本編 その10

 翌朝。

 情報が回るのはあっという間だったらしい。朝食時挨拶にいくと、ゼミメンバーの面々はやけに余所余所しかった。示し合わせたかのように、チカを除く全員が、チノパンかジーンズのパンツルックである。旅行も三日目になると、気を張ってばかりもいられないということか。チカは中学生が体育で着るようなエンジ色のジャージを、だらしなく着ていた。

 パジャマ代わり? と福島君が聞く。

 普段の部屋着、とチカはぶっきらぼうに答え、口元を押さえながら大きなアクビをかました。アマネ君が、臆面もなくウインクを飛ばしてくる。なぜかこの件では部外者のはずの姫も、ウインクを飛ばしてくる。この腐女子の妄想の中では、やはりアマネ君のほうがウケなのだろうか……。

 地図子さんだけが、味噌汁をすすりながら、私と目を合わせてくれた。あとは、もくもく、箸を動かしているだけだ。

 そういえば、ヤケにテンションの高い福島君以外は、おしゃべりするひともいない。みんながみんな、いきなり低血圧にでもなったような感じである。この赤髪のバンドマンからは、性の求道者呼ばわりされた。アマネ君と同様の軽蔑差別の視線を向けられなかったのは、幸いなことなのか、不幸なことなのか?

 昨夜は何もやってませんよ……地図子さんにはコーヒーを、他のひとにはお茶を配りながら、私はさりげなくチカに言い訳してみた。

 彼女は「ああ」とか「うん」とか言っていたと思う。

「今日、今から、デートしましょ」

 ちょっとだけ、耳を疑った。もちろん、平日だけあって、ふつうに仕事がある。

 横目で、福島君が私に敵意に満ちた視線を飛ばしてくる。

 こんな男のどこがいい? と彼はマッシュルーム頭を振り振り、朝っぱらからチカを口説こうとするのだった。

 ボーイフレンドとしての魅力は皆無でも、いいお父さんかもしれないでしょ、とチカが返答をして、このバンドマンを安心させた。

「……チカさん。もう、今日行く水産加工会社には、連絡済みなんですが」

「いいから。そっちはキャンセルしてください」

「事前の準備も、何もないと」

「いいから」

 非常に重大な……デートなのだ、と言われ、例の親子関係確認の詳しいお話がしたいと畳み掛けられれば、断るすべもない。

 カジュアルでいいから、そのツナギだけはちゃんと着替えてきてくださいね、と念を押された。

 地図子さんに、さりげなく助けを求める。

 教授は、私の存在そのものに気づかないふりをして、ウエノ君に二杯目のコーヒーを作らせた。


 デート。

 女川に戻ってから、一度として、したことがない。

 移動するアシがクルマばかりなので、デート言えば自動的にドライブ込みになる。直射日光のせいか、この朝も、車内は既に暑かった。運転席でシートベルトをしてから、はて、と行き先を考える。ゼミの面々に触発されてか、チカもこの日は肩の凝らない服を選んだようだ。ラガージャージのような太い縞のシャツに、ショートパンツ姿。タイガースグッズで身を固めた、若き日の地図子さんを、思わず思い出す。かわいい顔をしてボーイッシュな格好が似合うのは、母親からの遺伝か? 私が誘うまでもなく、工具入れにも使えそうなバカでかいトートバックを抱え、助手席に乗ってきた。

 親子関係にまつわる事務連絡や相談を聞くだけなら、妙な雰囲気を作る必要もあるまい。そもそも準備の時間が全くなかったのだ。一番コストがかからないのが、イオンのフードコートに連れていき、本当に話だけ聞いて戻ってくるというパターンである。

「却下」

 チカはニベもなく、断った。「デートって、言ったでしょう」

 しかし、話を聞いて、食事をして、あちこちほっつき歩くくらいなら、どこかクーラーの効いたところで涼んでいるほうがよくはないだろうか。フードコートがいやなら、ドトールコーヒーとかサイゼリアとか、無難なチェーン店のほうが粘れそうな気がする。

「話を聞いて、食事をして、あっちこっちほっつき歩くだけじゃありません。ポトフさんは、初デートの記念に、私に何かプレゼントを買ってくれなきゃダメなんです」

 せっかくこんなかわいい女の子がデートしてあげるって言ってるのに、気が利かないったら、ありゃしない。罰として、今日一日、ポトフさんを「パパ」って呼ぶことにします。異論は認めません。覚悟してよね、パパ。

「……パパ、ねえ」

 なんだか、ムスメというより、愛人を相手にしているような錯覚に陥る。高飛車なところも、若き日のお母さんそっくりだね、と感想を漏らすと、チカは考え込んだ。

「じゃあ、お父さん」

「それは、今からの交渉次第で、採用されるかもしれない呼び名であって……」

 ふつうに、今まで通り、ポトフさんでお願いします。

「下の名前呼びだと、彼氏とか、ボーイフレンドっぽく、ないですか?」

 んなわけはない。

「おとなを……じゃない、オッサンをからかうもんじゃ、ありません」

 女川では、アベさんとキムラさんというのは、女川駅前で石を投げたら必ずあたる、というくらいありふれた名前であって、町内どこででも苗字で呼ばれることはない。特に針の浜なんて、住民のほとんどがキムラさんだ。だから、たいていは屋号や舟号で呼ぶ。地縁血縁等で親しい間柄なら、中年になろうが還暦を過ぎようが、下の名前呼びだったりする。ちなみに、浦宿駅前でなら、このキムラさんアベさんが、「勝又さん」になる。駅前から五十鈴神社にかけての古くからの住宅地の七割以上が勝又姓なのだ。違う苗字の人も、必ずなんらかの姻戚関係になっている。当然、浦宿地区でも、ほとんどが下の名前呼び。ウチの今の姓こそキムラだが、この勝又一族の分家の分家にあたっている。つまり、町内の生活圏内でなら、苗字で呼ばれることのないような日々を送っているわけだ。

 親しくない間柄なら苗字で、特別親密なら下の名前呼びで、なんていう「都会のルール」は、ここでは全くあてはまらない。

「ふーん」ふーん。「まあいいか」

 じゃあ、ポトフさん呼びは変えませんから、その分、私のこともチカって呼んでくださいね。

 私は間髪おかず、切り替えした。

「下の名前呼びだと、彼女とか、ガールフレンドっぽく、ないでしょうか?」

「……それを言うなら、ムスメっぽいって、言ってください」

 仮にも客相手に敬称抜きはやりにくいと思ったけれど、もういい加減疲れたので、チカと呼ばせてもらうことにした。彼女の足元に置かれたトーとバックから、A3サイズのバカでかい茶封筒が覗いていた。なんだか憂鬱になりそうな厚さの封筒だった。


 朝食をとったばかりでもあるし、いきなりお茶、ではやりにくいかもしれない。

 二日目に女川は見て回ったということなので、今回は石巻を案内することにした。観光というほど大げさではないけれど、女川から最も近い物見遊山、クルマで二十分のサンファン・バウティスタ公園に向かう。慶長年間支倉常長がローマ法王に謁見するため、遣欧使節団を率いてメキシコやイスパニアに行った際の帆船の復元が係留してある。とても百八十人が乗り込んだなんて思えない小さい船なのだけれど、船着場・ドック棟が閉鎖されていて、一昔前みたいに乗り込むことはできなくなっている。津波の影響と老朽化のせいで、もう五年ほどしか持たないだろう、という話だった。資料の展示やシアター見学をしたあと、展望棟に出る。スマホのカメラで撮ると、サンファン号がいくらか間近に感じられるようだった。帆船て、ヒモがいっぱい使われているのね、というのがチカの第一印象だった。公園の展望台からの眺望はなかなかのもので、チカはレプリカ帆船を眼下にするだけで満足してくれた。

