Last Saturday

 私が涼くんと行動を共にするようになって二週間以上経っていた。暦も十一月に入り、吹き抜ける風が一段と冷たくなってきたように感じる、そんな土曜日だった。


「今度の土曜日空いている?」

 この前の火曜日、いつものように涼くんと二人でお昼を食べている時に不意に聞かれた。


「うん。別に用事はないけど、なんで?」

「二人でどこか遊びに行かない?」

 

 この二週間、涼くんとはお昼を食べたり、一緒に登下校をするくらいしかしてこなかった。

 週末は特に用事があったわけじゃなかったけど、涼くんには色々付き合いがありそうだったから、私からは遊びに誘うことは躊躇われた。

 それはきっと、私のせいでもともとあった予定を反故にして欲しくはなかったし、反対にもともとあった予定を優先されるというのも嫌だったからだと思う。

 何も予定が入っていないのがベストだったけど、それを確認するためにはやっぱり「予定入っている?」と聞かなくてはいけないし、結果予定が入っていた場合、聞いた理由を変に誤魔化さなくてはいけないというのも避けたかった。

 つまりは友達の一線をちょっと越えた慣れない付き合い方に、今まで考えたこともない余計な気遣いをしているというわけなのだった。

 面倒くさいとは思わないけど、ちょっとだけ息が詰まる思いはあった。


「うん! 行く! 行きたい! どこか行く予定あるの?」

 そういう訳で、涼くんからのお誘いは無条件で食いつける良質な餌だった。


「いや、別にどこに行こうか決めているわけじゃないけど、何か希望はある?」

「じゃあ映画観たい! この前話していた三部作シリーズの二話目のやつ! あれ、先週から公開しているからそれは絶対外せないかな」

「それなら確か兄さんが前売りチケット持っていた様な気がするな……じゃあ、映画は見るとして、その他のプランは僕に任せてもらってもいいかな?」

「うん! なんかデートみたい」

「ははは、デートのお誘いをしているつもりなんだけどなあ」

「あ、そっか。えへへ、楽しみにしているね!」


 涼くんの提案には心躍るものがあった。デートのプランニングをしてくれるなんて初めてのことだったから。今までは、私が靖人を(一方的に)連れまわしていることが多かったからなあ。

「一緒に行くことも出来るんだけど、せっかくだからどこかに待ち合わせにしようか? 時間と場所はあとで教えるよ」

 


 と言うことで私は、とある港町駅の改札の前で待っていた。涼くんはあれから色々考えてくれたらしく、いつも行かないところに行こうと、ちょっと遠出をしている。

 すごく楽しみにしていたのと、あまり乗ることのない電車に乗るせいもあって、待ち合わせ時間より一時間も早く着いてしまった。

 さすがに一時間も立ち尽くして待っているわけにもいかず、駅に隣接した喫茶店で時間を潰すことにする。甘いラテを注文し、提供待ちの間に空席を探すのに店内を見回した。すると、座席に座ってコーヒーを飲んでいる一人の客と目が合ってしまう。


「おはよう、陽菜ちゃん。早いんだね」

「え!? 涼くん!??」


 涼くんは私よりも早くに着いていた様で、先にこの喫茶店で時間を潰していた。涼くんはニコニコしながらこちらに軽く手を振っている。

 私はラテを受け取ると涼くんの目の前の座席に座った。


「涼くんもう来ていたんだね。ビックリしたあ」

「ビックリしたのは僕も一緒だよ。まさか二人とも早く来すぎて、同じ喫茶店に入るとは思ってもみなかったからね」

「ホントにソレ。へへ、可笑しいね」

 私達は顔を合わせて笑い合う。


 チラっと涼くんの左腕に目をやる。相変わらず痛々しいほど固定されたその腕は、見る度に私の心を締め付ける。

 痛みは無いしもう大丈夫、と涼くんは言っているが、やはり片腕が使えないのはなにかと不便そうだった。


「今日はたくさん歩くよ。大丈夫?」

「もちろん! 今日はどんなに遊んでも疲れない気がする!」

 今日の私は元気いっぱいハリキリ一年生の気分だった。

 


