わたしの万死一生をあなたへ。

枕くま。

第1話 頭の中の一億人をふり切って、果てへ。

『 叩きつけられてゐる 丁

  叩きつけられてゐる 丁

藻でまっくらな 丁丁丁

塩の海  丁丁丁丁丁

    熱  丁丁丁丁丁

    熱 熱   丁丁丁

      (尊々殺々殺

       殺々尊々々

       尊々殺々殺

       殺々尊々尊)

ゲニイめたうとう本音を出した

やってみろ   丁丁丁

きさまなんかにまけるかよ 』

(丁丁丁丁丁/宮沢賢治)


■ 1.


『私はもう生きていけません』『死にます』『今まで迷惑ばっかりかけてごめんね?』『バイなら』


 デスクに着いて、さぁ仕事に取り掛かろうかと勢い付けた瞬間、ポケットのスマホが鳴って、見ると彼女からのLINEだった。僕はすぐに上司に申し訳なさそうな顔して「すみません、あの、祖母が危篤らしくてすぐに帰らねばならないんです」と方便を使うと、「テメエのババアは三人もいるのか? あ?」とすごまれて、ああ、これもう三回目の嘘なのかと僕はすっと冷静になった。


 そう、方便でなく、やっぱり嘘なのだ。


 僕は足りない頭脳にずんずん血液を送り込むイメージを逞しくして、以下の言葉を操って上司を説き伏せた。


「はい、実はそうなんです。僕には祖母は三人いるんです。と云うのも、僕の両親は駈落ち同然に結婚したんですけど、急に冷めて僕を産んだ後に離婚して消息を断って、僕は施設に入って、そこで新しい里親が見つかったんです。その家は女性とお婆さんの二人暮らしで、他に身寄りもない人達で、でも子供が好きな人たちだったんです。僕はそこで十八まで過ごしました。それからバイトして溜めた金で大学行ったりしました。それで、僕にとってはその二人こそ本当の家族なんですけど、僕が大学二年くらいに、いなくなった両親が涙ながらにやって来て、『私達が悪かった』って頭を下げて来て、まあ僕も僕を産んだ人達だから、しょうがなく許して、それからその二人と暮らすことになって、時間が経つ毎に本心から許すようになったのです。もちろん葛藤はありました、えぇ、ありましたとも。はい、つまり、僕には祖母が三人いると云うことになります。納得して頂けましたか?」


 上司は神妙な顔つきでしばらく考え込んでから、「お前も大変だったんだなあ」とこぼした。めんどうくさくなったのかもしれない。


 僕は内心でほっと一息。まさか、これまでに嘘とは云え複数のババアを亡き者にしていたとは驚きだった。いちいち数を数えていた上司にも驚きだ。他人のババアの数ってそんな気になるものなの? まあ、嘘ついてる僕がいるんだから、そりゃ数えてた方がいいだろうけど。上司は未だ神妙な顔。まぁそうそう信じられたものでもないよなって思いながら、ついでに彼のネクタイをチェック。上司は曜日でネクタイの柄を変えることを習慣付けていた。その意図は不明。で、今日は青か。じゃあ水曜日だな。そんだけ。


 それから、さっさと帰り支度を整えて、周りにすみませぇ~んとか云って回りながら職場を出ようとすると、上司がとぼけたようにこう云った。


「ところで、今、危篤なのはどこのババアなの?」

「僕を産んだ母方のババアです」


 これも覚えておかなければ。上司の中では僕の祖母は三人いて、そのうち二人は死んだ。今危篤なのは僕を産んだ母方の祖母。これも峠を越えて持ち直したことにすれば、後数回使えるな。それで、母親は二人。父は一人。よし。


■ 2.


