本論 その2

 まず。

 問いの「原型」、つまりこの「情報資本主義に必要な倫理とは、いかなるものぞや?」という命題が、どこから出てきたのか?

「情報」という単語の取れた、元祖・資本主義の勃興期の分析として、経済学徒なら誰でも知っている古典として、マックス・ウエーバーの『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がある。まあ、この代表的著作の性格によらず、ウエーバー本人は社会学者ではあった。乱暴を承知で、そしてこの小説の趣向に沿って大胆に改変要約すれば、こうである。

 物々交換に毛が生えたような古典的経済(封建制)から、資本主義経済への過渡期、その原動力のひとつとなったのが、プロティスタンティズムの宗教規範と、それにともなう行動原理であった、と。

 すなわち、本来的に金儲けを忌むものとしてきたカルヴィニズムが、労働者の禁欲的労働(信仰と召命された職業への集中、それ以外の一切の世俗的欲望・浪費・贅沢の禁止)を強いた結果、逆説的に「利潤の肯定」「利潤追求の正当化」そして原初の資本形成を促進した。

 高校社会科の教科書的には、この辺で説明はおしまい、である。

 では、社会学からではなく、経済思想における書誌学史的立場から『プロ倫』を読み解くとして、他の著作と比較して、どこいらへんが画期的だったのか? (以下、項目一、二の概要は、逐次的ではないがウイキペディアを参考にしている。ま、勉強不足で猛省中の部分だ)。

 一つ目。マルクス主義における「宗教は上部構造であって、下部構造である経済に規定される」という唯物論への反証。もっとも、ついでにつらつら「上部構造」「下部構造」なんてググッてみると、『資本論』第三部では、上部構造からの反作用みたいなものもありますよと書いてあったりするから、俗流唯物史観への反証だよと言い換えてもいいかもしれないけれど(そもそもマルクス自身は下部構造という言葉を使っていない)。資本論の最初の出版が1867年、第一インターが1866年、この十九世紀後半の五十年というのは、大体思想史的にも社会運動的にも共産主義なるものが(というか科学的共産主義なるものが)欧州に浸透普及していった時期であり、1905年出版の『プロ倫』が、科学的共産主義に肯定的/否定的な文脈からあえて強引に読み解かれていった可能性はあるのだ、と思う(というか、ある意味常識?)。政治色のついた批評が当該文献にとって幸福・不幸かは分からないけれど、少なくとも「悪目立ち」し続けるための必要十分条件の一つではある、という気がする。

 二つ目。金儲けを強行に否定していたはずのカルヴィニズムが、皮肉にもその禁欲的労働を追及していった結果、金儲けを最も肯定し、近代資本主義形成の一助をなす……という論理そのものが実にピーキーな性格を帯びているということ。二十一世紀の今、クリスチャンでも何でもない日本のド田舎の一トラック運転手としては、そのインパクトのすごさ、なんていうものはまったく実感できない。けれど、論証術の華麗さと逆説的な結論こそ、実は、この「読み物」の・「読み物」としての唯一にして最大のウリではなかったのか? と思うのだ。他の同時代人の経済分析、たとえばケインズ経済学の萌芽を思わせるゾンバルトが教科書的に不人気なのは、それが経済学的に的を射ていないから、ではない。事実の羅列とまではいわないまでも、知的虚栄心・好奇心をくすぐらない一種の「つまらなさ」のためではないのか? と思うのだ。たとえとしては適当でないかもしれないけれど、それは、探偵小説におけるトリックの意外性に比肩しうる。「私は読者に挑戦する」という定番文句が単なるハッタリに終わらない社会科学のテキストは比較的希少で……というか、私見では本家本物であるミステリであって最近は希少であって、地味になりがちな・けどそれゆえに重要な実証研究の幾多を退けて『プロ倫』が経済学史的に貴重文献であり続けているのは、偏にこのインパクトのお蔭である、と信じるのである。

 そして三つ目。この『プロ倫』の肝、宗教規範が資本主義の下支えになるという逆説的方法論が、後の時代の経済学者に分析「道具」のひとつとして採用されるときは、常に裏返した状況で使用されている、という経済学者・エコノミスト業界での一種の流行に注目すべきである。経済発展段階説という経済史上の一学説は、その性向上本地を離れ例外例を取扱いがちなものだけれど(要するに開発経済学における途上国分析)、テイクオフ(ここではロストウのテクニカルタームを使う)前夜の、いわば資本主義も労働規範も未成熟に留めおく「ブレーキ」の一種として、『プロ倫』における禁欲的カルヴィニズムに相当する宗教規範の「欠落」という形で描かれる。ヨーロッパを模範とし、「離陸」がおぼつかないその他大勢、という憂鬱な構図の免罪符に使われるというのは、ウエーバーその人にとっても想定外のことだろう。ちなみに、日本はこの途上国分析むという例外例のさらに例外として、いわば一周まわってきたうえに換骨奪胎した「衣」を着せられることが多いようだ。

 こうして、『プロ倫』が枯れず、というかある意味歪な生き残り方にせよ現役でいる、という解釈の仕方が、たとえば東大史学社会学等正統派ウエーバー研究の権威あたりからしたら、邪道浅薄に見えるのは承知している。意図的な誤読の果てに一連の「問い」と「答え」を設えるのは、いわば万石浦の浅瀬に砂の城を建てるようなものかもしれないけれど、今現在実現しつつある未来そのものが、牡蠣用船外機付和船のように、うんざりするほど型の変化がないことも特筆しておくべきだろう。

 どんな装いをしようとも資本主義は資本主義であり、エンジンを違う種類のに換装しても、やはり資本主義だろう、ということだ。

 というわけで、宗教倫理と資本主義、というある意味いかがわしいカップルが、経済学「業界」のいわゆるデファクトスタンダードになって久しい……という前提条件を承知してもらえば、私のいう「問い」が成立する余地が出てくるわけだけれど、その前に、「倫理」という言葉をどんな文脈で使うか、ということを宣言しておきたい。

 現代倫理学の三類型、メタ倫理学・規範倫理学・応用倫理学のうち、当然ながら、ここではメタ的・規範的なものは取り扱わない。ここでの倫理は既に「ある」ものであり、「選び取られる」もの、そして資本主義との関連で「語られる」ものでしかなく、それ自身が分析の対象になることもなければ、本来的には政策目標の一つとして掲げられるものでもない。すなわち、これは『プロ倫』の流儀を倒錯した形の関心、ある禁欲的規範がコレコレの資本主義の形成に貢献したという因果関係を、ケツのほうから読み解こうとする……いや、ケツのみならず頭のほうからも、双方向的に読み取ろうとする試みなのだ。要するに、「コレコレの資本主義形成のためには、どんな倫理規範が必要か?」「反対に、どんな倫理規範を準備すれば、コレコレの資本主義は勃興するのか?」という俗っぽく、生臭く、そして胡散臭い「問い」なのだ。今風にもっとオシャレな言葉で整理しようとすれば、ある種の資本主義における市場プレーヤーたちが、いかなる内面規範・エートス(明文化されていない法規範を含まない)を持つべきか? である。

 つらつら考えるに、特段この情報資本主義に絞らなくとも、資本主義の内情が変遷するたび、『プロ倫』的な立ち位置からマーケット全体を俯瞰するような著書は、節目節目に現れてきた。アダム・スミスの『国富論』がそれであり、またケインズの『一般理論』もしかり、である。それぞれ商業資本主義、金融資本主義の全体像を描いている古典ではあるけれど、同時に、著しく「私がここで再三述べている『プロ倫』的側面」を帯びているのも、また確からしく思うのだ。市場プレイヤーが自分勝手に利益を追求すれば、どんな中央統制がなくとも自動的な調整がなされるという『国富論』の「神の見えざる手」、労働者の完全雇用を目指すために財政均衡主義という政府のお約束を反故にしてよい、という積極財政への提案は、その時代時代でインパクトを持ちえた経済倫理の転倒であるまいか? またこの両著作は『プロ倫』的に市場プレイヤーには宥和的であり、旧来の学問的常識にとっては攻撃的であり、そして規制当局にとっては緩和的政策を迫る、という点も明記しておくべきだろう。

 で、経済学の巨人のヒソミに倣って、宥和的・攻撃的・そして緩和的なネタを、ここに開陳していきたい。


 情報資本主義と、旧来の資本主義の違いは何か?

