第14話
下の階からじゅわーっと炒め料理をしている音が聞こえてきます。 律子が料理を始めたのでしょう。安心したおかげでお腹がすいてきたのですが、自ら作るのは面倒なので、わたしの分もついでに作ってくれるようにせがんでみましょうか。
いざこざがあった相手に図々しいことを頼むのは通常ならば気まずいはずですが、まあ、律子なので大丈夫でしょう。なのでわたしは気兼ねなく頼むことにしました。
「律子、わたしの分もお願いします」
「いいぞ」
予想通り、律子はわたしの要望を躊躇なく受け入れてくれました。
「ところで何を作っているんですか?」
「余っている物を使った野菜炒めだ」
炒め料理は胃に優しくはありませんが、ここ最近の出来事がわたしの胃にもたらした悪影響と比べると微々たるものです。遠慮なくいただきましょう。
「そういえば――」
律子はフライパンから目を離さずにわたしに話しかけてきました。
「さっきは驚いたぞ。氷花があれほど感情的になったのを見たのは生まれて初めてだ」
確かに。わたしも自分があれほどの怒りを抱けたことには、かなり驚嘆していましたからね。
「少しは立ち直れた気がするか?」
「立ち直るって……あっ、あれのことですか」
そういえば当初の目的、わたしがこの島へ来た理由は傷癒旅行でしたね。
「そんなことはすっかり忘れていましたよ。あんまり思い出したくないので、なるべく触れないようにしてくれると助かります」
「はは、悪かった。だが、その様子ならもう大丈夫そうだな」
律子はにかっと意地悪げな笑みを浮かべました。
彼女が言うとおり、わたしがあのように怒りを表に出せたのはやはり不思議です。今日はまだ胃痛はありませんし、ぼやけていた頭も少しは霧が晴れてきた感じがします。
こう言ってしまうのは不謹慎だと思いますが、美々さんがいなくなった時、新宮さんが殺害された時、わたしの感情は今朝ほど揺れ動いたりはしませんでした。自ら行動を起こそうと思ったのは、幸の命が危機に瀕していた時だけでした。何故なのでしょうか? これまでは怖気付いていて動けなかったというわけではありません。恐怖、混乱、不安。その類の感情は全ての状況において例外なく抱いていました。
わたしの中の何かが変わったのでしょうか。それとも幸という対象が何かを引き起こしているのでしょうか。それとも――
「キス……」
「何か言ったか、氷花?」
「な、なななんでもありません! それより、野菜炒めはまだなんですか? お腹がぺこぺこですよ」
あ、危ない……。心の声が漏れてました。
律子は激しく動揺するわたしをちらりと横目で一瞥すると、再び嫌味な笑みを浮かべ、何も言わずに料理の火を止めました。
「よし、できたぞ」
ううっ……。律子のあの表情は「本当は聞こえていたけど、聞き逃したふりをしたほうが面白そうだからそうしよう」と考えている表情です。
まあ、何はともあれ、幸との間にあった感情の隔たりを乗り越えることによってわたしが少し変わることができたのは確かです。
***
幸が熱を出して一時はどうなることかと冷や冷やしましたが、その後は、たいした波乱もなく平和に過ぎていきました。
奈々さんは美々さんを探すのを諦めておらず、余っていた野菜炒めを食べるとすぐに外へ飛び出していったきりですし、聖堂さんと佐川さんは今朝からずっと二階にこもっています。
迎えの船が訪れるまであと三日。このまま無事に残りの時間を消費できることを祈るばかりです。
「氷花、そろそろ夕飯に取りかからないか?」
「うぇ……」
「あからさまに嫌そうな声を出したな……。ならば返事を聞くまでもないか」
「いえいえ、手伝いますよ。嫌なのは事実ですが、ほかにやることも特にないので暇つぶしに手伝ってあげます」
料理は面倒ですが、何もしないでいると罪悪感が襲いかかってくるので、気が進まないということをアピールして、なるべく楽な仕事を回してくれるように誘導しながら、頼みを受け入れます。
「そうか、ならジャガイモの皮むきと細切りをしておいてくれ。瀬高も手伝ってくれるか?」
ソファの上に寝転がっている瀬高さんは、退屈そうに電池が切れたスマホの画面とにらめっこをしています。律子の声が聞こえなかったのか彼女はなかなか返事をしません。なんらかの思考に囚われているのか、それともただぼけーっと放心しているのか。おそらく後者ですね。
「なら氷花、ついでにご飯も炊いてくれ」
「ジャガイモを切ってるんですけど。律子が炊いたらどうですか?」
「私はこれから、うさぎが掛かっていないか外に張ってある罠を調べにいくつもりだ。というわけで頼んだぞ」
律子はわたしにお米を図るコップをぽいっと投げつけると、勝手口から出ていきました。
はぁー、とため息をついてから、わたしはお米の袋をよいしょと戸棚から引っ張り出し、コップを使ってすくいだした的確な量を炊飯器のジャーに注ぎます。
怠けるつもりだったのですが、いつの間にか全ての作業を押しつけられてしまいました。ところで、これっていったいなんの料理をしているのでしょうか? とりあえず適当な大きさにジャガイモを切り、ついでに余っていた玉ねぎも一口サイズに刻んだところで、律子が戻ってきました。