 会社を出ると、冬の冷たい風が吹いて、僕は同調するように大きく溜め息をついた。口から流れ出た白い息が、さらわれて溶けて消えてなくなった。

 上着のポケットからスマホを出して、彼女に連絡。


『今、会社出たから。すぐに帰るよ。だから死なないでね』


 送信。

 よし。さらに、さっきでっち上げた僕の家族構成と亡くなった人間の数をアプリのメモ帳に記しておく。何もかも万全だ。後は、彼女が死なないでくれればオールオッケー。


 僕と彼女は大学の時に出会った。当時から『この世は地獄です、私はいつでも死ねますよ? きみは死ねないの? はっ、なんも判ってねえなオーラ』を醸し出したクッソヤバい女だった。自分はちょっと特別で、あらゆるものに感じやすくて、物が判ってやっぱ特別なんですって感じだけど、やってることはその辺に転がってる病んだ馬鹿女とおんなじだった。


 リスカが日課で眠剤がおやつで感情はマリアナ海溝とエベレストを行ったり来たりってなもんだ。唯一、SNSで病みポエムを発信しないことが個性と云えば個性か。やってもないことを個性として評価するなんて、後ろ向きでどうにもインチキ臭い感じだけど。

 それでも僕と付き合っているので、僕にとっては唯一無二だし当たり前に死んで欲しくない。死ぬと云われれば様子を見に行くし会社も休むし友達関係もばっさばっさ切っていく。だって、死んで欲しくないもの。


 たとえばこれが全然知らない女で、そいつが急に目の前で「私死にます!」と叫んだとしても、僕は「どうぞどうぞ」って感じだろう。まぁ人に迷惑がかかるし、僕も一市民として心ない説得をするかもしれない。それでも、心ないのだ。もし「死んでもしょうがないっすよ。この先どんどん生きまっしょい!」とか僕が云って、うわーんと泣かれでもしたら、僕はその女の鼓膜を破って目玉を潰して舌を引っこ抜くかもしれない。そんなに馬鹿だから、死にたいとか思うんだ。相手の心の在り処も判んないから、とりあえずで簡単に信用してしまうんだ。でも、それが彼女だったら全然オッケー。いくらでも信じて欲しいし、僕のために泣いてくれたら僕も泣く。そう云うもんでしょ?


 そう云うもんです。


 僕はタクシーでも拾おうかなと思ったけど、走ってくる気配もないし、交通量がそもそも少ない。どうすっぺかなーとか思いながら歩いていると、スマホがぶるる。画面を見ると、こうあった。


『あ、帰って来る時にポカリ買ってきて』


 彼女からのLINEだった。


 え? ポカリ?


 僕は思わず立ち止ってしまう。なんで今ポカリ? すぐ死ぬ感じだったじゃん。それとも死ぬ前にふと飲みたくなったのだろうか。そう云うこともあるだろう。それにしたって今際の際にする贅沢にしては庶民的過ぎる。え? 死ぬ気ないの? と思うけど、僕はそれなら安心して帰ることが出来る。


 狂乱して暴れ回る彼女に引っ掻かれたり噛みつかれたり殴られたりしながら抱き締めて、死なないで死なないでと宥めすかさなくていいもの。暴れ馬を静めるような恐々とした思いをしなくて済むもの。彼女の大暴れはアバラ骨の一本や二本は捧げる覚悟がいるのだ。今回はセーフ。それにしても急だ。現状、文章で取り合う連絡手段の中でも最速らしいLINEだぞ。会社から出て来て五分だぞ。嘘の中の危篤のババアも苦しみ損だよ。

 まぁ存在しないババアには存分に苦しんでもらうとして、僕は釈然としないままコンビニに入り、ポカリを買った。


 コンビニから出る時に、またしてもスマホがぶるるる。


『ごめーん、ついでに納豆も買って来て~よろ♪』


 ポカリに納豆? 最悪の食い合わせの一つとの噂。リアル雑巾の臭いが半端ないらしいけど、なにその最低な最期の晩餐。つまりやっぱ死ぬ気はあんまりないっぽい。あぁ良かった良かった! って気持ちもあるけど、それよりもなんで今なんだろうってことの方が気になる。なんで自分から死にますよって連絡してすぐにそう云うことが頼めるんだろう? 信頼されているのかなとも思う。僕なら、彼女のバミューダ海域染みた不可思議な心の気持ちのいいところを見付けてやって、日本海の荒波よりも激しい変化も宥めてくれるとか、そう云う信頼があるってことなのかもしれない。なるほど! でも、と云うことは初めから死ぬ気なんて全然なくて、僕に構って欲しくてついついそう云うこと云っちゃっただけってことが露呈してしまうけど。むしゃくしゃしてきたら、とりあえず「死にます!」って云っとけば僕がなんとかしてくれるって云う。そう云うアレ。