 物やサービスに加え「情報」が重要な経済財として生産取引される経済体制である。資本の源泉が、単純労働による剰余価値のみだったのが、知的活動による情報の産出、いわば発明発見整理統合に重心が移っていく経済体制である。この手の話題に上る「情報」、たとえばコンピューターのソフトウエアだけならず、データベース等、情報の収集整理・索引等の構築も基本頭脳の働きによるものであるとすれば、今ある情報商材のすべてに関して、すなわち脳みその労働の産物の研究をせねばならない。

 この情報の雛形、アタマの中からひねり出され、経済財として他の人にも認められるもの、あるいはその前駆体を、ここでは「アイデア」と呼んでおくことにする。

 もっと詳しく説明しよう。

 アタマの中のシンボル操作によって得られた、言葉や意味のある種の統合を、いったん「言説」と呼んでおこう。この「言説」の中には、政治についてのものあり、恋愛についてのものあり、犯罪についてのものも、あろう。「言説」のうち、経済財として価値を持ちうるものを、ここでは鍵カッコつきの「アイデア」と呼ぶ、ということだ。

「アイデア」は、脳みそから出てきたその瞬間、「アイデア」になるとは限らない。

 自分自身として、そう思っているもの、あるいは他人も認めるもの、自分ではその経済的価値に気づかないが他人は認めるもの、また、単独では単なる「言説」でしかないが、統合改変されて「アイデア」に昇華し得るもの、はたまた、本来誹謗中傷暴言だったものが、一転「アイデア」になる可能性も、その反対もある。

 ここでちょっと注意しておけば、経済的に有価値か否か、という特性ゆえに、「アイデア」と「言説」の「所有権」者は違ってくる。「言説」が、誰かから発せられて、他の誰に届くとき、それは発話者⇒音声・紙・電子等の媒体⇒受け手というふうに変遷する。「言説」を「言説」たらしめるのは、発話者自身かもしれないし、その受け手かもしれない。現代思想ではさんざん語られてきたテクスト論、解釈論、批評論を繰り返すまでもなく、その「言説」は誰のものか?(ミシェル・フーコー流に言えば「作者は誰か?」ということになるのか)と問われれば、ここでは、その発話者その人であるかもしれないし、受け手かもしれないし、あるいは、その共同作業の結果といえるかもしれない。どこまでも議論の余地のある「言説」の持ち主探しと違って、「アイデア」の場合は明快である。発話者がどこまでも、その権利を持つのだ。たとえ批評家の、受け手の評価で「アイデア」の価値そのものがあがったとしても、その「所有権」が移ることはない(謝礼くらいはもらえるかもしれないが。ちなみに、今私がここで念頭において語っているのは、茶道とその道具が批評家次第で宝物に化けるというシステムである。また株式市場のような典型的例は言うまでもない)。もし、批評そのものが商業的な価値を帯びてくるとすれば、彼はすでにその「アイデア」の解釈者ではなく「発話者」であり、経済的価値が付帯されたことによって、その批評そのものが「アイデア」になっていく。

 ちなみに、経済についての言葉の表明は、「言説」になり得ても、「アイデア」になりうるとは限らない。経済財としての価値があるとは、限らないからだ。「言説」そのものについては、今ここで語られているのと同じ形ではなくとも、哲学、言語学、宗教学その他で詳細に、徹底的に語られているはずだ。ゆえに、詳細ははしょって、ここでは「アイデア」に集中することにする。


 では、「アイデア」は、どんなふうに脳みそからひり出されるものか?

 戦後日本でジャーナリスティックに扱われる場合、それは常に便秘的、であった。

 すなわち、うーんうーんと脂汗をかき、一生懸命気張ってポットンと落とす……しかし、どんなに力んでも、先っちょしか出ない。だからこそ、イチジク浣腸やコーラックに比せられるような「処方箋」が、絶えずたち現れては消え、するのだと思う。梅棹忠夫の『知的生産の技術』川喜多二郎のKJ法など、紙とペンによるシンボル操作の手助けになりうる各種手法は、パソコン・インターネットが普及し、半世紀経った今でも示唆に富むものではある。が、守備範囲が著しく人間の内面に偏っても、いる。クリントン元大統領がいみじくも宣言した通り、二十一世紀は生物学の時代あり、脳科学・心理学のまばゆいばかりの将来を考えれば、より一層協力な「瀉下薬」が煎じられることもあろう。けれど、頭蓋骨の中身をかき回すのに専一なのは、木を見て森を見ない、否、自分の肛門を見て便器を見ない、ある意味独善的行為ではあるまいか? 和式か、洋式か、ボタンのいっぱいついたハイテク様式か、はたまた蕗の葉っぱを持って道端にしゃがみこむのか、ひり出そうとする環境に目を向けるためには、「アイデア」排泄のもうひとつの側面「下痢的」意味をしっかり噛み締める必要があると思うのである。

 ここで、急いでつけ加えるが、私はすべての「アイデア」排泄が下痢的性質だけを持つだとか、便秘的な分析が陳腐だとか言うつもりは、毛頭ない。この事象のウラオモテのうち、より俎上に載せにくいほうに包丁を当ててみたいのだ。野心的な料理人というのは、つねにそういうものではあるまいか(特に、人間の脳の排泄物なんていう珍品を三枚おろしにするときには)?


 女川に戻り、貝殻稼業を始めてから、ずいぶん水産養殖の勉強もしてきた。

 私の扱っているホタテ、このイタヤカイ科最大の貝の養殖発祥地は、青森県の陸奥湾である。過去、ここでのホタテは、平年ちょぼちょぼ、十数年に一度の豊漁という周期を繰り返してきた。が、平内町の篤志家がこの大繁殖期を毎年定着できないかと四苦八苦、結局杉の葉とタマネギ袋で採苗に成功してからは、安定的に大量生産できるようになったそうだ。で、養殖に成功してから、この大繁殖の原因はなんだったのかと科学的に調べてみると、事前の予想とは真逆な結果が出た。

 すなわち、十数年に一度大量発生していたわけではない。毎年毎年、大量発生し、同時に大量死滅をしていたのだが、採苗器のお陰で、その大量死滅を免れたせいだったのだ。

 で、である。

「アイデア」の「繁殖」も、実はこの青森ホタテ採苗方式ではあるまいか? と思うのだ。

 すなわち、「アイデア」が便秘的であるという私たちの認識は、実は自己欺瞞である。無意識のうちに、心の中には大量の「アイデア」を溜め込んではいるのだけれど、それが口から出る前、脳みそから飛び出す前に大量死滅してしまうために「便秘的」に感じるだけだ、と。だからこそ、問題は、心の中の「胃腸」ではなく、心の中の「肛門」であり「便器」である。分析を妨げている心の中の「毛糸のパンツ」や「貞操帯」を脱ぎ、心の中の「ジョグストラップ」を着けるのだ(ようやく小説冒頭の主題を回収できたよ、ほっ)。

 まずはさておき、この「下痢」を阻止している障害物一般の名称を、ここでは心の中の「アナルプラグ」としておきたい。

 さて。

 論理展開のだいぶ先取りになってしまうけれど、「アイデアの消化排泄は本当に下痢的なのか?」という質問に、先に一例をあげて納得の一助としておきたい。ここに、アタマの中に百通りの「アイデア」が詰まっている人がいたとする。彼が21世紀初頭、現在の「北朝鮮」(リアルのではなく、西側諸国イメージのデフォルメされた姿)に住んでいるのと、「アメリカ」(注意書きは前記に同じ)に住んでいるのとでは、ひり出すことのできる「アイデア」の数量が、違うのではないのか? ということだ。彼が「北朝鮮」では10通りの「アイデア」しか開陳できず、「アメリカ」では60の「アイデア」を提出できたとする。言論の自由が確固たる形で保障されているのは素晴らしいことだ。この場合の「モノ言えば唇寒し」というエートスは、抑圧的な状況そのもののみならず、アタマの中に浸み込み自己抑制の元凶となってしまう。だからこそ、それを解放するための方法論を探ろうというのだ。ここで、ちょっと注意しておく。このケースにおける「北朝鮮」と「アメリカ」の差50通りが、私のいう「アナルプラグ」なのではない。アタマの中で生成した百通りとの差、「アメリカ」ケースでなら40通りぶんを阻止するエートスや心理的障害のことを「アナルプラグ」と言っているのである。

 イギリスは産業革命を成功させ「日の沈まぬ国」という超大国になる前にも、やはり大国だった。けれど18世紀半ばと19世紀半ばでは、比較にならないほど産業経済の力が違っている。これと同様、今例に挙げた「アメリカ」のリアルバージョンも、情報資本主義入り口にいる現在、「アイデア」排泄にまだ余力を残しているのでは、と思う。

 では、早速「アナルプラグ」の解説に入っていきたい。

「アイデア」排泄を抑止する力は、その行使する主体によって、二種類に分類できる。

 一つ目は「自分自身」がストップをかける場合。そしてもうひとつは「自分以外の誰か」が止める場合、だ。この二つの抑止力は、主として、「自分以外の誰か」抑止力が「自分自身」抑止力に転化され内面化されていく、という意味で補完関係にある。「自分以外の誰か」を親や教師や上司、「自分自身」を子や生徒や部下、というふうに読み替えると理解が速いかもしれない。また、この「自分以外の誰か」は必ずしも、面識がある個人、である必要はない。ある種の宗教・思想・法律・政治といった観念的産物でも、かまわない。また、ゲンコツやビンタや蹴りやムチやローソク等肉体的な迫害、ムラ八分、イジメといった精神的なイヤガラセも、「自分以外の誰か」になりうる。この「自分以外の誰か」抑止力の働き方は、心の働きの外からのものだから、「アイデア」を排泄しようとする本人以外にも容易に見てとれる。この力の源泉は、主罰則であり、苦痛であり、揶揄であり、恥辱であり、そして恫喝である。これらの変形として、自分自身以外の誰かの苦痛という形で、いわば人質としての抑止力もありうる、ということもつけ加えておこう。

 内面化された抑止力、すなわち「自分自身」がする抑止力には、上記に加えて、盗難・悪用への懸念という、オマケが加わる。最初の定義を思い出してほしい。「アイデア」というのは単なる「言説」と違って、有価物になり得る……場合によっては、取扱危険物になりうる。すなわち、画期的な「アイデア」なら盗用しようとする「自分以外の誰か」が存在するなら、彼は「アイデア」排泄を促進激励する立場に立つはずなのであって、「アイデア」の有価物的な側面に限っては常に「自分自身」だけが、心の中の「アナルプラグ」として働くのである。

