ここから本論

 前述の通り、二十代に入りたてのころ、本気で大学教員になる気だった。

私が所属していたのは経済学部だったのだけれど、入学オリエンテーションの時点で、既に大学院進学を決めていた同級生が、何人もいた。かといって、アカデミックな雰囲気があったわけじゃない。公認会計士を目指したり官僚を志したりするのと一緒の感じ、要するに職業としての大学教授を目標としていたのだ。ポッと出の田舎者である私は、それを邪道と思っていた。要するに、何か、どうしても、研究するテーマなり何なりがあって、進学を決めるものだ、と。しかし私のその幼稚な思い込みのほうが、異端かつ少数派だった。同じゼミの先輩で、私そっくりの幼稚な発想の持ち主は、大阪東京含めて複数の大学院を受験したけれど、どこも受からなかった。勉強量や知識より、あきらかに「執念」みたいなものが足りなかったのだ。結局彼は学習塾の講師になった。オーバードクターも経ず、ストレートにいいところに就職を決めていったのは、入学式の翌日から研究者目指してガツガツ勉強していたヤカラばかりだった。

 理工系も似たりよったりの雰囲気だとは、ずっと後で知った。博士号をとるところまでいかないと、凡人たるもの、研究の最前線に追いつかない。テーマうんぬんなんて、おこがましいことを言っている場合では、なかった。

 で、こんな私だからこそ、在学中「夢想していた」研究テーマがいくつかある。

 メシの種にもならなければ、実際研究職につかなければ、使い道のないような……いや、猥雑すぎて、たとえ研究職についても使い道のないような、ガラクタなアイデア集。チカを一時撃退しておくために、そして電光石火で次世代の女将さんをとっつかまえるための時間稼ぎに、ぴったりの、脳みその排泄物である。

いまここで、ガラクタの中のガラクタを、披露する。

曰く。

きたるべき情報資本主義の時代、労働者や消費者や資本家に必要とされる倫理規範とは何か?

 問いそのものは、そして実は答えもなのだけれど、地図子さんや三船さんと過ごした学生時代に端を発するのは、今更付け加える必要もなかろう。

 六尺ふんどしのように説明が長く、だらだらとなるのは必須なので、まず、結論から先に述べておきたい。

 おそらく、その倫理規範とは、ヌーディスト村の住人の要求されるような倫理規範だ、と。

 そして。

 その倫理規範を、女川町の住人のような、一般普通のひとが学習するもっとも手っ取り早い手段とは、乱交パーティーに参加することじゃないのか、と。


 チカとのデートから帰ってくると、急ぎウエノ君の研究テーマを決めなければならない、喫緊の事情が増えていた。

 姫こと、白石さんの「囲みのオタク」の面々が、大挙して女川にやってくる、というのだ。

 ここからは、帰宅後すぐ、玄関の立ち話で、姫本人から聞いた話。

 事の発端は、白石さんが、他の宿泊客グループ、重機屋さんのオジサマと「駆け落ち」しそうなったことだと言う。私は知らなかったが、ゼミグループでの夕食後、姫は誘われるまま重機グループの若い衆の部屋に誘われたらしい……というか、押しかけていったというほうが、正確か。例によって重機屋さんの親方から、地図子さんに苦情があった。その若い衆の「隣近所」の部屋に入っていた原発関連会社の社員さんからも、さりげないクレームが入った。まあ、ウチの客室の壁は、薄いのです。ウエノ君が代理で姫をとっちめた。傷心した姫は、ホントに自分のしていることがイケナイことか、重機屋さんの親方、ナンバー2等、幹部連中に相談しにいったとのこと。相談の場で、どんなふうにひっかけたのか、信じがたいことに、現場のナンバー2が姫のトリコになった。そして、今朝、私とチカのデートのあとを追うように、「愛の逃避行」を決行したのだという。

 魔性のオンナ、だ。

 作業現場での点呼・始業前点検のとき、既に親方はその欠勤に気づいていたそうだ。携帯電話で怒鳴りつけてもナンバー2の返答は要領を得ず、急いで車で追いかけ首根っこを捕まえたときには、既に夕方近くになっていたという。

「カレ、奥さんもいたって。さっき親方に教えてもらったのぉ。そんな大事なコト黙ってるなんて、ウソツキもいいところよね、結婚サギよねぇ」

「いや、まあ、ねえ……」

「ウチのゼミで、他の民宿旅館に移らなきゃ、地図子さんを訴えるって、額に青筋立てて、あの監督さん怒ってたのよぉ。重機屋さんが時々持ってくる高所作業者っていうの? あのヘンな形をした箱のついたトラック、ここの広い駐車場でしか停められないから、重機屋さんたち、出てくのムリって言ってたわぁ。困ったものよねえ。お陰で、教授にもアブラ絞られちゃうし」

「へー」

 もっとも、地図子さんはやっぱり地図子さんだった。嫁入り前の娘をたぶらかしたのはアンタのほうでしょ、と至極全うな反論をしてくれたそう。「ジョイントベンチャーの現場事務所に駆け込んだら、孫請けの会社なんて、あっさり切られちゃうんじゃない」という教授の正当な「脅し」に、親方は黙りこくってしまったそうだ。