 まず、涼くんは海とは反対の街中を歩きだした。海の近辺には色んな観光名所やデートスポットがあるので、こちら側にはなにかあるような雰囲気はない。

 少し歩くと急な登り坂に差し掛かった。歩道に植えられた桜の木が綺麗に並んでいたが、この季節には見る影もない。きっと、桜が咲くころには心奪われる景色になるだろうことは、容易に想像できる様な通りだった。


「ねえ涼くん。この先に何があるの?」

 坂を登り始めて数十メートルでヘバりそうな私は、この先の目的地が気になった。


「ん? 動物園だよ」


 急坂はそこまで長くは続かず、登り切るとそこは高台になっていた。その高台からは海側の景色が一望できる。


「ここから見えるのが、今日これから行く街の全貌だよ。実際歩く前に見ておくのもいいかなと思ってね。まあ、さすがに全部は周り切れないけど」


 超高層ビルにテーマパークの観覧車、赤レンガ造りの建物など、テレビや雑誌でよく見ていたものが今、私の目の前に広がっていた。

「わあー! すごい! 海綺麗! 観覧車おっきい!」

 実際に見る景色の壮大さに、思わず子供の様にはしゃいでしまう。


「そしてこの景色の後ろにあるのが動物園ね」


 海側の景色に見惚れて気付かなかったけど、後ろには動物園のゲートが見える。派手さはなく、小ぢんまりした印象の可愛らしいものだった。


「入園無料だし、散歩がてらに周ってみようか」

「へえ、無料なんだー。どんな動物がいるか楽しみ!」


 楽しみ! とか言いつつも、実はあんまり期待はしていなかった。無料というのもあるし、ゲートの手作り感があったので、まあ、数種類見られればいい方かなー、という気持ちだった。

 しかし、その期待は見事に裏切られる。

 まず、最初にお出迎えしてくれたのがレッサーパンダだった。一時の熱狂的なブームが去ったとはいっても、やっぱり可愛い。でもずっと寝ていた。出来れば動いている姿を見たかったなあ。

 他にはライオン、トラ、キリンといった大型の動物までいたのは本当に驚いた。メジャーどころのチンパンジー、ツキノワグマ、ペンギンなんかもいる。ライオンはちょうど食事タイムで、目の前で生肉を頬張る姿はなかなか見応えがあった。


 ちょっと行ってパッと見てすぐ戻ってくる、くらいのつもりだったけど、実際ゆっくり見て周ったら小一時間以上が経過するほどの広さがあった。これで無料とは破格すぎる。

 終始私はテンション上がりっぱなしで動物を見ていたが、そのたびに「あんまりはしゃぐと後が持たないよ」と涼くんに諭されるのだった。


 動物園を後にし、メインの海側へ移動を始める。再び駅を通って、超高層ビル内のショッピングモール部を歩いた。土曜日なので人通りは多かったが、中心部が吹き抜きになっているのと幅広い通路が、空間を広々見せているせいで人ごみはさほど気にならなかった。

 ショッピングモールを抜け、コンベンション・センターの横を通る。外に出ると、海が近くなっているせいか潮の香りが微かに鼻横を過ぎった。さらに巨大な展示ホールを過ぎると、眼前には目一杯の青が広がった。


「うわー! 海だ! 海! 海見るの久しぶり!」


 海目掛けてまっしぐらに駆け寄った。何故、海を目の前にするとこんなにもテンションが上がるのか分からなかったが、上がってしまうものは仕方ない。多分これは人の性なのだ。だって、こんなにも青くて広いものを見て、テンションが上がらないわけがない。


「ほら、陽菜ちゃん。こっちこっち。あそこから船に乗るよ」

 涼くんは海の上に浮かぶように佇んでいる小屋を指差す。

「船!? 船乗るの!?」

「うん。あそこからシーバスに乗って、あの奥の方に見える公園まで行くよ。そこから海沿いを散歩しながらこっち側に歩いて戻ってくる感じかな。あ、映画はあそこで見る予定だからね」


