第16話
昨日の昼から何も食べていないというのに、わたしのお腹はぐーともすーとも鳴いてくれません。頭がぼーっと虚ろになっているせいで、体が栄養を欲する事を忘れてしまっているようです。ですが意味がない絶食を続けていては、周りの人たちに心配をかけてしまいそうだったので、わたしは幸や律子たちとリビングで鉢会わせになるたびに、戸棚からしけたクッキーを一枚取り出して、その端をネズミのようにちびちびとかじりました。お腹が空いていないのに、おせじにも美味しいとは言えない食物を喫することは、思いのほか苦痛でした。
気分を晴らすために一人で島を散歩したい気分ですが、窓の外では暴雨と暴風が荒れ狂っているので、今日は引きこもるしか選択肢がありません。
「氷花、食べるか?」
大きな調理用スプーンに乗せたほかほかのおかゆをわたしの目元に運んで、律子は尋ねました。
「いえ、遠慮しておきます」
今日はまだ何も食べていませんが、前述した通りにまるで食欲が湧きません。
なので律子のオファーを断ると、律子はわたしの食欲をかきたてようとしているのか、スプーンを上下に揺らし、おかゆの香りでわたしの鼻腔をくすぐりはじめました。
「昨日の晩飯も食べていないのだろう? このまま氷花まで病気になってしまったら、私はいったいどうすればいいんだ。お願いだから、私を助けると思って食べてくれ」
「無理やり食べても、きっと全部吐き出してしまいますよ」
律子は諦めたように深くため息をつくと、カウンターの上に出された五つのお椀のうち、四つにだけおかゆを注ぎました。瀬高さん、佐川さん、幸、そして律子自身の分でしょう。
「鍋にも少し残しておくぞ。お腹が空いたらいつでも好きな時に食べてくれ」
「奈々さんの分も残っているんですか?」
「ああ、残してあるのは二人分だ。戻ってきたら彼女に伝えておいてくれ」
奈々さんはこの悪天候の中ですら朝早くから美々さんの捜索を続けているらしく、今日はまだ一度も姿を見ていません。雨は酷くなる一方ですし、果たして大丈夫なのでしょうか……。
「氷花、お椀を一つ持ってくれ。二階の連中に食事を持っていくぞ」
「はいはい」
「瀬高、一緒に二階で食べるか?」
「いいよ、あたしは別に」
瀬高さんは虚ろな眼差しを壁に向けたまま、黙々と作業的におかゆを口の中へ運んでいます。あれだけ元気が途絶えなかった彼女にも、とうとう限界が訪れたようです。
わたしたちは瀬高さんを置いて、二階の一番奥の部屋へ向かいました。
「佐川、飯を持ってきたぞ」
律子が呼びかけると、室内でドタバタと大きな音がなり、わたしが回そうとした ドアノブががっちりと固まりました。どうやら反対側から固定しているみたいです。
「は、入らないで!」
ヒステリックな叫び声を放つ佐川さん。
「……大丈夫か、佐川?」
「大丈夫だからほっといて!」
新宮さんが死んでしまったころから彼女の精神状態はすでに不安定でしたが、ここまで露骨に取り乱したのは今回が初めてです。いったい彼女は中で何をしているのでしょうか。
「わかった。おかゆはドアの前に置いておくぞ」
佐川さんとの食事を断念したわたしたちは、今度は幸が休んでいる部屋へ向かいます。
「入るぞ」
扉を開くと、目に入った光景はいつもの部屋でした。隅に片付けられた二枚の布団、その隣に置かれたいくつかのカバン、そして敷かれたままの布団の上に寝転がっている幸。緊迫したこの別荘内で唯一落ちつける場所です。
「具合はどうだ?」
「だいぶマシになってきたよ」
仰向けに寝ていた幸は首を横に向けて、こちらに微笑みを見せました。
「そうか。まだ無理はするなよ」
わたしは幸の横に座り込み、彼女のお椀から一口で食べれる少量のおかゆをすくいます。
「今日の晩ご飯ですよ」
「ありがとう、氷花先輩」
「作ったのは律子ですよ。お礼なら彼女に言ってください」
「ありがとう、律子先輩」
「当然のはからいをしたまでだ」
ふーふーと適度に冷ましてからスプーンを幸の口元に運ぶと、彼女は熱のせいか顔を少し赤らめてから、ぱくりとおかゆを頬張りました。そしてほどよく噛み締めてからごくりと飲み込み、満足そうにほっと吐息を漏らしました。
「おいしいよ」
「そうか。それは良かった」
ごほんとわざとらしい咳払いをはなつと、律子はどっしりと腰を下ろしました。
「食事中にこのような話題を持ち上げるのは気が進まないのだが、一刻も早く伝えたい事がある。少し私の話に耳を貸してくれないか?」
やけに深刻そうな顔を浮かべる律子。生暖かい世間話をしようというわけではなさそうです。
「どうかしたのですか?」
「新たな事項をもとに、私が考えた推理について聞いてほしい」
ああ、この話ですか。律子が言わんとしている事にはだいたい察しがつきます。
「犯人はここしばらく動いていないんじゃ……」
幸は怯えた様子で律子の顔を見上げました。
「そうですね。美々さんの消失以来、殺人は起きていませんよ」
ですがその考えは、ここ数日の出来事を全て自然現象であると断定した場合のみ成立します。なんとなく気づいていましたが、わたしの意見を述べる前にまずは律子の考えを確認しておきましょう。