 せっかくだから、公園の近所も散策したい、とチカは言い出した。

 日本史の教科書にも載っているような帆船レプリカの乗船見学が不発に終わったのだから、まあ、ぶらぶら歩きもいいか、と私は応じる。高台になっているサンファン公園周辺は、絵に描いたような寒村漁村の風景が広がっているのだ。

 失敗した……と舌打ちするはめになったのは、この日に限って知人・商売相手になやたら会ってしまったせいである。

 渡波駅方面からこの公園に向かう途中、万石橋を渡ってすぐ左隣に石巻湾組合の牡蠣剥き場がある。津波後、新築したばかりのピカピカの建物だ。この時期だと原盤をヒモに挟む作業が終わり、一段落しているころなのだけれど、どうしてかこの日はみんな浜で作業していたらしい。それでなくとも、このサンファン公園周辺、祝田地区にはオヤジの代からの付き合いの養殖業者さんが少なからず住んでいる。

 さりげなく挨拶を交わすだけのはずが、必然的にチカの話題になった。

 彼女は誰?

 デートかね?

 まあ、いい加減、身を固めてもいいころだしな。

 とうとう、ヨメをもらうことにしたのか?

 これで、オヤジさんも、ひと安心だな。

 うんぬん。

 雑談の合間に、商売の話が出たりするので、「デートの最中だから」などと無碍に断れない。少なくとも、田舎にプライベートなんていう言葉はない。というか、似合わない。

 丁寧に紹介するのも億劫なので、私はさりげなくごまかす算段だった。

 町内に来たボランティアさんの観光案内なんですよ……。

 ところが、私のそんな気遣いもなんのその、チカはあえて空気を読まないことに決めたようだった。

「私、ポトフさんの隠し子なんです」

 堂々、悪びれず、初対面の相手に向かって、彼女は言い放つ。

 年配の知り合いは、「大人の対応」でさりげなく聞き流してくれた。

 歳が近い牡蠣養殖業者さんたちは、この戯言を面白がって、まぜっかえしてくる。

「どっかのお殿様みたいな話だねえ」

「隠し子って、キムラ君の愛人何号の隠し子?」

「キムラ君のトコはザイバツだから、代替わりに便乗して、お小遣いが欲しいってか」

「その、この子のかあちゃんのオメカケさんを、正妻に直せばいいんじゃない。てか、さっさとヨメもらっちまえ」

「いやいやいや。ヨメの話なら、いっそ、この女の子でいいんじゃないの? 血はつながってても、戸籍は別なんでしょ? 禁断の関係なんて、いーじゃなーい」

 等々。

 しかし、彼ら彼女らの配慮も、チカは馬耳東風と聞き流す。

「単なる隠し子じゃないんですよ。托卵のムスメなんです」と、チカはさらに気まずくなるようなことを言うのだった。

 これは、この人たちの今晩の酒の肴にされること間違いないな……私はチカの得意満面な笑顔を横から覗き込みながら、思ったものだ。初対面のときのお嬢様っぽい面影はどこにいったのやら、こうしてみると、母親のデットコピーみたいに思える。

 石巻湾組合の牡蠣剥き場は、普段なら関係者以外立入禁止である。新牡蠣剥き場の奥、梨木畑には旧牡蠣剥き場が解体されずに残っており、主に資材置き場・種牡蠣の物揚場として使用されている。こちらなら、シーズンオフでもあり、シロウトを連れていっても文句は言われまい。というか、私自身なら、うろちょろしても咎められることは絶対ない。手ごろな、二番目の見学先だ。ちょうど満潮のことでもあり、立ち並ぶ船外機付和船が岸壁すれすれまで来ている。知人に頼んで、チカともども、ちょっと乗船させてもらう。チカのラフな服装を見て「沖に出てみるか」と勧められる。ありがたい申し出だが、遠慮しておいた。FRP製の最新の船体でも、それなりスピードを出せば、船底をカケヤで殴ったようなドンドンという衝撃が走り、結構疲れるものなのだ。

