本編 その4

 で。

 ようやく、話は本題にはいる。

 そう、地図子さんがわざわざ女川くんだりまで来た、理由だ。

「ウエノ君に、アカポスをあてがってやりたくて」

 というか、その前提条件、博士号を取らせたくて……。

「ちょっと待ってください。それ、どっかで聞いたような話で」

 そう、四半世紀前、就職浪人していた三船さんのパターンと、酷似した状況じゃないのか?

 親子の絆がどれくらい強いかは知らないけれど、チカがケロッとした顔で、言う。

「ダメンズ・ウオーカーってヤツよね。うちのお母さんの歴代の彼氏って、みんな、こんな感じよ」

「ちょっと、チカ」

 母親が軽く咎めたけれど、当のウエノ君は少し首をすくめただけだった。

 今度は、直接彼に問うてみる。

「ちなみに、専攻、なんです?」

「社会学」

 正確に言えば、人間科学部社会学専攻だ、と言った。

 本来は教育学関係。ゼロ免過程・他学部との合併を経て、理工系以外のすべてを包括する無節操な研究科になったらしい。数年前まではたいへんゆるかった……とはウエノ君の弁。少し大げさに言えば、ウィキペディアの切り貼りでも修士博士がもらえそうな「ザル」だったという。地図子さん曰く「文系で博士号ホイホイ出すような大学院ってだけで、程度が知れてるでしょ」。当然、大学教員のような職にありついた人間は皆無だったわけで、ロクに就職の世話もできないような大学院なら、今まで通り「ドクター」のバーゲンセールでもよさそうなものを、理研での例の論文疑惑事件を受けて、審査が厳しくなったそうである。

「あらかじめ、伺っておきます。ウエノ君が大学教員になれなかったら?」

「修行して、仙人になる。人間、その気になれば、カスミを食って生きていける、はず。……私が見捨てなかったら、専業主夫かな?」

 四半世紀前、三船さんのときと同じパターンか。

 ……ザル審査がいくら厳格になったところで、実績が全然ない大学院で博士号取得した、実績が全然ないオーバードクターに、その手のポストなんて回ってくるものだろうか。

 同じ「ヒモ生活」、いや失敬、専業主夫なら、そんなご大層な称号、あったってなかったって、関係ないのでは? それとも、地図子さん自身のプライドが許さないのか?

 私の無言の疑問をどうやって聞き取ったのか、地図子さんは、説明を続ける。

「それが、千載一遇のチャンスでね。助教の空きポスト、どうにかできそうなのよ」

 地図子さん所属大学の「社会学」講座教授のポストは、もともと「天下り」で占められていた。有名国立大学を七十歳で定年退官した「お偉いさん」を迎え入れ、十年ほどでじゅんぐり人事異動していたらしいのだけけれど、今度、初めて、状況が変わった。

「て、いうと?」

「私が、教授に昇格したってこと」

 一時間ほど前渡された、手書きの名詞を、ふと思い出す。

「講座、日本美術史だったような」「そうよ。ちょっと畑違いだけどね。もともと学部合併前は文学部教員だったから。でも、そんなことが重要なんじゃない。重要なのは、私が講師採用で、多少、権力もてるようになったってこと」

「あ。やっぱり、女王様?」

「あほ」

 文部科学省の旗振りのお陰で、大学理事会のほうから女性研究者のアカポス登用の圧力があるとのこと。地図子さん自身その恩恵に乗っかった口なのだけど、社会学講座も例外でなかった。学部教授会で一番仲のいい女性研究者、塩原氏が昇格、めでたく旧弊を破り、教授職を射止めたという。

「今、助教まで含めれば、女子の占有率、三割ちょい、なのよ。これって、すごい割合よ。オンナの団結力をあてにすれば、泥臭い学内政治だって勝ち抜ける。天下り組の『オールドボーイズ』が手下を連れてきて対抗馬にしても、たぶん、票読みの上では勝てるはず。けど……」

「けど?」

「肝心の、本人の、実績」

 地図子さんのいる大学院の場合、博士論文を執筆するためには、その前提条件として、三篇以上の論文を発表している必要がある。その「研究者の卵」としての実績を見て、主査にあたるセンセイ、ウエノ君の場合は塩原教授、がゴーサインを出せば、OKだ。話の流れのついでに、もっと詳しく説明しておこう。まず、その博士論文の草稿を準備、公聴会という事前審査に諮る。事前審査のメンバーはウエノ君の研究内用にも詳しいひとで、同時に本番審査のメンバーになる人たちだ。副査と呼ばれるそのメンバーに地図子さんが入るのは確実で、さらにニ、三人の候補がいる、とのこと。指導教官である塩原教授のメンツを立てる意味もあるので、本番審査までたどりつくことができれば、ほぼ博士号は確実だろうけれど、肝心の事前審査、もっと言えば塩原教授のゴーサインが出そうにない。

