前日譚 その9

 当初予想していた通り、日曜のモデルのお陰で、陸上部への参加に支障をきたすようになってきた。関西で開催されないときの西日本インカレはもともと参加自由だったけれど、丹後での駅伝応援、東京や京阪神での大学定期戦、新人戦と欠席遅刻が増えていく。短距離は十月で一応シーズンオフだったが、ベンチプレスひとつしにいくのにも、白い目で見られるようになった。

 一般に理工系の学部は、化学系、生物系、物理系の順に大変で、医学部のひとは二年の半ば、農芸化学や薬学・生化学の連中は三年になると練習に来なくなる。事情が事情だけに、皆、大目に見られていた。生活費学費を稼ぐというのは立派な名目だったと思うけれど、なぜか私には適用されない。たまにいくと、規格外に大きい我が大学のグラウンドが、余計大きく見える。陸上競技協会公認の普通のトラックは一周四百メートルだが、私たちのは五百メートルもあった。

 白眼視されればされるほど、この手の集まりはいきづらくなるものだ。

 年末を待たず、私は幽霊部員のひとりと化していた。

 学生の本分がありますから……陸上部と、地図子さんと、両方に同じ言い訳をしたが、どちらも耳を傾けてはくれなかった。特に、地図子さんはブラック企業の極みだった。

 なんであんなに鼻が利くのか、サボってもサボっても、連れ戻される。

 四条寺町界隈、東京の秋葉原に相当する電器屋街がある。日曜の雑踏にまぎれてシケ込めば、私がショーウインドーを覗き込む前に、地図子さんが待ち伏せしているという寸法だ。今は知らないけれど、当時ドスパラとかのパソコンショップは、八百屋や魚屋のようにドアなしだった。暑さ寒さが嫌いな地図子さんは「ジョーシンのほうにしなさいよ。待ち伏せ楽だから」とか、わけが分からない文句を垂れてきたものだ。京都のメインストリート、四条通りに面するほうでは、コスプレ関係の店もちらほらあった。買うつもりもないのに、地図子さんはその手の店に入るのが好きで、生半可なオタ知識を店員に披露しては、いちいち訂正を食らっていた。時には、修学旅行生溢れる新京極のほうを散策して、帰ることもある。三船さんを待たせてもいいのか……と私が咎めると、地図子さんは意地になって汁粉屋にはいり、ぜんざいを啜ったりするのだった。

 今思えば、あれはささやかなデートみたいなもの、だったのかもしれない。

 以前の宇都宮君なら、身悶えして「その役譲れ」と言ってきそうな案件だ。

 そう、以前の宇都宮君なら。

 もともと、この親友の横恋慕の手助けとして始まったものだけど、下鴨神社のモミジが紅葉し始める頃には、彼の恋心が微妙に揺れるようになっていた。

 三船さんが強敵だったから?

 断じてそんなことはない。

 私と同様、女っ気のカケラもなかったはずの宇都宮君が、熱烈なラブレターをもらうようになったのである。相手は弟の同級生、かつてトイレ覗きをしたおかっぱの女の子。この時点で、高校生になっていた。もちろん、宇都宮君の視点からすれば、「成長しすぎ」なくらい女性的になっていた。

 彼は、色々と迷っていた。

 ちょっかいを出して以前警察に補導されちゃった相手ではあるし、彼女の両親に面も割れている。「前科持ち」の身としては、ふつうに遠慮すべき相手か……それとも、彼女を傷つけた責任をとって、「男」になるべきか……つーか、れっきとしたロリコンからすれば、年齢的に既にアウトだしな……しかし、まあ、どんな幼女と交際しようとも、いずれ出るところは出て、引っ込むところは引っ込むようになるのだし……その他、その他。

 相談に乗ってくれと言われ、あまつさえラブレターの一部を見せてもらう。

 私は、喝破した。

 悩ムぽいんとガずれテルゾ。ズレマクットルっ。

 宇都宮君は悪びれず言った。

 ウラヤマシイカ。ウラヤマシーダロー。

 私は、天井を仰いで、天の配剤を呪った。

 コンナ男ノ、ドコガイインダロ。ろりこんナノニ。覗キ魔ナノニ。人ノおんなニ手ヲ出ソウトシテイルじごろナノニーッ。

 その後も、切々とラブレターはボロ下宿に届いた。

 夏休み前、実家に用事があって帰った際、とうとう宇都宮君は彼女に直接告白された。私は彼の第一の恋愛指南役のはずだったのだけれど、彼氏彼女の最初のデートは、結局事後報告だった。

 京都市内にはデートスポットなど腐るほどあるけれど、人目を避けて大阪はアメリカ村である。日本橋のオタロードにちょいと寄り道したあと、大阪城公園で「いいムード」になったそうだが、それがいけなかった。どこからか尾行していた宇都宮君の弟さんが、彼女の両親に「チクって」しまったとのこと。事が事だけに、両家合同の緊急集会が開催された。父親から往復ビンタをもらう宇都宮君を必死でかばったのは、ほかならぬオカッパの彼女だった。

 宇都宮君を処罰するなら、私も一緒に……。

 オカッパ少女があくまで頑張るのを見て、今度は宇都宮君の弟さんが泣き出した。そう、弟さんはオカッパ少女に恋していたのである。かくして、兄弟骨肉の争いがらみの三角関係が始まり、地図子さんどころではなくなっていく。

 スッタモンダの末、オカッパの彼女は宇都宮君とちゃんと交際することになるのだけれど、それはまた別の話。物語のこの時点では、弟さんと「冷戦」が始まり、日曜祝日のたびにやってくる「押しかけ女房」にてんてこ舞いになっていた。ちなみに宇都宮君の当時の実家は奈良・大和郡山市で、自宅通学はチトきつい距離にある。グリムやアンデルセンの童話じゃないけれど、遠距離なんてヘッタクレと通いつめる彼女の恋心というか執念(?)はたいしたものだった、と今になって思う。

 ふつうの男なら、満足の極み、ではなかろうか。

 しかし、宇都宮君は、ふつうじゃなかった。

 真性のロリコンなのだ。

 彼の懊悩は贅沢極まるものだった。

 彼女が、地図子さんみたいな童顔ペッタンコだったらなあ……。

 大真面目な相談だったからこそ、つきあいきれない気分になったものだ。

 彼女ノ前デハ絶対イウナヨ。

 私はしっかり釘を刺したつもりだが、宇都宮君はボヤキを止めなかった。

 私の下宿の連中は、私も含めて彼女なんていたことのない人間ばかりだったから、それはそれは「深刻な悩み」と、からかい半分に観察していたものだ。

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