 観光気分は、もう満喫しただろう。

 本題に入る時間だ。

 クルマに乗る際、チカはポツリと言った。

「ザイバツって、言ってましたね」

「津波前、多少稼げた時期もあったんですよ」

 私はドライブを続ける旨、チカに告げた。

 まず、漁港を通って日和大橋に向かう。

 石巻漁港には、日本最長を誇る荷捌き場がある。見学用エントランスもついているのだけれど、概して昼間は閑散としていて、特筆すべき見学コースでもない。道路工事でごった返しているのを縫うようにして、通り過ぎた。

 工業港からあえて遠回り、空自松島基地前を通って、矢本大曲の三浦屋に、昼食を食べにいく。時間は十一時、少し早いがもう一時間もすれば、相席が必要なくらい店は混む。津波直後、解体のアルバイトに来ていた地区だ、と私は行く道々、彼女に教えた。

「普段なら、戦闘機だのヘリコプターだの、着地するところが見えるんだけどね」

 もともとは一面の田んぼ、大げさに言えば地平線だって見えそうなだだっぴろさ。この広々として空き地の先に、ブルーインパルスの滑走路がある。

 この日は残念ながら、一機の機影もない。

 県道247号線で横切ると、道路すれすれ……とは言わないまでも、肉眼で戦闘機のハラがはっきり見えるくらい、着陸態勢の戦闘機が接近する。これが迫力があり、なかなか絶景なのだ。

「なんか、小学生の子どもでも、連れて歩くような感じですね」

 チカはそう言ってクスクス笑った。確かに、二十代半ばの女性をエスコートするような、デートコースじゃないかもしれない。

「いや、だって、お父さんの家族サービスだから」

 その話をするための、デートのはずなのだ。

 三浦屋駐車場の宣伝の看板は、この店の名物のひとつだ。巨人軍らしき(?)ユニホームを着た長嶋茂雄(?)じみた二重顎のオジサンが「石巻茶色い焼きそばは永久に不滅です」と、これもどこかで聞いたような宣伝をしている。石巻名物B級グルメの焼きそばは、市内五十余箇所の食堂レストランで供されている。近場ではなく、あえて大曲くんだりまできたのは、この看板を見せるためだったのだけれど、悲しいかな、長嶋茂雄と言っても、チカは全然名前を知らないのだった。

 いきなり、自分がものすごいジジイになった気分になる。

「まあまあお父さん」とチカは私の肩をぽんぽん叩いて、慰めてくれた。


 注文した焼きそばが出てくるまで、チカを軽くとっちめることにする。

 例の分厚い茶封筒をテーブルに置き、チカはまずお手洗いにいった。こっそり中を覗きたい、という誘惑に抗するのは、大変だった。戻ってきたチカに、目玉焼きののった焼きそばの薀蓄をたれ、おもむろに本題に入る。

 渡波で、なんであんなヨタ話をしたのか?

 信用問題である。

「それなら、私のほうでも、質問、あります」

 昨夜、なんでアマネさんとからんでいたのか?

「それこそ、信用問題ですよ」

「なんの、しんよう?」

「父親としての、信用です」

「あれは、彼のほうが勝手にだね……」

「がっかりしました。養父だけじゃなく、実のお父さんもヘンタイだって、知って」

「実のお父さんって……そっちは、まだ、未認定でしょう」

 ていうか、学生の時分のヌード写真の顛末うんぬんを知っているなら、改めて失望するほどのことじゃないと思うんだが。

「学生のときは、すんごいイヤイヤやってたって、聞きました。ウチの母めあてで、脱いだりからんだりしてるんだって。既にフィアンセがいるお母さんにアピールするために、三角関係覚悟でパンツを脱いでるんだって」

 それに、ヌードモデルのほうは、芸術でしょ?

