靖人と陽菜 ー追憶ー
その日の授業はほとんど頭に入ってこなかった。
午後になってぼんやり外を見ていると、だんだん空が黒ずんだ雲に覆われてきている。
雨が降るのかな? 今朝は天気予報を見てこなかった。
あいにく、傘は折りたたみも持ち合わせていない。
雨が降ってきたらどうやって帰ろうかな……なんて事を考えていても、すぐに今朝の出来事を思い出してしまう。
私は今朝、涼くんに告白された。
その時のやり取りが、ずっと頭の中をグルグルしている。
***
「佐倉陽菜さん。あなたのことがずっと好きでした」
その一言に、涙も思考も完全に止まってしまった。
何も言えずに立ち尽くしていると、涼くんがふふっと笑った。
「怪我のことは気にするなって言っておいて、そのあとに好きです、は卑怯だよね。まるで、見返りに付き合ってくれって言っているみたい。そういうつもりは全くないんだけどな。ただ、流れと勢いで言ってしまっただけなんだ。驚かせてごめんね」
最後のごめんね、という部分だけが耳に残り、なんで謝られたんだろうと思う。
あれ? もしかして私、告白されたあとにフられたのかな? 頭が混乱していて的外れなことを考える。
「返事を期待しているわけじゃないんだ。ただ、この怪我には僕なりの価値と理由があることだけを分かってほしい」
どうやらフられたわけではなさそうな事に気付く。フられるのが嫌なのかな?
私は今、自分の感情が理解できない。
「涼くんは……私と付き合いたいと思ってるの?」
「陽菜ちゃんは、僕のこと好きじゃないでしょ?」
「恋愛対象としての好きは……考えた事ないと思う」
「じゃあ、そういうことだよ」
私はちょっとムッとした。なんでそんなアッサリ引きさがるんだろうと。
「ちょっと……考えさせてほしいかな」
気付いたらそんな返事をしていた。
「考える?」
涼くんは何のことか分からないような顔をしている。
「あまりにも急なことだったから、混乱していてよく分からないの……でも、いままでされた告白とはなんか違う……今までは、面倒だなとか、嫌だな、ってばかり思っていたけど、今は違う。少なくとも、そういう感情は全くないと思う」
「はは、それは意外だな。バッサリ断られるのが怖かったから、返事は聞かないようにしたかったんだけど」
「多分……嬉しかったとは思う……でも、気持ちの整理が上手くできない……どうしたいのかがまだ分からない……だから、少し考えさせてほしい」
涼くんはそう言った私を静かに見つめていた。
正直、私は自分でなにを言っているかさえも分からないくらい、まだ混乱していた。
色々な感情が入り混じって、マーブル模様のようなイメージだけがまとわりついてくる。
「そろそろ朝礼が始まるから教室に戻ろうか」
涼くんにそう言われてから、一日をどう過ごしたのかをあまり覚えていないうちに放課後になっていた。
***
下駄箱で靴を履きかえて外を見ると、やはり雨が降っていた。
しばらくボーっと降り注ぐ雨を見つめる。
さすがに傘なしでは厳しいくらいの降雨量だった。
思わずため息が漏れる。
コンビニで傘を調達するにしても、とりあえず校門を出て坂のふもとまでは行かなければいけなかった。
そこまでの距離を移動すれば完全にズブ濡れ確定で、もはやそこから傘を買おうという気さえ起きないかもしれない。
アプリで見た天気予報では夜中まで降り続けると書いてあったので、降り止むのを待つわけにもいかなそうだ。
「何してんだ、陽菜」
声のする方を振り返る。
「靖人……」
靖人が下駄箱で靴を履きかえていた。一人だった。
「もしかして傘忘れたのか?」
「うん」
靴を履きかえた靖人は玄関口まで歩き、傘を開いた。
「ほら、入れよ」
「うん」
私は靖人に並びかけ、二人で歩き出した。
傘に落ちる雨の音だけが耳に響く。
「冬華は一緒じゃないの?」
校門を過ぎたあたりで聞いた。
「冬華は部活だよ。今日は学園祭の反省会だってさ」
「そうなんだ」
また、雨の音が響き始める。
坂道を半分ほど下ったところで、今度は靖人の方が口を開いた。
「なあ、陽菜。涼の怪我のこと、何か知ってるか?」
私は靖人の方を見る。
「いやアイツ、自転車で転んだの一点張りで詳しく教えてくれなくてさ。昨日、あれから涼と一緒にいたんじゃないのか?」
「うん、一緒だった」
「怪我のこと、聞いてもいいか?」
あまり思い出したくはなかったけど、少し頭の中で整理してから話し始めた。
「昨日、靖人と冬華と別れた後、せっかくだからって涼くんと二人で遊んでいた。その帰り道、私の不注意で大学生に絡まれちゃって…………ちょっと暴行された……怪我はその時のだよ」
「…………そうか……陽菜は? 怪我しなかったか?」
「私は大丈夫。涼くんが守ってくれたから」
「……そうか。陽菜はそれで一日ボーっとしていたのか。ずっと心ここにあらずって感じだぞ」
やっぱり私はボーっと過ごしていたんだ。客観的に言われないと、そう感じられなかった。
「うーん……それもあるけど、今朝、涼くんに告白された」
横目で靖人の反応を見たけど、特に変化は感じられなかった。多分、少しは驚く事を期待していたのかもしれないけど、思ったような反応は返ってこない。
「やっぱり……そうなのか」
「え? やっぱりって、靖人知っていたの?」
「いや、ちゃんと聞いたわけじゃないけど、昨日涼と話している時に、ずっと好きな人はいるとは言っていたから。もしかしたらとは思っていたけど」
