第2話
ゆーらゆーらと波に流されながら、わたしはふあーっと大きな欠伸をします。浮き輪の真ん中にはめられたお尻が海水に程よく浸かっており、ひんやりとした気持ちいい感触が下半身を包みます。ぽかぽかとした日光のせいか、少し眠くなってきました。
海岸の方ではわいわいがやがやとスイカ割りが行われていますが、わたしは海の上で一人、ぐうたらサーフィンを楽しんでいます。わたしは朱に交わっても、海のようにクールな青色を突き通す主義なのですから仕方がありません。孤高の美少女(自称)なんです。
とはいえ、皆が皆大衆とつるんでいるわけでもなく、最近彼氏ができたと話題の
そういえば、幸はどこへ行ったのでしょうか? 律子は砂浜でスイカ割りを取り仕切っているようですが――
「ばあっ!」
「きゃ!」
へ、変な姿勢をしている時に驚かしたりするから、あ、足をつってしまいました……。
「びっくりした?」
へへん、と小悪魔的な笑顔を浮かべている幸はわたしの浮き輪に腕を休ませます。
「三年ぐらい寿命が縮みましたよ……」
水面からいきなり顔を出すのは反則です。
「うちも乗せてくれる?」
「別に構いませんが……、狭いですよ?」
「大丈夫、大丈夫。うち、小さいし」
幸はばしゃばしゃばしゃと、足を水面と垂直になるようにばたつかせながら体を浮上させ、わたしの真横によいしょと飛び乗りました。
わたしはスペースを空けるために少し体を横へと移動させます。
「浮き輪はらくちんだね〜」
馴れ馴れしく寄り添ってくる幸はびしょびしょに濡れていて、冷たい水がわたしの肌にお裾分けされているのですが、あまり不快な感じはしませんでした。むしろ、彼女の態度の暖かさに少し和んでいます。
「うわぁ、アマモがいっぱい生えてるのがよく見えるね。マガタマモもあるよ。水がすごい澄んでる」
水中を覗きながら幸はきゃっきゃとはしゃぎます。
「海藻に詳しいんですか?」
「別にそこまで詳しいってわけじゃないけど、植物の図鑑とかを調べるのが好きなんだ。結構いろいろな可愛いのがあって見ていて楽しいの」
彼女があまりにも楽しそうに語るので試しにわたしも水の中を覗き込んでみましたが……まあ、全部ワカメでいいですよね。緑色だし、くねくねしていますし。
「ねえ、氷花先輩」
「どうかしましたか?」
「結構、大きいね」
先ほどまで水面に向けられていた彼女の視線は、現在わたしの胸に釘づけです。ちょっと恥ずかしい。
「まあ、脂肪ですけどね」
指摘されるたびに、そろそろダイエットしなくてはと思ってしまいます。最近、体重がちょっと危ういんですよね。腕の贅肉もぶよぶよですし。
「うらやましいなあ。うちのは小学校の頃からほぼ変化なしだよ」
「それはそれで、一定の層に需要があるらしいですよ?」
「でも……、そういうのってほとんど変な人じゃん」
ちょっと偏見の度が過ぎているような気もしますが、気持ちはわかります。
「ねえ、氷花先輩って、暇な時は何をして遊ぶの?」
幸は話題を切り替えました。まあ、胸に関する話題は限られますよね。特に面白くもありませんし。
「暇な時ですか……」
しいて言えば――呼吸? でも、彼女が求めている答えはそれではありませんね。幸はおそらく、わたしの趣味を聞き出そうとしているのです。
「音楽鑑賞とかでしょうか」
「本当? どんなのを聴くの?」
「そうですね。一番好きなのは……エリック・サティですね」
彼の曲が奏でる幻想的な旋律はいつもわたしの心を落ち着かせてくれます。奥ゆかしい音色に耳朶を寄せると、なんともいえない夢心地な気分になります。現実と空想の定義が曖昧になっていき、さっきまで感じていた不安や心配がとても些細なものに感じられるのです。
ちなみに、もっとも気に入っているナンバーはジムノペディですね。なかなか寝つけない夜は、よくその曲をループ再生させます。
「エリック? 外国のアーティスト? なんか、かっこいい名前だね」
きょとんと子犬のように首を傾げていますが、幸の発言は一応正解です。
わたしが語るサティと、彼女が思い描いている人物像はおそらくかけ離れているでしょうが。
「でも、うちはあんまり音楽とか聴かないから、よくわかんないや。ごめんね」
わたしはほっと安堵します。
クラスの女子と音楽について会話していると、すぐに流行りのJポップへと話の本筋が移ってしまうのが本当に苦痛なんですよね。あの単調な騒音のどこがいいのか、わたしには全く理解できません。
「幸さんは暇な時、何をして過ごすんですか?」
「うち?」
幸はう〜んとうなり、ゆっくりと首を後ろに倒して空を見上げます。
「うちは……弟とテレビゲームとか遊んでるかな」
「テレビゲームですか。すみませんが、わたしはそういうものに関する知識にはちょっと疎いので――」
「大丈夫だよ。うちも別にそんなに詳しくないし」
あらら。
もしかして、趣味の話ではなく、本当に暇な時の過ごし方について聞いていたのでしょうか?
脳内だったとはいえ、少し語ってしまったわたしが恥ずかしい……。
共通の話題を見出せず、そこでわたしたちの会話は途切れてしまい、空虚が浮き輪の上を包み込みます。ですがこれは気まずい沈黙ではなく、眠たそうな赤ん坊をあやしている母親のように、静けさはわたしを安心させました。耳に入るのはしとやかな波の音と、ビーチから届く元気な女子たちの騒ぎ声だけです。
***
別荘へ戻り、水着から普段着へとチェンジすると、次は晩ご飯の支度に取りかかることとなりました。
作業を効率化させるために、わたしたちは三つのグループに分担され、わたしと幸と美々さんは島の外から持ち込んだ物を整理する仕事をくじで割り当てられました。春とはいえ、外は真っ先に泳ぎたくなるほどには暑いので、焚き木集めや釣りを任されなくて一安心です。
手始めに新品の食器が詰まったプラスチックのケースを開きます。えーっと、確か律子はこれらを洗ってから戸棚に入れるようにと言っていたような。早めに作業を終えて他の仕事を手伝うことになってしまうと災難なので、ここは一枚一枚丁寧に洗うべきですね。
梱包紙を広げると、なんともいえないプレーンな柄の白いお皿が出てきました。
「洗剤とスポンジはありましたっけ?」
「そういえば、見てないね」
わたしが尋ねると、別荘に置いてあった新品のバーベキューグリルを組み立てている幸が真っ先に答えます。
律子の荷物を探っている美々さんもこちらを向き、顔を横に振りました。
どうやら、持ってきていないようです。……水洗いでも大丈夫ですよね。
水道水でさーっと表面と裏面を流す。白いタオルでつーっと水滴を拭う。棚に直す。リピート。
延々と前述の手順を繰り返していると、ケースの中の食器は初期の半数ほどまでに落ち着きました。あともう一息です。
「氷花先輩、手伝おっか?」
幸がカウンター越しにわたしの頬を突いてきました。彼女はすでに自分の作業を終えているようです。
「では、そちらに重ねたお皿を棚に直してくれますか?」
「うん、了解!」
役割分担によって生みだされるシナジーが食器洗いを促進させる……と思っていたのですが――
「氷花先輩、届かないよ。入れてくれる?」
「はいはい」
手袋を剥いで流し台の隅に掛け、幸からお皿を受け取ります。そして、上の棚に収納。さて皿洗いに戻りましょう。
「氷花先輩、また届かないよ〜」
「はいはい」
なんだか、過程が増えているような……。
彼女のアシストを否むべきなのですが、幸は善意からわたしを手伝おうとしているので断りづらい。はてさて、どうすればいいのでしょう。
「ううっ」
幸はむずむずと震え、閉じた口を這い回るみみずのようにくにゃりと歪めます。
も、もしかしてわたしの軽薄な態度から邪魔者扱いされていることに気づき、傷ついてしまったのでしょうか? だとすると、すぐに謝らなくては。
「お、お腹が痛い……。ちょっとトイレに行ってくるね」
幸はだだだと廊下を走り抜け、どどどと階段を駆け上がって行きました。
お花をプレゼントしたら許してくれるだろうかなどと考えていたら、一人で摘みに行ってしまいました。何はともあれ、これでようやく効率的にお皿が洗えますね。
るんるんと口笛を吹きながら作業を再開すると、どなたかの凛々しい声が玄関からわたしの耳へ届きました。
「そろそろ出発しよう」
声を頼りに顔を思い浮かべることには成功したのですが……名前は……えーっと……。なんでしたっけ?
「栞、準備できた?」
「うん、できた」
こちらの二人は、仲良しこよしの新宮さんと佐川さんですね。
確か彼女たちの班の仕事は釣りです。箱開けや焚き木拾いと比較すると、準備に手間がかかる仕事ですが、一時間以上掛けるのはどうかと思います。
う〜ん、もう一人の子の名前は何でしたっけ。頭をいくら捻っても頭文字すら思い浮かびません。同学年なので顔見知りのはずなのですが……会話したことが一度もないんですよね。
「僕は先に海岸まで行っているよ」
「オッケー、真央。私たちもすぐに追いつくからね」
思い出しました。茶道部と剣道部を兼ねており、並大抵な男子よりもクラスの女子に人気がある、魅惑的な容姿を有したイケメン美少女。彼女の名前は
ルックスだけでも十分キャラ立ちしそうな逸材ですが、彼女は剣道にも非常に長けており毎年全国大会に出場して一位二位を争っている――という噂を聞いたことがあります。
「奏、出発する前に、はい、これ」
「え? 何々? ……っわ、可愛い! これ、私に?」
「そうだよ」
「ありがとう、栞!」
ばっと抱きつく音がわたしの耳に届きます。流石に友情ごときに嫉妬するほどわたしは落ちてはいませんが、少し羨ましいです。
「ねえ、美和!」
「あ、ひゃい」
唐突に呼ばれたので、思わず間抜けな返事を返してしまいました。
佐川さんはどうしてわたしの名前を呼んでいるのでしょう。一応同じクラスですが、気安く呼び捨てできるような仲だった覚えは全くありません。
「あっ、律子は外にいるんだっけ。まあ、どっちでもいいや。台所の机の上に置いてある古いやつを捨てておいてくれる? 栞から新しいのを貰っちゃったんだ」
「はいはい、わかりました」
わたしがそう答えるとガチャンと扉が閉まりました。人に物を頼む態度じゃないですよね、あれは。ちょっと人使い荒くないですか? 頼みごとをするのなら、ありがとうの一言ぐらい告げて欲しいものです。
きっと、友人からの贈り物が彼女の心を酔わせているのでしょう。プレゼント程度で有頂天になっていては、将来近いうちに絶望を見ますよ。先週のわたしみたいに。
まあ、大した労力がかかる依頼というわけでもないので、ついでにやって差し上げましょうか。
とりあえず佐川さんが口にした「古いやつ」とやらを探しま――これですね。意外と簡単に見つかりました。台所のカウンターの端に置かれている錆びついた水筒です。昔は鏡のように光を反射させる純潔なスチールを纏っていたのでしょうが、現在は荒れた肌のように至る所が傷や茶色いあざに侵食されていました。
さてと、これを捨てるついでに、溜まってきた梱包紙も持って行きましょうか。
「氷花先輩、皿洗いの続きしよ!」
体調を復活させた幸が威勢良くキッチンへと舞い戻ってきました。
「皿洗いはもう全部終わりましたよ。なので、ちょっとゴミを捨ててきますね。何かついでに持っていって欲しいものはありますか?」
「じゃあ氷菓先輩、バーベキューグリルの箱とか、それの組み立て用の部品が入ってたプラスチックの袋とかも捨ててきてくれる? その間にうちはグリルを表に出しておくね」
「わかりました。雉岡さんも何かありますか?」
わたしがそう問いかけると、美々さんは地上最悪の辱めを受けたとでも言わんばかりに、顔面を熟したトマトのような色に染め、頭を俯けるとそのまま微動だもしなくなりました。
「美々ちゃんは恥ずかしがり屋なんだよ。奈々が一緒にいないと話せないんだ」
恥ずかしがり屋で許される程度を超えています。これは病気レベルの人見知りです。
「では、行ってきますね」
「うん……って、それは……」
幸がわたしの右手に収めた水筒を指差します。
「え? あ、これですか。大丈夫ですよ。佐川さんに捨てておいてと頼まれたので」
「なんだ。なら、問題ないのかな」
「それより、幸さんは一人でグリルを持ち出せるんですか?」
「タイヤが付いてるし、余裕だよ」
幸がえーっいと力みながら押すと、グリルはほんの数センチほど動きました。押した方角とは真逆に。
***
ゴミ捨て場は台所から裏口へと出た先に配置してあります。
梱包紙などが詰められたバーベキューグリルの箱を一旦地面に接地し、ドアノブをくいっと捻って扉を押し開くと、むわーっとした太陽の熱気と、べっとりとした海の潮風がわたしの顔を襲いました。
やはり、アウトドアは苦手です。さっさと用事を済ませて安全な室内に戻りましょう。
別荘の壁に沿って進み、目的地へと向かいます。
「おっ、氷花じゃないか」
よいしょと箱を地面に置くと律子に声をかけられました。
「律子ですか。こんなところで何をしているんですか?」
「焚き木集めだ」
「到底そうは見えないんですが……」
木が一本たりとも存在しない、別荘の裏庭の小さな原っぱで枝を集めるのは無理があります。
「まあ、心配するな。私は前にもこの島で焚き木を集めたことがあるからな。初めてここへ来た部員たちの楽しみを奪ってしまうのは可哀想だから、少し手を抜いているだけだ」
苦しい言い訳ですが、律子が言うと様になる不思議。
「そんなことより、氷花。この景色を覚えているか?」
律子が指差したのは原っぱの先にある広大な海です。太陽の光を反射させた水面はキラキラと星空のように輝いており、魚が跳ねて表面を揺らします。
懐かしいような、新しいような。見たことがある気がするのになぜか違和感を覚えてしまう不思議な光景。まるで海がわたしの思い出を、その分厚い水の層で覆い隠してしまっているかのような感覚。ですが、そのような迷いも海の穏やかさに宥められ、とても些細なことだと思えてしまいます。
「覚えているような……。覚えていないような……」
「私たちが一緒にここを訪れたのはもう十年以上前のことだからな。無理もないか」
そう言うと、律子は海へ向かって走り出し、原っぱの端っこで立ち止まりました。つられてわたしも彼女の後を追います。
「近くで見たら何か思いついたか?」
丘の急な斜面を前にすると思わず足がすくんでしまいます。うっかり一歩踏み出せば崖を転がり落ちて、永遠に帰らぬ者となってしまうでしょう。……悲劇のヒロインっぽくてちょっと格好いいかも。
「一緒にここを降りたのを覚えているか?」
「え? この下は海ですよ?」
「今はそうだな。けれど、この沖は年に一度だけ大引き潮が訪れるんだ。その日だけはこの島と陸地が砂の道で繋がる」
彼女の説明を聞くと、脳の奥深くに潜んでいた思い出が、開かれたダムから溢れ出す水のように湧きでてきました。違和感の正体はおそらくそれだったのでしょう。
「それを一緒に渡ったんですね」
うむ、と律子は頷きました。
「ちょうど今がその時期なんで、運が良ければまた一緒に見れるかもしれないな」
年に一度だけ、海の中から現れる砂の架け橋。なんてロマンチックなのでしょう。
「見れるといいですね」
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