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 近年、女川町を訪問した、一番エライ人は?

 たぶん、カナダ大使、というのが私の答えである。

 職域防犯パトロール、という盆暮れ二回、町内夜回りをするボランティア活動がある。私も借り出されて、十数年前から参加している。二人一組、青色灯付の公用車で巡回するのだけれど、最初の日だけは全体集合ということで、女川交番にて「署長」訓示を戴く。その際、数代前、ざっくばらんな署長さんに教えてもらった話。

 街には県知事や県の代議士など、それなりの肩書きのひとも、もちろん訪問する。しかし、交番の人員が借り出され警備にあたる、なんてことはない。唯一の例外が、このカナダ大使の「来女」である。わざわざ正装の上、署長を含めて3人(署の過半数の人数だ)のおまわりさんが護衛を仰せつかったそう。もっともテロやらデモやらの心配をしてではない。おおかた、儀仗兵の役どころを期待して、だったのだろう。

 大使は、同国人の戦没者慰霊のために、この辺鄙な町まで来るのである。

 町内北浦地区へのアクセス道路、通称ブルーラインの入り口に、崎山公園という見晴らしのせいい高台がある。カナダ人飛行士グレイ大尉を記念した石碑は、この公園奥、海が一面眼下に広がる場所に、つつましく建っていた。女川は、太平洋戦争末期、ほんとうに一時期のことだが、軍港だったことがある。大尉は終戦直前の八月九日、艦載機編隊を率いて湾内停泊中の日本帝国海軍艦艇を攻撃、しかし被弾墜落して戦死した。第二次世界大戦中最後のカナダ人戦死者ということで、平成元年記念碑が完成、追悼式が行われているとのこと。この大尉の妹さんというひとが、もうたいへん高齢なのにもかかわらず、欠かさず慰霊祭に出席するそう。

 町内外の事件と言えば、酔っ払い運転か夫婦喧嘩の仲裁か、はたまた認知症の徘徊老人探しか、うんざりするほど田舎の日常茶飯事のルーティンな中、このカナダ大使の件は新鮮に映ったらしい。これを機に、女川の歴史を少し勉強してみたい、というが署長訓話の締めだった。


 では、この三年ほどの間、女川町を訪問した、一番エライ人は?

 つい先だって、三月には英国ウィリアム王子が希望の鐘商店街に来ていた。こども獅子振りに頭を噛まれていた。二年前には安部総理が区画整理事業を査察した。広報『おながわ』によると、歴代総理大臣としては、初めての訪問とのこと。

 あらためていうまでもなく、あの津波のせいである。

 ちと的外れなのを承知で、感想を述べる。

 死者が、もっと言えば「意義のある死」が肩書きをついた人を呼び寄せる、という構図は変わってないのかな、とつくづく思う。無名の田舎町一般に通じる現象と言ってしまえば、それまでだけれど、「慰霊」「鎮魂」という文字ばかりが『おながわ』を飾っているのは、健全でない。

 死は、死者にとっては、たったひとつの意味しか持たない。

 この厳然たる事実に耐えがたい人間が「慰霊」に走り「鎮魂」に走り、果ては宗教に走ったりする……というのは、言いすぎか。生き残った人間がそれで救われ癒されればいいいのだけれど、現実問題、飄々、淡々と受け止めているひとが大半だったような気がする。日がな泣くかわりにガレキを片づけ、パチンコにいき、そして「あの日」のできごとを語り合う。そもそも漁師町であり、県内二番手の高齢化自治体、死はそんなに縁遠い存在ではないのだ。マスコミが切り取っていく点景をつないでいくと、今、自分が住んでいるのではないオナガワが浮かびあがってくるような気がする。

 津波の年の五月、ご近所だけど遠縁のおじいさんが亡くなった。震災で建物にヒビが入ったとかで、町内の葬儀業者・聖花園の斎場が使えず、自宅八畳敷の洋間に供物供花を並べただけの質素な葬式だった。

