本編 その9

 就寝前、寝酒をあおりながら、ネットで翌日の大船渡の天気を調べていると、来訪者があった。

 小山アマネ君だ。

「もう、お休みするところ、ですか」

 既に床は延べてある。

「いいですよ。なんです?」

 商売柄、陸地の天気だけでなく、海上予報もチェックする。三陸のリアス式海岸は南北二百キロ以上にも及ぶので、女川の天気のみならず、塩釜から青森八戸まで、毎日、満遍なくウェザー情報を収集する。水産関係の商売を始めて分かったのは、雨より風の影響が何より大事、ということ。そして、陸地の天候だけでなく、海上予報と潮の干満時間のチェックも怠ってはいけない、ということだ。宮古の津軽石では、激しい長雨が続くと牡蠣の養殖海域がほとんど淡水みたいになってしまい、浸透圧の関係で次々と斃死してしまうとのこと。そういう特殊の条件の場所を除けば、荷捌き作業を左右するのは、何より風だ。

 気温のチェックがいるのは、主に盛夏八月と真冬二月くらい。親潮の影響下にある気仙沼あたりでも、真夏日が続けば、銭湯のお湯なみの海面温度になるとのこと。真冬の気温チェックは、もちろん積雪対策である。内陸に比べれば笑うレベルの雪しか降らないけれど、何年かに一回は、大型トラックのタイヤ半分が埋まるくらい、道路が白くなるときがある……。

 アマネ君は、赤いタータンチェックのミニスカート姿であった。女性向け、ボタンが逆のブラウスをさりげなく着用しているけれど、なぜか違和感がない。浴衣を着ようが迷彩服を着るときだろうが、絶対外さないというチョーカーが、あいかわらずなまめかしい。私が彼の首元を褒めると、脚も褒めてくださいという挨拶が返ってきた。あえて足首が隠れるだけの靴下で、自慢の脚線美を強調しているらしい。

「なぜに、女装?」

「これから、理由も説明します」

「……」

 部屋には自分用のステンレス製保温コーヒーカップ、そして焼酎用に使っているぐい呑みしかない。

「酒、ならあるんですけど。缶チューハイ」

「あ。どうぞ、おかまいなく」

 座布団をわざわざ出したのに、小山君は掛布団の端に腰を下ろし、体育座りに脚を組んだ。私は廊下の冷蔵庫に入れっぱなしの、レモンチューハイの缶を渡した。色っぽい脚をもてあまし、小山君は私の布団の上でくねくね身をよじっている。ご自慢のキレイな脚だけでなく、スカートの中奥深くまで、見るともなしに、見えてしまっている……。

 実際、視線を下に下げなければ、女性と見分けがつかない。

 ディープなオタクなら、すっかり萌えてしまうかもしれない、微エロなポーズ。

 私は、用件を訊いた。

「小山ではなく、アマネと呼んでください。春画研究の兄弟子になるんでしょう?」

「は?」

「教授から、昔話、聞きましたよ?」

「あ。いえ。研究とか、してませんから」

「そうなんですか」

 学生時代にモデルをした話の詳細を、地図子さんから聞いたのだ、とアマネ君は改めて繰り返した。実は学士論文執筆の際には、例の、三船さんと私のカラミ写真も参考にさせてもらったのだ、と彼は続けた。いやあ、しかし、体型がすっかり違っちゃってたから、あのモデルとポトフさん、結びつけるの、難しかったですよ……彼は悪びれず言った。

 すっかりデブになって悪うござんしたね、と私は口の中でゴモゴモしゃべった。

「で。何の相談ですか? 徒歩で歩き回るのも疲れたから、明日はレンタカーの手配ででも?」

「そういうのじゃ、ないんです。研究の手助け、兼、恋愛の手助け、お願いしたくて」

 なんだか、非常に面倒くさくなりそう。

「順番にいきましょう。まず、研究から」

 アマネ君は、脚を組み替えてから、おもむろに切り出した。

「ボクが、教授と同じ分野の研究をしていて、直接の後継者だって話は、しましたよね」

 それは覚えている。

「いつかはポストを譲ってもらうという約束はしてないってことも」

 それは初めて聞いた。

「ていうか、小山さん、地図子さんが定年退職するまで、あと二十年はたっぷりあるんじゃ、ないんでしょうか」

「アマネって、呼んでください」

「ええ……アマネさん」

「だから。敬称はいりませんから、ただの、アマネ、で」

 下半身から搾り出すような、妙に甘ったるい声で、アマネ君はヨリ「親密な」呼び方を要求した。押し問答、というにはソフトすぎるやりとりのあと、彼への呼びかけは「アマネ君」で確定した。

