お題:「おかえり」
むせかえるような血の香りが、濃い土くれの匂いに混じってツンと鼻をさす。
大地を揺るがす振動と、飛び散る地表の砂礫たち。
ところどころに煙が立ちのぼり、晴天は今、黒く穢されていた。
「サム! しっかり腹ァ押さえてろ!」
そう言った男性は、太刀筋もかくやという鋭い視線を、迷彩のヘルメットの下から覗かせる。
「……だめだ、レナード。やっこさん、出てぇ出てぇってグズって聞きやしねえぜ」
塹壕の土塀に背をつけ、機銃の連射の音を聞く。乾いた破裂音が秒速の速さで連なり、頭上を駆け抜けていく。
サムと呼ばれた男性の腹からは、おびただしい量の血が流れ出していた。
既に迷彩服は、血のせいで黒く変色している。
彼の片足もまた、黒く濡れていた。
先の鋭い視線の男性、レナードは、ふっと息を吐くと瞬時に振り返る。
そのひねりに力を乗せ、ピンを弾いた手榴弾を、遠く、塹壕の向こうへと放り投げる。
3、2、1──。ド、と鼓膜を叩く音がして、地表面がえぐれた振動が背に響いた。
お互い肩で息をし、全身は土まみれ。
レナードの、ただでさえ眉と目の間が狭い男らしい顔が、眉根を寄せた事によって、よりいっそう厳めしいものになっていた。
「動くしかない。肩を貸す。立て」
「男前に身体を委ねられるとは、光栄だねえ」
「軽口はよせ」
「オレから軽口を取ったら何も残らねえよ」
体重が何倍にもなったかのような緩慢な動きで、サムは立ち上がる。それと同時に、じわ、と服の染みが広がっていく。片腕は腹を押さえたまま、片腕はレナードの首に回し、びっこを引きながら歩いていく。
ヘルメットのつば越しに見上げた空は、いつの間にか雲が厚く、曇り始めていた。
サムの土にまみれた頬を、汗がだらりと落ちていく。
「最後にポルチーニ茸のリゾット食いてえなあ……」
「帰ればいつでも食べられるだろう」
「帰れると思うか? これで」
サムが片眉を上げ、自らの腹を顎でしゃくる。
背後では、近くの塹壕に砲撃が叩き込まれる音が聞こえた。
「思うか、思わないかではない。帰るんだ」
塹壕に、かすれた口笛の音が響く。
「さすがだよレナード、俺が女だったら、今すぐ服を脱いで叫んでるはずだぜ、抱い──」
音が、消えた。暗褐色の土が、宙を舞い、雨のように降る。サムは、思わず衝撃でふらつくが、レナードのがっしりとした厚い体躯が、しっかりとその身体を受け止める。
「軽口は寄せ、と言っただろう。注意力が散漫になる」
わんわんと鳴る耳鳴りの向こうに、途切れ途切れの言葉。
声は聞こえなくても、レナードの透き通る様な青い瞳が、不満を訴えているのがありありと見て取れる。
「へいへい。じゃあこれから俺は、何も残らない俺を演じることにしますよ」
下唇をつきだして肩をすくめるサム。レナードは、それを無視して辺りを注意深く見渡すと、また歩き出す。
「サム、そもそも、お前まだ嫁を取っていないだろう。嫁も取らずに死ぬ気なのか?」
「村の中じゃあ、お前が一番最後まで結婚しねぇと思ってたんだけどなぁ、レナード。まさか堅物潔癖のお前が一番先にゴールインだぜ? 神様は何考えてんだ」
「おまえが遊び歩いているからだろう」
「耳が痛すぎて腐り落ちそうだよ、旦那」
「家族になるなら、アイシャしかいない。そう、昔から思っていただけだよ」
妻の事を口にしたレナードの顔は、彫りの深い強面からは想像出来ないほどの優しさに満ちていた。
まるで、春の日差しを見つめるような温かな眼差し。
ああ、俺は、こいつだけは生きて帰さなければならないな、とサムは思った。
レナードを生きて戦争から帰す。そのためには、自分なんて足手まといはいなくなった方が良いのだろう。腹の辺りを押さえた手に力がこもる。
でも、自決しようにも銃も無い。ひょっこり塹壕から頭を出せば良いのだろうが、足をやられてまともに背も伸ばせない。くそっ、死ぬことを考えたら、急に手が震えてきやがった。生きてえなあ……。
「おい、しっかりしろ! バンカーが見えたぞ! もうすぐだ!」
ふと意識が遠くなりかけているサムの耳元で、レナードが叫ぶ。
数十m先に、灰色の壁が見えてきた。
銃口を突き出す穴の空いた、堅牢な鉄筋コンクリートの直方体。
十数人程が収容出来そうなその場所なら。