 指さしで順を追いながら涼くんは説明してくれた。小屋の横には小型船が停泊している。

「あれに乗るんだね! 海のバスだからシーバスかあ。私船に乗るの初めて!」


「うん、僕も船は初めてかな。あ、でも海のバスじゃないみたいだよ。スペルが違うみたい。BUSじゃなくでBASSだね。SEA BASSだと魚のスズキかな」

「あ! 本当だ! でも私はどっちでもいいかな。海のバスでもいいじゃん」

 私は涼くんの指摘に少し不満げな態度で返す。

「ははは、確かにね。とりあえず、急がないと次の出港に乗り遅れちゃうよ」

「うん! じゃあ走って行こう!」


 私は涼くんの手を引いて走り出した。右手を無理やり引かれ、左腕は固定されている涼くんは非常に走りづらそうだったが、私と一緒に笑顔で付いてきてくれた。


 シーバスに乗り込むと私達は座席に座らず、後部デッキから景色を眺めていた。潮風が少し冷たく感じたが、海の上で感じるそれは、地上にいるときに感じるのは全くの別物のような気がした。なんていうか風が軽く感じるというのかな。うまく言い表せないけど、そんな感じがした。


 終点の公園で下船し、それからは公園散策。広場では一輪車を使った大道芸をやっていた。普段見慣れない達人芸に圧倒されつつも、感嘆の声と共に常に拍手を送る。最後に差し出された帽子にお金をソッと折りたたんで入れてきた。


 公園から海沿いの遊歩道を進み、桟橋という名の岸壁のような場所に寄った。中心には人工芝の広場があり、その横にはウッドデッキが整備されている。海に突き出すような形の構造なので、ここから見る景色もまた格別だった。最初に船に乗った場所よりもベイブリッジが良く見える。とりあえず、この景色を見ながら飲んだレモネードが甘酸っぱくて最高だった。


 時間が午後の二時を過ぎていたので、さすがにお腹が空いていた。ちょっと遅いお昼を食べるために、赤レンガ造りの建物内にあるレストランでランチをした。

 時間が少し遅かったせいか、土曜日なのに待ち時間はほとんどなく席に着くことが出来た。シーフードを中心としたビュッフェは高校生の私達には少し値が張ったけど、初めて見るような料理をお皿一杯に盛り付けて、結局食べきれなくて、申し訳ない気持ちもありつつも二人で笑いながら食事をした。


 お腹が一杯になったところで今日のメインディッシュ、と言っても食事ではなく私が最初に希望した映画のこと。チケットは涼くんのお兄さんから前売りをもらっていたので、指定席だけを取りにく。 先週公開したばかりの人気作なので、ほぼ満員状態だったがなんとか二席確保することが出来た。少し前目の席だったけど、これはまあ仕方ないかな。

 でもやっぱり、見終わった後は首が少し痛くなった。


 映画館を出ると空はすっかり闇に染まっていた。しかし目の前に佇む観覧車のイルミネーションが辺りを明るく照らしている。それだけでなく、色んな建物がライトアップされていて、まるで宝石箱の中にいるみたいに綺麗だった。


「じゃあ、最後に。定番だけど、あの観覧車乗って行こうか」

 涼くんは目の前の観覧車を指差した。観覧車の中心に時刻が表示されていて、今は18時半を過ぎたところだった。


「観覧車! 乗りたい! ……でも観覧車だけ乗るのにテーマパークの入場料払うのってもったいなくない?」

「大丈夫だよ、あのテーマパークは入場料かからないから。乗りたい乗り物分だけの料金を支払えばいいから大丈夫」

「へえ、そうなんだ。じゃあ是非お願いします!」


 テーマパーク内へ移動し、観覧車乗り場に辿り着くと列が出来ていた。この港町の夜景が一望できる人気スポットだけあって、さすがにすぐ乗ることは出来ないかあ。とりあえず最後尾に並んだ。


「次の三作目は来春かあ……今回も気になる終わり方したし、待ち遠しいなあ」

「確かに……あの最後に出てきた吸血鬼、一体どんな繋がりがあるんだろうね」

「そう! そこなの! あんな敵か味方か分からないような登場し方されると気になって気になって…」


 観覧車の待ち時間、私達はさっき見た映画の感想で盛り上がっていた。


「あ、でも私、今日の続きも気になるんだけど、最初の予告でやっていた天才数学者の話。あれもすっごく見たいなーって思ったんだよね。確か十二月公開みたいだから、次はそれ見たいかな!」

