの咎めがあるのを覚悟の上で、いわば他人の様々な意味合いの暗黙の凝視を覚悟の上で住民が行動し、それを他の住民が見てみぬふりを、できるのではないか? と思うのだ。

 一昔前のNHKのアニメに『プラネテス』というのがあって、お話の半ばで主人公とヒロインがくっつき、デートをする場面がある。これは今話しているスペースコロニー内の話であり、その人口サイズや密度もちょうど取り上げるのに適当だと思うので、一例として取り上げる。これは、少なくとも前半は、スペースデブリを片付ける会社部署の人間模様を描いた物語だ。スペースコロニーが実用化されてだいぶ時間が経った作中設定であり、主人公の居住する以外のスペースコロニーも複数、地球を周回している。だけれど、匿名性を確保できるほどの巨大スペースコロニーの建築までは至っていない、という設定でもある。当然主人公たちは、どこにデートをしに行っても知人友人に出会ってしまう。仕方ないので、外部からの来訪者を迎え入れるホテルの一室を借りてデートする。けれど、ある程度以上の期間をスペースコロニー内で滞在したカップルなら、人前で堂々いちゃつくべきであり、知人友人のたぐいが間が悪く彼氏彼女のペッティングの場面に出くわしてしまったとしても、見て見てみぬふりをして通り過ぎるべきである……というのが、この「村落と都市」への第三項へ加えるべきスペースコロニー内の社交マナー、になるのでは、と思うのだ。『プラネテス』の主人公カップルはたまたま双方が日本人という設定ではあるけれど、主人公カップルが所属する高々数人の小さな会社部署からして既に多国籍である。コロニー全体では言うまでもない。欧米その他には日本よりおおっぴらに愛情表現をするのがよしとされる文化があったりするわけで、主人公カップルが彼氏彼女の仲になるので多くの他の参考にすべきカップルに出会っているのではないのか? と思われる。もちろん近未来SFには他にもスペースコロニー内に生活を描いた漫画アニメ小説等はたくさんあるわけだけれど、その大多数が執筆製作時の日本の風俗習慣を丸写しした生活を描いている。時代劇等の歴史考証でなされるし風俗習慣研究が、未来に向かってなされてもいいのでは、と思う。

 もし、この推論がただし「スペースコロニー」イコール「ヌーディスト村」的集落が本当に情報資本主義に適合した生産性の高い人材排出の集落になるとしても、日本国内をあまねく「ヌーディスト村」的集落にするのは、反対であることを表明しておきたい。私が再三取り上げている「ヌーディスト村」は、誰にでも住みやすい桃源郷ではない、というのが第一の理由だ。たとえば、都会育ちのいまどきの若い娘さんが、昔ながらの因習が色濃く残る農村で生活しがたいように、あるいは、七十八十まで田舎暮らしをしたことしかないようなお婆さんが、今更都市生活に馴染めないように、ヌーディスト村は、そのエートスを共有していない誰にとっても、ユートピアとは言い難い集落である。また、いったんのこの特殊な集落が発生した場合、長年このヌーディスト村の住人である人間が「村落」や「都市」に戻っても、暮らしにくかろうとも予測しておく。ただ、一国の「村落」や「都市」の存在割合が変わらずとも、徐々にヌーディズムの倫理を習得した人間は増えていくことになろう。プライバシーの扱いという一点において、「村落」的心情から「都市」的心情への変遷が遡行しないように、「ヌーディスト村」的心情から「都市」的心情への後戻りはなかろう、と私自身は確信している。しかし、地方出身の都市生活者が時折郷愁を感じるように、あるいは地方へのユーターン組が「遊びにいくところであっても長らく住まうところではない」都市にアンビバレンツな感情を抱くように、ヌーディスト村の住人が、その生き方に疲れることも多々あるだろうとも推測しておこう。