 畳み込まれて、なるほど、地図子さんは娘にそんな説明をしているのか、と思った。

「気の置けない、仲介役がいてね」

 私をヌードモデルに引き込んだ宇都宮君という男のことを、どう紹介したらよかったのだろう? ふつう、友情の証として、人前でフルチンになるひとはいない、と言われて、私はへこんだ。

「そうかなあ」

「そうですよ。でも、もういいですよ。見直しました、の反対、見下げましたってでも、言うのかな、そういう気分だから」

 誰にも言わないし、正直懺悔してもらっても、いいです。お母さんじゃなく、お父さん目当てで、パンツを脱いでたって。

「あのねえ……」

「アマネさんのパンツ、脱がせてたじゃないですか」

 最初の話に戻った。ていうか、堂々巡りだ。

「話はちょっと、逸れるけど」

 たとえ、私にそういう趣味があったとして、あえて咎められることだろうか? 性的マイノリティに対する生理的嫌悪は仕方ないとしても、それを堂々表明することは、差別じゃないのか?

「赤の他人なら、そうかもしれないけど……」せめて、ポトフさんには理想のお父さんで、いてほしかったなあ……。

「どういうこと?」

 母親は、理想の母親ではなかった、とチカは言った。要するに、三船さんをゲイの道に引きずりこんだあと、あっさりと離婚し、その後は次々ヒモみたいな彼氏をウチに連れてくる。恋愛や結婚に幻滅して、この歳まで彼氏を作る気ににもならなかった、と。

「でも」

「でも?」

「母は自称さばさば系だから。自分の所業は棚に上げて言うんですよ……フツーにいい男だって、いなくはないわよ、あなたの本当のお父さんのようにって」

「で。あることないこと、吹き込んでた、と」

「そうです。あることないこと。ウソつきにも色々あるけど、かわいくないウソですよね」

 それはたぶん、娘に対するテイのいい言い訳であると同時に、オトコッ気のなさに対する心配の表明でもあったのだろう。

「ポトフさん、ファザコン娘って、嫌いですか?」

「大好物ではある」

 いい歳して独身のオッサンで、いまどきのアイドルの名前と顔を覚えられないくらいのロートルで、けれど二次元の女性キャラしか愛せないと開き直るほど悟りを開けず、もう諦めかけてはいるけれど結婚願望を燻らせているようなタイプになら、かなりアピールするような属性ではあると思う。典型的なファザコン娘というのは、ある種のあざとさの塊みたいなもので、おそらく同年代の女性側から見たら「気持ち悪」くて拒否反応を起こすような存在なのだろうけれど、父親くらいの年代のオッサンからは、ガラリと違って見えるはずなのだ。

 そこそこ若く、そこそこかわいくて、けれどあんまり手垢がついてなさそうで、エキセントリックな性格ゆえに競争率もそんなに厳しくなさそう。しかも、彼女が好きそうなキャラ属性の一部、ずっと年上の男性という属性、父性を自分は持ち合わせている……。

 時折妙齢の女性芸能人がバラエティ番組で、中学になっても高校生になっても一緒にお風呂入ってますアピールとかしたりするけれど、これも営業の一種じゃないかと勘ぐりたくなるくらいにはファンのつきそうな属性ではあるまいか、と思うのである。

 まあ、幾多の萌え属性の中でも、マイナー中のマイナーではあるんだろうけれど。

「でも、自分の娘が……というか娘候補が、ファザコンであるかどうかは、別問題」

 お話がエキサイトする……というか脱線しそうになる直前、焼きそばが届いた。もともと茶色くはある焼きそばであるけれど、地元の通として、さらにウースターソースをかけて食べるというやり方を伝授する。箸をつけてから暫くは、お互い無言で出来たての味を堪能した。

「口のまわり、ついてますよ」

 ウスターソースかと思ったら、紅しょうがのカケラが、そり残したひげのところに鎮座していたらしい。食べている間に、チカは例の茶封筒を出してくれた。

「DNA鑑定の結果がでるのは、このゼミ旅行が終わってからになりそうなんですよ、残念ですけど」

「はい?」

「やだなあ。だから、私とポトフさんの、親子関係について」

 いつの間にか、私自身が知らない間に、スプーンを口に突っ込んで必要サンプルを採取していたらしい。

 なんだかイヤな冷や汗が出てくる。

「プライバシーの侵害でしょっ」

「でも。侵害しないと、本当のお父さんかどうか、確認できないんですよ?」

「んん……」

 あらためて聞きたい。いったい何がしたいんだ、君は?