「確か……それ兄さんが試写会のチケット持っていたかもしれないな」

「え!? 涼くんのお兄さん、なんでそんなに持っているの……?」

「いや、大学のサークル、映研なんだよね。撮る方じゃなくて見る方の。だから、映画のチケットは色んなの山ほど持っているんだよ。譲ってもらえないか聞いてみるね」

「いやいや! 試写会ってそんなに簡単に手に入るもんじゃないし、無理して譲ってもらわなくても公開まで待てるから大丈夫!」

「うーん。とりあえず手当たり次第チケット入手しているだけだから、取れたの全部見ているとは限らないんだよ。譲っているのも結構あるし。自分で見る気無さそうだったらもらってきちゃうね」

「なんか悪いなあ……」

「遠慮しないで。見たい人がいればきっと譲ってくれるはずだから」


 観覧車は三十分程待たされてやっと乗ることが出来た。人気スポットの待ち時間にしては短い方だったのかな。

 ワゴンに乗り込み、だんだん遠ざかる景色を見下ろす。沿岸にある工場地帯の明かりが遠くからでも綺麗に見えた。工場の夜景見学なんてツアーがあるらしいけど、こんなにも綺麗に映るのならもっと間近で見てみたいものだと思った。


「陽菜ちゃん、今日は楽しんでもらえたかな?」

 ゆっくり上昇するゴンドラの中で涼くんは言った。

「うん! 見た事ないものばかりですっごい楽しかった! ちょっと……足がパンパンだけど」

 疲れたという感覚はあまりなかったけど、さすがに肉体の方は悲鳴を上げ始めているのが分かった。体育の授業は真面目にやっているから運動不足ではないと思うんだけどな。

「僕も楽しかったよ。三日掛けて色々調べた甲斐があったね」

「そんなに時間かけてくれたんだ……ありがとう!」

 私は笑顔で応える。


 それから私達は目の前に広がる夜景を無言で楽しんだ。行った場所を振り返りながら、今日という一日を噛みしめる。

 本当に楽しかった。本当に涼くんと一緒に来て良かった。今日は最高の一日になった。

 そう思いながら、ゆっくり下るゴンドラに揺られていた。

 



