前日譚 その6
大学対抗戦で札幌から帰ってきたばかりの七月、アルバイトの曜日の変更を、言いつかった。
地図子さんに、珍しく、塩らしく、頼まれた。
「今度から、日曜日もお願い」
それは困ります……と、私は一度は断った。
時折開催される記録会、選手として出なくとも、走路員や審判員として借り出されるときがある。インカレ関係の公式戦は参加必須であり、休日こそ外せない用事が多い……。
私は折衷案を出す。
週一度二時間で足りぬのなら、四時間に延長してくれ。
「木曜は、これまで通り、デッサンにあてる。日曜には、写真の被写体になってほしい」
地図子さんは、がんとして譲らなかった。
絵として残るならまだしも、写真は勘弁……と私がやんわり拒否しても、やはり譲らないのだった。
わが朋友宇都宮君が、地図子さんに輪をかけて強硬だった。
なんでも三条河原町に一緒に画材を買いにいく、という擬似デートでつられたらしい。女の友情は紙より薄いというが、男の友情だってオブラートなみに頼りない、という例である。
デッサン参加者のほとんどが、Tシャツにジーンズだのスカートだのを合わせている中、地図子さんだけが、この日はワンピース姿だった。幼稚園児のスモッグを思わせる、丈の短い水色、ご丁寧に黄色い安全帽……ならぬ、ベレー帽姿。上目遣いに、宇都宮君のTシャツの裾をひく。いい年して、そんな子どもじみた「おねだり」の仕方はなかろう、恥を知れ……と思ったが、宇都宮君にはばっちり効いていたわけだ。
いつものクロッキー後、しつこく、再び、説得された。
地図子さんが、私を拝むようにして、相変わらずの男言葉で言う。
「頼むよ。君の『おもちゃ』は極力写さない」
デッサン会に参加しないフィアンセが、写真撮影会に参加するらしい。
「一度、会ってみたくはないか?」
はっきり言って、どっちでもよかった。
こちらが聞きもしないのに、カメラはライカの一眼レフで……と地図子さんはいらん情報を垂れ流してくる。
私は、親バレ、部バレが怖かった。
今のように、誰もがインターネットをやっていた時代ではなかったが、流出の恐れは十二分にある。
私は時間稼ぎに、話をそらせた。
「女性のモデルは、参加します?」
ガレージでのヌードデッサン会には、時折女性のヌードモデルも参加していた。
私と曜日・時間帯が重ならない日程で、二週に一度ずつ、開催されていたらしい。男女比、七対三ほどのこのサークルの面々が、嫌がらずに私の裸を写生しにきた理由のひとつである。要するに、妙齢の女性のハダカをナマで拝みたかったら、セットで私裸体を鑑賞すべし、という決まりだったのだ。
梅雨空がようやく明けたのに、また曇天という薄暗い天気の日、私はこの女性モデルに初めて会った。夏至直後の午後四時だというのに、すでにガレージの中は薄暗く、宇都宮君がニ、三人の男衆を促して、スタンド付きの撮影用ライトを引っ張りだしてきた。うっすらとかぶったホコリを払うと、明るいというより熱いくらいの光源だった。
私は自分と同じような大学生を期待してたのだけれど、女性は自称「三十五歳」のおばさんだった。ぽっちゃりというにはあまりにも小太りで、「肉付き」の描写練習にはいいかもしれないけれど、色気がさっぱりない。もちろん私はそんな不埒な感想をおくびにも出さず、神妙に「先輩」の仕事ぶりを拝見したわけなのだけれど。
地図子さんが命ずるまま、二人で一緒にポーズをとる。
そう、群像を描くのが目的で、二人同時に呼ばれたのだ。
年季が入っているだけあって、ポーズ中は彫像のように動かない。見事だ。私はこの先輩モデルに、敬意を抱いた。休憩中、私のツルツルの股間に興味を抱いたようだが、それをからかったりもしなかった。私の敬意はいや増した。絵画等のモデルというのは、運動部でやっている練習とはまた別の意味で重労働である。間接が痛い、筋肉が張るという彼女に頼まれ、仕事のあと、膝と腰を少しマッサージした。スポーツ選手は要領がいいと褒めてもらった。
私の脳はピクリとも反応しなかったはずなのだけれど……この漫画サークルの業界用語でいう「おもちゃ」が、知らず、豪快にそそりたっていた。
まあまあ、若いのねえ。
私に腰を揉ませたまま、彼女は続けた。
私のお尻が魅力的なのは認めるけど、それじゃモデル失格よ。芸術に貢献する崇高な仕事なんだか、不埒な考えを起こしちゃダメ。私は他の男性モデルの全裸に興奮したことなんて一度もないわよ、もっとも見るより見せびらかすほうが好きなんだけどね。
「いわゆる、露出趣味?」
まあね。天職につけてホントに良かったわよ。モデル会社の同僚は旦那さんとのプレイの最中、警察を呼ばれてこっぴどく叱られたって話。深泥池の公園とか鞍馬山の登山道とかの陰でやっているうちはよかったんだけどさ、よりによって岩倉実相院の中でやったんだって。あそこ、拝観料は高いし見るトコほとんどないんだけど、前面に面した渡り廊下にちょうどいい死角があんのよ。しょっちゅうチューしてるカップルに出くわすんだけど、その手の利用者に通報されちゃったって話。証拠としてフィルムも押収されて、それからよね、ウチのモデル会社に来たのは。彼女の性癖に理解ある旦那さんがいて、うらやましかったわ。今? 警察にお世話になったとき前の会社クビになったから、夫婦でヌードモデルしてる。ウチじゃ美大上がりの同僚が多いから、異端よね……。
自称三十五歳が本当はアラフィフで、露出プレイ中の逮捕話が、本人の実体験と教えてもらったのは、ずっと後になってからのことである。
ともあれ。
彼女は延々、だべり続けたものだ。
助け舟を出してくれたのは、地図子さんである。
例によってからかわれると思いきや、彼女はいやに物分りがよかったものだ。
曰く。
アメリカ西海岸や北欧南欧のヌーディスト村、ヌーディストビーチなんぞでは、この手の生理現象は大目に見られているとのこと。「だから、彼のことも、大目に見てやって」。しかし、私に釘を刺すのも、忘れない。「露出狂のヘンタイみたいに、露骨に見せつけてきたら、ちょん切ってやるからね」。
相変わらずマッパな私に、露出狂うんぬんと言われても……とそのときは思ったものだ。
後年、その区別が峻別できるようになる。
今ここで、長い長い前振りのあと語ろうとしているお話、ヌーディズムの物語のテーマにつながることだけれど、手っ取り早くいえば、露出狂には「視線に関する」ルールがない。
見せたい相手がいれば、本能のまま見せる、それだけのこと。
自分の裸体を見て、相手が興奮している想像して自分が興奮する……舌をかみそうになってしまうけれど、この手の「内気」なプロセスこそ、露出狂が脱ぎたがる動機なのだ。
軽蔑と愛憎の入り混じった視線こそ、露出狂の養分であり、視線の主を性的に興奮させるのは、究極の目的である。比較のためにあえて強調するけれど、私の考える「ヌーディスト」たちは、この手の作為、視線に対する過剰な思い入れがない。童話「裸の王様」の逸話ではないが、ヨコシマな心の持ち主には見えない衣服をまとっているかのように行動するはずなのだ……。
話が、だいぶ脱線してしまった。
「女性モデルは来るか?」という私の問いに、宇都宮君はかなりご立腹だった。
地図子さんのシモベとして、新たな用をいいつかるという栄に浴すのだから、私は無条件の二つ返事で承諾すべきだというのである。
そもそもは君の横恋慕の手助けじゃないか……私は呆れた。
一回目ノ報酬ハ払ッタダロウ。
宇都宮君が言っているのは、中学三年から蒐集しているという秘蔵コレクションの一部を贈呈してくれたことである。
ロリコンというのは、どうしてこう、同志的連帯が好きなんだろう。
しかし、何度も繰り返すが、私にはもともとその手の性癖がないのだ。
地図子さんが、私たちの間に割って入った。
「揉め事は、パンツをはいてからにしろ」
日焼けがひどくて、いったんシャツを脱ぐと再び着るのがつらいんです、ちょっとカラダの火照りを冷ましてから……と私は返事をした。
実際、京都の日射の強さに悩まされていた。が、それは口実で、ここでしっかり宇都宮君を諌めてやろうという気分だったのだ。
「いいから」
地図子さんが、私の背中を文字通り押して、言う。
「特別、手伝ってやろう」
そのまま、アトリエの準備室兼モデルの控え室についてきた。物欲しげな宇都宮君を締め出す。二人きりだ。意味深な表情で、ぐいーっと背伸びをすると、私に耳打ちしてくる。「オンナのモデルがいれば、写真撮影に来るのか?」
いや、まあ……私があいまいに返事すると、地図子さんはきっぱり言った。
「ボクが、脱ぐ」
羊頭狗肉、というコトワザがある。パンツを脱ぐ、と言っておきながら、靴下一枚とって終わり、というやり方だ。
「いや、本当に脱ぐぞ。ボクの彼氏、カメラマニアで、ボクを撮影するのが、ホントウに好きなのだ」
健全に不純異性交遊している男子なら、そういうのはイヤがるのでは?
つまり、一対一なら彼女を脱がせるのもやぶさかでなくとも、他の男に恋人の裸体を晒すのは、イヤなのでは?
「ボクの彼氏は、頭のネジがニ、三本、外れているのだ」
驚かない私に、地図子さんがめいっぱい不機嫌な顔を見せる。
「なんだ、不満か?」
「いえ」
私は、ロリコンではありません。
確か、そんなような意味のことを、婉曲に伝えた。
「分かってる、分かってる。どっかの誰かさんみたいに、オレは貧乳好きなんです、とか言うんだろ」
「違いますよ」
そもそも尻フェチなんで、胸には興味ありません……色々と反論したが、地図子さんは全然聞いちゃいなかった。
興に乗ったら、地図子さんの彼氏自身が「被写体になりたい」と言い出すかもしれないが、そのときはシャッターを押したり、違った意味での助手を頼む……とダメ押しされた。
「ボクの彼氏、なかなかそそる男子だぞ」
「オトコのカラダには、興味ないんですが」
「そうかな?」
再び意味深に地図子さんは笑い、私の写真モデルの件は本決まりになった。
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