第15話


「んんっ……」


 意識がようやく戻ってきた聖堂さんは苦しげな呻きを漏らしました。綺麗だった長い髪はすっかり艶を失い、凛々しかった顔も骸骨のようにやせ細り、その衰弱は彼女を変わり果てた姿へと変貌させていました。


「今朝の幸と症状が似ている。同じ病気にかかったみたいだな」


 冷えたタオルを聖堂さんの額に乗せながら、律子は言いました。


「感染する病気なんでしょうか?」

「そうかもしれない。だが……うーむ」


 律子は思案にとらわれているかのように手を顎にやりました。


「氷花、近くに寄ってくれ」


 真剣そうな眼差しで見つめられながらそう言われると従いざるをえません。わたしは律子のすぐ隣まで、座ったままずるずると移動しました。すると彼女はわたしの耳にしか届かない小さな声で囁き始めました。


「聖堂はおそらく助からない。私の見解では彼女の余命はあと僅かだ」

「そ、そんな……」

「体温計の結果を見ただろう。人間が耐えられる領域をとっくに凌駕している。看病しようにも、彼女は水を飲ませただけで吐いてしまうほどの重体だ。 そして彼女の目は機能を失った。体が限界に近づいている」


 信じたくありませんでした。死がまたもわたしたちから命を奪っていくことを。


「あと三日待てば迎えがくるんですよね? それまで耐えれば助かりますよ」


 自分でもその可能性は非現実的だとはわかっていました。ですが僅かな希望にもすがらずにはいられないほど、わたしは切羽詰まっていたのです。


「ああ、そうだな」


 意外なことに 律子はわたしのナイーブな考えに反論をせず、手短に同意を口にしただけでした。もしかすると今朝の言い合いを気にしているのかもしれません。


「カレーがそろそろできあがっているはずだ。私は火を止めにいってくる。これから晩御飯にするか?」

「わ、わたしは……もう少し聖堂さんのそばにいてあげたいです」

「そうか。準備をしておくから食べたくなったら降りてこいよ」


 律子はそう言い残すと、騒ぎに誘われてついてきた瀬高さんを連れて部屋から去っていきました。残されたのはわたしと聖堂さんだけです。


「調子はどうですか?」


 わたしが彼女に与えたいのは心の支え。生き延びる確率を少しでも上げるために。医者ではないわたしができることはそれだけです。


「氷花くん。僕は……もう疲れた」


 聖堂さんは視線をわたしがいる方角へまっすぐ向けました。しかし色が衰えつつある瞳はわたしを捉えているようには見えず、透明なわたしを見透かしているかのような、そんな空虚感を感じさせる視線です。


「何も見えないのですか?」

「うん、世界が闇に飲み込まれてしまったみたいだよ」


 古びたスピーカーみたいなしゃがれた声。彼女には先がないという事実をひしひしと感じさせます。


「怖くないんですか?」

「怖いね」


 端的な答えです。ですが彼女にはおびえている様子はありません。達観した仙人のように落ちついた風格です。


「そうは見えませんが」

「そうだね。怖がる姿を見せられる余裕がなくなったのかも」


 苦笑を浮かべながら乾いた笑い声を絞り出すと、聖堂さんは視線を天井へ移しました。


「氷花くん、水を飲ませてくれないか? 喉がからからなんだ」

「さっき飲ませた時は胃に残っていたものを含めて、全部吐いてしまいましたよ。もう少し落ち着くまで待たないと、かえって悪化するかもしれません」

「ああ、そういえばそうだったね」


 彼女には水が必要でした。そして水は手を伸ばせば届く距離にあります。しかし辛いことに、わたしはそれを彼女に与えることはできません。もう一度嘔吐をして、体に残っている水分と気力をさらに消費してしまえば、きっと取り返しがつかないことになってしまいます。


「全部わたしの責任です。わたしがもっと早く気づいていれば――」

「それは……違うよ。誰の責任でもない」


 聖堂さんの心の支えになろうとしているのに、 どうしてか慰められているのはわたしの方になってしまっています。口下手な自分が恨めしい。


「聖堂さんは……強いんですね」

「どうして、そう思うんだい?」

「聖堂さんだって辛かったはずなのに、みんなに疑われてもまったく取り乱していませんでしたし、今もわたしに気を使って落ちついた姿を見せられるからですよ。誰にでもできることではありません」

「……ちょっと照れちゃったよ。ありがとう、氷花くん。でもね――」


 お互い無言のまま数十秒の時が過ぎました。そしてもう喋り出さないのかもしれないと心配しはじめた矢先に彼女は口を再び開きました。


「――僕の強さは偽りだよ。本当はすごく怖かった。僕に罪がなすりつけられてしまうんじゃないかって。でも、それ以上にすごく情けなかった。どうしてあんなにも近くにいた人を、僕は守ることができなかったのだろうって。美々の時も僕はそばにいたのに守ってあげられなかった。僕は親しい人たちを守れるような人間になるために強くなりたかったんだ。だから剣道に励んだ。でも結果はこのありさまだよ。いったいなんのために剣道を習っていたのか、わからなくなってしまったよ」


 貴重な水分が彼女の目元から一粒こぼれ落ちました。


「氷花くんは僕が犯人だと思っていないのかい?」

「はい」


 わたしはとっくに確信していました。聖堂さんは犯人ではありません。律子には理解できなくても、わたしにはわかります。彼女は人を殺せるような人間ではありません。


「なら僕のお願いを聞いてくれないかな?」


 わたしは頷きました。


「僕が死んだら、今回の事件を全部僕のせいにして欲しいんだ。どうせなくなってしまうのなら、この命を少しは役に立てたい」

「何を言っているんですか! 頷きはしましたが、それには協力できません」

「氷花くんには僕の遺書を代筆してもらいたいんだ」

「そういうことを言うのはやめてください! あと三日待つだけで助けがくるんですよ!」

「僕はこれ以上、僕たちの人間関係が壊れるのは嫌なんだ。だから、せめて罪滅ぼしのために僕の死を活用して欲しい」


 彼女は自分のことよりも、他者を思いやることを先行できる優しい心を持っていました。どうして神様はわたしなんかを放置しておいて、彼女に鉄槌を振り下ろすのでしょうか。とてもいたたまれません。


「いくら頼んでも無駄ですよ」


 わたしは彼女を犯人に仕立て上げるようなことは決してしない。そう心に決めました。


「そうか……。じゃあ、このお願いは聞いてくれるかい?」

「内容によります」


 二度も同じ手法には引っかかりませんよ。


「眠くなってきたけど、寝ちゃったら、もう起きられない気がして怖いんだ。 だから眠りにつくまで僕の手を握っていてくれないかな、氷花くん」

「聖堂さん……」


 わたしが両手で彼女の左手を包むように握ると、聖堂さんは薄い、今にも消えてしまいそうな淡い微笑みを浮かべました。

 そしてその時、 わたしは一つの固い決心を胸に刻んだのです。

 彼女の無実を証明し、わたしたちを絶望の渦へ落とし込めた真犯人の正体を絶対に暴くと。


***


 次の朝、目を覚ますとわたしが握っていた手は氷のようにつめたくなっていました。

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