前日譚 その7

 地図子さんの彼氏は、婚約者の彼女に輪をかけて、非常識なひとだった。

 カラッと晴れた日曜の午後、初対面の挨拶もそうそう、私のパンツとズボンを脱がそうとするのである。

 ちょっと待ってくださいよ……私があれこれ抵抗すると、彼のほうも私の足元にしゃがみこみ、ベルトに食いついてくる。

 彼曰く「時間給で払っているのだから、一分一秒が惜しい。私が脱ぐのを手伝ってあげよう」。

「支度の時間の賃金は要りません」言い切らないうちに、私は下半身裸にされてしまう。

 もじもじしていると、機関銃のように言葉が襲ってきた。

「ヌードモデルが、何を恥ずかしがる?」

「しかも観客はチズちゃんと僕だけじゃないか」

「安心しろ。僕もすぐに脱ぐぞ。フルチン・ブラザーズだ」

 本当に手早くパンツをズボンを脱ぐと、そそくさ、私の隣に並ぶ。

「チズちゃん。記念に一枚」

 はいっと威勢よく返事をして、地図子さんがパチリとシャッターを切った。

 全裸ならともかく、Tシャツに靴下だけの姿は、なんとも情けなかった。

「それを言うなら、僕のほうはもっと情けないだろ」

 彼氏のほうは、白いワイシャツにペイズリーの刺繍が入った紺のネクタイ姿である。

「それに、男の価値は上半身で決まるんではない」

 下半身は、私同様、つるつるに剃毛されていた。

 私はおそるおそる聞いたものだ。

「地図子さんにいわれて、剃ったんですか?」

「自分の意思で。銭湯で注目されるっていうのは、いい気分だよな、君」

 もちろん、私と違い、風呂のついてない下宿屋にいるわけではない。見せびらかすためにわざわざ銭湯通いをすると聞いて、頭痛がする思いだった。

 さて。

 ここいらで、ちゃんと、彼氏、三船さんのことを紹介しておこうと思う。

 三船さんは、地図子さんにお似合いの彼氏で、事前情報通り、ひょろひょろにやせていた。初めての出会いのときから、ガレージに姿を現すときは、常にスーツ姿だった。いつでもアルバイト帰りかと尋ねると、地図子さんの趣味だという。なるほど、どうりで似合わない。山高帽が似合いそうなダブルを着ていても、シカゴのギャングよりはチャップリンを思わせる貧相さだった。

「僕がチズちゃんの趣味に合わせるように、チズちゃんも僕の趣味に合わせてくれてもいいんだが」

「どういうことです?」

「君、チズちゃんのセーラー服姿を見たくないか? いまどきの女子高生みたいな、超ミニスカのヤツ」

「彼女、でも、大阪のひとでしょう」

 兵庫と並んで例外的に学生のスカートが長い地域、である。そもそもはきなれていないのでは、と思う。けれど、三船さんは私の反駁を聞いていなかった。

「どうしても、見たいんだよお」

 ダダをこねる子ども、そのものだ。

 私がのち、三船さんのリクエストを伝えると、地図子さんは「ガレージでの撮影会限定」で、本当にセーラー服を着てくれた。けれど、目の保養、と喜んだのは三船さんだけである。「自分ひとりだけでは恥ずかしいから」と彼女が女子高生コスプレをした日には、彼氏もおそろいのセーラー服を強要された。最初は嫌がっていた三船さんだが、のち、地図子さんが止めても女装するようになる。嬉しさも中くらいなりオラが夏、と私は小林一茶ばりに嘆くことになる……。

 もっとも、彼氏の女装が、ドラッグクイーンなみに異形だったということではない。

 三船さんはちょうど三十になったくらいの歳で、二十歳にならんとしている私からは、たいそう大人に見えた。七三に分けた頭の下には、弥勒菩薩とか観音菩薩とか、仏像のようなツルんとした優男の顔があった。一重まぶたの眼はいつもどこか眠そうで、半分しか見開かれていないような印象だった。時に、眠たげな細い目が、カッと見開く。四角い黒縁眼鏡が、キラリと光る。虚無僧とか雲水とか、その手の悟道者然たる口調で意見表明する。