「お、玉ねぎもやってくれたのか。気がきくな」
「ウサギはどうだったんですか?」
「ゼロだ。この前は設置した数分後に二羽もかかっていたのだが、どうやらあの時は運がよかっただけらしい」
「ウサギたちが学習したのかもしれませんよ。その二羽が生贄になったことによって、律子が設置した罠の存在に気づいたとか。ところで、わたしたちはいったい何を作っているのでしょうか? ポテトサラダ?」
律子は首を振ってわたしの推測を否定しました。
「いや、カレーだ。固形ルーが一箱ある」
「それを作るにはちょっと具の種類がさみしすぎませんかね?」
「肉があればまだどうにかなったんだが、手に入らなかったものはしかたがない。諦めろ」
せめて人参が残っていれば、そこそこまともなカレーになるのですが、クーラーの中身が枯渇している現状だと、芋とごはんと申し訳程度のたまねぎといった、炭水化物の塊のようなカレーしか作れません。
「氷花、あとは私に任せてくれて大丈夫だ。カレーができるまで幸の様子でも見てやっていてくれ」
「自分的には責務を果たした気がしたので、これ以上料理の手伝いを頼まれても拒否するつもりでしたよ。あとは頑張ってくださいね」
「ああ。三十分後にはできあがっているだろうから、それまでに二階にいる連中を呼び出しておいてくれよ」
「はいはい」
わたしは投げやりにそう答えてから、水を入れたコップを手に握り、救急箱から体温計を持ち出して、幸のもとへ急ぎ足で向かいました。
「幸さん、入りますよ」
扉をこんこんと二回ノックしてみましたが、反応はありません。おそらくぐっすりと寝ているのでしょう。
邪魔をしてしまうのもかわいそうなので、晩御飯ができるまでゆっくりと睡眠をとらせてあげましょうか。しかし、そうなるとそれまでわたしはどうすればいいのかという問題が生じます。一階に戻って律子の料理(残された作業は鍋に材料を放り込むだけですが)を鑑賞するか、瀬高さんと退屈な世間話を交わすか。うーん、両方却下ですね。
二階のほかの個室にお邪魔する方が有意義でしょう。時折ヒステリックな鳴き声が響いてくる佐川さんの部屋に入るのは少し怖いので、消去法で聖堂さんの部屋が手頃そうです。あの日、気まずい感じに別れてから、まだ一度もまともに顔を合わせていないのでいい機会です。
「聖堂さん、お邪魔しても大丈夫ですか?」
返事はありません。お留守なのでしょうか? いえ、そんなはずはありません。聖堂さんが二階から降りるにはわたしの部屋の前を通過する必要があり、その後も外へ行くにはリビングの横を通り抜けなければいけません。もし彼女が出て行ったのであれば気づいていたはずです。
妙な胸騒ぎがします。
「は、入りますよ」
ドアノブを回し、扉を押し開こうとしましたが、扉の裏に何か重いものが置かれているのか、軽い力では少ししか動きません。人が入れないように細工してあるのでしょうか? だとすると、わたしは招かれざる客です。彼女に会うのは諦めるべきなのかもしれません。
ですが……、入ってほしくないのであれば、さっきまでのわたしの言葉に反応しない理由が思いつきません。やはり何らかのハプニングが部屋の中で発生したと考えるのが妥当です。
わたしは体温計とコップを床に置き、足を固く床に踏ん張らせ、扉に体全体の体重を押しかけました。
――ギギーッ。
妨害していた物体を押しのけながら、 扉をゆっくりと開いていきます。そして、人一人分の隙間をこじ開け、わたしは部屋の中に駆け込みました。
「聖堂さん?」
聖堂さんの姿は見当たりません。床に布団が二枚敷かれていて、その隣にスーツケースがぽつんと三つ並んでいるだけです。
「っひ……か……」
氷で作られた蛇が背中を這い上がっているような悪寒がわたしを襲いました。背後からしわがれた不気味な声が聞こえたような…… 。
「氷花くん……」
本能に逆らえず、名前を呼ばれたわたしは声が聞こえてきた方を振り向きました。すると目に飛び込んできたのは、半分開かれた扉の横に倒れている聖堂さんの姿でした。
「聖堂さん?」
わたしは慌てて彼女のそばに駆け寄りました。
血のような赤に染まった額。苦しそうにひそめられた眉。頭の下に蓄積した汗の水溜り。外傷はなさそうですが、どんな贔屓目で見ても、健康からほど遠いとしか言いようがありません。重そうに呼吸をする彼女が、今朝の幸よりもひどい状態にあるのは間違いなさそうです。
「えっと、その……」
いったいどうすればいいのでしょうか。と、とりあえず布団の上に運ぶべき……い、いえ、ですが動かしたショックで状況が悪化してしまうかも……。い、医者を呼ばないと……で、でも、それは無理ですし……。
「律子!」
どうすればいいのかわかりません。手遅れになってしまう前にできることはあるはずです。しかし、わたしのような役立たずには思いつきませんでした。幸の時もわたしは助けを呼ぶのが精一杯でした。何をするにも律子の冷静な判断が必要でした。昔も、今も、これからも。
「律子! 律子! 律子!」
わたしは気が狂ったように、律子の名前を喉が張り裂けそうな勢いで連呼しました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます