お題:「月がきれいですね」

「天文部主催の七夕祭りやりまーす」

 はりつくような湿り気のある暑さが、未だに残る夕暮れの廊下。チラシの束を片腕に抱き、配り歩いている生徒達がいる。そのチラシの束は、国語辞典のような分厚さで、あまり減っているようには見えなかった。

「(今時、天文学なんて流行らないのかな……)」

 と、瑞口みずぐち かなでは、心の中でひとりごちる。地味な黒髪ロングに厚い黒縁眼鏡の女子生徒、奏もまた、チラシを配っている生徒達と同じ、天文部の一員であった。

「(冥王星が惑星じゃなくなった、ぐらいの話から世間の話題は止まってるしなあ……)」

 はあ、と肩を落としため息をつく。少し興味がある人なら、16光年先に地球と似た環境の惑星を発見した、ぐらいも知っているかもしれない。でも、へーそうなんだ。すごいね。で終わってしまう。そこから、なぜ想像を膨らませないのだろう、と、奏は思う。

 夜空には数え切れないロマンがあって、色々な想像、空想が出来る。それこそ、昔の人々が星の並びを動物なんかに見立てたりしたように。単純にきれいで、それでいて奥深い。今見えているのは、数年、十数年、もしかしたら数十年前の光で、今はもう無くなっている星もあるかもしれない。

今この時見ている光が、その星を見れる最後の時かもしれない。それを思うと、一時も星から目を離したくないと、奏は思う。

 それなのに。他の生徒達は、ネオンきらめく都会の方が良いという。この学校があるのは、何もない田舎町ではあるが、何もないからこそ、澄んだ空気があり、星のきらめきを一身に受けられる最高の土地では無いか、と思うのだが、どうやら一般的には退屈の塊であるらしい。

「ふぅ」

 いいんだ、人が少ない方が独り占めが出来るから、と気持ちを切り替え、歩き出す。

 口下手で人見知りな奏は、勧誘など対人方面ではなく、設営や、チラシ作りなどの裏方に徹していた。七夕祭りに使う備品を段ボールに詰めて屋上へと運んでいく奏。

 背の低い分、ちょっと段ボールを抱えただけでも視界がふさがる。正直きついが、これも出来ないというのはさすがに忍びない。あっちへフラフラ、こっちへフラフラとしながら、なんとか、一段一段と階段をのぼっていく。

「(今年は先輩達もがんばってたのになあ……。がんばり方がおかしかったけど)」

 例年、あまり参加者が多くないこともあって、学校も段々と天文部のお祭りに渋い顔をするようになってきたという。夜遅くまで生徒を残らせるのは、近年ご近所の目が厳しいだの云々。そういうところだけ時代に合わせやがって! と先輩達は憤慨していた。

 このままでは、祭りを中止にされかねない──。

「だから俺達は、七夕祭りを盛り上げたいんだ!」

 と、そんな事を言いながら、先輩達がした事と言えば……、それは、噂を流す事だった。

 曰く、七夕祭りで、好きな相手と一緒に星を見ると、織姫と彦星の力で恋愛が成就する!

 だとか、なんだとか。なんとまあ、それらしい手垢のついたような噂だ。

 しかし、今年から、それも夏直前から出始めたそんなありきたりな噂は、いまいち信憑性に欠けていて、色恋に生きている同級生達にも、まったくと言って良いほど広まっていなかった。

 なんでだぁあああっと頭を押さえて仰け反る先輩達。そりゃあ、そうでしょう……と思いながら、なんででしょうね、苦笑するのが精一杯だった。

 しかし、好きな相手と星を見ると、恋が叶う。かあ、と、奏はぐるりと思考を巡らす。わたしの、すきなひと。……そんなことを考えていただろうか。

「手伝おうか? 瑞口みずぐちさん」

 不意打ちに、心臓が跳ねた。あわてたせいか、階段を踏み外す奏。

 段ボールをわたわたとお手玉のように掴みそこねながら、しっかりと抱きしめる。一息ついた、と思ったが、気付けば後ろ倒しに落ちていく最中だ。

「──っ」

 コマ撮りのように、視界が上へと振れていく。踊り場の窓からの夕陽が、血の色のように真っ赤に見えた。悲鳴を上げようとした、その時。

「っと」

 硬い、でも引き締まった壁に抱きとめられた。シャツ越しの背中から伝わる、しなやかな筋肉の硬さ。奏の肩を抱き留める大きな手のひら。

「(むむむむなにく───!?)」

 頭が猛回転しすぎて空転し、沸騰する思考が、明後日の方向へ飛んでいく。

「大丈夫?」

 落ち着かせるように、にっこりとした表情が想像出来るちょっと高いかすれ声。それで、更に胸がきゅぅっとなってしまって振り向けない。でも返事をしないのも失礼だから、必死に奏は頭を縦に振る。頭の上から、くっくっと楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

「よかった。ちょうどそこ通りかかったら、ふらふらしながら階段登ってるから、

危ないなー大丈夫かなーってずっと瑞口さんのこと見てたんだよ」

 ずっと、瑞口さんのこと見てたんだよ。ずっと、瑞口さんのこと見てたんだよ。ずっと、瑞口さんのこと見てたんだよ──。わんわんとその言葉だけが頭の中を反響する。

 頬が熱を持ち、胸一杯の気持ちがため息になって漏れ出していく。黄色い声をあげたくなる気持ちも、今ならわかるかもしれない。

「その段ボール屋上に持ってくの?」

「……あ、え、と、そぅ」

 ふへ、と気持ち悪く口元をゆるませている奏の頭上から、ためらいがちな声が降ってくる。

 抱きとめられたまま動かない奏を、少し持て余し始めたのかもしれない。我に帰った奏は、ばっと身を離し、その男子生徒に向き直る。

「……じゃあ、持ってってあげるよ」

 にっこりと笑うと、まるでそれが当たり前かのように、奏が持っている段ボールに手を伸ばす。

 日に焼けた小麦色の肌が、夕日に照らされて、てらと光った。

「……あ、えと、ん、ありがとぅ、酒多さかたくん」

「どういたしまして」

 口の端を片方上げ笑うのが酒多くんのくせだ。いたずらっ子みたいでかわいい、と奏は思っていた。

 酒多くん。サッカー部に入っていて、クラスの人気者。いつもみんなの中心にいて、休み時間に彼のまわりに人がいないことは無い。授業中はと言えばいつも寝ているかぼーっとしていて、テスト前になると必ずノートを借りに来る子。でも、奏なんかより成績は断然良い。ちょっとどうなのと思うけど、なんとなくにくめない性格をしている。

 奏が、星の次に目で追っているのは、彼の挙動かもしれなかった

 軽々と段ボールを抱えて、階段をのぼっていく酒多くん。その背中を見つめながら、奏もひよひよと階段をのぼっていく。


 ●


 満天の星空の下、校舎の屋上に白い望遠鏡が何脚か立ち並んでいる。

 移動式のホワイトボードには、夏に見える星座の解説が書かれ、申し訳程度に飾られた笹の葉が、夜風にそよいでいた。参加者はめいめい好きなところに腰を下ろしたり寄りかかったりして、空を見上げている。

「(集中……出来ない……っ!)」

 奏が空を見上げて説明をしていく傍に、酒多くんが立っている。袖が触れ合うような距離で、一緒に空を見上げている。おれも星見るのすきなんだよね、とかなんだとか言って、なし崩し的に参加することになったのだ。奏は、なるべく顔を見ないようにしているのだけど、身長差的に奏の方がだいぶ低いので、どうしても目に入る。その度に胸が高鳴ってしようがない。

 もういっそ気持ちを打ち明けてしまった方が楽なのでは無いのかとさえ思う。高まる内圧と、いやいやそんな事言って嫌がられたらこの先どうするのだとか、酒多くんとわたしじゃ釣り合わないとか。色々な感情がまぜこぜになって、もうなにがなんだがわからなくなっていた。

 普段は何を置いても見ていたい星も、あまり目に入って来ない。

「(そんなのいやだ――……!)」

 なんとか自分の分の説明を終えると、奏は座り込んでしまう。

 がんばったねーおつかれーと小声で他の部員達がねぎらいの声をかけてくるが、そんなものは何の足しにもならなかった。

「おれ、そこまで星わからないけどさ」

 びくっと微かに肩を震わせる奏の傍で、酒多くんが淡々と話し続ける。

「今日は、スーパームーンの日なんだってね」

 おずおずと奏が顔をあげると、そこには、いつもより大きく、いつもより燦然と輝く満月がそこにあった。ペリジー・フル・ムーン。近年ニュースでも良く取り上げられるようになった現象だ。

「たしかに、きれい」

 ぱっと奏の表情が明るくなっていく。さらりと黒い髪が背中の方に流れ、眼鏡のレンズに月の光が反射する。なんで、今までこんな存在感があるものが目に入ってなかったんだろう。おかしくて、ちょっと笑ってしまった。その偉大さに釘付けになる。

 フルムーンを満月と訳すのは、そのままではあるが、なんとなくおもむきがある。だが、スーパームーンを日本語にすると、超満月になるのだろうか。ださい事この上無い。この間、英語の授業でやっていた意訳の仕方を、ぜひ参考にしたいと思う。ちゃんとした名称を考えるのも、天文学において意義深い作業だ。

 でも、その前に、奏はちょっとしたいたずらを思いついてしまった。その言葉をこのタイミングで言えば、きっと何もあやしまれない。

 いつも授業を聞いていない彼にはきっと通じないし、わたしは思いも少し吐き出せて、なんならちょっと優越感を感じるかもしれない。言おうと思う。……言え!

「……、つつつ、つきがきれいですね、酒多くん」

 奏は心の中で頬に両手を添えて身もだえる。胸が早鐘をうち、頬には熱が上がってくる。ああああ、言ったー!! と、また頭を抱えて内心で悲鳴を上げる。

「うん? そうだね、瑞口さん」

 でも酒多くんはきょとんとしていて、なんのことかわかっていないみたいだった。やった、私のもくろみ、大成功! ふふふーと、鼻歌さえ歌い出しそうに得意げな奏がまた空を見上げ始めた、その瞬間。

 ――酒多くんが身をかがめて来る気配がした。

ふと、耳にかすかな息がかかる。もうほとんど反射的に身が震え、狙われた獲物のように動けない。

他の参加者のさざ波のようなお喋りのあいまから、遠く、本物の祭り囃子が聞こえてくる。盛夏の陽が暮れてなお、ぬるい空気が肌を湿らせ、草いきれがつんと鼻をつく。校舎の屋上で、少しかすたれた高い声が、奏の耳朶じだを打った。

「おれ、そのことばの意味、しってるよ──。ナツメソウセキでしょ?」

 くす、と笑って、酒多くんは目を細める。真っ赤になった耳を押さえて、ばっと距離を取る奏。

「七夕祭りの噂って……、本当だったんだ?」

 そう言って彼は、いたずらっ子のように口の端を吊り上げた。

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