 で、蛇足の蛇足、である。

 アダム・スミスの国富論について、多少穿った解説書を幾点か読んでもらえば分かると思うが、実は、スミスが国富論を執筆した時分、彼が著作の中で取り上げた「ピン工場」はまだ存在していなかった。いや、少なくとも、スミス自身はリアルにこの手の工場をみたことはなかったはず、らしい。この「ピン工場」というのは、ガルブレイスが延べているように、経済学史上最も有名な工場のひとつで(他に有名なケーススタディ的工場と言えば、科学的管理法のテイラーの工場、あるいはマルクスが余剰価値の説明に用いたリンネル工場だろうか)、分業によって生産性があがる、という例として取り上げられているものだ。経済学上の推論によって、未実現の社会現象をあれこれ論じるという意味で、我が「スペースコロニー」はこの「ピン工場」の由緒正しき後継者であるのだけれど、同じ未達成であっても、その後自生的に現れるでろうマニュファクチュアと、既に宇宙工学的な予言がなされているのに端緒らしい端緒も生まれていないスペースコロニーの将来性を比較すると、愕然とする。経済の発達と技術革新が、常に車の両輪のように手を携えて進む、だなんて幻想はこれっぽっちも抱いていないが、アンバランスが過ぎるという印象なのだ。ツオルコフスキーがロケットや軌道エレベーターを考案て既に一世紀、未だ深宇宙探索の原子力ロケットも宇宙エレベーターもSFの中の話である。ジェラルド・オニールがスペースコロニーを提唱して半世紀、アポロ計画で人類が月面着陸してからやはり半世紀の年月が経っている。二十世紀の百年は、工学理学的に急激な進歩があった世紀ではあるけれど、同時に二つの世界大戦のお陰で、莫大な富と人口が失われた世紀でもあった。世紀半ば以降は、世界の国々が二つの陣営に別れ冷戦という直接火力を交えない戦いをし、やはり軍備に膨大なエネルギーが注がれてきた時代でもある。この、戦争と安全保障に費消してしまった富が、すっぽり宇宙開発に回っていたら、今ごろどうだったろうと思うのだ。この宇宙開発を欠いた歴史のあり方が、地球外文明の「標準的」な歴史観なるものがあった場合、片翼飛行なのではあるまいか? と私は妄想してみる。中世、近世、近代という時代区分、あるいは荘園制・封建制と言った政治経済制度のいちいちが、ヨーロッパ世界の歴史発展をモノサシとして他地域を分析する、そんな方法論を、宇宙スケールまで拡大したら? という応用でもある。宇宙開発を欠いた現在の地球文明のあり方を、文字を発達させず、キープという結縄を用いたインカ帝国に比してみたくなるのである。


 最後に政策について。

 まず、情報資本主義という言葉の一般的な使用が、文脈によってはポスト産業資本主義と言い換えたほうがいいのでは? という問題提起である。岩井克人定義による差異が価値を生み出す資本主義、というより、文字通り、従来の産業資本主義のあとにくる資本主義という意味で。いったい何がいいたいかというと、有価値の情報取引がクローズアップされるのが情報資本主義ならば、ポスト産業資本主義にはもうひとつの側面、新規産業によって経済発展を切り開くという、ベンチャー資本主義的側面があるのでは、と思うのである。新しいソフトウエアを作るのと、新しいカイシャを作るのでは、必要とされる人材も、その人材への教育方法も、育成のために政府の政策も全く違うのではないか? ということだ。ただ、経済産業省をはじめ、わが国のシンクタンクや経済評論家が目指すところは、どうやら従来にない財サービス、従来にないニッチな経済分野・商圏を狙って、次々新規産業を立ち上げること、らしい。要するに、両者のいいとことり、である。しかし、私見では、ソフトウエアとベンチャー、二つの分野で必要とされる人材観はだいぶ違う。資料はかなり古くなるが、四半世紀前、私が学生だった時分のテキストを二つ取り上げて、例とする。一つ目はクリントン政権で労働長官を務めたロバートライシュが『ザ・ワーク・オブ・ネイションズ』で取り上げたシンボリックアナリストという概念である。情報資本主義時代の花形になるであろう、この労働職種に必要になる教育訓練としてね四つの基本的技能をあげている。すなわち、抽象化、体系的思考、実験、そして共同作業。詳しい内容については、原著でもネットでも簡単に調査できるので、ここではこれ以上述べない。二つ目、ジェフリーAティモンズ『ベンチャー創造の理論と戦略』。ライシュの著作に劣らない、この分野の古典といっていい。アントンプレナー・マインドの六大マインドとして列挙されているのは、「コミットメントと強固な意志」「リーダーシップ」「企業機会への執念」「リスク・曖昧性・不確実性に対する許容度」「創造性・自己依存・適応力」「一流たらんとする欲求」となっている。これも内容までは詳しく立ち入らない。

 このシンボリックアナリストとアントンプレナーを比較して、その必要とされる資質が、というより資質の種類が違うのが分かると思う。シンボリックアナリストに必要とされているのは、ある種の「技能」であり「技術」である。抽象化や体系的思考、などというと曖昧模糊としているけれど、なんらかのカリキュラムとして具体化し、知識訓練の一種として伝達可能なのものだ。他方、アントンプレナーで求められているのは、一種のキャラクター性、いわば裏のカリキュラムで身につくもの、教師が知識伝達する際の方法論で伝達されるもの、あるいは教室の外で学ぶといっていいものだ。たとえていえば、あなたが刀鍛冶に弟子入りした場合、ハンマーの打ちつけ方や焼入れの水の温度を学ぶのがシンボリックアナリスト的技能にあたり、他方、刀鍛冶としての心得、生活態度等、技術取得につれて自然に身につけるもの・身につけるべきとされる心理的気勢がアントンプレナー的マインドにあたるといっていいかもしれない。傍証というには大げさだけど、参考にもうひとつテキストをあげる。日経の『ゼミナール』シリーズ、例によって私が学生時代勉強に使っていた時分のものだから古い版のものだけれど、その「現代企業入門」の中の一節。企業家を生む家庭環境についての調査があって、昭和六十年から平成元年までの間に株式公開までこぎつけた創業者について調査すると、その四十パーセントの父親が自営または会社経営にかかわっていた、という結果が出ている。幼い頃から企業経営の何たるかを身近にするのが影響する、とこのテキストでは短評がついているけれど、要するに、アントンプレナーのキャラクター性を身に着けるのには、そういう家庭環境で育つのが手っ取り早い、ということだろう。ここに、たぶん逆説がある。普通のサラリーマンが企業経営等を意識するのは学業を終え職業人になってから、早くてもせいぜいインターンをしたり就職活動を始めたりしてから、だろう。学童期に企業経営なんて早熟すぎる、もっとのほかとなりそうなものだけれど、それが知識技能ではなくキャラクター性である限り、早期教育の必要性はあるかもしれない。他方、シンボリックアナリスト的な技能習得は、職業人たることを意識する年齢になってからでも、遅くはないかもしれない。子どもの頭脳は柔軟で、だからこそアイデアマンを育てる早期教育の必要性を説く論者は少なからずいるけれど、学童期のアイデアマン・発明家が大人になってもアイデアマン・発明家のままでいるとは限らない。現在理工学で理系就職しようと思えば修士号取得が一般的で、それだけ最先端知識のキャッチアップまで時間がかかるということであり、そのおのおのの分野にて必要とされる「抽象化・体系的思考・実験・共同作業」の内容はだいぶ違っているかもしれないからだ。ケインズがかつて経済学的知について述べているように、物理や哲学のようなひとつとの分野の掘り下げたスペシャリスト的な知のあり方に対して、広く浅く見境ないゼネラリスト的な知のあり方だって、ある。経済学と物理哲学という大雑把なくくりでもこれだけ違うのであり、細分化された現代理工学の各分野において、新しいソフトウエア、新しい発明を生み出す知の操作法が、多種多様であっても、おかしくない。

 学生時代からの古い文献ばかり引用に使っているのは、単にカネがなくて新しいテキストを買えないから、だけではない。この四半世紀、ビジネス書だろうが経済学のテキストだろうが、当該分野で目にする情報をつらつら眺めるに、驚くほど内容が変わっていないように思える。論者が意識するにせよしないにせよ、いずれはこのシンボリックアナリストやアントンプレナーの紹介・焼き直し・解説・微調整その他その他……ではないかと思うのだ。かといって、ライシュやティモンズがこれらアイデアのオリジナルだと持ち上げる気もない。古くはアルビン・トフラーの『第三の波』のように、情報資本主義の到来を予言した著作が過去にも存在し、シンボリックアナリストやアントンプレナーの片鱗をあちこちで垣間見ることもできるからだ。言わばオリジナルなきコピーに近い存在、いや、自生的に出てきているアイデアさえこのコピーめいた影を帯びる世界、とで言ったほうが正確だろうか。

 本論で言及している倫理は、無作為に選び取ったこのコピーの一葉を二つ折りにして、それが上下対照でないことを証明しようとする作業かもしれない……。

 続ける。

 シンボリックアナリストに必要なのは、一種の技術知識であり、アントンプレナーに必要なのは、一種のキャラクター性であることは、既に述べた。

「習得すべき何か」と、それを発揮すべきときの何かは違う。両者とも、実践のときには倫理が伴う。アントンプレナーに伴う倫理が起業家そのひとを律するのに対して、シンボリックアナリストに倫理が適用されるときとは、彼らが協働するとき、その場に適用される倫理であり、もっと言えば、その協働の場を準備した者に課せられる倫理、といえるかもしれない。

 前振りが長くなったが、要するに、ヌーディズムの倫理は、一般的な意味での情報資本主義全般に及ぶものではない。あくまでシンボリックアナリストが力を発揮する領域、新しいソフトウエア等を発明発見する場のみに有効だということだ。

 で、話の流れからすれば、ここで新規ソフトウエアのための政策を語る、ということになるだけれど、その前に一ひねり要することを白状しておこう。個々の政策の射程距離、守備範疇の問題、があるからだ。金融支援等間接策を除けば、シンボリックアナリストが有価値財・有価値サービスを生成する場への支援策は本来的に存在しない。頭脳の中だけで完結する、大目に見ても頭脳と頭脳の間の連絡、その連絡の連鎖には、いかなる立法措置も立ち入ることは難しい。強いて言えば、この「場」の形成維持を促す策、ということになるのだけれど、それは経営の問題だ。

 他方、新規企業を立ち上げる場合には、行政が深く関わる。新分野を開拓しつつ起業する場合だけが例外で、たいていは立法でなく、行政である。たとえばあなたが三陸にてホタテ加工会社を立ち上げるとしてみよう。既にその企業が立ちあがった場合の舞台装置は揃っている。保健所等で鮮魚商・水産加工の許認可、漁協で買受人免許の交付、そして加工場が消防法に則っているか所轄消防署の立会い、その他。同業他社が多数いる場合には、たいてい一連の行政措置が既に存在し、新たな立法措置が必要となる場面はほとんどない。また別に、今度はあなたが白ミルの養殖加工会社を立ち上げる場合を想定してみよう。現在三陸で白ミルの養殖流通は全くおこなわれておらず、要するに新分野を切り開くことで企業するというパターンだ。この場合、養殖海域の調整、貝毒検査検査方法の確立、水産加工許認可における新しいマニュアルの作成など、様々な立法措置・行政指導が必要になってくるだろう。そう、この場合は行政でなく立法である。そして、白ミルの養殖加工会社が成功したら、次はマテガイ、その次はウミタケ……と新規事業分野の開拓を目指すのが政策である。

 今一度、整理しよう。新規ソフトウエア開発を律するのが経営であり、一般企業たちあげには行政、新分野開拓企業に立法、そして新分野そのものの開拓には政策。

 ヌーディズムの倫理は新規ソフトウエア開発を律するものではあるけれど、この節で語ろうといる「政策」という範疇からは外れる。

 ちなみに、現実にある政府・地方自治体の新規産業政策・新規ソフトウエア政策は、この手の理念・理論に追いついている・追いついていないというより、もっとプリミティブな段階に留まっているように思える。大人の事情であまりぶっちゃけられないが、でも私怨たらたらに少しぶっちゃけてしまうが、要するに、一種の「天下り」というか、有権者やマスコミに突きつけられてしぶしぶというか、予算分捕りの一手段というか、とにかく「やる気」がどっちを向いているのか分からない、といった印象だ。