「……実績、ないんですか」

「あるわよ」

 紀要、という人間科学部発行の論文集には、すでに三篇掲載された。ただこれは、掲載料さえ支払えば地図子さんの大学院の院生誰もが発表できる「ザル」で、これを研究実績と言い張るのは、チト難しいとのこと。三篇のうち、少なくとも一本はレフリー付きのジャーナル、要するに、ちゃんと審査付の学外誌に載せてもらうべき、というのが内規だそうだ。

 地図子さんと塩原教授の交友を考えれば、博士論文を書かせろとゴリ押しできないこともない。内規はあくまで努力事項であって、強制力のあるルールではない。そもそも、大学教員のひとりも輩出できなかった時代には、こんな内規、気をつけているひとなんていなかったのだから。けれど、そんな過去を持ち出してゴリ押しした場合、ウエノ君のアカポス就任は絶望的だろう、ということだ。

「ついで言えば、ウエノ君が、これまでの三篇の実績と同レベルの博士論文しか書けなくとも、やっぱり、助教への道は難しいかも」

 お手盛り博士号では、学部教授会の審査通過が難しい。

 学内に味方ばかりじゃないということは、いまさら繰り返すまでもない。

「賄賂を使って、買収する」

「マジメに考えてよ、ポトフ君」

「至極、マジメですよ。てか、ホントに金銭的な解決手段とか、ないんですか? 研究うんぬんに縁がない商売人としては、まずカネによる融通、考えますけどね。社会人一般の常識です。あ、もちろん賄賂は冗談ですから。それ以外の金銭的手段、ということで」

「ない。たとえあったとしても、ペケ。塩原教授、そういうのには潔癖すぎるくらい潔癖だから。バレたら、友達やめるって言われること、確実」

「カネがないなら、泣き落としですかね。男性教授には、オンナの武器を使って……」

「ちょっと。マジメに考えて。ハリセン食らわすよ」

「正統的な解決策なら、結局ウエノさんを研究者として鍛え上げるしかないんでしょう。地図子さんが心を鬼にして。その、塩原さん以上のスパルタになる」

「博士号論文に踏み込めるほど、社会学、詳しくないのよ。ポトフ君、名詞をもう一度思い出して。私の専門は、畑違いの日本美術史」

「八方ふさがりだ」

「だから、ワラにもすがる思いで、ていうかダメモトで、あなたに相談してるんでしょ」

「東北の片田舎で、ゴミの、というか産業廃棄物のリサイクルしてるロートルに、何を相談してもムダです」

「昔とった杵柄が、あるでしょうが。大学入学してすぐ、教養部すっとばして専門課程のゼミに潜入したひとが。ゼミ生院生みんなに可愛がられて、よくエッチ本のお下がりをもらってたって、聞いたけど」

 くそっ。この期に及んでそんなことを。リークしたのは、宇都宮君か。

「大学四年のときには、教授から研究室の合鍵をもらったって聞いた。夏休み中はここを占有して、蔵書も読み放題、好きに勉強しろ、とか言われて。事実上の後継者って、目されていたって」

「……懐かしいですね。それも、宇都宮君からの情報ですか?」

 授業料が半額免除になるくらい、家業が思わしくなかった。さらに妹が大学に進学した。大学院に進学するつもりなら、授業料も生活費も、すべて自分でひねり出さねばならなくなった。勉強しながら費用を稼ぐつもりでアルバイトに勤しんだが、ちょうどバブルがはじけた時期で、私自身の目論見も、泡のように消えてしまった……。

 とにかく、今は、深刻な話をする場ではない。

「……地図子さんが、心底ウエノ君を愛しているなら、まだアイデアが残ってないこともないです。純愛です」

「……なにが言いたいのよ?」

「反対派の教授たちを出刃包丁でズブリと刺していき、死体に黄色い砂を撒いていく。もちろん、その、塩原教授が反対するなら、彼女にも黄色い砂」

「あのねえ」

 当のウエノ君が、まあまあと微苦笑して地図子さんににほうじ茶のおかわりを注いだ。

「でも、究極の選択でしょう。友達と彼氏、どっちを選ぶって言われたら?」

「まあね。彼氏を選んじゃうとは思うけど。それにしたって、黄色い砂はないわよ」

「地図子さんや、ウエノ君の視点はだいたい分かりました。キーマンの一人、というかキーウーマンの一人、その肝心の塩原教授の意向って、どうなんです? 教え子にして親友の彼氏なら、特別に目をかけて、研究職につけるように応援してくれる、とかないんですか?」