 仕事のあと、夕闇にまぎれて線香をあげにいくと、喪主である息子さんが、本家筋にあたるオジサンに説教を食らっていた。火葬を登米でやったのは仕方がないが、骨壷と位牌、遺影を飾っただけの白木のケチな祭壇では故人が浮かばれない、節約にもほどがあろう……しかし、喪主の反論も明快だった。震災のせいで町内はもとより石巻の葬儀社からもマトモな祭壇を借りられなかった。火葬の世話になった登米の農協に頼んでなんとか調達してもらったのがこの祭壇、しかも震災で立て込んでいて明後日には返却しなければならない。都合をつけるだけでも一苦労だったんだぞ……二時間粘って寿司を十五貫、日高見を二合ほどいただいて帰ってきたが、故人の話題といえば「なんとも間の悪いときに死んだもんだ」、この一点ばり。遺族一同、薄情なわけじゃない。単に、飄々、淡々としている。それだけだと思うのだ。


 エラい人の話は、このへんにしておこう。

 もちろん、あんまりエラくないひとも、今回はたくさん来町している。

 マスコミに野次馬、ボランティア。意外だったのは、大学教師の肩書きを持ったひとが、少なからず「来女」しているということ。私が直接会ったわけじゃない。軽トラのダッシュボードに積み上げられた名詞からの推察だ。ウチの親父は普段、名詞の交換なんぞと縁のないような生活をしている。当然、保管保存のイロハも知らない。もらったらもらいっぱなし、下駄代わりの車に置き忘れて……そのまま、だ。最初のうちは私自身の名詞ホルダーに片づけた。しばらくして、やめた。シャッフルしてみて、デザインにトランプのカードほどの差異もないことに気づいた。

 町の前・観光協会局長の三浦君(偶然にも同い年だ)にかつて出色の名詞をもらったことがある。台紙がくすんだ黄色なのだ。たとえは非常に悪いけれど、ウンチを連想させるような。観光協会指定というわけではなく、わざわざ自分で選定した色、とのこと。理由を問うと、(趣味が悪すぎて)他に誰も選ばないような色だから、と教えてもらった。観光協会の局長たるもの、どんな形にせよ、旅行業者等に名前と顔を覚えてもらうのが先決、そのためのアイテムだとかいう説明だった。粋に走って無個性になるより、無粋を極めて目立つほうがよい。デザインに惹かれての名詞コレクターというのがいるか知らないが、少なくとも、私は気にいった。

 そして、もう一枚。

 私の気をそそる名詞が、親父ではなく、直接自分の手元にきた。

 関西からきた、某大学のゼミグループを迎えたときだ。

 私の知人だと、予約の際に指名してきたので、出迎えのときに顔を出すことになったのだ。

 高校生くらいのスポーツ合宿のたぐいなら、駐車場に並んで挨拶等、集団行動をするのだけれど、いくら引率教師がいるといっても、さすが大学院生では、それはない。三々五々、普通の観光客のように玄関に吸い込まれていく。

 ホール代わりの食堂にいったん入ってもらい、宿帳を書いて下さいと頼んだ。トイレや風呂の案内もありますし、と先頭の男の子に声をかける。と、後ろから袖を引っ張り、誰かが私の注意を引く。振り向くと、毛色の変わった名詞を渡されたのだ。

 インクジェットプリンタ用のシートカードに手書きで書かれたそれは、ジェルインクがにじんで、せっかくの達筆がぼやけて見える。手渡ししてくれた大学院生は申し訳なさそうに言った。センセイは極最近、準教授から昇進したばかりで、印刷が間に合わなかったんですよ、と。

 いや、大丈夫、墨汁で書かれていようと、イカ墨で書かれていようと判読できますよ、と私は答えた。

 初めて見るけれど、同時に懐かしい名前が、横書きされていた。

 三船 地図子

 こうして、四半世紀という時を経て、ようやく物語は再開される。

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