 曰く。

「君、脇の下も剃りたまえ」

「稲垣足穂の著作は我がバイブルだよ。オトコの尻穴の中には、宇宙のすべてがある」

「俗世間には、僕の裸体美が理解できんのだ。もう五度もヌードモデルの仕事にチャレンジしたが、ことごとく断られておる」

「お陰で、収入らしい収入がない。親が定年退職して、スネカジリもできなくなったしな」

「夏目漱石のいう高等遊民、というのが、僕の偽らざる身分だ」

「要するに、アレだ。チズちゃんにお小遣いやらお手当をもらって、生計を立てておる」

「火宅のストリッパーと呼んでくれ」

 ……ダメだ、このひと。

 第一印象は、最悪だった。

 もっと言うなら、第ニ印象、第三印象……第n印象まで、全然良くなかった。

 三船さんは典型的な内弁慶だった。

 私や地図子さんの前では大言壮語するが、漫画サークルMの面々の前では、借りてきた猫みたいにおとなしい。地図子さんの知人の紹介でタウン誌記者のアルバイトもしたが、人見知りが激しくて使い物にならなかった。学習塾の講師は、声が小さく質問にはっきり答えてくれないということで、クビになったという。

 平成の今なら、便所でひとり昼飯を食べるようなタイプ。

 昭和の雰囲気が色濃く残っていたあの頃だからこそ、地図子さんという「女王様」を得たのではと思う。

 思えば、のどかな時代だった。

 さて、最初の「記念撮影」終了後、私はぶしつけながら、尋ねた。

「……地図子さん、こんなひとの、どこがいいんです?」

 ヘタレなヘンタイに加えて、いまだに就職が決まらない甲斐性なしなのに。

 地図子さんの返答は、ある意味予想の範囲だったかもしれない。

「あら。ヘタレのヘンタイで、しかも甲斐性なしだから、いいんじゃない」

 内弁慶で、二人っきりのときだけちょっぴりサディスティックになる「準」ヒモ男というのは、貴重品だ、と地図子さんは言い切った。

「犬猫に比べたら、だいぶ衛生的なペット、かな」

 三船さんが、腰に手を回して、言う。

「君。本人がいる前で、ずいぶんズケズケと言うな」

「言いますよ」

 うっすらとだが、お互いの脚に汗をかいており、ぴたっとくっつくたび、背筋に悪寒が走る。お互いツルツルの下半身のはずなのに、男くささがぷーんと匂ってくる。

 私は地図子さんに抗議をした。

「この人がいれば、写真モデルはいらないでしょう」

「被写体二人のカラミを撮影したいんだよ、ボクは」

「だったら、他のひとを探してください。こんなホモホモしいひととは、カラめません」

 本音は写真モデルの仕事自体がイヤだったからなのだけれど、三船さんは別の受け取り方をしたようだ。

「ノンケっぽいタイプならいいなんて……君、通だな」

「もう、帰ります」

 しかし三船さんは私を離さなかった。

「気に入ったよ、君。チズちゃんに、一緒にシゴかれる奴隷仲間を、待っていたんだ」

 どうして、そうなる?

「さっきの悪口の対価に、僕も一緒になって君をセめるから、そのつもりで」

 私は、モデルをしにきたんじゃ、なかったのか?

「チズちゃんには、ていのいいオモチャが見つかったから、一緒に遊びましょうって、誘われたんだがな」

 私は、依頼主に確認する。

「ホントですか?」

「ウソに決まってるでしょ。でも、ウソなんだけど、シゴいちゃうかな」

 私はモデルをしに来たんじゃなかったのか?

「だから、モデルの仕事をしてよ。ネクタイそのままで三船さんのワイシャツを脱がして、おっぱい揉んで」

 つくづく後悔した瞬間だった。

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