 津波の年の秋から冬にかけて、県の旗振りで被災地企業支援の相談会が開催されており、私も確か十一月、石巻専修大学で開催されていたセミナー・個別相談に参加した。主催に当たったのは宮城県産業振興機構というところで、持ち時間三十分あまり、担当の人に話を聞いてもらった。私はもてあましていた割れ貝殻・屑貝殻を処理すべく、粉砕肥料屋を始めたい、とアドバイスを求めた。担当の人は「大学のセンセイを紹介しましょう」「それ用の補助金も調べましょう」とバラ色の助言をくれたが、後日調査の上詳細をお伝えします……と言っていたのに、その「後日」が全く来なかったのである。一年後、そんな相談会があったことさえ忘れていたころ、携帯電話にポツリと連絡があった。曰く、ご期待に副えなくて申し訳ありません。

 まあ、本来タダで相談に乗ってもらったのだから、あまり贅沢を言うべきではないのだろう。かの組織がボランティア集団だとか、まったくの私的企業というなら、善意や利益のベースに乗らなかったこちらの相談の仕方が悪かったのかもしれない、とあきらめもつく。けれど、多少なりとも税金が投入されているのなら、こんなお役所仕事しかできないクソ組織、潰れてしまえと呪いの言葉を吐きたい。同じ税金を投入するのなら、いくらでもマシな方策がとれそうなものだ、とは思う。


 さて。

 この倫理が倫理である限り、政策立案への応用と言っても、具体的な個々の法律条例として具現化するものではない。倫理とは、人に適用されるものである。もっと詳しく言えば、政治家官僚と言った政策立案者を律する何か、ではある。では、ヌーディズムの倫理が政策立案者の内面規範になるとして、どんな行動パターンの改変につながるのか? それはおそらく、政策への意図せざる逸脱に対して報復措置を我慢する、という一種の禁欲になるはずだ。

 これは、ブレインストーミングや国会における禁則事項、その会合の内部で発言したことは、のち、外部で責任を問われることがない、の政策立案者版にあたる。一昔前……というか、二昔前か三昔前の日本経済を論じたテキストには、たいてい悪名高き「行政指導」と、そのパターナリズム的性格を払拭しようと悪戦苦闘してきた歴史を語っているはずである。


 ヌーディズムの倫理という心理規整が情報資本主義に適応できる具体例はまだまだあれど、もう書くのも飽きてきたので、このへんで終わりにしたい(というか、もうすっかり小説っぽくなくなってしまっているし)。小説本編に戻るために、少し肩のこらない例を挙げておこう。ヌーディズムの倫理が教育の場に導入されるとすれば、これを身に着けねばならない第一当事者はもちろん教師ということになる。政策立案者が意にそわぬ会社に行政指導で報復するのを禁ずるように、学校生徒に対して、ある種の校則違反(というか、それ未満の暗黙ルール)に対する報復を禁ずる精神、となるはずだ。そう、罰則ではなく、報復を、だ。たとえば、ある中学校に、ワイシャツの下は白い下着に限るという校則があったとしよう。校則に反して赤いシャツを着てくる生徒には、もちろん罰則を与えねばなるまい。しかし、白いメンズブラをつけてくる男子生徒に、ヌーディズムの倫理を身につけた教師なら、あえて「報復」しないということだ。もとより「白い下着に限る」というルールは守っているのだから、罰則を下すことはありえない。良識や常識を盾に彼を叱咤するのは下策である。彼は思春期に入ったばかりのホルモンバランスの崩れで胸が膨らみ本当にブラジャーが必要だったのかもしれないし、脳と身体の性が一致しない同一性障害の人なのかもしれない。いじめのせいで誰かに強要されて仕方なくつけているのかもしれないし、家庭の方針や彼の信心する宗教宗派の教義のせいかもしれない。単なるブラジャーフェチの可能性もあるが、新しいファッションリーダーになるべく研究中のアントンプレナーの卵なのかもしれない。

 創造とは、常に変態チックな何かを伴うものなのだ、と思う。

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