宵の明星

 この場所はあの時と何も変わっていなかった。

 ススキの生い茂る一部に、大きい土管がただ二つ置かれているだけの場所。

 あの時と何も変わらない――


 ここまで来るのにはさほど苦労はしなかった。ススキを掻き分けて、ここまで来るルートが既に確立されていたからだ。今の小学生か誰かが、秘密基地のように利用しているのではないかと靖人は思った。


 靖人は漠然と広がる空を見上げている。時折吹きつける涼しい風が、渦巻く複雑な感情を少しだけ穏やかなものにしてくれているような気分になっていた。


 どのくらいの時間、ここにいるのかは分からない。

 まるで時間が止まっているようにすら感じている。

 本当にこのまま時間が止まっていればいいのに、と靖人は思っていた。


 奥の方でススキを掻き分ける音が聞こえてくる。残念ながら、時間は止まっていなかった。

 高校生がいつまでもこんなところに居るわけにはいかない。誰にも知られたくない秘密基地は、現役の小学生に譲ろう、そう考えて靖人は静かに腰を上げる。


 やがてススキを掻き分ける音が近づいてきて、一人の人物が土管の場所へ顔を出した。


「靖人! やっと見つけた!」

「陽菜!? …………どうしてここに?」

 靖人は意外な人物の登場に、驚愕の表情を浮かべる。


「どうしてって、靖人を探していたからだよ。靖人こそなんでこんな所にいたの?」

「それは…………」

 言葉が詰まる靖人を余所に、陽菜は土管へよじ登る。


「まあ、とりあえず座って座って」

 陽菜は土管へ腰を落とし、パンパンと土管を叩いた。

 靖人は観念したかのように、溜息を吐きながら陽菜の隣に腰を落とす。


「陽菜は……怒っていないのか?」

 靖人は恐る恐る陽菜の顔色を窺う。

「怒っているよ。物凄く。でも今は、靖人の話を聞きたい」


 陽菜は靖人と目を合わせず、真っ直ぐ広がる空を見上げていた。


「……ごめん」

「いいよ。謝らなくて。それよりも、今日の靖人はどうしちゃったの? 靖人に何があったの?

 なんで……この場所に居たの? 話してよ……」

 陽菜の懇願するような悲痛な想いだった。それを見た靖人は静かに語り始める。


「俺は……全部思いだしたんだ。なんで、自分に暗示をかけるかのように、誰の事も好きにならないようにしていたのかを……人を好きにならないようにする感情って、なかなか難しいものなんだな。俺はその暗示のせいで一通りの感情を抑制していたみたいなんだ。怒り・悲しみ・妬み・辛み……そんな負の感情が解放されて一気に俺に襲いかかってきた。もちろん喜びといった感情も前より感じ方は強くなっているけど、それよりも襲ってくる負の感情は圧倒的だった」


 陽菜は語る靖人を静かに見守る。


「俺はその負の感情を制御しきれなかった。だから落ち着くまでは学校に行きたくなかった。その全てをぶちまけてしまいそうだったから…………ただ、一向に落ち着く気配が感じられなかったからとりあえず学校へ行った。そしたら結局あのザマだ……本当に自分が情けない。涼や翔太、クラスの皆にも迷惑をかけてしまった。合わせる顔がないよ……」


 靖人は罪悪感からか、その顔を歪ませる。


「靖人があんなことする人じゃないって皆知っているよ。だから話せば分かってもらえるって。そこは心配いらない。大丈夫」

 陽菜は優しい口調で続ける。

「でも、私には靖人が何に対して感情をぶつけているのかが分からない……そんなに深刻な事が靖人の身に起こっているって言うの?」


「…………」


 靖人は俯き言葉を詰まらす。


「言えないような事なの……?」

「これは俺のエゴなんだ……陽菜に押し付けるような事は出来ない」

「そんなこと言わないで! エゴだってなんだっていい! 私は全部受け止めるよ! だから……全部話してよ」


 靖人はゆっくり顔を上げる。


「…………陽菜は、なんでこの場所に来たんだ?」

「えーっと……よく分からない。なんとなく? かな?」

「俺があの時の事、覚えていなかったのにか?」

「あの時……うん、そうだね。靖人……本当は覚えていたの?」


「いや、覚えていなかった。正確には忘れていた、かな。でも……今は全部思い出した。あの日、この場所で陽菜にキスをした時の事を…………思い返せばあのキスが始まりで、どうしようもなく、全てが終わっていた――」