「死に体のオレにまだ闘えってのかよ。神様ってえのはほんと意地わ──」
質量のある物体が、風を切る音がした。
遠く小さかったものが、まばたきの間に近く、大きく聞こえる。
その風鳴りは、まるで、死神の口笛のようだった。
音に振り返ったところでもう遅い。鼻につく火薬の匂い。レナードが目にとらえたのは──。
「………アイシャ」
地表をえぐり、雨をぶち上げる。視界をかき消す閃光。
◆
軍服を脱いだ男が、村の入り口に立っていた。
木で作られた柵に取り囲まれた、小さな村だ。
養鶏が盛んで、近くの森ではポルチーニ茸が良く取れる。
男は、簡素な石積みの家の間を、緩慢な動きで歩いていく。
皆、一様に喜んではくれるが、その笑顔には、どこか寂寞としたものが透けて見えていた。
当たり前だろう。先の戦争では、村の仲間が幾人も無くなったのだ。
もろ手を上げて喜べるものでは無い。
ぬるい慰労の空気に耐えながら、堅物もかくやという格式ばった挨拶をしながら、男は足を進める。
目的の家は、村の奥の方にあった。
他の家と比べてもなお一層質素な構えだが、貧しいと言うよりは、質実剛健といったおもむきだ。最早、懐かしさすら感じる。
男は、深く息を吸うと、木の扉をノックした。
待ちかねたとばかりに開かれるその扉。
「よく、ご無事で……!」
目尻の下がった笑みと、晴れやかな声が男の耳を打つ。
素朴ながら可憐さを感じる女性が扉の向こうから現れた。
「アイシャ……」
結わいた、チャコールグレーの長い髪がふわりと揺れる。
アイシャと呼ばれた女性は、心から嬉しそうに頬をゆるませている。
「ほんとに、よくご無事でしたね──、サムさん」
その男──、サムは、何か手のひらに握りしめたものを更にぎゅっと握りしめる。
「……ああ」
「まあまあ、立ち話もなんですからお茶でも……」
「いや、いい」
「そうですか? そういえば、帰投は一緒ではなかったんですか?」
アイシャと呼ばれたその女性は、サムの後ろや、遠くをきょろきょろと見回す。
「……一緒だったさ。最後まで一緒だった」
サムは顔を伏せたまま、絞り出すように声を漏らした。
主人を待つ犬のようにそわそわしていたアイシャが、少しずつ落ち着き始めていた。
いや、それは落ち着きはじめたのでは無いだろう。
予感。例えば、そう、ああ、これから雨が降りそうだな、という空気を、彼女は感じてしまったのだ。
「その時によぉ! あいつキノコが食いてぇっていうからよぉ!」
突然サムが大声を出す。
「それは、オレの股ぐらに生えてる、このぶっといキノコのことかい?っつったら、ヤロウシカトしやがってよぉ……、言いやがったんだ……アイシャに……これを……頼むって……」
震える手の平の上に乗って差し出されるのは、土にまみれ、焦げ、戦場をくぐってきた、ペンダントロケットだった。
眉根を上げ、どこか諦観したようすでロケットを手に取り、アイシャは降り出した雨を見つめる。
「なんで、なんでおれが生きてんだよ……なんでかばったんだレナード……!」
のどを締め付けるような声を出し、涙は止まらない。
軟派で日に焼けた顔を、クシャクシャにゆがめるサム。
家族より先に泣くなんて許されないと、そう決めていたはずなのに。
あふれる悔恨の念が、何もかもを刺激して止まらない。
「キノコが食べたい、ですか……」
手の中でペンダントをいじり、どこか遠くを見ながら、アイシャがつぶやく。
「私たち3人は、小さい頃からポルチーニ茸のリゾット好きでしたよね。実は、あなた達がひょっこり帰ってきたらと思って、お鍋に沢山作ってあるんです。1人では食べきれないので、食べていきませんか」
「すまねえ。無理だ……どの面下げたって上がれやしねえよ……」
「いいえ、上がっていってください。出征してから、最期の時に至るまで、うちの人が何をしていたのか、と私が知っておきたいんです」
サムは一瞬眉をしかめたが、深くため息をついて、肩を落とす。
「煮るなり焼くなり好きにしてくれ」
その声は、まるで許してくれ、とでも懇願するような声だった。
「ええ。ご苦労さまでした……そして、おかえりなさい」
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