「ポトフさんの旅館の、次期女将さんのポストって、空いてるんですよね」

「ポストっていう言い方、変だけど……私自身にヨメがいない、イコールなり手が決まっていない、という意味でなら、その通り」

「ポトフさんのお母さんが引退するまで、後任が見つからなきゃ、旅館は廃業」

 うむむ。一応、そこまで、規定路線ではある。

「じゃあ、じゃあ、私なんてどーでしょう?」

「は?」

「お母さんに言われて、大学院に進学したのはいいけれど。そもそも、研究者になりたいとか、大学教授になりたいとか、そういうキャリアに憧れてじゃないんですよ、私」

 オーバードクターで職が決まらない苦痛がどんなものかは、十二分に知っている。母親が親身になって世話しないお陰で、自動車工場の整備員になったり、インテリア屋さんのセールスマンになったり、ITドカタになったりニートになったりした院生を、イヤというほど見てきたのだ。というか、ほんの数年前まで、彼女の大学の大学院から、アカデミックポストについた人間は皆無だった……。

「何をしたいのか、いままで自分でも分からなかったけれど、最近はっと気づいたんです。創業半世紀、まあまあ老舗の旅館の若女将って、悪くないなって」

「えっ」

 女川原発がある限り商売は鉄板の安泰、言葉は悪いが津波のせいでライバルも半減した。今後原発の動向にあわせて新興勢力も出てくるかもしれないけれど、原発立地調査の頃から長いつきあいがあるから、どんなホテル旅館が来ても、おいそれと負けることはあるまい……。

「ぴちぴちの美人の女将が後を継げば、鬼に金棒ですよ?」

「ちょっと、待って」

「どう考えても、ウインウインの関係だと思うんです。ポトフさんはかわいい娘と旅館の存続が手に入る。私はお母さんから離れられる」

「実は、母娘仲、悪いの?」

「逆。仲がよすぎるから、困ってるんです。両親が離婚したころは、本当に母親ベッタリのマザコン娘でした。お父さんがお母さんを裏切ったと思ってたから、男の人、みんなが憎かった。だから、つい最近なんですよ、私の反抗期」

 話しながらだけど、私はあっという間に焼きそばを平らげた。

 関西人ならウースターソースの味が嫌いなわけはないけれど、チカの食はすすんでない。

「若女将の話、ウチのオフクロが聞いたら、泡を吹いて倒れるかも」

「まあ。健康不安があるなら、なおさら、私、がんばらないと」

「あのねえ……」

「就任祝いには、女将さんにふさわしい和服、一着仕立ててくださいね。こういうのも経費で落ちるんでしょ? いかにもデキる女の仕事って感じで、悪くないですよね」

「仮に、ここで女将さんになるとして、その後どーするんです? 夏休みが終わったら、また、関西に戻るとか? それとも女川に骨を埋める覚悟?」

「お婿さんをとります。ポトフさん、楽隠居したら、孫の世話をお願いします。男の子を二人、女の子を一人の予定です。男の子のうちの一人は、ポトフさん好みの女装美少年に仕立てます。悪くない計画でしょ?」

「……てか、君、ウチの旅館を乗っ取るつもり?」

「まあ。乗っ取るだなんて。人聞きの悪い。アカの他人ならそうでしょうけど。私、お父さんの娘なんですよ、ポトフさん」

 こういうところ、母親の血をしっかり引いてるんだなあ、と私は実感した。ちゃっかり、というか、悪びれず、自分のしたいこと・させたいことをストレートに表明する癖。

 チカの計画通りに事が進めば、私の嫁取が、限りなく不可能に近づいてしまう。嫁に来ると同時に、老舗旅館の女将の地位を襲うというセールスポイントが消えるばかりか、大きなコブ付となってしまうのだ。