「氷花と幸にはそう見えているのかもしれない。だがそれはおそらく犯人の思う壺だ」
「なぜそう思うのですか?」
わたしは率直に尋ねました。推測を裏づける何かがきっとあるはずです。
「昨日、幸と聖堂が同時に似たような症状を呈した。もしそれが病気なのであれば、二人は同じ病気に感染したと考えるのが自然だ。だが感染病だったと仮定するといくつかの矛盾点……と言うほどのことではないが、不可思議な点が生じてしまう。まずは発症してから、死に至るまでが異様に早かったこと。何の前触れもなく、人を一日で殺してしまうほど強力なウィルスはとても珍しい。もう一つの点は、感染病なのであれば――」
「どうしてほかのみんなは無事だったのか、ですね。しかも、幸と聖堂さんは同じ部屋で寝ていないので、感染する機会は少なかったはずです」
「そうだ。もし感染する病気なのであれば、幸と聖堂以外が無事だったのは妙だ。もちろん私たちは運が良かったから感染しなかっただけということかもしれない。だが、それは偶然にしては、あまりにもできすぎていると私は思う。故に、私はこれは人の手による毒殺だと考えている」
ふむ。律子もこれといった確信を持っているわけではないみたいですが、彼女はこの件が都合のいい病気である可能性より、殺人である可能性の方が高いと考えたのですね。ほぼ勘頼りだったわたしの推測よりは筋が通っています。
ですが毒殺だったと考えると、いくつかの疑問点が上がります。わたしには無理でしたが、律子はこれらに回答を見出せたのでしょうか。
「ですが、犯人はどこでその毒を手に入れたのでしょうか?」
わかりきったことですがここは無人島です。この別荘にあるわかりやすい毒物といったら味ですぐにわかってしまう石鹸ぐらいですし、外部から品物を仕入れるのは不可能なので、犯行が成り立ちません。
「確かにここで毒物を調達するのは不可能に近い。だがもし犯人が用意周到だったとして、外で買った毒を持って島にきていたら、その工程はクリアされる」
「つまり全ては計画された犯行だったということですか?」
「ああ。だが、それはそれで少し引っかかるところがある。最初の犯行は計画的に行われたようには思えなかったからな」
そういえば新宮さんの遺体の周りには何者かと争った形跡が残っていましたよね。もしそれも計画の一部だったのであれば、かなり荒っぽい仕事です。毒殺が可能なら、犯人はなぜ最初からそれを活用しなかったのでしょうか?
「とはいえ、その程度の矛盾でこの一件が毒殺であったという考えを改めようとは思わない。どちらも様々な仮定の上に成り立っている推測だ。事実との食い違いはおそらく、いや、間違いなくある。その食い違いが何なのかはまだわからないがな。認めよう、私の推論は信じがたい。だから私はこう言う。幸、氷花、別に私の言葉を信じてくれなくてもいい。ただそれが私の見解であると受け入れ、それが事実であると仮定した場合、誰が犯人となるかの考えを聞かせて欲しい」
「わかりました」
「うん、協力するよ」
「では推理を始めるぞ」
わたしは背筋をピンと伸ばし、しっかりと律子の言葉を聞く心の準備を整えました。
「まずは犯人がいつどうやって幸と聖堂に毒を盛ったかだ。私たちは朝飯と昼飯は各自が自由に調理して食べている。なので、毒を仕込むことができるのは晩飯だけ。おとといの晩飯を準備していたのは誰か覚えているか?」
おとといの晩飯。確か――
「幸と聖堂さんが料理当番をしていたはずです」
「その通りだ」
わたしの返答に対し、律子は頷きました。
「でも、それっておかしくないですか? 聖堂さんと幸さんが自分らに毒を盛ったことになってしまいますよ?」
「ああ。その矛盾をもっとも簡単に解消するには、その前の晩に毒が仕込まれたと考える必要がある」
毒って症状が現れるまでそんなに時間がかかるものなのでしょうか。よくわからないので、突っ込みようがありません。とりあえずその考えがあっていると仮定して話を進めてもらいましょう。
「その晩は誰が料理当番をしていたか覚えているか?」
「えーっと、確か……」
常にぼんやりとしているわたしに、そんな大昔の話を訊かれても困ります。その日の晩御飯は何を食べたんでしたっけ? 思い出せればヒントになるかもしれません。
「……氷花先輩と瀬高先輩だよね?」
思い出しました。その日は確か美々さんがいなくなって、留守番中のわたしが佐川さんのためにオムレツを作って、結局自分で食べることになって、しまいにはクジで料理当番を押し付けられて、もう一度料理を作るはめになった日です。
「つまり律子は――」
瀬高さん。彼女は新宮さん殺人の件でアリバイがない人物の一人です。
「――瀬高さんが犯人だと思っているのですか?」
――ガタ。
扉の外から床に何かが落ちたような物音が聞こえてきました。
「誰かいるのか?」
ちっと舌を鳴らし、とっさに立ち上がった律子が素早く扉を押し開くと、そこには幽霊でも見たかのように怯えた顔をしている、尻餅をついた瀬高さんがいました。
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