本編 その3

 遠くを見つめるような目で、教授が話を再開する。

「妊娠したのよ。この子をね」

 お茶菓子に追加した「きのこの山」「たけのこの里」をつまみながら、地図子さんはチカを顎で指し示した。

「両親公認の仲だったけれど、さすがに籍を入れる前はマズかろうって話になったわけ」

 できちゃった婚、というのは今だからこその物珍しくもなんでもなくなったけれど、当時はおおっぴらに吹聴できる性質のものではなかった。

 彼氏のほうが地図子さんのヒモ状態なのだから、なおさらである。

「サークル、すぐに辞めて、アルバイト三昧よ。出産と、当座の生活費を稼ぐために」

 身も蓋もない話でしょ、と地図子さんは自嘲気味に笑った。

 でも、なんだか現実的で、地図子さんらしいと思った。

 ふと、気づく。

「で、旦那さんのほうは、どうしてますか?」

 地図子さんは答えず、隣のウエノ君に何か合図を送った。プライベートな話題だから中座しろ、という指示にも見えたけど、それにしては彼の表情がふてぶてしい。

 駐車場をくだんのネコが横切っていた。嫁か子どもか、ひとまわり小さいのをお供にしている。地図子さんの視線が宙を泳ぎ、どこを見るまでもなく、ネコを追っている。

 そんなに答えにくい質問でも、あるまいし。

 私は、彼女の娘のほうに、同じ質問を向けた。

「お父さん、どうしてます?」

 チカは、目だけ笑ってない笑顔で、スッと私を指さした。

「?」

 テーブルの上にひじをつき、アゴをのせて、地図子さんは私をまっすぐに見据えた。

「血液型、合わなかったのよ、旦那と」

「は?」

「タネの該当者、他に思い当たらなくて」

「は?」

「あなた、この子の父親かもしれないって、こと」

「えっえーっ」

 一発で当てちゃうなんて、あなた、本当に絶倫だったわよねえ……という感慨を、私は聞いちゃいなかった。

 ちょっとうわずった声で、言ってみる。

「冗談も度を過ぎると、面白くありませんよ」

 母娘は、真顔だった。

「その……妊娠が判明した日付と、ヤっちゃった日付、近すぎやしませんかね」

「ああ。連絡しなくなったのは、また、別の事情でね」

「いつ、そのことに気づいたんですか」

「出産して、すぐ」

「……事実だとしたら、なんで、今まで黙ってたんです?」

 抗議じみたことも少し言ってみたけれど、自分でも声に力が入ってないのが分かった。

 そう、どう反応していいのか、突然すぎて頭がついていかないのだ。

「認知うんぬんとか、そういう法的手続きのために、来たんですか?」

 私の畳かけるようにな質問の嵐に、母娘は顔を見合わせるだけである。

 そうだ。

 こんな重大な打明けをするのなら、当事者のひとり、重要参考人・三船さんの立会いが不可欠なのでは?

 私は、今一度、チカに質問してみる。

「お父さん、どうしてるのかな?」

 チカの視線が今度は、ウエノ君のほうを向いた。

 一瞬……いや、しばらくはその意味が分からなかった。

 現在の地図子さんの彼氏が、この若い学生さんだと気づいたのは、ハッキリとご本人の口から宣言されてからである。

「離婚、ですか。でも……三船って、名乗ってますよね」

「昔の姓に戻す前に、既にこの名前で仕事をはじめちゃってたから」

「そういうのって、気にならないもんなんでしょうか。その、三船さんが」

「だいぶ前に亡くなったよ」

「それは……お悔やみ申し上げます」

 他界するずいぶん前に、二人は離婚していたという。

 いつまでもヒモ生活に耐えられなくなったせいもあるし、完全に女性に性的な意味で興味を失ってしまったのが原因かもしれない、と言う。

「子どもができてからも、ヒモ生活、続けてたんですか……」

 私はおそるおそる、もうひとつの原因を、挙げてみる。

「地図子さんが、父親の違う子どもを産んだからじゃ……」

「それは、ない」

 母親のきっぱりした否定に、なぜか娘のほうもしっかりうなづいた。

「とにかく、ヘタレだったわあ」

「そんな、死者に鞭打つようなこと」

「だって、事実だから。違う?」

「……違いません」

「円満離婚だった。でも、外野の声がうるさかった。娘には母親だけじゃなく、父親も必要だ、とか言われて。でも、いまさらだった。子どもを生んだときも、離婚のときも、散々責められて……でも親の小言なんて、耳栓つけて聞き流すたぐいのもんでしょ」

