十倍薬
エヌ氏は睡眠不足に悩まされていた。それというのも不眠症ではなく単純に時間がないという現代人にありがちな理由だ。寝る時間が少ないと物覚えが悪くなったり、集中力が低くなったり、気だるいなどの症状が現れて仕事にも身が入らず、勤務時間が長くなり、さらに睡眠時間が削られるという悪循環になってしまう。ある日、ますます体調が悪くなっていくエヌ氏のもとに一風変わったセールスマンがやってきた。
「こちらに睡眠不足でお悩みの方がいると聞いてやってまいりました」
と言いながらセールスマンは丁寧なお辞儀をした。
「どうせ、睡眠薬を売ってくるんだろう。こっちは寝つきが悪いんじゃなくて時間がないから睡眠不足なんだ。お前と話す時間を睡眠に充てたいぐらいにな。さあ、帰った、帰った」
そう言うエヌ氏の声はとても疲れていた。
「いえいえ、私どもが売らせていただいているのは睡眠導入剤ではございません」
「じゃあ、何を売りに来たんだ?」
「代謝促進剤とでも申しましょうか、体の細胞が活性化し通常の10倍もの速さで活動します。それによりいつもだったらバテてしまうようなことも疲れを感じずにこなすことができます」
「それと睡眠不足に何の関係がある?」
「疲労物質を排出する速度や細胞の損傷を回復する速度が10倍になるため、睡眠時間が10分の1で済んでしまいます。それだけでなく体の細胞が生き生きとし健康になるため睡眠の質も上がります」
「ほう、それはすごい。では一つ買ってみようか」
「お買い上げありがとうございます」とセールスマンはまた丁寧なお辞儀をした。
そして簡単に薬の注意だけ教え帰っていった。
セールスマンが帰った後エヌ氏はその薬の効果が気になりさっそく飲んでみた。
「特に変わった気はしないな、とりあえず昼寝でもして目が覚めたら仕事でもしよう」
エヌ氏は日ごろの疲れを癒すべく深い眠りについた。
「うーん、よく寝た。こんなに良く寝たのは久しぶりだ」ふと時計を見ると一時間も経っていなかった。
「これはいい買い物をした。この薬を使えば時間を有効に使える」エヌ氏はうんうんと頷きその日から毎日薬を飲み続けた。
それから一年ほど経ち、またあのセールスマンがやって来た。
「おい、どういうことだ。あの薬を飲み始めてからやたら腹はすくし白髪は増えたし目はかすむ。これは薬の副作用じゃないかね」
エヌ氏はすごい剣幕でセールスマンに詰め寄ったがセールスマンは顔色一つ変えず笑顔のまま答えた。
「いえいえ、そんなことはございませんよ」
「しかし現にここ一年で一気に体がおかしくなったんだ」
「それは老いでございます」
「だがこんな急に老けるなんてまるで病気だ」
「ですから前申し上げた通り、細胞の代謝を活発にさせているんです。その分細胞単位で時間を密に過ごしているのですよ。つまり得る時間も多ければ失う時間も多いということです」
「それでは私は生き急いでいるみたいじゃないか」エヌ氏の声は掠れていた。
「そんなお客様にお勧めの商品がございます」サラリーマンはカバンからまた薬を出して一年前と同じように話し始めた。
「これは代謝抑制剤と言って細胞の代謝にかかる時間を十倍にすることで老いる速度を十分の一にするというもので……
ショートショート集 久山 渡 @Wataru-Hisayama
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ショートショート集の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます