第4話

「氷花先輩」


 むむむ……。まだ周囲は真っ暗だというのに、誰かがわたしを起こそうとしつこく腕を揺すってきます。


「まだ起きるには早くありませんか? 幸さん」


 瞼をこすりながら、小声で幸に話しかけます。カチッと枕元のスマホの電源を入れて、まばゆい画面に表示された時刻は午前1時。寝付いてからまだ30分すら経っていません。


「ご、ごめんね。でも、もう我慢できないの……」

「何がですか?」

「お、おし……ト、トイレだよ。お願い、ついてきてくれる?」

「律子に頼んでください」


 ちらっと律子の方角へと視線を向けると、彼女は急に作為的ないびきを立て始めました。

 怪談大会のような馬鹿げたことをするからこうなるのです。恨みますよ、律子。


「……はいはい、わかりました」

「ありがとう、氷花先輩」


 だるい体を無理やり稼働して起床、ガクガクと震えている幸の手を引きながら階段を降りていきます。


「終わるまで、待っててね」

「えっ……。はい、わかりました」


 そんな残酷な……。

 暗い廊下で壁にもたれながらぼーっとしていると、凄まじい眠気の波が襲ってきました。少し油断すれば、わたしは崩れ落ちて床に口付けをしてしまうでしょう。


「まだ……ですか?」

「あと少し」


 なんだか、保護者になった気分です。

 しかし……、はぁ……眠い。夜が苦手なタイプなんですよね、わたし。朝も苦手ですけど。あと日が強く照っている昼間も苦手です。つまり、わたしは寝ている時がもっとも幸せだということ――いかん、いかん。

 眠気に思考が誘導されています。


 少し喉が渇いていますし、気を紛らわすために台所に水でも飲みにいきましょう。

 壁にもたれているだらけた背中をよっこらせと強引に立たせ、手で壁を伝いながら暗闇の中を進んでいきます。えっと、確かここら辺に台所の照明スイッチがあるはずなのですが――


 ――パチッ。


 ありまし……た。


 ――パチッ。


 わたしは電気を消しました。あれはきっと寝ぼけているわたしが見た幻覚です。もう一度、しっかりと深呼吸をしてから、わたしはスイッチへと再び手を伸ばします。


 ――パチッ。


 ……。


 …………。


 ………………。


 あれはなくなりませんでした。


 ――ガシャー。


 水の流れる音が、わたしの沈黙を破ります。


「氷花先輩、どうかしたの?」


 ひょっこりとトイレから出てきた幸はわたしが目撃したに気がつき、目を大きく見開きました。


 ぐったりと横たわる四脚。

 赤く染まった床。

 虚ろな目。


 わたしたちの前には血みどろの死体が転がっていたのです。


「キャー!」


 幸の悲鳴が上がると、それと共鳴するようにわたしの頭の中で鳴り出したピアノの音が繰り返し、繰り返し脳を打ち叩き、現実と空想の狭間を塗りつぶすようにその音はわたしの頭の中を真っ白に染めていきました。


***


「なん……なの、これ……?」

「誰か警察に連絡しろよ!」

「そうしたいのは山々なんだが、この島は携帯が繋がらないんだよ」

「……奈々……怖い」

「あ、あたし、は、吐きそう……」

「氷花」

「おい、氷花」

「おい、氷花! 大丈夫か?」


「えっ、あっ、はい」


 律子に三度呼ばれて、ようやく我に帰りました。


「全員揃ったぞ」


 一、二、三、四、五。そして、わたしと幸と律子。わたしたちは死体を取り囲むように集まっています。


「まだ、新宮さんの姿が見えませんが」

「……新宮はそこにいるだろ。冷静になれ」


 冷たい目でわたしを横見する律子。

 しかし、冷静になれと言われても無理があります。死というものは若いわたしたちとは無縁の存在だと思っていました。確かに死はわたしの中に概念的には存在していましたし、わたしのおばあちゃんがよく『死ぬ前にすべきこと』のようなタイトルがついた本を読んでいたことも知っています。

