檻の外より愛をこめて

あきよし全一

これはたとえ話だが人間にも当てはまるだろう――とゴリラも言っています。

『いつまでそうしているの?』


彼女――ナツさんに声をかけられて、僕はノロノロと自分の周囲を見渡した。

近くには親子連れやカップル、修学旅行で面倒くさそうな男子高校生がいたが、彼女の声に反応する者はいなかった。


『ちょっと、だんまりは無いでしょう。私は五郎くんに話しかけてるの』

『そうなんだ。あはは――』

『一方的に私を見て、黙って帰るつもりだったね』


笑って誤魔化すが、ナツさんはじっと僕を見ている。

彫りの深い顔立ちと、強い視線からにじみ出る知性に、僕は言葉を失った。

正直、彼女が気づくとは思わなかった。僕の腕は細くやせてしまったし、帽子とダウンジャケットも身に着けている。

以前とは考えられない変わりようだ。


『なんで僕だって分かったの?』

『五郎くんの顔立ちが? それとも考えていることが?』


ナツさんは大げさにため息をついてみせる。


『分かるわよ。今でも黒づくめだから印象が残ってるし、なんと言っても匂いが――仲間の匂いがするからね』

『やめてよ、仲間だなんて。僕は弱っちくなった。みんなとは違うんだ』

『本当に?』


ナツさんは近くにあった椅子を持ち上げると、檻の手前まで運んできて座った。

――檻。そう、僕とナツさんは鋼鉄の檻を挟んで会話している。

何者にも、この境界を超えることはできない。

けれどナツさんは気軽に声をかけてくれる。まるで昔みたいに――檻なんて無いみたいに。


『懐かしいわね。コンゴで別れて以来だっけ?』

『そうなるね。元気でやってる?』

『良くは無いな。なんだか、お腹がゆるいし、風の匂いにも馴染めない』


――そっちは? ナツさんが目で訊ねてくる。


『なんて言えばいいのかな。……弱くなったよ。人間が、こんなに弱い生き物だとは思わなかった』


するとナツさんは目を丸くして訪ねてきた。


『ちょっと、本気で言ってるの? 人間がどんなに強いか、ジャングルの中で思い知ったはずよ』

『そんなことない!』


つい大きな声が出た。僕の隣で笑っていた女の子が、顔をひきつらせて両親の元へ走ってゆく。

僕は声のトーンを下げて、できるだけ冷静に言葉をつないだ。


『人間は弱いよ。彼らの生活に付き合って分かった。果物は握りつぶさなくても食べられる状態で出てくるし、ドラミングも喧嘩も必要無い』


――ポタリ、と何かが足元に落ちた。

ふうん、とナツさんが呟く。


『五郎くん、まるで人間みたいね』

『ちがう』

『でも人間の暮らしが快適なのね?』

『ちがう』

『じゃあ私と一緒にジャングルへ帰る? 木に登って、果実をもいで、縄張りを守って戦って……』

『できないよ! 僕の腕は細くなった。毛皮の上には洋服がついた。戻りたいけど体が言うことを聞かないんだ!』


僕の声に驚いて、若いカップルが悲鳴を上げる。

しん、と辺りは水を打ったように静まり返った。

動物園の園長が、慌てて走り寄ってくる。その手には、僕の首輪につながったリードの端が握られていた。


「お客様、大丈夫ですか? 五郎が何か致しましたか?」

「私たちは大丈夫ですけど、この子、仲間の檻の前を通ったら興奮し始めて――」

「申し訳ありません。子供ゴリラの園内散歩は、時間を繰り上げて中止とさせて頂きます。さ、行くぞ五郎」

「ウホッ! ウホウホ!」


――ドドドドドッ!

その瞬間、僕はジャングルの木々の香りを嗅いだような気がした。

何ヶ月ぶりに聞いただろう、ナツさんがドラミングを始めたのだ。

彼女は僕を同じ檻へ入れるよう、園長と交渉するつもりでいる。

しかし人間に僕たちゴリラの言葉は通じない。


「ナツ、お前もあっちに行きなさい。お前たちのジャングルは伐採されて無くなってしまった。お前たちはここで過ごすしかないんだ」

『五郎! 優等生のフリしてないで、お前も何とか言ってやりな!』


無理だよ、ナツさん。僕は人間たちに運動を制限されて、すっかり筋力が衰えてしまった。

ううん、嗅覚も聴覚も、ジャングルにいた頃よりずっと弱った。

このまま弱いゴリラの……いや。人間の子供として、生きていくより他にない。


『ナツさん、お腹を冷やさないでね』

『五郎――!』


そう言い残すと、僕は檻から目をそらして、園長と共にその場を離れた。

人間たちは、おびえた目で僕とナツさんを見ていたが、やがて興味を失ったのか檻から離れてゆく足音だけが、僕の耳に届いた。


もうジャングルの幻は、耳にも鼻にも届かなかった。

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