「みんながみんな、地図子さんみたいに強くはありませんよ」

「彼がゲイに走ったのは、少し反省してる。私にも責任がある」

「……にも、じゃなくて、全面的に地図子さんの趣味だったんじゃ……」

 きのこの山が切れて、地図子さんが空箱をカサカサ振った。どこで調べてきたのか「うみねこの玉子」とか名物菓子はないの? と聞かれる。

「パチもんですからねえ」

 私は、言葉を濁した。

 三陸地方には、かもめのたまご、という本家本元の饅頭があるのである。

「うみねこの……」の製造販売していたのは確か大福堂で、津波のだいぶ前に店をたたんだはずだ。

「ウチは観光客向けじゃないんで、その手の名物、ないんですよ」

 私は子ども連れの客用にとっておいたハチミレモン飴を補給した。

 足が痺れたので失礼して胡坐をかく私に、地図子さんは重ねて言った。

「世間体なんて、ホント、どうでもよかったんだけどね」

「え?」

「だから、旦那のこと」

 夜の夫婦生活も、地図子さんにとっては、どうでもよかったらしい。

「単に一緒にいて、子どもを育ててくれる存在で」

 地図子さん流の、愛情表現の発露、なのだろう。

 けれど、なんだか、三船さんに同情しそうになった。

 いくら彼氏がマゾ体質だからと言って、それでよかったのだろうか?

 三船さんに彼氏ができて、同居を解消したのは、チカが小学校二年の夏。

 地図子さんがトイレに立ったスキを狙って、チカのスマホにわざわざ保管してあるという写真を見せてもらった。

 近江八幡の宮ガ浜に湖水浴に行ったのが、最後の思い出という。水際近くまで芝生がせまる独特の浜風景を背に、母娘と男二人がにこやかにポーズをとったスナップショットだ。ピンク地にチュチュのついたワンピースを着、いちご柄の浮き輪を腰につけた幼女が、写真中央で満面の笑みを見せている。事情を察し得ない表情がまぶしすぎるぶん、なんだか痛ましい。右隣には、麦藁帽子に開襟シャツ、そしてグレイのロングスカート姿の母親。いでたちこそ大人だけど、既に娘に背丈が追いつかれそうになっている。キューピー人形のような等身の娘のせいで、なんだか遠近感が狂ってみえる。左隣には海パン姿の男、二人。三船さんはヒモパンみたいな紫色のビキニで、貧相な身体がよりいっそう貧弱に見える。離婚直前の写真なんだから、やはり、本人の趣味なんだろう。その隣に、浅黒く日焼けした精悍な男子。ズバリ、この若者が三船さんの彼氏、だ。金髪で、金鎖のロケットを首につけていて、大阪にいけばヤンキーとか陰口されそうなタイプに見える。

 金髪さん、面白いひとだったけどね、とチカは言う。精悍な外見に似合わず、幼児向けのアニメが好きで、アンパンマンのマーチからプリキュアまで、行楽行き帰りの車内では、チカのメドレーにつきあってくれたそうだ。

「なんだか、ふつうの友達つきあいに見えますけど」

「そう。離婚も、あっけないくらい、円満に決まったみたいです。私自身は、もう覚えてないんですけど。和気藹々っていうか、さばさばっていうか、そんな感じで」

 和気藹々と、さばさばじゃ、ニュアンスがだいぶ違う気がするが。

「でも、とにかく、そういう感じだったらしいんです」

「で。お父上が死んだ原因は?」

「エッチなプレイの最中の窒息死、よね。ウエノさん?」

「ボクは、そう聞いています。その。教授の妹さんから教えてもらいました。教授のお父さんの火葬埋葬のとき、偶然立ち話で」

 ホントかどうかは分かりません……ていうか、あからさまなウソだったとボクは確信しています……妹さん、亡くなった元義兄に、いい印象もってなさそうでしたから……ウエノ君は、ぼそぼそとつけくわえた。

 タイミング悪く、地図子さんが戻ってくる。

 女性用のドアは厚くするか、オトヒメでもつけたほうがいいわよ、と気の抜けたようなアドバイスをくれた。

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