第23話

「私たちは前提を間違っていた。一度そう仮定して、これまでの物事を見直してみたんだ。すると、ある考えが私の中で芽生えた」


 わたしはゴクリと唾を飲み込み、律子が言葉を続けるのを待ちます。


「最初の事件を除けば、幸が容疑者になりえるということだ。美々が消えた日、幸は彼女と同行していた。つまり幸には美々を殺害することが可能だ」

「律子……」

「新宮が体調を崩した前夜、幸は料理当番をしていた。疑われないために自分の料理にも少量の毒を混ぜたと考えれば、幸も熱を出したことに説明がつく」

「で、ですが……」

「佐川が首を吊った時、別荘にいたのは幸だけだ。それに 自殺した佐川を直に見たのは私だけのはず。レインコートで首を吊っていたと幸が知っていたのは妙だ。幸が佐川を殺害して、それを自殺のように見せかけるために吊るしたと考えれば――」

「やめてください!」


 感情に身を任せて、気管が破裂してしまいそうな大声で怒鳴ってしまいました。

 幸が律子を疑い、律子が幸を疑う。わたしの頭の中はこんがらがり、何が事実なのか全くもってわかりません。


「このようにお互いを疑うことに、なんの意味があるんですか? 瀬高さんが死んでしまった理由をもう忘れたんですか?」


 律子の話は筋が通っているように思えたのに、なぜかわたしにはそれを聞き続けることはできませんでした。律子の推理はまるでわたしのあり方を根本から否定しているかのように恐ろしく、とても耐えがたく思えたのです。


「忘れてなどいない。あれは私の人生一番の悔いといっても差し支えない出来事だった。だが、だからこそ私は真犯人を見つけなくてはいけない。彼女の死を無駄にしないために」

「律子、冷静に考えてください! 幸さんが殺人を犯すような人間に見えますか? そもそも彼女にはこんなことをする動機がないじゃないですか! 律子はどうして彼女のことを信用できないんですか?」


 特大なブーメランです。わたしはさっきまで律子のことを疑っていたのに、何を偉そうに喚いているのでしょう。ですが、感情に支配されてしまっていたわたしには、それしか言えませんでした。


「どうして――」


 そこから続く言葉は、突然にぎゅっとわたしを抱きしめた律子の圧力に押しつぶされて消えました。そして彼女はわたしの耳にこう囁やいたのです。


「氷花は正しい。だが一つ勘違いをしている。殺人を犯すような人間じゃないのは幸だけじゃない。それは瀬高も佐川も聖堂も新宮も奈々も美々も同じだ。彼女たちは一年以上の時を部活で共に過ごしてきた仲間なんだ。私は彼女たちを心から信用している」

「なら、どうして……」

「誰かが殺人を犯しているのは明らかだった。それはいくら彼女たちのことを信頼していても覆らない事実だ。だが、私が心中に抱く彼女たちのイメージは、そんなことをするような人間のものではなかった。動機なんて存在する方がおかしい。だから私は推理から感情を消し、状況証拠だけを頼りとして、犯人を割り出そうと試みたんだ」


 横目に映ったわたしの肩を覆うセーターの袖はほのかに湿っています。いつのまに雨を浴びてしまったのだろうかと考えていると、その上に一粒の涙がぽとりと着地しました。幼少期の頃からずっと共に過ごしてきましたが、律子が泣いている姿を見たのはこれが初めてです。


「だが、感情を完全に殺すのはやはり無理だったよ。推理を告げている時は私の喉を出た言葉の一つ一つが、全てトゲに包まれていたような気がした。私は甘すぎたんだ。そして結果として、こんなにも簡単なことを見落としてしまった」


 律子が苦しそうに語っていることは紛れもない本心でした。長年彼女を見てきたわたしにそれは火を見るよりも明らかでした。律子は真剣に犯人を探そうとしていたのです。律子は犯人ではありませんでした。

 しかし、こうなってしまうと、本当に誰が黒幕なのかまるで見当がつかなくなってしまいます。律子は幸を疑っているみたいですが、それはどうかと思いますし……。


「幸さんは最初の事件の犯人にはなりえないんですよね?」

「ああ。あの時は氷花が同行していたからな。共同犯行でもなかった限り不可能だ」

「それだけで彼女は犯人候補から除外されるべきですよね。どうして幸さんが犯人だと言い張るのですか?」

「新宮の死にはほかの要因が関わっていたと気づいたんだ」


 ほかの要因? あの荒れていたリビングや胸に突き刺さったナイフを、殺人犯以外の何かが偶然作り出した奇跡の産物とでも言うのでしょうか?


