第3話

 夕日の優しい温もりが島全体を包み、海がトマトスープのような色に染まりました。お腹の虫が鳴き始める頃合いなのか、リビングでくつろいでいる奈々さんと瀬高さんは、延々と飯コールを繰り返しています。幼稚な光景……ですが、実はわたしもお腹がすいているんですよね。ちょっと催促してみましょうか。


「律子、まだですか?」

「ちょっと待ってくれ。あと少しでグリルに火が着く」


 窓の外から聞こえてくる律子の声。お察しの通り、今夜の晩餐はキャンプの定番バーベキューです。


「おい、美和! 遅いぞ!」

「律子ちゃん、律子ちゃん! はらぺこだよ!」


 室内でまだかまだかと律子を急かしている連中はクーラーに入っている上質な牛肉やラム肉を食べたくて、食べたくてしかたがないのでしょう。

 ちなみに、わたしは肉を食べてしまうと胃もたれしてしまいそうな気分なので、野菜しか食べない予定です。


「うぐっ……げほっ、げほっ」


 グリルとの死闘を繰り広げている律子をぼんやりと眺めていると、風向きが急に変わり、グリルから放たれた煙が開いた窓からもくもくと突入してきました。

 もう数分待てば食べ頃でしょう。


「うめぇー! 美和、お代わりくれ!」


 お皿を空高く掲げ、元気いっぱいに二皿目へと突入する奈々さん。


「肉ばかり食べたらダメ……」


 奈々さんの隣に座っている美々さんは、気が落ち着かない子犬のようにおろおろとした表情をしています。どうやら、奈々さんのことを心配しているみたいです。


「いいじゃねーか。ママがいない時ぐらい好きなものを食わせろよ」

「ダメ……。奈々、病気になっちゃう……ひぐっ……」

「あーもう、わかったよ。野菜もちゃんと食べるから泣くなよ。本当にめんどうくさい奴だな、お前って」


 姉妹は羨ましいですね。まあ、表面上の美しい一場面だけを見て判断しているだけなので、もしかしたらドロドロのドラマが裏で展開されているのかもしれませんが。

 とはいえ、少なくともわたしのような一人っ子よりは楽しそうです。


「栞、あーん」

「いいよ、そういうのは。それに今日はちょっと体調が悪いから肉はあんまり……」


 否定の言葉を告げながら、まんざらでもなさそうな顔で口を開く新宮さん。仲良しこよしさんたちは仲が良さそうでなによりです。……ドロドロのドラマに潰されてしまえばいいのに。


「氷花先輩もお肉食べる? 美味しいよ」


 お皿の上に野菜ばかり並べているわたしを気にかけてくれたのか、幸は自分のお皿に乗っていたラム肉をお箸の間に挟み、その忌々しいぷりっぷりな姿をわたしの目前まで届けたのです。

 じっとりと垂れ続ける金色の肉汁、わたしの中に眠る野生本能を目覚めさせる芳醇な香り、もくもくと舞い上がる熱々の湯気。「いつ食べるの?」と聞かれたら、今としか答えようがありません。

 ですが――


「え、遠慮しておきま……い、いや、でもやっぱり……」


 わたしを誘惑して心を揺らがせる悪魔の羊。しかし、まだ甘い。わたしの強靭な精神に打ち勝つには、この程度の――


「ください」


 頭では我慢できていたつもりだったのですが、口の方はとっくに限界だったようです。


「はい、氷花先輩。あーん」

「ありがとうございます、幸さん」


 自分のお箸が幸のお箸に触れてしまわないように気をつけて受け取り、欲望に飲まれるままわたしはラム肉を丸ごと頬張りました。口内に広がる絶好の酸味、甘味、そして旨味。究極のトリプルコンボです。

 後悔はありません。


「もう……」


 何故かふくれっ面をしている幸がぶつぶつと呟いていますが、うまく聞き取れません。


「どうかしましたか?」

「なんでもなーいよーだ」


 幸はそっぽを向きながら、投げやりな返答をします。もしかして、知らぬうちにわたしは彼女に何か無礼なことをしてしまったのでしょうか? お箸がちょっと触れてしまったとか。もしくは、全体ではなく差し出した肉の一部だけを分けようとしていたとか。はぁ……人間関係というものはどうも苦手です。


***


 うっ……お腹が痛い。

 シャワーを浴びた直後、わたしは激烈な腹痛に襲われました。やはり肉は控えるべきでしたね。ものすごく後悔しています。

 逆らう体と戦いながら、わたしは勇敢なゲリラ戦士のごとく二階の寝室へ向かって階段をよじ登っていきます。そしてようやく部屋までたどりつくと、幸が既に布団を敷き終えていました。

 少しでも楽な姿勢になろうと、わたしは真っ先に布団の上にどでーんと寝転がります。


「おっ、みんな揃っているな。よし。では、早速怪談大会をするぞ」


 わたしの後に続いて律子が部屋に飛び込んできました。

 周囲の面々に有無を問わない強引な物の運びですが、一人はこのような方がいないと、わたしを筆頭としたほとんどの優柔不断な人間は永遠に何もできませんからね。必要悪のようなものでしょうか。


「こ、怖いのは苦手だよ……」


 まだ始まってすらいないのに、幸は布団を被ったままぶるぶると震え、わたしの腕にしがみついています。


 今夜この部屋で一緒に過ごすのは、律子と幸とわたしの三人です。仲良しこよしの新宮さんと佐川さん、そして瀬高さんは二つ目の部屋。聖堂さんと雉岡姉妹は三つ目の部屋。


「ならば、なおさらやるべきだとも言える。怖がってくれる人がいないと怪談は退屈だからな」


 悪魔じみた引きつった笑みを浮かべながら、律子はカチっと電灯の紐を引っ張り、部屋から明かりを消しました。


「では、私から始めるぞ」


 微かに開かれた窓から吹き込む凍てついた冷風。ギシギシッと外から響いてくる不穏な音。

 ムードは完璧です。


「これは私が――」

「ひっ!」


 律子が口を開いた瞬間、幸は布団の中に潜り込んで、ふんふふんと鼻歌を歌いだしました。怯えだすタイミングが早すぎませんかね……。


「もう一度、最初から始めるぞ。これは私が中学生だったころの話だ。ある噂がクラスの中で流行っていた。その内容は深夜零時の学校に訪れ、屋上まで登って、そこで好きな子の名前を叫べば恋が叶うという話だった。そこで私と二人の友人は、一緒にそれを試してみようという話になった。一人で登るのは心細いが、三人ならお互いを支え合えると思ったからだ。その日の夜、私たちは校門で待ち合わせをし、校内へと忍び込んだ」


 幸の鼻歌が途切れました。あれだけ怖がっていたのに、彼女も律子のお話に耳を澄ませ始めたようです。


「私たちは無事に廊下を通り抜け、何事もなく階段を屋上まで登りきった。友情の力で儀式をやり遂げたのだ。思い上がった私たちは、深夜だというのにキャッキャと屋上ではしゃいでいた。そして、運命の時は訪れた。流れ星が空に掛かったのだ。テンションが上がっていた私たちは恥を忘れ、大声で好きな子の名前を叫んだ。しかし、それがまずかった。私の友人二人は同じ男子の名前を叫んだのだ。気まずい沈黙が私たちの間に亀裂を生んだ。その後、二人はろくに言葉を交えぬまま、私たちは家へ帰ることになった。そして、階段を降っている最中だ。同じ名前を叫んでしまった子の一人が、もう一人を両腕で思いっきり突き飛ばしたのだ」


 ――ドダダダダダダ!


「きゃーっ!」


 廊下から響いてきた音に驚かされた幸は、母性本能をくすぐる可愛らしい悲鳴をあげました。どなたかが、やけにタイムリーな具合に階段を駆け降りたのでしょうか。律子のことですから、このタイミングで階段を降りるよう誰かに頼んでいても不思議ではありません。

 わたしはぽんと拳でもう一方の手のひらを叩きました。


「なるほど。これが、本当の怪談(階段)ですね」


 自分で言うのもあれですが、座布団を一枚貰えそうな名言です。


「茶々をさすな。まだ途中だぞ。突き飛ばされた子は階段を転げ落ち、意識不明の重体になってしまった。私はすかさず救急車を呼んだのだが、打ち所が悪かったらしく、次の日、私は彼女が病院で亡くなったを学校で知った。一方、彼女を突き飛ばした私の友人が罪に問われることはなく、この一件は不幸な事故として収束した……はずだった。だが、私の友人に異変が起き始めた。彼女は階段を登ることができなくなったのだ。ある日、音楽の授業を受けるために私たちは二階の音楽室へと向かったのだが、階段の前にたどりついた刹那、私の友人は『○○ちゃんがいる!』と何かに取り憑かれたかのように死んだ友人の名前を叫び出し、身動きが取れなくなってしまった。いわゆる金縛りというやつだ」


 布団の下でガクガクブルブルと震えていた幸の動きが止まりました。呼吸の音も聞こえなくなったので、気絶している可能性が高そうです。


「どうだ? 怖かったか?」

「んんー、そうですね。面白かったと思いますよ。それなりに」

「その反応は、微妙だったということだな……」


 律子は肩をガックリと落とし、幽霊のように真っ白な意気消沈した表情を浮かべ、布団の中に潜り込みました。

 うっかり言葉の選別を誤ってしまったのでしょうか? 褒めたつもりだったのですが、律子をかなり落ち込ませてしまったみたいです。困りましたね……。どこが怖かったか具体的に言えば少しは機嫌を直してくれるかもしれません。


「躊躇なく友人を階段から突き落とせる律子の友人はかなり怖かったですね」

「オバケなんかより人間の方が怖いってやつか? ははは、氷花らしいな」


 想定していた反応とは違いましたが、苦笑だったとはいえ律子の顔に笑みが戻ったので良しとしましょう。

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