 もちろん、この抑止力についての考察は、私が初めて創始したものではない。

「アイデア」の前段階、経済的価値財ではない単なる「言説」に遡ってみれば、この抑止力を排除するための、四苦八苦の歴史がたどれるはずだ。

「言説」を発することに対して、損害を被るために対策として、発したヒトが誰か、不明瞭にするというテクニックがある。

 すなわち、匿名性である。

 誰もが知っているこの発明のお陰で、言説者の自己保全が二段階に分離した、という点に触れておこう。すなわち、「身の安全」と「プライバシーの安全」である。「匿名性」本来的な意味において、プライバシーの安全は、身の安全確保のためのものだ。現代社会では別個のものとして扱われ法で保護される二つの安全について、本論では随時思い出してもらうことになろう。

 さて、意思の発露の最も単純な例のひとつ、投票は、比較的この匿名性の必要に早くに気づかれていた。古くは古代ギリシャの陶片追放から、現代の国政選挙に至るまで、秘密投票の保証という形で実現されてきたのである。投票人の自由意志へ、他人が介在強制する可能性を排除するという点で、匿名性は理論上優れた効力を発揮している。ただ、表明する意思の内容が、被選挙権者の氏名という比較的簡単な「言説」であるからこそ、その弊害が抑えられている、ともいえる。古くは覆面作家の座談会、そしてインターネットの発達に伴って新たに出現してきた「言説」空間、たとえば「2ちゃんねる」のような匿名掲示板の弊害を考えるとよい。無名の友人・教師・エンターテイナーに混じって、やはり無名のウソツキ・詐欺師・ストーカーそして「言葉の暴力団」が存在する。

 では、どうすればいいのか?

 匿名性の欠点を切り捨てて、利点だけを掬いあげるという試行錯誤は、未だ、いきつくところまでいってないように、思える。プライバシーの公開という完全なガラス張りから、完璧に成功した匿名性という暗幕まで、様々な程度の匿名性が開発されてきた。

 ハーフミラーの匿名性や、曇りガラスの匿名性……ハンドルネームからトーア・ソフトまで、話題こそ豊富だが、匿名性の「透過率」の程度の調整こそできすれ、未だ「ガラス」そのものの特性を変えるような発明は、なされていないように思える。また、逆に、匿名性のこの利点欠点がコインの裏表であって、切り離しえないことの証明、みたいなのも、なされていない。なにが「可能」でなにが「不可能」かの証明がなされていない限り、理想の匿名性を発明発見しようとする悪戦苦闘は続くのだろう。人は、諦めないものなのだ。さらに言えば、未だ未開発の匿名性、これが匿名性の一種と認められていない匿名性も、多々あるように思える。確かにプライバシーは晒しているはずなのに、チェックする側の認知限界を超える数のメンバーが存在するとすれば、これも「透過率」こそ高いけれど、匿名性の一種である。地球の住民40余億人が一人ひとりプロフィールを乗せたホームページを持つとして、ひとりの人間が果たして一生の間にチェックできるのは何パーセントくらいか? 悪意を持って公開情報を利用しようとすれば、さらなる時間や労力がいる。いわば、「見られる側」の要因の匿名性に対して、「見る側」に端を発する匿名性の存在、だ。

 一般に暗号論や複雑系経済学なんぞにおける情報量の爆発的な増加を扱うときは、この人間の認識「力」一般を、ある種の定数、私たちの常識から推論された結果としてのお約束、して扱うようだ。しかし、何十桁の暗算をやってのけるソロバンの達人のような人もいれば、たかだか原稿用紙一枚の文章を読むのに何時間もかかる愚鈍なタイプだっている。匿名性という概念を拡張するうえで、「見る」とは何か? という行為をトコトン追及している姿勢は、欠かせない。

 文楽・人形浄瑠璃における人形遣いは、今ここで述べている「見る側」要因の匿名性を「お約束」の域まで高めたユニークな人形劇である。わき道に逸れてしまうので、これ以上匿名性に関して深い議論はしないが、機会があって別口で執筆するときには「見る側」による匿名性を「クロコ匿名性」、「見られる側」要因の本来の匿名性を「オシノビ匿名性」とでも名づけて話すつもりだ。

 さて、前もって言えば、この「見る側」要因の匿名性こそ、「ヌーディスト村」成立のための最重要要件のひとつである。

 匿名性の性質を調べるために、ここで、あえて、匿名性の確保が不可能な状況を想定してみたい。すなわち、「言説」「アイデア」が発話主体とダイレクトに結びつき、プライバシーの確保がどうしてもできない場合だ。

 既に何度も述べているように、そもそもプライバシーの確保は、この「アイデア」を抑止しようとする勢力「アナルプラグ」の排除のためだった。であれば、匿名性の代替物が存在すればよい。というか、そもそも、そんな便利なモノがあれば、わざわざ匿名性を確保しようとは思わないのではないか?

 整理しよう。

 プライバシーを守る「意思」はあるのか?

 また、プライバシーを守ることが「可能」な状況にあるのか?

 この二点の否定から、四つのパターンが考えられる。

 一、「意思」あり、「可能」である。

 二、「意思」なし、「可能」である。

 三、「意思」あり、「不可能」である。

 四、「意思」なし、「不可能」である。

 この四つだ。

 この四類型がいかなる場合に出てくるか、まずダイジェストしておく。

「あり」「あり」は言説者に何のステータス異常もない場合。

「なし」「あり」は言説者の「内面」、あるいはキャラクター設定に異常がある場合。

「あり」「なし」は言説者の「外面」、あるいは本人の置かれている立場に異常がある場合。

「なし」「なし」は言説そのものの性格に異常が認められる場合、ひいては内面外面双方に影響を及ぼしてしまう場合、である。

 さて、では、より詳細に解説しよう。

 一つ目。「意思」あり「可能」である場合、ふつう、ひとは匿名性を利用するものだ。これは、今までやってきた議論である。

 二つ目。「意思」なし「可能」である場合。隠そうとすれば隠せるプライバシーをあえて晒すのは、「露出狂」と言っていいだろう。言説者の意思という点に絞れば、「身の安全」を守るために「プライバシーの安全」を守るという構図が、見事に倒錯している例である。すなわち、プライバシーをさらけ出す快楽のために、身の安全の保障を犠牲にしたってかまわない、という心情だ。露出狂には程度の差もあるだろうし、どこをどうさらけ出すかで千差万別の種類もあろうが、ここでは、四番目のケース「なし」「不可能」との比較において、マゾヒズム的側面が強く出た「露出狂」であると、定義しておきたい。

 三つ目。「意思あり」「不可能」である場合。具体例を先に挙げておいたほうが、分かりやすいかもしれない。「本来の意味で機能している国会」「失敗したブレーンストーミング」が、この三番目のパターンにあたる。これらの会合の場合、個々のメンバーの面子が完全に割れていて隠しようがない。そもそもの参加資格としてプライバシーを明かす必要があり、また、参加人数が限定的で人間の認知の限界内に収まっている(前に述べたように、参加人数が多くなればなるほど、ある種の匿名性が働いてくるが、この場合はそんな猶予もない)、などという特徴がある。そう、プライバシーは守りたくても守れないのだ。

 それで「発言主体は誰か?」という秘密保護は無理でも、「発言主体そのひと」を保護するという次善策が採用されることになる。

 というか、プライバシーの保護は、本来このためにある。

 すなわち、発言の自由を担保するため、発言主体に発言についてある種の「免責」を与えるルールが策定されるのだ。国会の場合、日本国憲法第51条の免責特権「両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない」がこれにあたる。ここで注意ておきたいのは、匿名性の代替装置として、ある種の「言説」空間が策定されることになるということだ。これは、見られないように発言主体を隠せないのなら、見てしまったことをいったん不問にしておこう、そして、この「不問」について拘束力のある約束をしよう、もっと言えば、この約束が適応できる場所を作ろう、と言い換えられるかもしれない。

 国会の場合、大日本帝国憲法との兼合いで、この「言説」空間の意味はクリアだが、ブレ・スト等になってくると、「アイデアを得るための自由な空間」みたいな側面が強調されすぎて、焦点がぼやける嫌いがある。そう、この「言説」空間の最大の肝は、発言主体の、文字通りの身の安全の確保である。身の安全なんていうと、政治法律経済経営の教科書的には、監獄行きや左遷等が連想されるかもしれないけれど、ここでの文脈ではもっと広く、「言説」発露を萎縮させるような否定的意見、天邪鬼の囁きまでも、含む。

 さて、この免責特権は、「免責を受ける者」に対しては一通りの働きしかしないが、「免責を受ける者」に対峙する者、すなわち当該「言説」を理由に彼/彼女に意見・攻撃・賞賛・軽蔑したりする者には、二通りの反応を引き出す。一人目は、憲法条文に即して言えば「院外」の者、すなわちこの特権的な「言説」空間の外に位置する者。「責任」を問うてはいけないのだから、免責特権者に対していかなる対抗的措置も、できないことになる。他方、この免責特権者と同じ「言説」空間内にいて、やはり免責特権を受ける者。お互い、外部に対しては、自分の「言説」に責任がない。だからこそ、内部では、モノ・コトそしてヒトや「言説」に対しても、遠慮会釈がいらない・身も蓋もない「言説」を返せる立場にある、ということだ。それはある意味殺伐とした世界ではあるけれど、政治の場というのは、本来妥協不可能な各種利害関係の衝突を調整し、妥協点を見つける場である。殺伐として何が悪い。というか、この手の「言説」空間は、殺伐としてて当たり前、殺伐としてこそ健全、そうでなかったら、空間の保持に失敗しているのだ。だからこそ、交通整理、そして「言説」空間そのものを破壊しかねない暴力に対して警察行為する調整機関はあっても、それ以上の強権的機関はおくべきでない……というか、おけないだろうと思う。そして、循環論法になってしまうけれど、この手の警察機関の代わり、51条のようなルールが、場を支配する。これは、多くの「言説」がゼロサムゲームになりがちな「言説」空間の宿命なのだ。

 そして、この「言論」空間の内外を隔てる障壁を守るルールが日本国憲法第50条の不逮捕特権「両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない」である。不逮捕特権という語感から、発言主体の身の安全の担保は51条でなく、50条っぽい雰囲気だが、違う。逮捕実行者が「言論」空間内の発言主体を逮捕するには、言論空間の内外を隔てるバリアを破らねばならず、この障壁破りを禁ずる、というのが51条の主旨、というかこの情報資本主義における「言説」空間論的な読み方なのである。

 さて、最後四番目は「意思」なし「不可能」の場合である。

 端的に言うと、これは前項同様「言説」空間を前提にするけれど、その空間が50条の適応は受けるけれど、51条は成立していないような世界である。

 まず最初に述べておけば、今ここで分析中の四類型の中では、もっとも「言説」者が無防備になる状態である。また、ダイジェストで述べたとおり、言説が有価財になるという特殊性が、このパターンの特徴を形成している。言説が有価物である、つまり「アイデア」であるということは、なんらかの経済的価値を産むということで、現在の資本主義経済下では、当然、その「アイデア」の対価を発話者が受ける権利がある。そして、この対価回収のためには、ある発話者がある「アイデア」に対する各種権利の保持者であることを、第三者に証明してもらう必要がある。あるいは、公知する必要がある。つまり、リターンを得るためには51条的な「免責特権」を放棄せねばならない、ということだ。備考として述べておくが、当然、対価を要求しない発話者には、匿名性が保障されてしかるべきである。

 以上の理由から、もちろん、完全な匿名性は「不可能」である。しかし、幾分かは

「透過率」を下げる努力ができなくもない。ペンネームやハンドルネームなど、本論の途中で再三述べてきたから今さら繰り返しはしないが、どんなに「透過率」が低くとも、必ずヒモ付になるということだけは確認しておきたい。

 そして、この免責特権の剥奪が、いくぶんかは「言説」者の「意思」へとフィードバックされてくる。すなわち、どうせ隠せないなら見せてやれ、という投げやりな気持ち、あるいはプライバシーをさらけ出すことが、意外と居心地悪くないと悟った末の、心情の逆転……露出狂じみた嗜好が、開き直りの結果として、出てきたりすることも、ありうるのだ。もとより、卵が先か鶏が先か、という話で、最初から多少露出狂のケがあるからこそ、「アイデア」を出すひと、になるのかもしれないが。

 再三確認しておこう。

 ペンネームの例でみるように、本来プライバシーの確保が不可能でも、できる限りの努力をしようとするのが、このパターンである。すなわち「プライバシーの安全」確保は無理で、むしろさらけ出す快楽を堪能したくとも、「身の安全」の確保への意思は働いているのだ。少し前に戻って、第二番目のケース、「意思なし」「可能」なパターンを参照されたい。これは、プライバシーをさらけ出す快楽のためには「身の安全」を省みないパターンだった。もし、「アイデア」言説者が、この二番目のパターンと同じ心情を持っているとしたら、わざわざ50条的な言説空間(不逮捕特権=「身の安全」)の中に留まってはいないだろう。要するに、マゾ的破滅的な「露出狂」というよりは、衒示的な露出、誇示的自慢的露出、そしてエンターテイナー的露出、とでも言うべき種類の露出である。

 さて、「アイデア」を有価物である「言説」、と定義したときに述べたと思うが、有価物であるがゆえに、この「言説」を咎めようとする勢力と同時に、なんとか引っ張り出そうとするインセンティブの持ち主も出てくる。

「アイデア」を出すことを怯ませる勢力、ここでは「アナルプラグ」をぶっさそうとする勢力に対して、規制阻止をかけるパワーの総体を、「監視塔」と名づけることにしよう。たまたまひとつの機関であるかのような名前をつけたが(というか、話の展開のしやすさから、ひとつの機関みたいに今後も説明していくが)、「監視塔」は当該言説空間の主催者である場合もあるし、参加者の合議の結果である場合もあるし、はたまた暗黙な了解である場合もある。

 これは51条的な保護の欠落ゆえに、「言説」者を守ろうとする代替的手段、苦肉の策である。「監視塔」は「意思あり」「不可能」ケースの場合のような、単なる交通整理・場内警察機関としての能力に加えて、さらに二つの罰則能力を有することになる。

 一つ目は、この言説空間、もとい「アイデア」空間から当該妨害者を排除退場させる権限である。言説空間を存続運営するにあたり、非常に強い権限であり、ある意味、抜けに抜けない伝家の宝刀、的なニュアンスも持ってもいる。「本来の意味で機能している国会」「失敗したブレーンストーミング」にも似たような、というか似て非なる権限が「言説」空間主催者にも、確かに付与されてはいる。国会の場合は日本国憲法第58条2項がそれにあたるが、ブレストの場合も含めて、本来、この退場権限は「言説」の内容や切り口そのものよりも、不品行や議事妨害、そして物理的な暴力の排除、みたいなのを想定して、だろう。ある「言説」に対して他の「言説」で切りかかった場合、それが殺伐としすぎだから排除するのは、51条的ルールをないがしろにする行為、つまり折角の「言説」空間を台無しにする罰になってしまう。他方、そもそも51条的ルールが存在しない「意思なし」「不可能」空間の場合は、この58条2項的権限に加えて、ある言説に対する「攻撃」を理由に排除することが可能だ、ということだ。この排除ルールが有効に働くためには、おそらく、「意思あり」「不可能」パターンよりも、50条的権限がより強く作用する必要があるだろう。すなわち、内外を隔てる障壁が、より強くガードされてこそ、罰則は有効に働くということだ。

 二つ目の罰則能力は、この「意思なし」「不可能」言説空間に特徴的な力である。当該妨害者にわずかでも残っている匿名性を完全に排除してしまう罰、である。最初に述べたように、今論じている「言説」空間は、最初から「言説」者がプライバシーを隠すことが「不可能」で、またその「意思なし」のケースだった。しかし、これは、いわばプライバシーを「見られる側」「探られる側」に起因する丸裸であって、「見る側」「探る側」の作用は、なんら考慮してあるわけではない。先般述べたように、「言説」空間への参加者の数の多寡、あるいは参加者自身のキャラクター、目立たないとか影が薄いとかも、じゅうぶんある種の匿名性の起因になるのだ。再三、あえて注意書きを挿入しておけば、もちろん、ここでの「匿名性」という単語の使い方は、国語辞典百科事典的なオーソドックスな用法では全くなく、新しい概念……情報資本主義適合の新・倫理を説明するための再定義、とでも言うべきものである。

 これは、参加者の認知能力の限界を基にした匿名性であり、「名前を隠す」というステップの後段階での匿名性である。この「見る側」「探る側」による匿名性はがしの罰則といえば、当然「凝視」ということになる。

 さて、まとめである。

 第三番目のケース、50条と51条を満たし、本来商業的価値を有しない「言説」発表の場を、本論では「本来の意味での国会」と名づけておくことにする。

 そして、第四番目のケース、50条は満たすが51条は満たさない、有価物である「言説」を扱う、そして「監視塔」が存在する「言説」空間を、ここでは「ヌーディスト村」と呼ぶことにする。ここまでの説明で、「ヌーディスト村」を形成するための観念的な条件はじゅうぶんに述べたと思うので、以下、名前の由来となった字際の裸体主義者集団との関連、その参加者が守るべき・身に着けるべきルール・倫理、「ヌーディスト村」自体のさらに詳しい説明、そして他の具体例について述べていきたい。

 まず、この命名について。

 今までやってきた「言説」「アイデア」を忠実にたどると、ヌードが「アイデア」の一種となり、だからこそ「アイデア」言説空間を「ヌーディスト村」と名づけても、なんら違和感のないことを確認しておきたい。

 復習になるが、「アイデア」とは商業的に有価値の「言説」であった。

 ここで「言説」とは、「アタマの中でのシンボル操作によって得られた、言葉や意味のある種の統合」である。

 そして、「アイデア」は、脳みそから出てきたその瞬間、「アイデア」になるとは限らない。

「自分自身として、そう思っているもの、あるいは他人も認めるもの、自分ではその経済的価値に気づかないが他人は認めるもの、又、単独では単なる『言説』でしかないが、統合改変されて『アイデア』に昇華しうるもの、はたまた、本来誹謗中傷暴言だったものが、一転『アイデア』になる可能性も、その反対もある」。

 まず、単なる裸体、つまり自分が裸体になったことを意識していない裸体、単になんらの被服をつけていない状態、ネイキッドな状態は、「言説」でも「アイデア」でもない。風呂やトイレや寝室といっとた、極プライベートな空間でなされたハダカは、たいてい、どんな形の意味も帯びていない。発話との関連で言えば、意味のない独り言と同様ということだ。視線を意識しない裸体は、他人とのかかわりという意味において、どんなメッセージ性ももたない。

 では、単なる裸体が「言説」となるのは、どんな瞬間か?

