前日譚 その4

 二十数年後の今も、私がヌードモデルを務めた漫画サークルは存続している。

 実名を出すのははばかられるので、仮に「M」と呼んでおこう。

 Mの画材置場兼編集室兼アトリエは、下鴨神社裏手のゴチャゴチャした住宅地の中にあった。

 もとはマイクロバスを入れていたガレージで、近所のお寺さんに長い間貸し出されていたそう。葬儀法事その他にと活躍していたそのバスも、地下鉄烏丸線の開通や、一家に一台のマイカーブームに押されて、だいぶ前にお払い箱になったとのこと。

「現役ガレージだったころは檀家役員をやっていた伯父のもの、その後は父のもの、そして今はボクのもの」というのが、地図子さんの弁。

 お金持ちなんですね……私が水を向けると、地図子さんは否定も肯定もせず、「父は歯医者、母は小学校の教頭だ」と言った。

 もっとも、地図子さんに教えられなければ、ここが元はガレージだったとは、気づかなかったと思う。出入り口こそ車庫や倉庫に似つかわしいシャッター式だったけれど、床はフローリングで、左右の壁はコンクリートの打ちっぱなし。サークルの人に聞くと、完璧に改装したのは一昨年のことで、以前はベニヤ板のような化粧壁に畳敷きだったとのこと。ちなみに、コンクリ打ちっぱなしの内装はフェイクで、これもやはり化粧壁という話だった。四メートルは越えるかという丈の高い天井だけが、車庫時代そのまんまの無骨な鉄筋を見せていた。

 夏は涼しいけれど、冬は寒い。

「でも、床が冷たくなるまで、アンタがモデルをしているか、わかんないけどね」

 地図子さんのナゾかけの意味が分からず、宇都宮君に尋ねる。

 私が「抜擢」される前に男性ヌードモデルが三人いて、二人は地図子さんに辞めさせられ、一人は怒って自分から「職場放棄」した、という。

「その、怒って、職場放棄したっつーのは?」

「聞かなかったことにしてくれ」

 傍若無人に服を着せたような主催者の前では、奥歯にモノが挟まったようなモノ言いしか、できないらしい。

 コンナ女ノ、ドコガイインジャッ。

 私は声なき声で、宇都宮君をなじったものだ。

 君ガろりこんノ気ガアルノハ知ッテイタガ、まぞ趣味モアルトハ、知ラナンダ。

 宇都宮君は、憤然として、しかしやはり声なき声で、反論してきた。

 ソレガ、イインジャナイカ。彼女ヲげっとシタ暁ニハ、旧型すくーる水着ヲ着セテ、顔カラ股間カラ、踏ンヅケテモライタイモンダ。

 わが友は、重症の恋の病に陥っているらしかった。

 真相の一端を漏らしてくれたのは、私の男性フェロモンを堪能した、ポニーテールの彼女である。

「ええっと……自分から辞めていったのは、毛剃りを拒否したひとです」

 納得した。

 てか、前任者二人は、黙々とパイチンに甘んじたのか。

「それから……辞めさせられたのは、おもちゃの性能がイマイチだったからで……」

 おもちゃ?

「はい。地図子さんが決めた、この漫画サークルの業界用語です。男性の股間に生えている、アレ。普通の女性にとってはハシタナイので、伏字にしたほうがいい部分のことです」

 ハシタナイって、アンタ……さっき、一生懸命、におい嗅いでたじゃんっ。

「隠語を使うにしても、もっと違う言い方があると思いますが……」

「私に文句をつけられても……それとも、モデルさん的には、ストレートにチンポ、とか言ったほうが、いいんですか?」

 眼鏡を直しながら、彼女は至極まじめな顔で言う。外見と言葉の落差に、私は愕然としたものだ。

 地図子さんがパンパンと拍手を打って、私たちのヒソヒソ話を終わらせた。

「業務開始」の前に、簡単なレクチャーがあった。

 美術史におけるヌードデッサンの役割、トルソを立体的に捉える方法、そして解剖学的にみて、どんなふうに筋肉を描写したら男性性の特徴となるか……その他、その他。

 サークルの面々へのおさらいであり、同時に私への初心者講習だ。

 さすがは、研究者を目指す美大生。

 おちゃらけたところは多少あっても、デッサン講師を自認するだけはある。

 感心する私に、ポニーテールの彼女が「地図子さんが目指しているのは、美術館のキュレーターですよ」と、蛇足ぎみの訂正をしてくれた……。

 地図子さんは、モデルとしての基礎も、噛んで砕くように教えてくれた。

 十五分を単位としてのポージング。時間中、身体を動かさないようにするコツ。そして、普段の身体の手入れの仕方。

 二時間あまりのアルバイト時間は、瞬く間に過ぎた。

 久しぶりに十分以上地図子さんと会話できた、と宇都宮君がすこぶるご機嫌で日当をくれた。

 私について、根堀り葉堀り聞かれたらしい。

 帰りには、高野でラーメンまでおごってくれた。

 地図子さんとの親密な時間を増やすべく、私のプライベートに関して、今まで以上に情報収集していった。 

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