 うーん。まあでも、彼女にはでも移り気なところがあった。いつだったか、「私の誕生日、無理しなくてもいいよ。この際、吉野家とか牛丼でもいいから」って急に云われたことがあった。

「どうして?」と訊くと、好きな小説家の女性がそう云うタイプらしくて、それがなんか余裕があってカッコよく見えたからと云うのが発言の端々に滲んでいて微笑ましく思った。憧れて、そうあれかしと望むこと。それはとても尊いことだし、それがいつか本当になったらいいと僕も思う。でも、実際彼女の誕生日に吉野家に行こうと云ったら、不機嫌になってブチ切れて、部屋がほとんど半壊した。木製の固い扉にはやすやすと拳が突き抜けたし、床板も何箇所か踏み抜いていた。彼女がいれば、この世に他の兵器は要らないのではないかと思った。どこにそんな力を生む筋肉があるのだろう。彼女はとてもほっそりとして、一見すると散り際の花みたいな儚さすらあるのだ。

 これもそう云う感じの一つなのだろうか。でもなにか違うような気もする。そんなもにゃもにゃとした感覚に捉われながら納豆を買うのは初めてだった。ぬめぬめした納豆だから、うってつけかもしんないけど。

 店員の心ない(でもしょうがない)謝辞に送られながら、店を出る。


 ――――と、その時だった。


 唐突に男性の痛烈な叫び声が間近に轟いてつんのめる。は? なに事件? とか思ってる間に声はドップラー効果を発生させながら遠ざかっていくし、その声はどうも頭上から降り注いでくるくさい。え? なになに? そう思って空を見上げた。

 冬の真昼の空には、どんよりとした黒雲が立ち込めていて、そこからちらちらと白無垢の粉雪が降り注いでいて、それはまるで性行為の果てに産まれてくる純粋で可愛らしい子供達みたいで、そんな雪の降る空を知らない男達が飛び交っていた。

 えぇええ! と思って、僕は困惑と共に立ち尽くした。うわぁあああああああああ! とか、うぎゃああああああああああ! とか。一見するとコメディチックな様々な叫びが寒空を交差して、どちゃっと云う肉の落下する生々しい音に帰結していく。そしてすぐさま縦横から新しい男達が痛ましい悲鳴を上げながら空に舞い上がってそのまま地面にぐしゃり。響き渡る絶叫は鳴り止むことがない。

 怖っ! 伊藤潤二の世界じゃん。僕も急に空飛んでって電柱にぶつかったり通行人にぶつかったりして死ぬのかよと思った。それは軽々しくて、現実を現実と受け止めきれていない感じが自分でも判った。

 通行人達もふと立ち止まって、あちこちを飛び回る男達を見て、なにあれ? ヤバくない? とか云っている。それくらい見たら判れ。そのまま関係ないような顔して半笑いで死ねよクソ。とか思ってたらどこからか甲高い叫び。今度は女性が空に投げ出されている。僕はただただ見守る他なかった。だって僕には空が飛べないし、急降下してくる人間を受け止められるような異常な力もない。女性は地面に当たってあらゆる起伏がぺっしゃんこ。血溜まりと異臭と骨と肉。カラフルな衣服を突き破って、折れた骨の突端が湯気を上げてのぞいている。

 空中では、恐らくお互いにこれまで顔も見たこともなくて見たとしてもすぐに忘れていたような男女がぶつかり合って、咄嗟にぎゅっと抱き合って一緒に地面に落ちていく。ぐっちゃりぐちゃぐちゃ。そう云えば、もうすぐクリスマスだね、恋人の季節だねとか、どうしようもないことを考える。

 どうしようもないので、僕は仕方なく歩き出すことにした。

 頭上の喧騒に目を背けて、見慣れた冬の歩道を見つめ続けた。日常の平穏のありがたみを路上のあちこちに探して、見付けて、一歩一歩進む度に安堵する。

 空の上では強制的にカップルが成立して、太宰治よりも身勝手に勝手も知らずに心中していく。死にたくもないのに、死んでいく以上の身勝手がありますか? 死にたい彼女は、この光景をどう見るだろう? 日頃から「この惑星、大っ嫌い!」と発言していた彼女。セカイノオワリってバンドでしょ? って云ったら「ミッシェルの曲だよクソ馬鹿!」ってキレた彼女。いつもイヤホンをして、僕の知らないうるさい音楽に夢中な彼女は、そのバンド達が歌い、叫び、伝えようとする遮二無二の感情や感覚を、率直に受け止める彼女は、この光景を見て、笑うだろうか? そう思っていると僕も笑っていた。



ッバァン! 