 靖人は空を見上げる。釣られて陽菜も同じ空を見た。


「あの時は小学二年生だったか。あんまり細かい事までは覚えていないんだけど、あの時の俺は陽菜に疎外感を抱いていた。小学校入学以降、陽菜の周りにはいつも何人か男子が集まっているくらい人気があったからな、あの頃から。

 それを俺は気に入らなかった。俺の方が陽菜と付き合い長いのに、俺の方が陽菜と仲がいいのにってね。もちろん、集まる男子の輪に加わることも出来たんだけど、当時の俺はそれが出来なかった。

 入学当初から何度か言われたことがあったんだ。「はるとばっかりひなちゃんひとりじめしていてズリーぞ」的な事をね。まだ小学生の低学年だったから、それを無視すればイジメられるとか周りから無視されるとか具体的に思っていたわけじゃないと思うけど、それをやっちゃいけないんだと直感で感じていた。

 ただでさえ陽菜から話しかける男子なんて、俺くらいなもんだったから、それを快く思っていない空気も察していたんだと思う。

 だから当時の俺は、陽菜から少し距離を置いていたんだ。陽菜はそこらへん気付いていなかったみたいだけど。周りの目を気にせず、俺の気も知らずに陽菜からバンバン絡んでくるのには、少し冷や冷やしていたよ。

 でも、そうやって距離を置いているうちに……陽菜への想いは募っていった。

 俺がずっと……陽菜の傍にいたのに……これからも、傍にいるのは俺なのに――――いつしかそう、強く思うようになっていた」


「靖人……」


 陽菜はキュッと胸元を掴む。


「ただ、それには陽菜への想いが邪魔だった。…………なんで当時小学二年のガキがそんなことを思ったんだろうな。深い意味はなかったと思うけど、その感情を表に出したら周りから茶化されるとか思っていたのかな……それで陽菜と微妙な空気になるのが嫌だったとか……まあ、そこらへんは良く分からないけど、とにかく小二のガキだった俺はそう思った。

 だから失くすことにした――だから忘れることにした――

 陽菜への想いを忘れて、ただの幼馴染として共に時間を過ごせればいい――

 それ以上は何も望まない――

 だから、これが最初で最後――

 そういう想いを込めて、あの日陽菜にキスをした――

 それが結果として強い自己暗示となって、俺の中の感情を抑制することになっていた。

 誰も好きにならないようにしているっていうのは、その延長線上にあったんだ。

 恋愛感情が分からない、誰かを好きになる気持ちが分からないって散々言って来たけど、元々その気持ちを理解するだけの感情の起伏がなかったらしい。今思うと、なんでこんな簡単なこと分からなかったんだろって思うけど……」


 靖人は最後の台詞だけ呟くように言った。しかし、陽菜はその言葉を聞き逃さなかった。


「ねえ靖人。今はどうなの?」

「今って……何がだよ……」

「えーー。言わなくても分かっているクセにぃー。今は私の事、どう思っているのかって聞いているんだけどぉー」

 陽菜はニヤニヤしながら機嫌よさそうに問いかける。それに対し靖人は、顔を背け沈黙する。

 それを見た陽菜は靖人の裾を掴み、靖人の腕にそっと額をつけた。


「……ふざけてごめん…………お願いだから、ちゃんと聞かせてよ……」


「……今は……いや、今も好きだよ――俺は――ずっと、陽菜の事が好きだった――」


 靖人は顔を背けたまま静かに言う。


「ぷっ――あははははは! なにそれ! ホント可笑しい!」


 陽菜は声を上げて笑いだした。

「笑うところじゃねえだろっ!」

 陽菜の反応を不満げに見据え、靖人は声を上げる。


「あはははは……ごめん……なんかバカだなあって――同じ時に同じような気持ちですれ違って――そして、今も同じ気持ちを忘れていない……今まで何やっていたんだろうね、私達……」


「同じ……ってどういうことだよ?」


「私もね、思い出していたんだ。誰かを好きになる気持ちが分からない原因をね。私も同じくらいの時かなあ? うん、小二くらいの時には靖人の事が好きだった。でも、あの時は周りからチヤホヤされているのが少しだけ心地よくて、その感情もあまり気にしていなかったんだと思う。

 気付いたら、靖人との距離が少しずつ離れていて、ああ、きっと靖人は私の事は好きじゃないんだろうなあ、とかなんとなく思い始めていた。

 それにトドメが靖人のキス――

 好きな人にキスされて、何も感じないとか言われるの、相当ショックだったんだからね!

 それで私も靖人のこと、好きでいちゃダメなんだって思っていた。

 それでも靖人の傍には居続けたかったから、靖人への気持ちを忘れるようにした――

 私は感情を抑制っていうのとは少し違うかな? ただただ、靖人への気持ちだけを忘れた。それでも奥には靖人への気持ちで一杯だったから、他の人が入り込む余地がなかったって感じだったと思う。

 ね? 大体同じでしょ?」


「はは、確かに可笑しいな」


 靖人は複雑な表情で軽く笑う。


「私は今でも靖人の事が好き! 大好きです!!」


 陽菜は満面の笑みを浮かべた。


「そうか……ありがとう……」


 しかし靖人の表情は曇っていた。


「え? 嬉しくないの……?」


 陽菜は心配そうに靖人の顔を覗き込む。


「嬉しい……好きな相手に好きって言ってもらえたんだから、そりゃあ嬉しいさ。

 でも――それじゃあ駄目なんだ――

 陽菜を好きな気持ちを思い出した時、陽菜の気持ちは涼にあると思っていた。ああ、手遅れだったなって絶望もした。涼に嫉妬もした。なんか無性に腹が立った。

 でも、本当に腹が立ったのは自分自身にだった――

 だって……冬華は――冬華はどうする!? 

 今まで俺の事をずっと信用してくれた! 俺はちゃんと誰かを好きになれる人なんだって! 俺も冬華を好きになれるよう努力するって散々期待させた!

 それで感情を取り戻して、蓋を開けてみたらやっぱり陽菜が好きでした!?

 そんなのあんまりだろう!? どんだけ冬華に対して不誠実だったんだって自分の事が嫌になる!

 …………俺の抑えきれない怒りの原因はまさにそこだよ……

 結局俺は、思い出した感情をどこに向けるべきか決められないんだ――

 陽菜だって……涼の事はどうするつもりなんだ?」


「私の方は……多分、大丈夫。だって涼くん、私の事好きじゃないんだもん」


「……そうなのか!?」


「うん、なんとなくだけど。常に気を使ってはくれるんだけどね。なんかこう……好き! っていうオーラが全く伝わってこないんだよ。だから涼くんは、靖人と冬華から離されて孤立しそうだった私に気を使ってくれていただけなんだと思う」


「身体を張ってまで陽菜を助けたのにか……?」


「そこなんだよね……多分、涼くんは私が靖人の事が好きだって言っても、快く受け入れてくれると思う。それでも私は――涼くんに怪我をさせてしまった負い目を拭い去れない……」


 二人はしばらく沈黙する――


 それこそ、本当に時間が止まっているかのような穏やかな時が流れた――


「ねえ……靖人はこれからどうしたいの?」

「それが分からないから困っている……」


「私が聞きたいのはどうするか、じゃなくてどうしたいかだよ。

 私は靖人とこれからも一緒にいたい! 靖人を好きな気持ちを持ったまま、靖人の傍に居たいよ! 