 それは、ネイキッドな状態が「ヌード」な状態、「ポルノ」な状態に昇華するときである。

 最初から視線を意識した身体、それが「ヌード」であり「ポルノ」である。単なる裸体と違って、他人の目を意識した身体は、身振り手振りポーズその他によって、「言葉や意味の、ある種の統合」を伝える。そう、咽喉を通じて音の組合せとして出てくるのだけが言葉ではなく、文字や絵・記号として紙・電子媒体に描写されるのだけが言葉ではない。歌舞伎や京劇の所作ひとつひとつに意味があるように、視線を意識した、メッセージ性のある裸体は意味のある「言説」になるのである。そして、「視線を向ける側」がなんらかの対価を支払うことによって、ヌードな裸体は有価値になりうる。ポルノの商業的価値、そて商業的な消費のされ方については、丁寧に考察するまでもなく、明らかだろう。

 単なる脱衣が、即、「言説」となるわけでもない。

 裸体が言説と化すには、それなりの労力も、いる。

 単なる立ち姿、扇情的な所作でなくとも、ポーズをとる側にはじゅうぶん過ぎるほどの準備や忍耐が必要なことは、既に前日譚で描写してある。ピンとこないひとは、本書の冒頭に戻って、よろしく読み直してほしい。さて、記号論からの引用は今更なので、あえてはしない。

 そして例によって、「見られる側」「視線の受け手」の事情によっても、裸体は言説たりうる、ということに、再三しつこいが、注意を促しておこう。単なる思いつきは、誰かが画期的で有価物と認めない限り、どこまでも単なる思いつきである。しかし茶道の名人がなんでもない茶碗を鑑定し銘をつけることによって名器となりうるのと同様、ネイキッドは誰かの「鑑定」を受けてヌードにもポルノにもなりうる、ということだ。

 要するに、最初から他人の視線を意識しない裸体でも「アイデア」になりうる。ヌードの美学的な定義は「ある認識によって再構成された身体」である。「アイデア」言説の発話者、この場合ヌーディストだけれど、たとえば彼/彼女がクロッキーの被写体になる場合に「何も考えていない場合」でも、スケッチ者が画用紙に模写するときには、なんらかの「アイデア」言説になっているということを意味する。この「見る側」の顕著な例を、三つあげておこう。二つは前日譚に仕込んでおいたもう一つの伏線、ロリコンおよびゲイであり、他のひとつは盗撮された裸体である。

 フロイトによれば、発達段階ではあるが幼児にも性の意識が存在するらしいけれど、本論では説明を簡単にするために「なんらの性欲も理解できない」存在としての幼児を想定する。彼/彼女の裸体は常に「言説」以前のものとし提示される。まわりにどんな視線があっても、それを視線と意識できない。喃語に意味を見出すのと同じ理屈で、これが単なる「言説」であるとしたら、この言説を言説たらしめるのは、常に幼児のハダカを見る側、つまりロリコン側の解釈にあるのだろうけれど、有価値になりうるがゆえに、幼児の何気ない裸体も彼/彼女が発した「アイデア」になりうる、ということだ。

 ロリコンのおける幼児が「視線を向けられる自己」「視認者」を想定できない場合なら、ヘテロセクシャルに向けられるホモセクシャルな視線は「視認者」を想定できても「視線を向けられる自己」は想定できない場合、そして盗撮は、「視線を向けられる自己」は想定できても「視認者」を想定できない場合、といえるかもしれない(当然、「視線を向けられる自己」「視認者」双方を想定できているのは、ノーマルなヌーディストのケースである)。

 しかし、視線に晒される可能性のあるすべての裸体が「アイデア」になりうるか、というと、そうではない。ここで、今現在も、アフリカ・サブサハラ地域の一部、南米アマゾン地域、そてしアジアパプアニューギニア奥地等に存在するという熱帯地域の未文明化社会、すなわち、高緯度地域の文明化社会の基準からすると、被服の発達が著しく遅れている地域を想起されたい。地球上で最後まで残されている、この裸体で過ごすことが当たり前に許させている地域(もっとも和田正平『裸体人類学-裸族からみた西欧文化』によると、どんな原始的に見える社会でも「被服」に相当するものがあり、その被服が剥ぎ取られ「羞恥」に相当するものあり、という話だが)においては、この手の裸体を有価値としうる視線が存在しない。経済学的な意味での価値とは、初歩の経済学の教科書に必ず載っているように、その希少性ゆえに生じるものだからであって(より詳しく言えば、限界的に追加された最後の一単位がその価値を決める=限界効用説)、誰もが裸体となっている社会では裸体に希少性が生じない、すなわちヌードが価値を有し得ない。

 つまり、誰もが裸体になっているはずの「ヌーディスト村」で、それでも裸体が商業的価値を持ちえる、つまり「アイデア」言説空間足りえるためには、常に着衣が常識的な社会という「外部」が必要であり、「内部」+「外部」でひとつの世界を構成する、というものなのだ。この場合の境界はもちろん、憲法第50条的ルールであり、外部とは、言説者と言説の間に決定的な遮蔽物がない空間で、匿名性を守ろうとする機関=「監視塔」が存在しえない場である。

 さて、匿名性を剥ぎ取る「凝視」が最大の罰のひとつである場なので、「村の住人」ヌーディストたちの振る舞いとして、他の住人を凝視しないこと、そして凝視を誘う行動をしないことが、規範として奨励させるであろう。「ヌーディスト村」という場所柄、視線が、というか「凝視」が性的なニュアンスを帯びるのは必然的であり、性行為やそれを連想させる振る舞いは、最大のタブーのひとつ、となるわけだ。

 つまり、「監視塔」によるのではない「凝視」とは、提示された裸体を何かしらの意味で(身も蓋もなく言えば、性的な意味で)無償で利用してしまうという行為であり、脳裏にだけ焼き付けるなら悪質なマナー違反ですむが、カメラのファインダーを通したりすれば、明白な盗撮、肖像権の、というより裸体の有価値的側面の窃盗、という意味を持つのだ。

 裸体が本来一般的でない場で、その場の「雰囲気」を破壊する「凝視」の例を、私たちは既によく知っているはずだ。混浴温泉における、いわゆる「ワニ」、長々と湯殿に滞在し、裸体の女性が来れば飽きずなめまわすように「凝視」する男性を思い浮かべてもらいたい。欧米におけるヌーディストビーチで、きょろきょろと異性の裸に目をつける御仁も、同類である。単なるマナー違反という以上のタブー破り、ヌーディスト空間を瓦解しかいねないルール違反であることに、当の「ワニ」さんたちが一番鈍感なような気がする。

 さて、これをヌード=「アイデア」という本来の「言説」空間論に戻るとすれば、「アイデア」保持者本人の承諾なき有価地的側面の利用、つまり「アイデア」の剽窃ということになる。

 身体を晒すことと、心理的な内面を晒すことを同一視してよいものか? という素朴すぎる問いに対しては、「では、あなたのアマゾンや楽天での購入・閲覧等の履歴を晒すのに抵抗はないのか?」という疑問にて答えたい。

 特に健全な性欲を持つ男子なら、身に覚えのある者が多々いると思うが、押入れ奥深くしまってあるエロ本からエログッズやらのリスト、現物を同類の友達以外に開示する度胸があるのか、と言い換えてもよい。人によってはオキニのキャバ嬢にひりだしてもらったウンチであったり、実の姉妹の選択前のパンツであったり、近所のおばあさんの皺くちゃなヌードピンナップだったりするのではないのか? たとえ合法に入手した合法なグッズであっても、言い訳がきかぬからこそ、さらけ出すことができない代物だろう。

 プライバシーという言葉の元、心身をいっしょくたに扱うことは、是か非か?

 少なくとも、アイデアをひねり出そうと四苦八苦する場では、是であると考える。


 誰にでもアイデア剽窃が容易であり、それを許したままの「言説」空間にしておけば、やがて、この「言説」空間への参加者がいなくなってしまう。匿名性がほとんど確保できない脆弱な場だからこそ、一般的な社会以上に、アイデア空間内での、この空間特有の犯罪は重大であり、被害者・加害者間のみの問題では終わらない。そう、実社会より社会防衛の側面が強く、強く出てくるのだ。だからこそ、「監視塔」には絶対的な権限を付与する必要があり、参加メンバーには、単にルールを守ること以上の要請、「倫理」による「言説」空間への献身が求められるのだ。では、ここでいう、「ヌーディズムの倫理」とは何か? それは「監視塔」による、ルール強制の内面化である。

 理解の助けとするために、実社会におけるプライバシー厳守の「倫理」について、この社会的防衛という側面から、ヨリ具体的な、かつ古典的な例を挙げておく。

 医者、弁護士、そして宗教家は、西欧的伝統において、古来より特権的職業として認められてきた。彼らは、身体と内面の違いはありこそすれ、プライバシーの名において、他人の秘密を預かる職業である。彼らが患者や信者にプライバシーをさらけ出すように促す方法論が、ここで言う「ヌーディスト村」的であり、そして、その担保となる各種制約、個々人が自分自身に、そして自分のギルドに誓うやりようが、実に「監視塔」的なのだ。彼らは、その自立的職業集団への加入の際にはプロフェスを求め、宣誓違反者には追放を持って罰とする、という象徴的行為によって職業を維持してきた。ここには「倫理」維持のための二重、三重の仕掛けが施されている。彼ら「プロフェッショナル」は宣誓によって自己と職業集団にプライバシー漏洩の規制をかけ、職業集団は「宣誓違反者の追放」と「他の政経勢力からの不介入=職業集団の自立」によって、プライバシーを守る。これは、彼らがその職業遂行のために形成する必要があるごくプライベートなヌーディスト空間(患者・医者の診療、クライアント・弁護士の仕事依頼、そして信者・聖職者の告解)を死守する仕掛けであり、ひとつのプライベート空間が崩れたら、それは他のプライベート空間の瓦解へと、五月雨式につながっていく。そう、ひとりの信者の懺悔、ひとりの患者のカルテを守るのは、他の告解や診療を守る、という社会防衛に他ならない。