「ないわね」

 ウエノ君も賛同した。

「ないですね」

「なんとも、寂しい限りだ」

 でも、親友なんでしょう? と私は再び地図子さんの話を促す。

「それがね……塩原さんに言わせると、同じ採用をするなら、女性がいいっていうわけ。すでに準教授、彼女の子飼いの男性だから。外部から引っ張ってくるにしても、次は女っていうのが、ホンネみたい。だから、無理に押し込む立場としては、水準以上の研究内容ももちろん必須だけれど、さらにプラスアルファがほしいってところ」

「プラスアルファ?」

「マスコミで大々的に取り上げられるとか、文科省の科研費以外からも莫大なオカネを引っ張ってこれるような研究だとか」

「なるほど」

「でも、理系ならともかく、地味かつマイナーな分野だから。色々検討して、候補のひとつが、この被災地の研究になった。この子の、チカのDNA上の父親の件もあったし、久しぶりにあなたに会いたいっていう、懐かしい気持ちにもなって」

「なるほど」

「で。結論。何か、アイデアを出してちょうだい。象牙の塔の中にいては、なかなか発想しないようなのを。被災地入りした他の研究者の二番煎じにならないようなのを。地元の人間ならではの何か、あるでしょ。あ。でも、現業やってて、すっかり頭を錆びつかせたひとに、今現在の大学院の知識を要求する気はないから。ヒントだけでいいのよ、ヒントだけで」

 執筆の暁には、あなたの名前もオーサーとして加えてあげる、というありがたいご宣託もあった。

「そんなめんどうなこと、言われても……って、拒否したら?」

「あなたに、拒否権はないの」

「えっ」

「イヤなら、布団でもひっかぶって、一日じゅう寝てていいわよ。無理に、あなたの頭の中をかき回したりは、しないから。けどね、その場合、論文執筆の代わりに、嫡出否認だとか親子関係不存在確認の訴えのための資料とか、収集に励むかも。それに、生物学的な調査もね。痛くないし面倒くさくないから、大丈夫よ。スプーンや綿棒を口のなかに突っ込んで、口腔内の粘膜を取らせてもらうだけだから」

 二十数年分の未払い養育費は高いわよ、と地図子さんは私を脅した。

「でも、数百万なんてオカネ……」

「数百万じゃないわよ。ゼロがひとつ、足りないわよ」

「勘弁してくださいよ」

「勘弁しないわよ」

「そんなオカネ、金庫を逆さに振っても、出てきやしない」

「この旅館を売ればいいじゃない」

「……やだなあ、地図子さん。いつから、そんな真顔で冗談を言うようになったんですか?」

「私は、割と、本気よ。ポトフ君、つきあい長いんだから、私が本気かどうか、しゃべり方でわかるよね?」

「わかりたくありません……それに、あの一発だけで、ホントに妊娠したんですか?」

「堂々めぐりねえ。この絶倫男が。だから、ちゃんと証拠調べするって、言ってるでしょ。逃げてもムダよ。平成の今の世の中、科学的鑑定がどれくらい発達してると思ってるのよ。それに、一回でも、ヤッたことに違いないでしょ」

「……下品ですよ」

「下品で、何が悪いのよ」

「……」

「それと。私とウエノ君がここに来た目的は博士論文だけど、チカがここに来た理由は、まったく違うから。そもそも、その親子関係の確認がメイン、みたいなところ、あるから」

「……」

「お昼のメロドラマみたいな、ドロドロの展開、私、嫌いじゃないのよ。あ。もっとも、研究が忙しくなれば、チカもお父さん探ししている時間、なくなるかもね。研究手伝うので、手一杯になっちゃうだろうし。あーあ。どーしようかなあ。どーしようかなあ」

「……お手伝い、します」

 黙って私たちのやり取りを聞いていたチカの顔がも、きらきら輝いて見える。論文のネタ探しを手伝ったとしても、この娘が「パパ」への詮索を止めるとは、思えない。

「今すぐじゃなくても、いいわよ。ネタがどうしても見つからなければ、観光兼ねて十日くらいの滞在は覚悟してるから」

「いや、その……すぐできるアイデア、ありますよ」


 

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