 砲弾の直撃か地雷の炸裂か、それ系の戦場でしか聞けないようなレアくさい音、衝撃。

 むわり、ともうなんだか嗅ぎ慣れた匂い。立ち昇って空気を満たして、鼻を通ってむせる。

 なんだよもう! むせながら僕は怒っていた。

 初夏の日の心地良い昼下がりに田舎の坂道を自転車で気持ちよく走り降りていたら蚊柱に突っ込んで口ん中に入っちゃったような感じ。どうしてこうどこまでも人の気分を台無しにしてくれるんだろう? 超常現象だか怪奇現象だか殺人事件だかなんだか知らないけど、ともかく余所でやって欲しいんだ。こっちもそれほど暇じゃないんだよ! でも、神の目は牛乳瓶だからなぁとか考える。それで、なんの云い訳が立つのだかまるで意味不明だけど。で、血煙とか砂埃とかそう云う演出もなくそこにあったのは死体。僕の足先に、おじさんが落下した。

 おじさんの身体は弾けて、腰骨も背骨も折れて、身体は芋虫みたいに曲がりくねっていた。

 後頭部がなくなってぼろりと赤茶色い脳みそがシェイクされて散らばった。頬骨も何も砕けてしまって、顔の表情はなんだか泣き笑いみたい。楽しそうでいいじゃん。びっくり箱めいて飛び出した目玉は頬に流れて、神経の糸にぶら下がって、そよ風に吹かれてぷらぷら。

 落下の衝撃によって背面の皮膚が破けて赤とか黄とか白の体液が染み出していて、冬の寒さの下に湯気を上げて温かそうだった。そして、よくよく見ればそれは僕の上司だった。

 ぐにゃぐにゃの足先にぶら下がった趣味の悪い靴一つ。血に染まった白いワイシャツ。そして、曜日を表すけったくそなネクタイ。青い、水曜日のネクタイ。

 僕はなんの感情も抱けないまま、茫然と見降ろす他ない。僕の会社の上司が、今、冗談みたいに死んだ。さっきまで僕が必死になって云い訳を考えて、伝えようとした相手が、今、無残にも死んだ。僕が頑張った意味が、失われたのだ。

 そう何とか考えたけれど、僕はでも全国の会社員が常々思っているように、上司のムカつく頭をしっかりと踏み締めた。右足で、こう、ぎゅっと。

 それは九州に行ったらとりあえず地獄めぐりしなきゃとか、香川に行ったらうどん食べなきゃとか、なんだか感覚としたらそんなのに近かった。

 自分の行いにお腹の底がヒヤっとした。柔らかい肉の感触が、革靴の底から靴下をはさんで足の裏へと伝わる。うーん。次は両足、僕の体重により肉の潰れる音。うへぇ。それからさらに何かを確かめたくて、上司の上で二三足踏みをした。ぐちゃ。革靴とスーツの裾が赤色になる。ぐちゃぐちゃ。うん。それで、僕は何事もなかったかのように歩き出した。送る言葉は何一つとしてなかった。

 死んだ上司相手にホウレンソウもあったものか。

 

 歩く、歩く、歩く。


 それは次第に、速足に変わって、足は固いアスファルトをしっかりと踏み、その回転は早まっていく。そして、気が付くと僕は走り出していた。


■ 3.