 歴史的経緯から、プロフェッションを認められているのはこの三者に限られているが、もし現代において同様の特権先生集団が出現するなら、四番目は「ヌーディスト村」や乱交パーティーの主催者が、そして五番目にはインターネット匿名掲示板の管理人が置かれるかもしれない。また、医師の派生として看護婦・薬剤師等が、そして弁護士からの援用として会計士等を上げるひとがいるかもしれない。彼らは自己の職業集団への宣誓は行っても、その職業集団が他からのヘゲモニーから逃れられていない。「言説」を暴力に置き換えると、実によく似た構造がヤクザやマフィアといった犯罪集団に見出せることも、指摘しておこう。

 そう、既に例としてあげたが、二十一世紀初頭のこの時期には、さらに、この「ヌーディスト村」のルール倫理がすっぽり適用しうる「言説」空間が現れてきている。すなわち、インターネット、である。匿名掲示板等、リアルでは顔を合わせたことのないような人々が、自由にモノを言い合えるシステムと化しているのなら、ここには、匿名性が確保できずとも「身の安全」がなんらかの意味で保全できる空間と化しているに違いない。

 インターネットには、当然リアル社会という外部がある。「内部」+「外部」で、リアル世界を前提とするからこそ成り立つ世界、という「ヌーディスト村」の構成要素も持ち合わせている。この外部、リアル社会で、私たちは普段、言説と言説者の距離関係を意識することはない。ネット社会という内部の反映として、その「近さ」を意識するようになるのである。すなわち、音声による発話なら、音が届く距離、という物理的な制約によって、不用意な発言をした相手方に実態的な報復ができたりする。他方、ネットの内部では、電子的に会話している相手方が地球の裏側にいたり、ハンドルネームから本人を割り出すのに手間ヒマがかかったりと、その発言の場と発言主体が存在する場に、大きな隔たりがある。すなわち、ネットの内外では、その「言説」に対する責任の負わせられ方(責任の負い方、ではない)が格段に違うのだ。ネットの住人がこの「責任追及逃れ」を巧みに利用し、意識しようがしまいが、確固たる障壁になっているとすれば、ネット空間は立派にここで私が語っている「ヌーディスト村」たる資格がある(この場合、言説と言説者が存在する場の乖離具合が、ネットを言説空間たらしめている境界であり、憲法第50条的不逮捕特権を保証する鍵。もちろん、線引きを保障するのが、もうひとつある。プロバイダー、ブログ管理人等によるユーザー情報の開示拒否である。ネット上の発言における「不逮捕特権」を保障するには、いささか弱い線引きパワーのように感じるかもしれない。けれど、少なくとも日本語ユーザーの形成するネット環境において、たとえば政治的に不穏当な発言をしたから政府当局に逮捕監禁された、などという事例はない。普段気づかないこの当たり前がいかにありがたいものかは、ジャーナリストや弁護士がしばしば犠牲になる第三世界と比較すれば、一目瞭然である)。

 ネットが政治に資する「本来の意味での国会」的な「言説」空間として生きるのか、それとも経済貢献する「ヌーディスト村」になるのかの分水嶺は、参加者が従う・内面化したルールによって決定される。

 ネットの住民が、というかある種の掲示板やブログでのローカルルールが、匿名性の如何にかかわらず、互いに自分の言説に責任を負わず、自由勝手に発言できるのなら、そこには憲法第51条的ルール「言説に対する免責特権」が働いていると解釈できる。言いたい放題に対して責任を負わせる行為、ネットでの発言を元に、その発言者に現実に報復する……各種ハラスメントや人間関係の崩壊、果ては傷害殺人までに及ぶとなれば、もちろんこの内部ルールが破られてしまった、ということになる。

 2ちゃんねる掲示板の住人が自虐的に言う「便所の落書き」、それは意味なく・オチなく・信憑性もない「言説」が多々含まれていることに対する揶揄であろうけれど、この比喩で言うなら「免責特権」抜きの「ののしりあい」は単なる口げんか、りストリートファイトの前哨戦に過ぎない。そして、インターネットを少しでも生産的ならしめる気遣いの集積のみならず、特定容易な個々人をあえて特定しないような配慮……空気の上手な読み方まで含めるとすれば、おそらく、『ネチケット』は特定領域のエチケットのひとつに留まるものではない。これこそ、情報資本主義の本質を支える倫理の具体的な姿のひとつ、と思うのだ。


 さて、「監視塔」の機能権限については再三述べているので、ここではさらに、内面化の派生効果について続ける。「監視塔」が外面ルールのうちは、ルールが最も支配するのは「監視塔」と「ヌーディスト」たちの間の関係である。これが内面化されると「ヌーディスト」相互の関係、および「ヌーディスト」自身の振る舞いに影響する。「ヌーディスト」における「凝視」、つまり「アイデア」における対価支払いなしの利用が厳しく規制される結果「ヌーディスト」は「他人のヌード」=「アイデア」に、対価なしの賞賛を与えることはありさえすれ、経済的な意味での利得を厳に慎むようになる。その結果、なんらかの意味での経済的対価や賞賛がほしくなるような「ヌーディスト」は、それを自己のヌードの発露、すなわち「アイデア」の捻出に求めるようになっていくのだ。

 そう、この「倫理」がもたらすのは、何より他人の「アイデア」がどんな無防備な状況にあろうとも盗用しようとはせず、ある種のストイックさから自力で「アイデア」をつむぎだそうとする自己規制、つまりある種の「昇華」を生み出すのである。

「裸体を晒す」という破廉恥な行為、否「快楽や金銭的利得を期待して意識的に裸体を晒す」という行為が、情報資本主義の推進エネルギーになりうるという逆説は、禁欲的プロティスタンティズムが資本主義成立にかかわっていたという論証以上にアクロバティックなものだけれど、この論証が大筋で間違っていないとしたら、そう遠くない未来、政府が主導権を持って陰に陽に「ヌーディズム」を奨励していくようになるのでは、という気がする。

 これは、ヌーディズムの倫理が、情報資本主義社会の精神的土台になりうる、という肯定的側面からだけの類推ではない。ある意味情報資本主義が行き過ぎたために失敗の際の、かなり有効な処方箋足りうるのではないか? と思うのだ。

「言説」空間への参加プレイヤーが「ヌーディストの倫理」を守らず、「言説」空間そのものが瓦解していく・成立しないという事情については、既に何度も述べている。政府政策の絡みで、ここではもうひとつの重要プレイヤー「監視塔」について述べていく。

 まず、前提条件として、高度情報化社会が、同時に高度監視社会であることを確認しておきたい。「電子パノプティコン」という、いかにも日本的なこの造語は、この文脈における情報化社会の陰鬱な面をいかにもよく説明しているように思われる。私が学生だった四半世紀前には、既に、現代思想を扱った用語辞典に、デカデカと大項目のひとつとして(パノプティコン、ではなく電子パノプティコンという派生そのものが)、載っていたと思う(というか、その手の辞書が文庫本として普通に書店に並び、私のような有象無象の大学生が読み漁るというコト自体が、稀有な時代だったことを物語っている。少なくとも大正デモクラシー時代だろうが学生運動華やかなりし時代だろうが、自分のようなバリバリの体育会学生が思想書に親しむなんてことはなかったはずなのだ)。「電子」抜きのパノプティコンという用語は、最初功利主義者ベンサムが発案し、それをミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で取り上げて以来、飽き飽きするほど語りつくされてきた。今、ベンサムでググッても、「最大多数の最大幸福」等功利主義者としての諸功績がまずずらりと並び(監獄に関してはずいぶん項目を読み込まねばならない)、この専門用語が21世紀の日本で語られる場合には、常にフーコー的文脈で語られている、すなわち徹頭徹尾メタファーとしての監獄であることは、今更繰り返すまでもないだろう。

 八十年代のフランス現代思想を愛でる流行が普及に貢献してきたのは確かであるけれども、この言葉の持つ力そのもの……というか気分が、時代に合致してきたのも、また、確からしく思われる。この用語は、「情報化」が社会科学の分析対象として取り上げられるとき、負の側面を描き出すのに最適だ。いや、もっと言えば、負の側面を喚起力あるイメージで鮮やかに語るのに。「監視」「管理」をステレオタイプなディストピアとして描いた近未来物語は、それが小説の形であれ、漫画であれアニメであれ映画であれ、ウマに食わせるほど語られてきているけれど(たいてい主人公は監視社会への反抗者であり自由を求めて活動する……批評コラム新聞記事を含めても似た構図ばかりで、自分を棚に上げていけしゃーしゃーと言えば、とにかく陳腐極まりない)フーコーの手のひらから逃れられた作品は見当たらないようだ。

 こうした手垢に塗れた経緯を承知のうえで、柳の下のドジョウとばかりに厚顔に一筆つけ加えようとすれば、この情報化ディストピアを支える技術的側面の肝が高度な「検索技術」にあり(というか統計学の特異な発達にあり)、またプライバシーの権利の確立、というコロンブスの卵的当たり前、にあるのは言うまでもない(自分で書いててなんだが、これもまた今更である)。

 そもそもパソコンやインターネットが普及する前から、というか国家が国民を「管理」すると決めたそのときから、ディストピア的「情報化」は始まっている。庚午年籍以来本邦の徴税制度を支えててきた戸籍制度が、名前・住所・年齢・家族構成を把握して以来、明治維新の近代化に至るまで、データベース化する個人情報に飛躍的な変化がないことは注目に値する(太閤検地による資産、宗門人別改帳による宗教くらいだろうか、追加項目は)。租税公課を賦するための必要最小限の情報収集と言ってしまえばそれだけだけれど、時の政権が個人情報を利用する意思も意図もなかったのが大きい。江戸時代のみならず、二十一世紀の今となっても、片田舎では、いまだプライバシーなんぞ贅沢品に数えられるような場所はなんぼでもある。太平洋戦争後の混乱期、金の卵と言われた集団上京就職期等、都市に根生いでない人間が激しく流入した時期は幾多もあって、結果として匿名性が確立し、ようやくプライバシーなるものが意識に上ってきたということだ。田舎特有の監視社会とは、個々人の私的情報を構成員全員が把握しているようなコミュニティである。自治集団がじゅうぶんに小さいからこそなせる業であり、こういってはなんだが、田舎の茶のみ話に相当するのが、都市の高度情報化社会の検索技術となるのかもしれない……。

 そして、この田舎の監視社会と決定的に異なるのが、プライバシー情報の偏在だ。田舎では個々人が相互に私的情報を持ち合っているのに対し、高度情報化社会では、政府が、あるいは超巨大企業が一方的に情報を吸い上げ、管理するのである。データベース産業は、情報の収集管理が付加価値を生み出すという意味で、他のソフトウエアとは「有価値になる場」=商品として練成される場が決定的に異質であるが、収集した情報の漏洩が最大の悪という意味で、ヌーディスト村と同等の欠点をもちうる。つまり、あたかも物理学における力学と熱力学の違いのように、本来は別個であるはずの高度情報化社会と情報資本主義体制を結びつけるリンクがあるとしたら、それは情報取扱方法の間違い、要するに失敗にあるということだ。


「監視塔」の失敗には、二種類ある。

 一つ目。「悪意」なき失敗、イコール「単なる失敗」。

 情報保持における技術不足・管理不全・偶発的出来事等による漏洩。現在進行形で起こっている失敗であり、医師や宗教家という古典例でも起こりうる・実際起こっている失敗。覗き等、外部侵入者への敗北。

 二つ目。「悪意」ありの失敗。本分を忘れる。

 医師や宗教家、弁護士と言った古典的例では、プロフェスによって知りえた秘密を厳守する・悪用しないという倫理が、その職業人の矜持を維持した。政府や大企業が音頭をとる場合、そのような宣誓の過程が存在しない。法律での規制を言うなら、医師等古典的だって法律で規制されている。

 失敗の性質によらず、この手の事件は、実際日々起きている。

 学校の先生が生徒の名簿を車に置き忘れた・市町村役場のパソコンが何者かにハッキングされた・下請け業者が業務上知りえた情報を他業者に売った……新聞の片隅にこっそり載るような事件だけではない。有名どころではソフトバンクやベネッセの顧客データ流失が世間を賑わせた。

 政府・大企業等のオーソドックスな対策が日進月歩で次々新機軸を打ち出していることは認めよう。セキュリティソフトの強化や、情報にアクセス可能な人間の制限、そして高額な賠償金……けれど未来永劫、この手の情報漏れが完全になくなることはあるまい。政府は今の後手後手にまわる体質が改善されたとしても、失敗し続ける。賠償金や連発する訴訟にょって倒産する企業が続々現れても、やはり失敗し続ける。

 これは悲観的な運命論者が情報化社会を呪って言っていることではない。ある種の確率論的な推論だ。そしてこれらの、失敗が重なるにつれ、電子パノプティコンに対する不信は吹き溜まっていく。数々の情報保全策に完璧がありえないとしたら、おそらく次に政府・大企業が考えつくのが「情報漏れを気にしない」耐性をつけさせるという、「やや斜め下な」対策ではないかと思うのだ。ヌーディスト村における露出狂的心情の涵養というのは、一見矛盾しているようであり、今までの議論の流れと齟齬があるような字面でもある。

 これについては、下世話な、というかヌーディスト村という実際に沿って言葉を選んで説明したほうが分かりやすかろう。

 つまり、今ここでいっている政府・大企業が守るべき「ヌーディズムの倫理」とは、「脱がせる側」が、いかに上手に抵抗なく脱がせるか、脱ぐ側の不安感等を極力払拭するための「倫理」である。

 他方、失敗の対策として今語っているのは、「脱ぐ側」に抵抗感・羞恥心を薄れさせるための方策である、と。

 そして、この「失敗」が存在する限り、「電子パノプティコン」的ディストピアは不可能ではあるまいか? と思われる。つまり、技術的な失敗が続く限り、個人情報を暴露するというブラフ、個人情報を悪用するぞというブラフは効力が薄れる。政府大企業が意図的に漏らさずとも、稚拙な保全技術によってダダ漏れならいっそ同じこと……という諦め、というか開き直りが、情報を吸い上げられている個々人に芽生えるということだ。そして、露出狂的な耐性をつけさせるという方策は、ブラフに対して耐性をつけさせるというのと同義である。

 憲法や議会によってどれくらい牙を抜かれても、為政者には絶えず独裁的権力に対する誘惑が存在するものだけれど、大数データ収集による経済社会の高度情報化と、情報化恩恵を犠牲にしてでも市民支配の深化を目指すという二者択一的状況があった場合、少なくとも、選挙が健全に有効に働いている社会なら、後者を声高に叫ぶ候補者は出てこないだろう。

 さて、ついでに、この「電子パノプティコン」的ディストピアのもうひとつの側面についても、語っておこう。このディストピアを描く大半の物語の住人は、悪意の為政者から洗脳等をなされていて、あたかもロボットや家畜のように振舞うことが多い。つまり、体制に対して極めて従順な奴隷になってしまう、という紋切り型だ。ディストピアにおける主人公を際立たせるためのこの演出は、パノプティコンの本義、監視の内面化の結果として人間性が改善させる、というお題目とも一致している。けれど、内面化された視線に対し、市民の疲弊の仕方が一通りしかないということがあろうか? 教室での勉強、工場での労働は、必ずしも苦痛の連続だとは限るまい。しかし、監獄での監禁拘留は? 楽しい勉強、楽しい労働というのはあり得ても、楽しい刑務所生活というのはあるのか? 『監獄の誕生』というお題目そのものが示しているとおり、このディストピアには監獄が含まれるのだから、この監視下にさせれる営みの一切は、基本すべて苦痛の側面しかないことが強調される。勉強にも労働にも楽しみはなく、知的好奇心をかきたてられることもなければ、協働の面白みもない。そう、ディストピア世界の「生業」は、私たちが生きるこの現実世界の、かなり限定的な一面を切り取ったものである。監視は、内面的なものにせよ外面的なものにせよ、この苦痛に向き合わせるための装置で、ディストピアの住人は、なんらかの強制力がなければ、「生業」をやめたいと考えている……。

 少し、強引に読みすぎだろうか?

 パノプティコンという「先進的」な監視装置付の監獄でなくとも、囚人は囚人でいることを厭うものだ。彼らがロボットになり家畜になるのは、自分自身の心、精神的健全さ、そして正気を維持するための防衛本能の賜物……みたいなのがこの手の物語に注釈されていることが多い。かなり限定的ではあるが、真実だろう。では、この監視に対する反乱、無効化する手立ては他にないのか?