 私がそう望んでも……靖人は応えてくれないの……?」


「そんなの俺だって同じだ! せっかく取り戻した陽菜への気持ちを大事にしたい! 叶うなら……これからもずっと傍にいたいと思っている! でもやっぱり――」


「じゃあ謝ろう!」


 陽菜はスッキリとした笑顔で言った。


「……謝る?」


 靖人は不思議そうな顔で陽菜を見る。


「うん。忘れていた気持ちを思い出しました。私達はお互い好き同士だったので、気持ちには応えられません。ごめんなさい。って冬華と涼くんに二人で謝ろう!」


「いや……それだと、涼はともかく、冬華を傷つけてしまうだろうし、陽菜と冬華の関係だって悪くなるかもしれない……陽菜はそれでもいいのか?」


「良くないよ。でも、しょうがないじゃん。冬華とはこれからもずっと仲良くしていたいけど、だからってこのまま気を使って、思い出した気持ちをなかったことにするなんて出来ないよ!

 それだと何の解決にもならないし、余計に冬華を傷つけるだけだと思う……

 だったら、自分達の気持ちに正直になって、誠意を込めて謝るしかないんじゃないかな?

 変に誤魔化し続けるよりもずっといい」


 そう言う陽菜の爽やかな横顔に釣られて靖人も頬が緩む。


「ああ……そうだな。二人で謝ろう――それしかない!」

 二人は顔を見合わせ笑い合った。


「あとさ、ひとつ気になったんだけど、靖人は何がきっかけで全部思い出したの?」


 靖人は引きつった表情で視線を泳がす。


「あー! なんか隠している顔している! 正直に白状して!」


「…………冬華と……キスして思い出した……」

 靖人は消え入りそうな小さな声で呟くように言う。


「へえー……そうなんだあ……ふーん」

 陽菜は目を細めて靖人を見据える。


「いや、これはしょうがなかったんだって! 

 今まではキスに対して拒絶反応みたいなのがあったんだけど、それはきっと陽菜への想いを思い出さないためだったんだ。

 陽菜の気持ちが他の誰かのところへ行っていなければ、その方がいいんだと思っていたんだと思う。

 でも、陽菜の気持ちは涼の元へ行ってしまったと思った……

 だから無意識のうちに、陽菜への気持ちを思いだそうと冬華のキスを受け入れてしまった。

 まあ……なんでキスしたら思いだしたんだと聞かれたら良く分からないんだけど、多分陽菜とのキスにそのくらい強い想いを込めていたのかもしれない――」


「ふーん……冬華とキスしたかったんだあ……」


「変な拾い方するな! そう言う陽菜こそ、なんかきっかけがあったんじゃないのかよ?」


「え!? 私!? 私は……どうだったっけなあ…………ああ! そういえばそうだった! みたいな感じで急に閃いた……かな?」

 陽菜は胸の前でパン! と手を叩き、えへ! っと笑って見せた。


「…………本当に?」


 靖人は疑いの目で陽菜を凝視する。陽菜はその視線に耐えきれず、少しずつ顔を背けていった。


「ごめんなさい……嘘です」

「本当は?」

「涼くんとキスしたからだと思います……」

「涼から?」

「いやあ……私から……ですかね……」

「なんで?」

「……あの時の私は病んでいたというか……色々精神的におかしかったもので……ノリと勢いでつい……」

「はあ……まあ、お互い様かな」

「許して頂けるでしょうか……」

「陽菜。ちょっとこっちむいて」

「なんでしょう……」


 陽菜は背けた顔をゆっくり靖人の方へ戻す。


 その瞬間――――二人の唇が重なった――――


「!!!!!!!???????」


 陽菜は急な出来ごとに目を見開きながら驚く。

 そして――唇が離れると、靖人は陽菜を強く抱きしめた――


「何も感じないなんてことない――あの時から――ずっと陽菜を感じている――もう、離さないよ……絶対に……」


「私も…………靖人大好き!!」


 陽菜も強く抱き返す。




 ススキの天蓋を抜けて見える空は、陽の光を失い始めている――


 しかしまだ、星が見えるほどの色を失っていないその空に、一つだけ小さく輝いて見えるものがあった。


 それは金星――一番星――


 夕刻に見えるこの星は、またの名を宵の明星――


 今の二人の心には、光り輝く一番星が確かに見えていた――

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