 でもそれは約束された死。生とのバランスを取るために定められた命の到達点。


 わたしが知っている死はこんなにも身近な場所で、こんなにも突然に、なんの脈絡もなく目前に現れるものではなかったのです。


「少し落ちついてくれ! 騒いでいてもどうにもならない!」


 未知の環境に放り込まれた動物のごとく恐慌する女子たちをまとめようと、律子は必死に声を張り上げます。しかし、それは火に油を注いだだけで、みんなの阿鼻叫喚はボルテージをぐんぐんと上昇させていく。


 ――バン!


 律子が壁に拳を叩きつけ、太鼓を叩いたかのような轟音が鳴り響きました。すると、効果は歴然。あれだけ喚いていた彼女たちは一瞬で静まり返ります。


「私のパパがこの島へ私たちを迎えに来るまでまだ六日ある。それまではこちらから外へ連絡を送るのは不可能だ」

「じゃあ、いったいどうすればいいんだよ!」


 怯えている美々さんの頭を胸で支えながら、奈々さんは律子に怒鳴り返します。


「何もしなくていい。私たちは警察ではないし、探偵でもない。この事件の後始末は大人に任せておけばいい。私たちはこれを不幸な事故だと捉え、当初の想定通り残りの六日間をここで過ごすしかない」


 正論でした。この事件はわたしたちのような、平凡な中学生にどうにかできるような事柄ではありません。フィクション小説のようにヒーローが現れて問題をぱぱっと解決したり、天才が現れて謎をちゃちゃっと解き明かしたりしてくれたりはしないのです。

 他の方たちには内心納得できなさそうな顔つきの者もいますが、誰も律子に反論しようとはしませんでした。


「新宮の体は私が片づけておく。明日、もう少し皆が冷静になってからどうすればいいかを考えよう」


***


 窓から射しこむ月明かりに照らされた部屋の中。布団まで戻ってきたのはいいものの、全くもって眠れる気がしません。

 なるべく早く現実から遠ざかりたいわたしの胸中は、眠れ眠れと催眠術師のように念じかけてきますが、上では頭が金槌で叩かれているかのような激痛が走り、下ではぎりぎりと胃が自身の表面をやすりで擦っているかのような苦痛が続いているので、眠気が全て痛みに上書きされてしまうのです。


「氷花、幸、まだ起きているか?」


 わたしが四苦八苦しながら粘着質なストレスと戦っていると、律子が個室に戻ってきました。


「起きていますよ」

「うん、起きてるよ」


 どうやら眠れなかったのは、わたし一人ではなかったようです。


「少し話がある」


 律子はそう言って自分の布団の中に潜りこみました。そして、近くへ来いとわたしと幸に手招きをします。逆らう体で必死に這いながら律子のもとまでたどりつくと、彼女はひそひそと小さな声で話し始めました。


「新宮は誰かに殺された」

「え? 自殺じゃないの?」


 幸は目を大きく見開き、驚きの表情を浮かべます。


「確証があるわけではないが、私はその可能性が高いと見ている。死体を確かめていた時に、気になる点が幾つかあった。まず、自殺にしてはナイフの刺し方が不自然だった。自殺の場合、人は痛みを恐れて少しためらってしまうことがよくある。だから、何度か小さな傷をつけてから止めを刺すことが多いのだが、彼女には大きく抉られた傷が胸の辺りに一つしかなかった。二つ目の点は周囲が不自然に荒れていたことだ。ソファのクッションや、居間に置いてあったリュックの中身が散らかされていたんだ」

「つまり、誰かと争っていた形跡かもしれないということですね」

「その通りだ」


 ついさっき私たちは探偵ではないとか偉そうに言っていた割には優れた洞察力です。


「わたしたち以外の誰かがこの島にいるんですか?」

「いや、その可能性は低いと思う。扉には鍵がかかっていたし、割れている窓は見当たらなかった。第三者はこの建物の中に入れないはずだ」

「となると犯人は……」


 部員の中の一人だということになります。


「で、でも、そんなことをする子がいるわけ……」


 幸は律子の言葉を信じられないみたいです。まあ、それもそうでしょう。本来はわたしのように客観的にすんなりと受け入れてしまう方が間違っているのですから。

 それに、わたしにとっては他人同然に近いものの、幸とこの別荘に来ている女子たちはみんな部活仲間なのです。もし友達が殺人犯だと言われても、誰もすぐに鵜呑みにはしないでしょう。


 だとすると、同じ部活仲間である律子はなぜそう簡単に殺人だと言い張れるのか、という疑問が湧きますが、なんというか、彼女は昔から単刀直入に物を言えてしまう人なのです。

 決して彼女に悪意があるわけではありません。学校では優れたリーダーシップ能力を持つ、誰にでも救いの手を伸ばす優しい人だと思われていますし、実際のところわたしもそう思います。

 律子が単刀直入に物を言えてしまうのは、彼女が感情に惑わされずに行動できてしまう、とても珍しい人間であるから。そんな単純明快な理由でした。

 だから律子がわたしたちを見る視線は、遥か上空からわたしたちを見下ろしている神様の視線。優しそうだけど、どこか無頓着。彼女の眼を覗いていると、わたしは時折そのような感想を抱くのでした。


「私も信じたくはない。だが、状況証拠を考慮するとこれが事実である可能性が高い」

「つまり、律子はわたしと幸さんも疑っているのですか?」

「違う、逆だ。氷花と幸が犯人である可能性が無いから私はこれを話しているんだ。この中の三人で最後に二階へ上がってきたのは私だ。そして私たちは氷花が幸をトイレに連れて行くまで、この部屋から一歩たりとも出ていない。つまり、犯行が発生したのはわたしたちがこの部屋の中にいた間だ」


 なるほど。わたしと幸にはアリバイがあったから、律子は自分の考えをあっさりと打ち明けたのですか。犯人にこの話をしたら、口封じするために殺されてしまうかもしれませんしね。納得できる推理ですが、一つの可能性が抜け落ちています。


「わたしと幸がトイレへ行った時に殺したのかもしれないじゃないですか」

「それはありえない」

「どうしてそう断言できるんですか?」

「氷花は幸がトイレにいる間に死体を見つけたんだろ? つまり、幸の単独犯行はありえないことになる。共同犯行も幸と氷花が昨日まで他人同士だったことを考えるとありえない」

「では、わたしの単独犯行は?」

「氷花が殺人を犯すわけがないだろう」

「それは理由になってませんよ……」


 先ほどまではしっかりと筋が通っていたのに、急に感情論になってしまっています。さっき「律子は感情に惑わされないぜ、キリッ」と説明していた自分が恥ずかしい……。


「音が鳴らなかった。もし、氷花があの短い間に新宮を襲っていたのなら、彼女は抵抗していたはずだ。なのに、下の階から大きな物音は聞こえてこなかった。これでいいだろ?」


 そんな、適当な……。まあ、わたしが殺人犯でないのは、わたし自身が一番よく知っているのでよしとしましょう。


「じゃあ、残りの五人は誰も信用できないってことなの?」

「現状ではそうなるな」


 気を落ちつかせるための傷心旅行のつもりだったのですが、どうやらとんでもないことに巻き込まれてしまったみたいです。


「信用できる理由が見つかるまでは、他の連中にはこの話をしないように気をつけてくれ。殺人犯に狙われてしまうかもしれないからな」


 そう言うと、律子はそのまま目を閉じてしまいました。幸も彼女に続いて自分の布団の中に潜りこみます。

 残念ながら、わたしは未だに腹痛と頭痛に苛まれているので、彼女たちのようにすんなりと眠りにつくことはできませんでした。

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