第13話

「さてと……」


 律子が水を取りに行ったので、その間にわたしは幸の汗を拭いてあげなければいけません。わたしは台所で一度洗い直したタオルを左手に持ち、もう右手で幸の布団をまくりあげました。

 うわっ。パジャマに汗が粘着していてべとべとになっています。着替えさせた方がよさそうですね。

 どこかに着替えが入っていないかとわたしは幸のカバンの中を覗きました。スカート、漫画の単行本、意外と色気がある桃色のパンツ。どう考えてもプライバシーの侵害ですが、今はそれどころではありません。わたしは下の方に埋もれていたTシャツとホットパンツを引っ張りだし、寝込んでいる幸の隣に設置します。


「んんっ……」


 歯を食いしばりながら、苦しそうに呻く幸。


「ちょっと待っててくださいね。すぐに楽にしてあげますよ」


 わたしはタオルを手に取り、彼女の体へ向かって腕を伸ばしました。

 ――ですが、届きませんでした。

 物理的に触れられなかったわけではありません。わたしの腕は正常ですし、大した距離もありませんでした。なのに、なぜかあと一歩といったところで腕が硬直してしまったのです。


「……氷花先輩?」


 思えばわたしは昔から人に触れるのが苦手でした。

 理由は今になってようやくわかった気がします。ばい菌が感染るから? 違います。彼女に触れることが怖いから? それも正確には違います。

 わたしが人に触れられないのは、わたしが人に物理的にも精神的にも近寄りすぎないのは、相手がそれを不快に思うかもしれないと憂慮していたからです。

 それは被害妄想ならぬ加害妄想なのかもしれません。ですが、わたしは人に嫌われるのを心底恐れているのです。人との関わりを極力避けてしまうほどに。そんな恐怖心が、もっと信頼するべきだった人たちからもわたしを遠ざけていたのではないでしょうか。


 わたしはごくりと息を呑み、覚悟を決めました。

 期待しなければ、絶望しない。そんな哀れなセーフティーネットをいいわけに用いて、わたしは孤独という名の安全園にずっと潜んでいたのです。わたしは常に幸との間に一定の距離を保っていました。

 甘い言葉に一度騙されたこともあって、人との関係がトラウマになっている側面はあります。けれど問題の本質は自分の内からなるもの。関係が壊れてしまうのが怖いから――いえ、わたしの手によって壊してしまうのが怖かったのです。


「……氷花先輩、大丈夫?」


 かなり長いことおろおろと考え事をしていたので、どうやら幸を心配させてしまったみたいです。本来はわたしが彼女のことを心配しなければならない状況なのに。出会ってからそう長くないわたしに、一方的な信頼を抱ける幸のことがとても羨ましく思えます。


「はい、大丈夫ですよ」


 わたしは今から幸に信頼を返します。そう決意しました。

 汗が染み込んでひっついているシャツを、 本のカバーについているシールように、丁寧にそっと引き剝がしていきます。すると、布の下に隠されていた 薄白い肌があらわになりました。シャツをめくるごとに肌の面積は広がっていき、ついには胸元まで届い――


 ――幸は寝るときに着ない派なんですね。不本意ながら、軽い優越感に浸ってしまいました。


 いやいや、こんなことを考えている場合ではありません。わたしは頭を左右に振って雑念を振りはらい、彼女の体からシャツをすぽっと脱がせました。そして体の正面を一通りタオルで拭いてから、彼女をそっと横に転がしてうつ伏せに寝かせます。


「あっ……」


 つやがあるほっそりとした首筋にタオルを押さえつけると、幸は甘い吐息を漏らします。ちょっと力が強すぎたのかもしれません。痛みを与えてしまわないように肩の力を抜きましょう。つーっと背骨の凹凸を辿りながら、わたしは彼女の華奢な体の隅々を拭いていきます。


「ね、ねえ……」


  細々しい今にも折れてしまいそうな声を上げる幸。


「どうかしましたか?」

「ズボンも脱がせて」

「えっ…、で、ですが……」


 そ、それはさすがに少しハードルが高い――


「下が気持ち悪いの、氷花先輩……」


 し、し、下ってどこらへんの下ですのでござりましょうか? や、やめてくだしゃい! そのような目で見つめられてしまうと、拒否することが果てしなく難しくなってしまいます。


「氷花先輩……」

「幸……さん」


 わたしは両手を幸の腰に添え、ウエスト部分を握りしめました。そして体と布の間に摩擦を極力起こしてしまわないように、両側へ少し引っ張り、するりとズボンを脱がせます。ねっとりとした汗が照り輝く脚にタオルを置き、ふくよかな太ももから踵までを一通り拭きます。もうゴールは目の前です。


「下着は自分で変えられますか?」


 さすがにここから先はわたしには無理です。ハードルが高いとかいったレベルではなく、ハードルが異次元にあります。


「あの……」


 幸がごにょごにょと何かをつぶやきました。


「どうかしましたか?」


 小さな声をうまく聞き取るために、耳を彼女の顔に近づけます。


 ――ちゅ。


「……え」


 一瞬、何が起きたのかが理解できませんでした。脳内が漂白剤に浸されたように真っ白に染まり、幸の唇から熱が移ったのか、わたしの頭の温度がぽっと急上昇していく。


「え、あの、その……」


 彼女はきっと熱で気がおかしくなっているのかもしれません。そうです。きっとそうです。正常な判断能力を失っているだけです。何も深い意味は――


「水をとってきたぞ」

「ひゃい!」

「何をそんなに驚いてるんだ?」


 最悪のタイミングで律子が入ってきたので、思わず変な声を漏らしてしまいました。


「ちゃんとノックしてから入ってくださいよ!」

「自分の部屋に戻る際にノックする必要はないだろ」

「着替え中なんですよ!」

「そうか。なら話は理解できる。だがその場合、驚いて叫ぶべきなのは氷花ではなく幸のほうじゃないのか?」

「そんなことができる状態ではありませんよ。だから、わたしが代わりに叫んであげたのです」

「なるほど、そうか」


 律子に手伝ってもらって、幸に下着を含めた新しい服を着せて布団をかけ直し、わたしは水を淹れたコップを幸の口元まで運び、飲みやすいように少量ずつ注ぎました。


「幸さんは大丈夫なんでしょうか?」


 再び安らかな眠りについた幸の寝顔を不安げに眺めながら、わたしは言いました。


「医者を呼べないんだ。これ以上私たちにできることは何もない。そっとしておくのが最善だろう」

「どうにか人を呼ぶ方法はないんですか?」

「無理だ。携帯は繋がらないし、ここら辺に人はめったに訪れない。それは氷花も知っているだろ?」

「ですが、何かを考えれば――」

「三日後に迎えがくるまで、持ちこたえてもらうしかない。いくら考えても無駄だ」


 今の発言にはちょっとおでこがピキッときました。ヒビが入った感覚です。


「……どうして、幸さんを助ける努力をすることに、そんな否定的な言い方をするんですか? それまで彼女が大丈夫だという確証でもあるのですか?」

「そんなものはないに決まっているだろ」


 一考の余地も与えずに即答。わたしは彼女の答えに愕然しました。

 確かに律子の言葉には嘘も悪意もありません。そして彼女の発言はおそらく正論です。わたしがいくら考えようと、三日以内に医者を呼ぶ方法なんて思いつかないでしょう。そして律子もきっとわたし以上にこの課題について深く考えたのでしょう。

 ですが、もう少し場にそぐう言い方があるのではないでしょうか?


「なら、せめて心配してあげるべきなのでは?」

「氷花の気休めにはなるだろうが、そんなことに意味はないだろ。私たちはすでに最善を尽くした。それ以外にどうしろというのだ」

「……り、律子!」

「ねぇ……」


 幸は精一杯伸ばした手で、立ち上がろうとしていたわたしのシャツを弱々しく握りしめました。どうやらわたしたちの口論が彼女の目を覚ましてしまったみたいです。


「お願い……、喧嘩しないで」


 ひくひくと涙目になりながらも、幸は言葉を続けます。


「うちらも仲間割れしたら、どうしようもなくなっちゃうよ」


 わたしのシャツを握る手がぎゅっときつくなります。


「当然だ。私は喧嘩などしていない。自分の意見を告げたまでだ」


 律子の瞳には反省の欠片すらうかがえませんでした。ですが、それは当然の反応。彼女には自分の非が見えていないのですから。


「確かに律子の意見は正しいのかもしれません。ですが、もっと言い方というものを――」

「私は朝ごはんを食べてくる」


 言い切れる前に律子にばっさりと遮られてしまいました。


「幸、何か欲しいものがあれば持ってきてやるから、遠慮せずに言ってくれ」

「……うん、わかった。でも、今は大丈夫だよ」


  幸の返事を聞き終えると、律子はわたしたちを置いて下の階へ降りていきました。


「ごめんなさい、幸さん」


 今のうちに彼女の心配を解いておくべきですね。心持ちが悪いと熱の治りも悪くなってしまいます。


「喧嘩していたように見えたかもしれませんが、 わたしは本気で怒っていたわけではありませんよ。それについては律子も一緒のはずです。ただちょっと見解がすれ違っただけですよ。彼女とは長い付き合いですからね。喧嘩をして関係が壊れちゃうなんてことには絶対になりませんよ」

「そうなの?」


 わたしは絶対的な確信を持ってうんと力強く頷きました。


「もちろんですよ」


 少し気が楽になったのか幸はほっと安堵の溜息をつき、両目を閉じてそのまま眠りについてしまいました。

 ふふふ。彼女の穏やかな寝顔を眺めていると、思わず微笑みがこぼれでてしまいます。もう苦しんでいる様子はあまりないですし、この調子なら熱はすぐに完治することでしょう。

 わたしは布団を幸の肩までかけてあげると、 音を立ててしまわないように忍び足で部屋を出て、扉をそっと閉じました。

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