廻ル、因果

シキヤマ ヒル

廻ル、因果

制服を着たままの娘の身体は、殴られた衝撃で玄関の壁にぶつかると、そのまま滑るようにして座り込んだ。

私は娘を殴った拳が少し痺れるのも構わず、そのまま俯いて震えている娘の髪を掴んで引きずるように引き寄せると、「謝りなさい!」と怒鳴りつけた。

それでも、娘の口からは謝罪の言葉はひとことも出てこなかった。


娘を殴ったのははじめてだった。

娘がまだ小学生の時に妻を亡くしてから、ずっと男手ひとつで育てた一人娘だ。

反抗期らしいものもなかった娘は体罰をするほど躾に苦労することもなかったし、両親が揃っている家庭に比べて寂しい思いをさせている自覚はあったから、多少のことなら殴るまでのことはしなかっただろう。

けれど、盗みとなれば多少どころではない。


娘の通っている高校へ呼び出されたのは、今日の夕方のことだった。

家庭訪問の時に顔を会わせただけの年輩の担任教師の男と、大学生に間違えられそうな若い副担任の女は、態度の方も対照的で、傲慢そうな担任は眉を上げて汚いものを見るような視線で娘も私も見下していたが、気の弱そうな副担任の方は眉を下げて、娘と私を交互に気遣わしそうに見ていた。


その様子からあまり良い話ではないことは直ぐに察しがついたが、まさか娘が窃盗などという大問題を仕出かすとは予想だにしていなかった。

それも担任の教師から、高価な宝飾品を盗もうとは。


三日前の放課後、担任が結婚指輪を教卓に置いたまま、僅かに外に出ていた間に指輪は消えてしまった……。

いじめ防止のためのカメラには指輪の置いてあった場所は死角になっているから盗む瞬間は映っていなかったが、ドア付近の映像から、その間に教室に出入りした人間は娘ひとりだと確定している……。

罪を認めて指輪を返して真摯に謝罪すれば穏便にすませてやると言っているのに開き直って認めない……。


怒りと羞恥でかっと熱くなった頭の中を、担任が経緯を語る声はひどく耳触りに流れていった。

副担任の方は状況証拠だけではまだこの子がやったとは、本人の言い分もちゃんと聞かないとなどと言っていたが、犯行時間の犯行現場にたったひとりの人間しかいなかったことが証明されている以上、下手な慰めか、事なかれ主義にしか聞こえなかった。


私は盗ってない、謝るようなことはしてないという娘が、俯きすらせず顔を真っ直ぐに上げていることすら気に障った。


「こんな問題を起こしておいて、私に恥をかかせておいて、お前は頭を下げて謝ることすらできないのか!!」


そう怒鳴りつけながら、私は娘の頭を掴んで無理矢理に担任へ下げさせると、自分も頭を下げながら謝罪した。

男手ひとつで育てたから躾が行き届かなくて、と今まで娘に思っていたこととは反対のことを言い訳にすると、担任はかえって図に乗ったように、まったくどんな育て方をしているのかと思いましたよ、親御さんが甘やかすから子供が付け上がって、これだから最近の若い親は、と私のことまで罵りだした。


屈辱のあまりこの歳で人前で涙が出てしまいそうだったが、私はそれを悟られないよう頭を下げたまま、ただ尽きることがないかのような担任の悪口に、その通りです、私が至らなくて、本当に申し訳ございません、と悪口を認めて謝り続けるより他になかった。

窓の外でギャアギャアと五月蠅く鳴くカラスの声までもが、私のことを馬鹿にして嘲笑っているようで苛立たしかった。



結局、私が代わりに賠償することでなんとか話をつけたものの、その間も娘は一言も謝らず、指輪の在り処も白状せず、罪を認めることすらなく、私が無理矢理に押さえつけなければ頭を下げることも拒否し続けた。

その依怙地さは、もはや怒りを通り越して憎々しくさえなるほどだった。


家に帰宅すると、私は服も着替えず、部屋にも連れて行かず、玄関で娘を殴りつけた。


私が謝れといえば、娘は首を振る。

罪を責めれば罪を認めず、指輪の在り処を問い詰めれば、知らないと言い張る。


私が何度怒鳴っても殴っても蹴りつけても、娘は嗚咽は漏れても、切れた唇から血は流れても、一言も私の望む言葉を口にしなかった。


どれくらい時間が経ったのか、何度娘を叱ったのか、罰したのか。

殴っても蹴っても気の納まらない私は、娘を脅すつもりでこういった。


「お前がどうしても盗んだものを返す気も謝る気もないなら、いっそお前を殺して、私も死んでお詫びをするしかないな」


もちろん、本気ではなかった。

「死んでお詫びを」だなんて時代劇でもあるまいし、口だけのつもりだった。


その時、身体をくの字に曲げて、しゃくり上げるような嗚咽を漏らしていた娘が、帰宅してはじめて顔を上げて、私を見た。


しかし娘の顔に浮かんでいたのは、怯えでも反省なかった。

ひどく恨めしそうな、見たこともない、何処か覚えがある表情だった。


その顔を見ていると、今の今まで散々折檻しても抵抗ひとつできずに泣いていた弱々しい娘に、おかしなことだが、形容しがたい恐怖が湧き上がってきた。


私よりずっと弱く、私が殴っても反撃どころか抵抗もろくにできない娘に。

まして正しいのは私なのに、私は間違った行いをした娘を叱っているのに、娘の行いで恥をかかされたのは私の方なのに、何故そんな恨めしそうにされなければならないんだ、何故こんな後ろめたいような気にならなければならないんだ……。


なんだかその場に居づらくなった私は、明日までに指輪を出さなかったらただじゃおかないと言い捨てて、玄関に座り込んだままの娘を置いて家に上がった。



その晩、私は台所にも来ない娘を無視してひとりで食事を済ませた。

怒りのあまり眠れないかと思ったのだが、疲労のためか二階の自室のベッドに入ると直ぐに眠りについてしまった。


夢の中で、私は江戸時代の武士になっていた。

浪人になり、新たな仕官のあてもなく、貧しい生活の中で妻は亡くなり、一人娘は家計を支えるために、地元でも一、二を争う分限者(金持ち)の大きな屋敷に奉公に出ていた。

しかし娘は奉公先で主人のものを盗んだ疑いをかけられ、父親も屋敷に呼び出される。

娘だけではなく父親まで罵りだす主人、無実だと言い張る娘。

父親は娘を庇うことも信じることもなく、罵り、折檻し……。

挙句、腰の刀を抜くと、娘を一刀のもとに斬り捨て、自らも切腹して果ててしまった。


しかし、父親はその後もそこにいた。

そこにいて、ずっと見ていた。


自分たちの死後、盗まれたものは主人の親族が持って帰ってしまっていたと判明するのを。

無実の娘とその父親を死に追いやってしまった主人が恐れ慄くのを。

恨みのあまり怨霊になった娘が、いつも水を汲んでいた邸内の井戸に憑りついて主人を祟るのを。

主人の死後はその家までも祟り、百年以上もの時をかけて没落させたのを。


父親はそこにいて、ずっと見ていた。

最初は娘に謝りもしたし、祟るのを止めようともした。

しかし無実の娘を疑い傷付け挙句に殺した父親の言葉が、娘に届くはずもなかった。


やがて主人の家が、大きな屋敷を手放すまでに没落した頃。

見ている事しかできない父親の前で、娘の霊は憑いていた屋敷の井戸へと身を投げた。


その娘の、ひどく恨めしそうな表情は、“娘”のそれと同じだった。


「何故に信じてはくださらなかったのですか、父上」

「どうして信じてくれなかったの?パパ」



私は絶叫しながら、跳ねるようにして飛び起きた。

叫んだ名前はどちらの娘のものか、いったい何が夢で何が現実なのか。


嫌な予感がした私は、スリッパも履かずに部屋を出ると、二つ隣の娘の部屋の扉を乱暴に叩いた。

反応がないのに焦れて開けると、部屋には娘の姿はなく、空のハンガーには制服もなく、ベッドに寝た形跡も見当たらなかった。

踏み外しそうになりながら階段を駆け下り、最後に娘を見た場所へ走る私の中には、予感があった。


そして、玄関についた私が見たものは、夕べ私が何度も蹴りつけた腹を抑えるようにして、冷たいだろう玄関の床に制服のままで倒れた、動かない娘の姿だった。


……この娘は、あの娘だったのだ。

そして私は、あの父親だったのだ。


悲惨な結末を遂げた親子が再び親子として生まれたは因果か、報いか、幸いか、災いか。

どちらにしろ、自分は“また”間違えたのだ。



そして私は今も、ここにいて見ている。

学校に住み着いてしまったカラスの巣から、担任の指輪が発見されるのを。

冤罪を鵜呑みにした父親が我が子を折檻して死なせ、拘置所で自殺した事件は随分と騒がれたらしく、マスコミや野次馬が付近をうろつき、撮影や質問攻めをしては教師や生徒を困らせていたのを。

ここからも見える屋上から錯乱した担任が飛び降りるのを。


ここにいて、ずっと見ていた。

前と同じように、私の言葉など娘に届くはずもなかった。



担任が飛び降りるのを見届けた後、いつの間にか見たことのない、何処か覚えがある古井戸の前にいた。

井戸を覗き込むと、いつか聞こえたように娘の声が響く。


「次は間違えないでね、パパ」


ああ、次こそは。



そして私は、前と同じように身を投げた。

黄泉へと続く、何れは再びこの世へと至るであろう暗い穴へと。

娘を追って。


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