「そのほかの要因とやらはいったいなんなのですか?」


 律子はわたしから腕を離し、新宮さんの遺体のそばに置いてあったものを拾いあげました。


「これだ」


 律子が差しだしたのは、妙にデジャヴを感じさせる薄汚い水筒でした。


「新宮に持病があったのは知っているか?」

「いえ、初耳です」

「この水筒にはその病気の症状が悪化したときに、彼女が摂取する飲み薬が入っている。ついさっきこれがゴミ袋の中に入っていたのを見かけた」


 ゴミ袋……何か思い当たりがあるような無いような。


『台所の机の上に置いてある古いやつを捨てておいてくれる?』


 脳裏をよぎる誰かの台詞。いつ頃に聞いたのでしたっけ……。


「何かの間違いで捨てられてしまったのだろう。それがいつだったかは定かではないが、もしこの水筒が新宮死亡以前に捨てられていたのであれば、それは私たちの推理を根底から覆す証拠になりうる」

「どういうことですか?」

「こう考えてみるんだ。最初の夜、新宮の病気が急に発症した。彼女は薬を探すために急いで一階へ走って降りていく。だが、そこに彼女の水筒は見当たらなかった。新宮は水筒を探すため、手当たり次第にいろいろな場所を漁った。開かれていたリュックとクーラーボックスや、散らかされていたリビングはこれで説明がつく。そして、それでも水筒を見つけることができなかった彼女は――」

「苦しみに耐えられず、その場で――」

「自殺したのかもしれない。あるいは何らかの目的を遂行するためにナイフを手に取り、焦るあまり謝って自分を刺してしまったのかもしれない。もしくは病気がさらに悪化して死に、手元にあったナイフが倒れたはずみに刺さったのかもしれない。事実がどうであるのかはわからないが、そういった可能性があるのは確かだ」


 最初の事件は無関係だった可能性。それが意味するのは、幸が犯人ではないと断定することができなくなったということ。幸は論理的に犯人になりえてしまう。


「律子が言いたいことは理解できました」

「私を信用してくれるのか?」

「律子のことはずっと前から信用していますよ。問題はわたしが律子を信用しているかどうかではなく、わたしが事件の真相についてどう思っているかです。だからまずはそれを確認させてください」

「……幸と話をしにいくのだな」

「はい」


 律子はわたしの目をしっかりと捉えて見つめてくるので、こちらも決意を込めた視線で睨み返すと、彼女は小さくため息をつきました。


「わかった。止めはしない。氷花の答えは氷花が出すべきだ。最後の判断は氷花に委ねる。誰が犯人だと思うのかは氷花自身が決めてくれ。だが、もし幸が犯人だと結論づいた場合は裏庭まできて欲しい。すぐにここを脱出する」

「ですが、迎えがくるのは明日ですよね?」


 まさか向こう岸まで泳ごうとでも提案するのでしょうか。浮き輪がないと沈んでしまう人間(わたし)には無理ですよ。


「迎えは明日までこないが、いますぐ戻ることは可能だ。 運がいいことに、海の水が引いて向こう岸までの道ができている」


 昔、一緒に渡った記憶がかすかに残っている砂の道ですか。


「わかりました。もし幸が犯人であると確信した場合はそうします」


 倉庫の階段を上っていくわたしを見送りながら律子は言いました。


「気をつけてくれよ」


 皮肉なことに幸がわたしに送ったものとまったく同じセリフでした。

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