 僕の頭の中には彼女だけがあった。

 ムカつく上司が死んだことには、せいせいもしないし、哀れにも思わない。誰が死んだって、その人達と僕との間に、何か深く共有する歴史がなければ、どうとも思いようがない。もし思ったとすれば、それは本心からでなく、僕等の頭の中に住む一億人を凝縮した存在、『常識さん』の考えだ。自分で考えたり、感じたりしたわけじゃない。試験の解答を盗み見たようなもんだ。誰にでも扱える正論を得意気に振りかざす脳みその足りない奴等と同じで、自分の心を介さない発言や考えは嘘っぱちのニセモノだって、僕はよくよく知っているのだ。心のない表現は罪悪ですよ。

 だから、僕は今彼女の元へ向かって全力で駆けている。

 僕の頭上では相変わらず男女が入り乱れてぶつかって落ちて潰れて死んでいく。僕の周囲にも色々な死体が転がっていて、僕はそれらを避けて走ることも出来なくて、最後にはわざと踏んで行ったりした。死体の山が、あちこちに築かれていく。

 

 死屍累々。

 

 これが世界の終わりなのかもしれない。

 こんな冗談みたいな現象で、世界は終わってしまうのかもしれない。


 せめて、その終わりが彼女の望むものであったらいいと思う。「ミッシェルの曲だよクソ馬鹿!」とキレた彼女の、お眼鏡に敵うものであったらいいと思う。こんな終わりの最中、彼女は紅茶を飲み干して静かに待っているのだろうか。パンを焼きながら、待ち焦がれているのだろうか。ともかく僕は彼女が生きているうちに会いたい。そして、この景色を笑って眺めながら、一緒に地面の染みになりたかった。

 僕の足はぐにゃぐにゃの死体を踏み過ぎて痛いし、身体は変に疲れていた。登山に行った気分だった。死体の山を上るなんて、なんだか地獄みたいで嫌だけど。それとも、これが彼女の云うこの世は地獄って奴だろうか?


 それならなんだか、悪くないけど。


 アパートの青屋根が見えてくると、塀の影から大家さんが空の彼方に射出されたのが見えた。エプロン姿の太った陰険大家の射線を目で追うと遠くのビルに着弾。倒壊。よし! これで今月の家賃は払わずに済みそうだ。バンザイ! で、よそ見してたら死体に足を取られて、僕は転がるようにアパートの敷地内に倒れ込む。痛い! 僕はうれしくて笑う。痛い! 僕は生きている!! 


 ズザザっと摩擦によって動きが止まると、身体は熱を持ち過ぎて焼けそうだったことを思い出す。冷たい冬の空気が欲しくて、仰向けに寝転がって大きく息を吸い込んだ。そこで、もう雪が止んでいたことに気付く。なんだか置いて行かれてしまったような、寂しい感じがした。そんな僕を、彼女がふっと覗き込む。


「おかえりー。ポカリと納豆買って来てくれた?」


 げぇほげほと咳をしながら、僕は血まみれのビニール袋を手渡した。


「はいおつかれ」


 それは彼女の手だけれど、彼女は僕を見降ろしながら両手を膝についている。

 あれ?


■ 4.


「すごいんだよ、さっきLINE送った後なんだけどね? 私、すごいことに気付いたの。私は小さい頃からずっとずっと死にたかったけど、でもそれっていつから思い始めたんだろうって考えたら、原因は当たり前に他の人達にあったのね? 酷い奴等ばっかりだから、私はそいつらから逃げるために死のうと考えたと思うの。云い換えれば、世の中が私に死んで欲しかったの」


 とんでもないことをさも当たり前のように彼女は話す。でも、僕は一つも口をはさめなかった。上機嫌な彼女の口上は続く。


「でも、私が死にたいと思ったのが他の奴等のせいなら、そいつらのために死んでやる命なんか私、ちっとも持ち合わせてないの。だから、死ねと云われるなら、死ねって云い返してやろうって思った。そしたら私が増え始めたのね?」


 そうなのだ。僕の部屋の中には今、無数の彼女がいた。頭の先から爪の先まで、着ている服までおんなじの彼女が、あちこちに電話したりしながら忙しなくしている。僕の頭はぼんやりとしていた。しながら、実際に起きてしまった現象に対してあらゆる理屈と論理を捏ね回していた。なるほど、つまりポカリと納豆は別々の彼女からの依頼だったわけだ。それは一先ず納得。はいはい。それで、次に僕の頭に浮かんだのは、僕が上司についたあの嘘だった。僕がたらたら吐いたあの嘘を、上司は信じた。つまり、その時点で上司の中では僕には本当に三人の祖母がいることになった。それは僕が否定しない限り、上司の中に生き続ける祖母達だ。上司の持つ理屈の上では、三人目の祖母は存在している。彼女にも、それと似たことが起きたのではないか?