 一応、尋ねてみる。

「どうして、そこまでこだわるんですか?」

「親密なおつきあいをするためには、何より親密な呼び方が大切なんですよ」

 アマネ君は台詞とともにススッと自然に私のほうに身をよせた。微妙なタッチで、膝をなでてくる。背筋に電気が走る。アマネ君にとって、私は、顔を合わせる前から、バイであることが判明している数少ない一般人なんだそうだ。

 思わず、声のボリュームがあがる。

「ええっと。それで、なんでしたっけ」

 アマネ君は、私の膝をなぜる手を止めず、話を引き戻した。

「……教授の研究分野、お上の規制と処罰、つまり春画表現への政治的視点でした」

「はい」

「ボク自身のは少し違っていて、春画への視点がどう変遷してきたか、。春画研究の研究史、みたいな、少しメタな分野の研究をしています」

 林美一や白倉敬彦あたりから始まった現代研究の黎明期。第二誌世界大戦で

散逸した作品の蒐集。外国人研究者の参入。世界的に知名度が上がり、ヨーロッパをはじめとした他国で開催されていく展覧会……。

「それで?」

「それで、ですね」アマネ君は色っぽく脚を組みかえる。「これまでの研究史を踏まえて、これからのトレンドを自分なりに想定してみたんですが……」

 アマネ君のまわりくどい説明を簡略化すると、こうだ。

 まず一つ目。中国や朝鮮半島、あるいは東南アジアといった、文化伝播先との比較研究が活発化されるのではないか。たとえば『聊斎志異』なんぞ読むと分かるが、中国では、一人目の奥さんに子どもができなければ、二人目の奥さんをもらってもいいという婚姻制度があった。日本には見受けられない制度下で表現された中国の「春画」と日本のそれとは、どんな性愛の違いを描いているか、等々。

 二つ目。春画の現代的展開について。現代美術について、古典的な手法を取り入れて作品を作る、というのはポピュラーな手法らしい。浮世絵の応用、当時の意匠や版画技法を用いて「現代版浮世絵」を作製する、というのは、グーグル検索にあっさり引っかかるほど、ある。けれど、じゃあ、江戸期をオマージュした現代「春画」は存在するか?

「そして、三番目です。これが、ポトフさんへの相談内容なんですが……」

 昭和時代の春画研究者が、自分が生きている時代の性規範から逃れられないまま、春画を批評研究してきたことへの批判。頭では理解していても、感性のレベルでは追いついていない研究が多々ある。オトコもイケる自分からすると、特にホモフォビアな傾向は、ひどい。

 研究者にはモラルがいるが、研究にそのモラルを持ち込んではいけない。当時は今と違うのだ。「衆道」という制度。婚姻可能年齢が今より低かったこと。支配層では一夫多妻が認められていたこと。そして強姦セクハラ等、性犯罪に対するモラル意識が、今より著しく男性有利なレベルにあったこと……。

「ええっと。一夫多妻でも合法的ロリコンでもいいんですが……たとえば、衆道はあくまでも衆道であって、現代のバイセクシャルじゃない。でも、その微妙な差異を研究者の視点として生かすのは、容易じゃない。で、自分は、この視点を生かす研究者になりたいんです」

「わかります」

「で、です。一番手っ取りばやいのは、そのヘンの機微がわかっているバイの研究者と、衆道の契りを結ぶことじゃないかと……」

 言いながらアマネ君は立ち上がり、するするとパンツを膝まで下げた。

 ついでに、ゆっくり、ゆっくりとスカートの裾を自分でめくりはじめた。

「アマネ君、いったい何を……」

「ボク、かわいくないですか?」

 ブルーベリー色のりっぺりしたパンツは、一見ユニセックスぽかったが、おそらく前後ろを区別するためのリボンがついていて、それが妙になまめかしかった。私がごくりとツバを飲み込むまでもなく、ガンガンと引き戸を叩く音がした。

 第二の来訪者だ。

「待っ」て、と最後まで叫ばないうちに、ガラガラ、引き戸が開いた。

 なんだか、ご機嫌な感じのチカだった。

 胸になにやらコピー用紙の束を抱えている。「ポトフさん、おとといの続きです。私の子どもの頃の写真、もっと見たくないですか」

 アマネ君の太ももに引っかかっているパンツを目にすると、チカの顔はたちまち曇った。

 やけに長い一瞬ののち、彼女はしわがれた声を絞りだした。

「フケツ」

 開かれたとき同様、ガラガラ勢いよく引き戸が閉められた。

 アマネ君は四つんばいになったり大股開きしたりして、私をしつこく誘惑しようとしたが、そもそもチカの冷たい目がまぶたの裏に焼きついて、ヘンな頭痛と脂汗が止まらなかった。

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