 禁止されていなければ、自殺という手段がある。その所属する社会、学校なり向上なりから退場を命じられるような破壊的行為をする、という手もある。もっとも最終的な行き先は監獄であり、袋小路に入るだけの解決策ではあるが。

 パノプティコンの住人にとって、「監視塔」に居座る監視人は本来、非人格的な何か、もっと言えば中身の知りえないブラックボックスである。しかしそれが機械仕掛けの何か、法や慣習や社会の仕組みと言った非人格的な何者かでなければ、他の防衛策もある。すなわち、その監視人に徹底的に媚を売ることだ。監視そのものの免除を願う媚ではなく、各種矯正の緩和を求めての媚である。監視人がたとえ非人格的でなくとも、そのコミュニケーションの方法は監視人から囚人への一方通行なのだから、媚の方法も、おのずと視線を介したものになる。双方向性のコミュニケーションなら相手に追従する、世辞を述べる、拝み倒す等、自分の情報より監視人の情報に依拠した媚が有効かもしれない。けれど、一方通行のコミュニケーションでは、これがある種の服従に限定される。見張られている者が見張っている者に対してできる服従のバリエーションは、そう多くない。既に生活の逐一を見られている囚人が、さらに心のうちまでさらけ出す、プライバシーというプライバシーをすべて監視者に献上する、くらいしかない。警戒心なしに飲み食いし、排泄し、性交する動物がいたら、それは野生を失ってしまった愛玩動物に他ならない。家畜は仕事をするが、ペットとは「仕事」をしない。かわいがられることを第一にした囚人のいる監獄というのはグロテスク極まりないが、「ペット」が自らを「ペット」と自覚する限り、ロボット人間や家畜人間だらけのディストピアより幾分かはマシであるまいか……。

 ここまでは、たとえメタファーにせよ、「監視塔」からの監視の話であった。では、内面化されたある種の規律として定着しきった視線からは、どうであろう? 「自分へのごほうび」という言葉にならって言えば「自分への媚」というのはありえるのか? 自己憐憫の果てにあるのが他人に全く同情されないナルシストであり、自己満足の果てにあるのが他人に全く認められないナルシストだとしたら、「自己に媚びる」というのは、他人に全く好かれないタイプのナルシストであろう。イヤミを十分に隠せるほどの大人なら、シニカルで饒舌な現状肯定者になり、媚びるほどの自分が存在しない子どもが妄想でそれを補うとするなら、いわゆる中二病患者となる。そして「かわいい系」「シニカルなおしゃべり」「中二病患者」というラインナップを並べていくと、ある種の予測ができるのではないかと思うのだ。つまり、現代ニッポン社会のサブカルチャーは、情報資本主義時代に高度に対応しようとしているのではないか? という予測だ。

 かわいい、や中二病だけではない。アダルトビデオや雑誌等で「露出プレイ」(イコール、ヌーディズムの発露)が取り上げられるようになったのは21世紀になってから、インターネットの普及とともにである。話の流れからは全く外れるが、兄妹家恋愛など近親相姦めいた物語がアニメマンガで頻繁に登場するようになったのも、期を同じくしている。情報資本主義社会においては、インパクトのよりある情報、より革新的なアイデアほど高い価値を持つようになる。生産環境のうち、各種の障害を排除した場としてのインフラストラクチャーを「ヌーディズムの倫理」が提供するとすれば、近親相姦が流行る現状は、卓越した情報生産者、俗に言うある種の天才を生み出す装置たりうるのではないか、と思うのだ。劣性遺伝子により悪質な方向への突然変異がほとんどであるのは承知しているが、そもそも才能を生み出すための組織機構のほとんどは、99パーセントの凡才と1パーセントの天才または狂人の輩出をよしとしているのではないか? 競馬のインブリードの手法等、人間以外では品種改良維持の手段のひとつとして、用いられてもいる……。いかにアニメマンガに兄妹愛が溢れようとも、感化させ実地に試してみるカップルは、視聴者読者のうちの何万分の一ではあるまいか? マスメディアが発達していない時代にも近親相姦はあっただろう。そのカップル数の割合の、何パーセントの上昇を導くかは分からないけれど、現代日本のサブカルチャーの、無意識に時代を読み取る力、適合しようとする力は無視できないものだと思うのだ。


 次に、歴史に照らしてこの「ヌーディズムの倫理」が本当に有価値的「言説」の算出に貢献してきたのか、調べてみよう。経済史的に、しばしば現代最先端の制度・商材が、途方もない過去に遡れるということがある。一例を挙げると、現代最先端の金融取引手法であるデリバティブの萌芽が、ソクラテス以前の哲学者タレスにあった、というものだ。タレスはある冬、ミレトスじゅうのオリーブ圧搾機械を借りる権利を買い取った(機械を買ったわけでもなく、借りたわけでもなく、借りる権利というところがミソ)。そしてオリーブの季節になると、その権利を利用して大もうけしたという。これがこんにちのオプション取引の元祖として語られている。これと同じくらい、『ヌーディズムの倫理と情報資本主義の精神』も、過去に遡行できるのではないか、と思うのだ。

 古代ギリシャは、前六世紀より、このタレスを始めてとして次々と哲学者たちが思想を開花させていったわけだけれど、この百花繚乱の理由として語られるのが、時間の「自由」、すなわちヒマの存在である。古代ギリシャでは「スコレー」といい、これが現在の英語のスクールの語源となったというのが定説である。スコレーには単純な労働から解放された「ゆとり」というニュアンスもあり、この意味でのスコレーを実現させたのが奴隷制度の存在だという。ある意味奴隷制度の肯定に繋がりかねないこの説は、人権擁護派の人々から長らく非難の対象となってきた。ここではそんな政治主張から無縁なところから異説を唱えたい。

 そもそもヒマができればアイデアが浮かぶ、という古代ギリシア人の考え方自体が、私のたちの実体験にそぐわないのではあるまいか? 逆にせっぱづまった状況に追い込まれてブレークスルーなアイデアを出す、などというのは誰でも経験してそうに思われる。

  このヒマの代わりに、哲学者隆盛の基となったのが、ヌーディズムであろうというのが、私の意見である。古代ギリシア人は、彼ら自身が考えている以上に、裸体親和的なカルチャーの持ち主だった。オリンピアードという四年に一回の体育祭典は、男子のみという条件にせよ全裸で行われていた(女子の参加・観戦があったかという議論は、本論では重要でない。というか、本当に女性の参加観戦があるなら、論証はより楽になる、という性質の話だ)。そして、この古代ギリシアでは、中世日本の稚児趣味・近世日本の若衆文化を連想させる少年愛が存在した。成年男子が性愛の対象から外れ、「稚児」愛好者のほとんどが稚児の存在とは別に女性を伴侶として迎え、「ウケ」が成人すると「セメ」にまわるという同性愛文化を、公認のものとしてほとんどの成年男子が享受した。成人男子の一部だけが関わり、少年のみならず成年男子もウケの対象とし、ゲイフォビアなヘテロセクシャル文化に挑戦し続ける現代アメリカのゲイカルチャーとは異質な同性愛文化ではある。そして、過去百五十年ほど前を境にして、日本ではこのアメリカ的な同性愛受容の仕方が主流になってきた。秋葉原に象徴されるようなオタク文化の浸透によって、デジタル世界では先祖がえり的な「男の娘」等少年愛の物語が量産されているけれど、サブカルチャーに精通している面々が、果たして室町・江戸時代と同等の視線を獲得できているかという話になると、こころもとない。

 性愛の世界史を紐解けば、むしろこの少年愛のパターンはありふれたものだ。そして、このようなセクシャリティ世界の古代ギリシア男子が、オリンピアードという、いわば裸体の祭典に臨んだときに、他人のオールヌードに性的興奮を覚えただろうか? あるいは、他の男性に自分の裸体を晒すことで、露出狂じみた性的満足にうちふるえただろうか? そして、お互い性的興奮の可能性があることを承知の上で、エクスキューズな約束事(神に捧げるためとか、武器を隠し持ってないか調べるためとか)抜きの暗黙の了解として、全裸でオリンピアードに臨んだのだろうか?

 この問いに対する答えが「その通り」なら、古代ギリシア人(というか古代ギリシア男子)は「ヌーディズムの倫理」に通暁していたことになる。つまり、古代ギリシア人自身の意識下のどこかで、こんにちでいう情報資本主義の精神を養っていたのではないだろうか。私自身は古代ギリシア文化そのものには全くのシロウトなので(この時代の同性愛性交が、いわゆるスマタであって鶏姦でないとか、下世話でソースのはっきりしない情報しか知らない)、当時の地中海世界の賢人の誰かがオリンピアードに関して(というかこの体育祭典と性的興奮の関係について)書き残してでもくれればな、と思ったりする。

 純粋なゲイではないにせよ、その手のサブカルチャーにどっぷり浸かっている身から類推すれば(そして同時に学生時代陸上競技をやっていた体育会学生であって、オリンピアードで行われている種目を考慮すれば、競技会独特の雰囲気もかなり趣味レートできる身としては)、エクスキューズ抜きの暗黙の了解みたいなのは、あったのではないかと思う。文化の如何によらず、一定割合で出生からの同性愛者が存在すること。成年男子を対象としていない同性愛文化と言っても、童顔や女顔の成年男子だって一定割合は存在すること。ウケにせよセメにせよ、一度同性愛の「味」を覚えたら、余韻その他が残ってしまうだろうこと。そして、陸上競技独特の「間」が、他の観客や選手をじっくり観察する余裕を与えるだろうこと。最後のは、少し説明を要するかもしれない。サッカーやバスケットの試合の観戦というのは、いわば映画館でドラマを見るのと似て、次々と目新しい展開が起きるのだから、少しの間も目を離せないものである。野球のような攻守が入れ替わるスポーツも、試合そのものは続行しているだから、タイムで試合が中断している最中でも駆け引き応援その他の楽しみ方はあるだろう。けれど、陸上競技の場合、試合のひとつひとつが独立していて、しかもそのインターバルが長いのだ。たとえて言えば、深夜のコマーシャルだらけのテレビのような。まず三分間の番組があり、十五分のコマーシャル。次に一分半の前番組とは全く違った番組が放送され、二十分のコマーシャル……などというような感じだ。手持ち無沙汰の待ち時間、普段はめったに見られない(なんせ四年に一度の開催だ)他男子の裸体を目で楽しむ、ということもあろうということだ。

 以上の、問いに関する答えは、もちろん独断と偏見による思いつきである。ただ、誰がどんな風に答えをひねり出そうとも、ゲイテイストなセンスは求められる。古代ギリシア文化は、自然科学や哲学や文化人類学やらから再三丁寧に読み込まれてきてはいるけれど、経済思想の観点から、そして新しく到来しつつある資本主義の観点から再読があってもよかろうと思うのである。 

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