 彼女は力を欲していて、一人でも兵器な彼女が無数にいればそれは行き過ぎた暴力になる。そう望んで、強く強く認識したことによって、彼女の中で彼女は増殖し始め、やがて彼女と云う器を破壊してこの世界にまであふれ出した。なんだそれ。馬っ鹿みたい!


 僕だってこんなこと考えながら馬鹿じゃないの? って思う。でも、実際に彼女は増えている。他に理屈を付ける手段が僕にはちっとも浮かばないのだ。理屈をつけて、安心したいけど、僕にはこれが精一杯。


「隊長! 鉄砲町はほぼ制圧しましたー!」


 彼女とおんなじ機種のスマホを持った彼女が、僕の話していた彼女に向かって敬礼した。隊長? 首を傾げると、目の前の彼女は照れたように笑った。


「私はいっぱいいるから、役割分担しようってことになって」


 ああそう。で、判ってはいるけど、一応の質問。


「鉄砲町を制圧ってそれどう云うこと?」


 目の前の彼女はにやりと不敵な顔をした。


「見たでしょ? さっき大家さんが飛んでったの。この町のあちこちで起きていること。あれ、全部私達の仕業なの。私が生きてきた二十二年の間、殺してやると思った連中を、みんな殺す。邪魔だもの。不愉快だもの。やられっ放しは性に合わないわ。私はそう云うことに気付いたの。SとかMとか関係なくて、ただ殺したい奴を殺す。それだけ」


 それで彼女は街中に自分を放って、あらゆる人間を引っ掴んで、お空目がけてぽーいと投げているのだ。なんだそりゃって思ったけど、僕の興味関心はそんなところにはまるでなかった。彼女はミッシェルの『世界の終わり』みたいに、紅茶を飲み干して静かに待ったり、パンを焼いて待ち焦がれているようなことはしなかった。自分自身が世界の終わりになろうとした。ただそれだけ。はい終わり。


「それで、もう死にたいとか云わない?」


 彼女はなに云ってんの? って顔で首を傾げた。


「なんでまだ私が死にたがるの? 今度は私が殺しにいくのに」


 僕が訊きたかったのはそれだった。良かった、もう彼女は死なない。たとえ、何人かが死んだって、彼女は無数に存在している。それは毎日のように印刷され、増え続ける書籍のようだった。いくつかが消えようとも、数がすべてをカバーする。立派な暴力。そして、つまり僕の世界は終わらないと云うことだった。やっと全身の力が抜けた。

 でも、彼女はいつまで人を投擲し続けるだろう? 天国も地獄もいっぱいにして、ゲヘナも根の国もいっぱいにして、それで彼女は満足して、猫のように眠るんだろう。そして、目が覚めたら。……目が覚めたら? それからどうするんだろう? どうなるんだろう? そんなことをもやもや不安がっていると、彼女は明朗快活に宣言した。


「私の殺意は果てがないの」


 彼女は立ち上がると、すっと天井を睨み据えた。その鋭く尖った殺意の迸りは、ここまで彼の感情を見守って来た『あなた』と、彼女を酷い目に合わせ、さらに異常能力を与えた『わたし』までをもしっかりはっきり捉えていた。見てなさいよと、彼女は云った。


「お前らだって、いつか必ず殺してやる」


■ ?


 自分の中の許容量いっぱいに自分を増殖させ、破裂させると同時に世界に彼女はあふれ出て来た。彼女は今も増え続けている。もしかしたら、次はこの世界が破裂するまで増え続けて、やがて世界を割ってこちらに雪崩れ込むやもしれない。

 それが、『わたし』には本当に楽しみで仕方がない。殺せ。殺せ。あらゆる人間を殺戮し、あまねく平坦を踏み砕き、いつかこちらにやってこい。なに、やることはおんなじだ。迷う必要なんてないし、彼女は迷うことなんてないだろう。


 『わたし』を破壊してあふれだせ。そして、いつか『あなた』を殺すまで。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

わたしの万死一生をあなたへ。 枕くま。 @makurakumother2

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