 「ごめんね、こんなんところまで送ってもらっちゃって」


 ゴンドラを降りたころは19時を過ぎていたが、昼食が遅かったのとお金を使いすぎたので、夕飯は食べずにそのまま帰路に着いた。

 涼くんの方が駅は近いのだけど、わざわざ私の最寄り駅まで付いてきてくれた。

 そして一緒に下車し、遊歩道に差し掛かる前の土手を今歩いている。


「気にしないで。もう遅くなってきているし当然のことだよ」

「さすがにちょっとお腹空いてきたんじゃない?」


 今はもう21時近かった。お昼が14時過ぎなので、私はお腹がいつ鳴ってもおかしくない状態だった。


「んー? まあ、ボチボチはね。帰ってから残り物を食べるよ」

「へへへ、多分私も同じ」


 遊歩道が見えて私は立ち止まる。


「もうここらへんで大丈夫だよ」


「家の前まで送るつもりだったんだけど……本当に大丈夫?」


 釣られて立ち止まった涼くんと向き合う形を取る。そして、離れた距離を一歩詰めた。


「今日は本当に楽しかった……とっても素敵な一日だったと思う。言葉では言い足りないから…………これは感謝の気持ち」


 そう言って私は、涼くんの右手を両手でそっと握る。



 そして、そのまま顔を上げて、涼くんの唇にキスをした――



 掴んだ手が邪魔をして窮屈にはなったけど、特に気にはならなかった。

 少しして、ゆっくり身体を離す。


「えへへ、じゃあ今日はここでね! またね!」


 私は恥ずかしさのあまり、逃げるようにしてその場を走り去った。

 遊歩道を全力疾走で駆け抜ける。


 その時、何かが、壊れる音がした。


 ***


 涼は一人残され立ち尽くす。

 目の前を走り去った陽菜はすぐに見えなくなっていた。

 唇にそっと手を当てる。

 そして、軽く目を伏せ小さなため息をついた。


「これは…………ちょっとまずいなあ………………早めになんとかしないと」


 そう呟いて、来た道を足早に歩きだした。


 ***



 やっちゃった。今日の上がりまくったテンションそのままの勢いでやってしまった。

 高揚感がそうさせるのか、自然と表情が緩む。

 しかし、一日中歩き疲れた身体はいつまでも走ることを許してはくれず、息も切れ切れになってきている。

 池のある広場に差し掛かり、私は休憩をとるのにベンチに腰を掛ける。冬華が靖人に告白した日、靖人と夜空を見上げた時のベンチだった。


 今日は本当に楽しかった。

 本当に涼くんと一緒に来て良かった。

 今日は最高の一日になった。

 足がパンパンになるまで歩いた。

 そんな身体を酷使して全力疾走した。

 別れ際、涼くんにキスをした。



 そんな私は――夜空を見上げて泣いていた――



 ベンチに座って夜空を見上げていたら、涙が溢れて止まらなくなっていた。

 なんで泣いているのかな? 別に悲しいことなんて何もなかったはずなのに。

 嬉しくて泣いているのかな? これは、間違いなく悲しみの涙だった。


 涙と共に溢れ出る感情――


「困ったな……全部思い出しちゃった」


 冬華から靖人を好きだと聞いた時、協力しようと思った。

 冬華が靖人に告白した時、応援しようと思った。

 出来るだけ、二人の邪魔はしないでおこうと思った。

 涼くんと一緒にいて、楽しいと思った。

 涼くんに好きだと言われて、嬉しいと思った。

 涼くんと一緒に遊んで、素敵な一日だと思った。



 そんなの――全部、全部、嘘だった――――――

 


 嘘のつもりはなかった。

 でも、私の内に秘めた感情は、その全てを否定した。

 

 冬華から靖人を好きだと聞いた時、嫌だな思った。

 冬華が靖人に告白した時、振らればいいと思った。

 出来るだけ、仲の良い二人は見たくないと思った。

 涼くんと一緒にいて、楽しい振りをした。

 涼くんに好きだと言われて、一人でいるよりマシだと思った。

 涼くんと一緒に遊んで、素敵な一日だと思って、キスをして――靖人のことを思い出した。


 これが――私の本当の感情――――



 だって――私は靖人のことが好きだから――



 物心ついた時から、男子に好意を寄せられる機会は多かった。

 最初はチヤホヤされて心地の良い気分になったものだけど、次第に煩わしさと面倒くささを併せ持つようになっていた。

 そんな感情からの防衛意識で、異性からの好意には敏感になった。そういう好意を向けてくる相手には、自分からは近づかないようになっていた。意外と私は鈍感ではない。

 

 だから知っていた。

 靖人が私に、そういう好意を全く抱いていないことを――


 靖人にキスをされたあの日、あの言葉は決定的に私に絶望を与えた。

 もう一生、私のことなんか好きになることなんてないんだろうと。

 当時小学校低学年の児童が一生だとか、なんて身の丈に合わない幼稚な発想だと今になって思い返すが、それくらいあの時私に与えた衝撃は重いものだった。

 

 苦しかった、靖人を好きでいることが。

 それでも、靖人の傍にいたかった。

 だから、私は靖人を好きでいることを必死でやめた。

 傍にいられればそれでいい、いつしかその感情だけで塗り潰せるようになっていた。


 そして――私は靖人を好きだった感情を忘れた。


 それは今に至る――


 今までも、私の中で言い表せない葛藤はあったと思う。

 けれど雨の日の帰り道、靖人があの時のキスを覚えていないと知った時、何故だか全てが吹っ切れるような気がした。


 だから迷いなく涼くんを選べた。

 多分、その時から私の感情は正常ではない。

 少しずつ――少しずつ壊れはじめている。


 壊れた私の感情は、涼くんと過ごす時間を楽しいと思い、涼くんのことが好きになっているという錯覚を起こしていた。

 実際楽しかったのは嘘じゃないと思うが、どこかしら無理はしていたのだと思う。

  


 そして、無理をして張りつめていた感情は、キスという暴走によって完全に崩壊した。



 今はもう――靖人への想いしか溢れてこない――



「うえぇぇぇぇん……靖人…………はるとぉぉぉぉぉぉぉ……」



 まるで親とはぐれた子供の様に、靖人の名前を叫び、泣きじゃくった。


 溢れた感情は涙となって零れ落ちる。

 ならせめて、今は思いっきり泣いてしまおう。

 思い出したこの感情を、また忘れてしまうくらいに。



 私はきっと――本当の想いを、誰にも打ち明けることは出来ない――

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