「加えて、母に支払う養育費の問題も、ありますよね」

「タイムスリップして、三日前に戻りたいよ」

「何を今更。それに、今から結婚するとして、子どもが成人するころには年金を貰うようになりますよ? 養育費に加えて、ポトフさんの両親の老後の世話、そしてポトフさん自身がヨレヨレになった場合の介護。奥さんになる人は、二十年後、地獄を見るんですっ」とチカはこれでもかと痛いところをついてくる。

「なんか、ひどい言われようだなあ」

「そもそも、です。たとえポトフさんがあと二十年くらい若くて、水も滴るイイ男だったとしても、最初から同居で姑が上司なんてところ、結婚しようだなんて人いませんよ。私もいまどきの女の子だけど、私に限らずみんなゲンキンなんですから。むしろ、逆に、私が女将になって、そういう嫁姑戦争の芽を摘んでおいたほうが、どれだけ見込みが大きくなるかって思います」

「うーん」

「良薬は口に苦し、正論は耳に痛いものなのです。未練がましい悪あがきはすっぱり、あきらめる。それだけでポトフさんは救われるんです」

 ああいえば、こういう。

 きりがない。

「じゃあ、明日から、修行開始? いきなり女将は何だし、仲居や厨房係のマネごとから、やってみますか?」

「いえ。お母さんの……というか、ウエノさんの研究が一段落ついてから。そのためにここに来たんですし。それに、やっぱり、親子関係の存在がちゃんと確認できてから修行に入るっていうのが、スジだと思いますし」

「地図子さんは、長くとも十日くらいをメドにって、言ってたと思いますが」

「どーにかして研究テーマを見つけない限り、帰れないなあって愚痴っても、いましたよ? 延長の場合、DNA鑑定の結果が、間に合うかも。そしたら、未練を断ち切るためにも、ウチに戻らないで、このままいついてもいいですか? 大学院の退学届は母に託し、私物はナオちゃんに頼んで荷造りして送ってもらう、とか」

「いやいやいやいや」

 行動力、ありすぎるだろ。

 まてよ。

「逆に、研究テーマが早々に決着したら、地図子さんと一緒に帰るんですよね」

「そーなりますね」

「君が関西に戻って、また女川に引き返してくる間に、奇跡的に後任の女将さんが決まってたら、どうです? 計画の最初っから、破綻しませんか?」 

「やだなあ、ポトフさん。ポトフさんにそんな甲斐性があるなら、とうの昔に女将さん、決まってると思いますよ。そんなこと言ってると、血迷って、変な女にひっかからないか、チカ、心配になっちゃう」

 いまどきの女の子というのは、デートの際のワリカンに慣れているものらしいけれど、「自称」私の娘だけあって、チカは遠慮なく私のご馳走になることに決めたようだった。そもそも彼女からの、お誘いだったのに。

 デートの締めくくりは、デザートとしてアイスクリームをおごることにした。

 仙石線山下駅前の風月堂。

 知る人ぞ知る、変り種アイスの宝庫。百五十年の歴史を持つ老舗にかかわらず、全国観光地の依頼を受けて、「馬刺しアイス」だの「フカヒレアイス」だの奇食系を作っているお菓子屋さんなのである。女川でも観光協会が確か「サンマアイス」の作製を依頼していたはずだ。

 ひとつふたつ「ハズレ」をひいて、ドン引きしてくれればいいのだけれど、チカは面白がって「タコアイス」を堪能していた。

 なんてこった。

 チカがウチに根付くネタをさらに提供してしまったことで、私の危機感はいっそう深刻になった。

 嫁が遠のくぜっ。

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