 やれやれ。

「姫、感謝感激したのぉ。さっすがあ、ウチの教授って。モチロン、自分のことを棚にあげて、喜んでいたばかりいたわけじゃないのよお。いっぱい、反省もしてるからら。あ。でもでも、あの監督さん、カレへの嫉妬も混じっているわよねぇ。私を見る目が尋常じゃなかったもの。私みたいな美少女をモノにしたから、あんなにトゲトゲしくなってたのよねぇ」

「ええっと。白石さん?」

「あら。ごめんなさーい。旅館には迷惑かけないから、許してちょ。てへぺろ」

 てへぺろ、じゃないだろ、ヴザッ……という言葉が喉まで出かかったけれど、よしておいた。今更どうしようもない。地図子さんたちは、少なくとも「私の客」なわけだから、重機屋の親方に謝罪し、オフクロや伊藤さんに頭を下げるのも、私の役目になるのだろう。

 ポトフさんには、これからしなくてもいい仕事があるんだから、と空気を読んだチカが白石さんを連れていってくれた。そう言えば相部屋だし、母親とは違った観点から説教でもかましてくれるのかもしれない。

 私は表に出た。

 ハイエースの室内に掃除機をかけていたウエノ君を掴まえて、さらに情報収集する。ここ何日も夕立の来ない駐車場は、夕日というには強すぎる日射のせいで、アスファルトから焼けるような臭いが漂っていた。

 でも、ウエノ君の不機嫌な様子は、暑さのせいばかりでは、なさそうだった。

「……ご本人からの顛末報告ですか。でも、それは話半分に聞いておかないと……自分のことは思いっきり美化して、他の人は引き立て役、くらいにしか思ってないタイプですから」

 それは、知っていた。

「本当に、話のうち、半分しか語ってないようですし」

「と、言うと」

「今の話の続きですね。白石さん、この駆け落ちの顛末を教授ばかりじゃなく、ゼミメンバー全員に語ってるんです」

 当然彼女がやりそうなことだが、何か問題でも?

「問題、おおありです。とにかく、この自分語りがウザかったってことです。かまってちゃんっていうか、寂しがりや、というか」

 スルー能力が高い大宮兄妹、面白がって聞くアマネ君までは、まあいい。

 問題は福島君。彼も彼女と同じタイプ、自分大好きタイプだから、同属嫌悪というか、一方的に聞き手に回っちゃったことで、イラついてしまったらしい。

「それは大変だ、放っておくと、その新しい彼氏が夜這いに来るかもしれない、これは助けを求めないと……棒読みで言って、姫のサークルの面々に連絡とっちゃったらしいんです」

 最初は写メールで。囲いのオタクの面々の食いつきはすごかったらしく、福島君はあることないこと、しゃべってしまったらしい。

「都合がつき次第、全員で女川に押しかけるって、言ってましたよ」

 姫に輪をかけてウザい連中で、ウエノ君の百倍は濃いオタクのメンツと聞かされ、私は背筋が寒くなった。

「でも、白石さんのサークルのメンツって、アレでしょう? 大学院生でしょ? いいい年して……」

「そのほとんどが、就職先ないんです。お先真っ暗です。明日をも知れぬ大学院生だからこそ、ハンパなく濃い連中なんですよ」

「……」

「女川の平均気温が少しあがるかもしれません。とにかく、暑苦しい『騎士』さんたち、ですから」

 姫をウチから追い出す……要するに、ウエノ君の論文にメドをつけねばならないタイムリミットが、さらに縮こまってしまったということだ。


 ともあれ「力仕事」の前に、腹ごしらえである。

 白石さんのこともあるし、今回のゼミメンバーの中にあえて混じらないのも、優しさかな、と思った。

 久しぶりに、厨房で、一人立ったまま食事をとる。

 昼間、焼きそばとアイスを食べただけあって、軽めのメニューも悪くない。この日の「キャベツの千切り」定食は、ロバやウサギの気分に陥らず食えた。日替わりのトッピングは、短冊に切ったニンジンとカイワレダイコン。まあオーソドックスな一品である。ニンジンのほのかな甘さと、カイワレり微妙な辛さが、絶妙なハーモニーを奏でて……とどっかのグルメ漫画みたいな解説になってしまったけれど、要するに、キャベツの千切りはキャベツの千切りである。

 食べ終わって思った。

 なんだかメシを食った感じがしない。胃に優しすぎるのも考えものだ、と。

 地図子さんたちがいる食堂に戻る。例によって、二手のテーブルに別れ、黙々と食事をしていた。重機屋さんたちのグループはこの日の夕食をキャンセル、「焼肉幸楽」で酒盛りをし、仲間の再結束を図るのだ、とのこと。地図子さんたちのグループでは、福島君だけが飲酒していた。どこぞのコンビニで買ってきた、烏龍茶のチューハイだ。

 地図子さん自身は、すでにコーヒーカップを手にしていた。

 私は、自分の「指定席」に腰を下ろしたあと、新ネタを開陳したいと申し出た。

「例によって、社会学の範疇からは、ちょっとズレてしまいそうですけど」

 というか、あからさまに経済思想の分野からの発想なのだけれど。

 三陸地方の被災地で、という縛りも無視してのネタなのだけれど。

 なんでもいいから、さっさと研究のテーマを押し付けて、帰ってもらわなくちゃならないから。

 そして養育費未払いのプレッシャーから開放されるために。

 学生時代頂いた研究テーマを、お返しします。

「三度目の正直、いきます」

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