昨日二人でそんな話までしていたんだ。これはかなり意外。まさか靖人の方から聞いたわけじゃないだろうけど。
「それでどうしようかな、ってずっと考えてる」
そう、ずっと考えているフリをしている。単純にモヤモヤしているだけで、実際は何も考えてはいないけど。
こんなんじゃ、いつまでも答えは出てこない。
「陽菜が誰かの告白を断らないなんて意外だな。まあ、俺の親友振ってくれるなよ」
靖人は意地悪そうな顔で、少し楽しそうに言った。
「靖人こそ、冬華悲しませたら許さないんだから」
私も同じような顔で言い返した。
駅に着き同じ電車に乗る。車内では特に会話はなかった。
二人とも出入り口付近に立ち、外で降り続けている雨を漠然と眺めている。
私は依然として、心中はモヤモヤしっぱなしだった。
降り注ぐ雨と一緒に、この気持ちを洗い流して欲しいと思った。
自宅の最寄り駅に着いて二人で下車をする。
私は駅構内のコンビニでビニール傘を購入した。
学校からは一つだった傘が、今度は二つ並んで歩き出す。
二つの傘は駅から少し離れた土手を歩いていた。
この土手には大きな川が流れていて、その両端には河川敷が広がる。河川敷は、河原でバーベキューをしたり、野球場や運動場などのスペースがあるほど広大なものだった。
私はその河川敷を見下ろしながら歩き、あの日のことを思い出していた。
「ねえ靖人。あの時のこと覚えてる? 昔……たしか小学二年生の時、保護者会の親と、その子供が二十人くらいで、この河原でバーベキューしたことあったじゃない?」
「ああ……あったな、そんなこと」
「皆で草むら探検していたら……えーっと……なんだっけ……名前忘れた……あの、川に落ちちゃった男子」
「山内だな。山内康史」
「そうそう。そう……だったっけ? まあいいや。その山内君が落ちちゃって大変だったなーって」
「落ちたっていっても、両足が川底にハマって抜けなくなっていただけだけどな」
「あれ? そうだったけ? よく覚えているね。それで私たちは二人で、ススキの草むらのどこかに置かれていた土管の上にいたじゃない? その時のこと、覚えている?」
「……土管? そんなのあったっけ?」
「え? あったよ。靖人が見つけたんじゃん」
「そうだったか? …………覚えてないな」
「そっか。覚えてないんだ」
そう言って、スーッと身体が軽くなるような感じがした。
「で、それがどうかしたのか?」
「ううん。なんでもない」
不思議と私は笑顔で応えていた。
今朝から続いていたモヤモヤもなくなっている。
雨は洗い流してくれなかったけど、私の心には少し晴れ間が見えているような気分だった。
「ん? 陽菜、なんか機嫌よくなってないか?」
「そんなことないよ。気のせい、気のせい」
見るからに分かりやすい上機嫌で私は言った。
あの時のことを靖人は覚えていなかった。
それならそれでいい。
これで私は、前を向いて歩いていける。そんな気がした。
そしてその夜。私は涼くんに電話をした。
「もしもし。うん、夜遅くに急でごめんね。それで、今日の返事なんだけど……ううん、別に焦っているわけじゃないよ。ちゃんと考えて、答え出したから。やっぱり私は、涼くんを恋愛対象として見られるか分からない。好きかどうかは分からない。でも…………それでも涼くんの気持ちは、すごく嬉しかった。だから…………これからも、私の傍にいてください」
***
秋の風はまだ温かさを残している、そんな十一月の初頭。
河原でバーベキューをしていた集団があった。大人十数人に対し、小学校低学年くらいの子供たちもほぼ同数。時刻は夕刻少し手前。大人たちは忙しなく片付けに手を取られていた。数名の女の子達もその手伝いをしている。
男の子たちは河川敷の敷地内で、各々好きなことをして遊んでいる。そこに残った女の子達が数名、男の子たちに混ざって遊んでいた。
その中で一番目立ったのは、河原で水切りをして遊んでいる集団。
数名の男の子たちは自分が一番だと主張し、必死に石を川へ投げていた。
「あ! 今、六回跳ねた!」
「俺なんか七回だったぜ!」
「最後にしゅぱぱぱーんって跳ねたから全部で十回だったな」
「俺なんかもっと切れるし!」
「次、俺投げるから見ててね、ひなちゃん」
「すげー! 今、めっちゃ跳ねた! 見てた? ひなちゃん!」
「ひなちゃん! 次、俺俺!」
「ひなちゃん!」「ひなちゃん!」
男の子たちはたった一人の女の子にアピールすべく、ひたすら石を投げ続ける。
それを遠巻きに、不満そうな顔をしながら眺めている男の子がいた。一人の女の子が、その男の子に声をかける。
「はるとくんどうしたの? みんなと一緒に水切りやらないの?」
「いいよ……水切りなんてガキ臭い遊び」
男の子はそう言って、ススキが生い茂る中に一人、足を踏み入れる。
「はるとくん、どこ行くの?」
「探検」
男の子はそのまま、ススキの茂みに消えていった。
「男の子って本当に探検とか好きだよね。探検もガキ臭い遊びだと思うんだけどなあ」
それを見送った女の子は呆れ顔で言った。
しばらくして、男の子がススキの茂みから戻ってきた。
そーっと水切りをしている集団に近づき、それを一人見守っていた女の子に声をかける。
「ひな、ちょっときて」
「ん? どうしたの、はると?」
「秘密基地見つけた」
「え!? すごい! どこどこ!?」
今度は二人でススキの茂みを進んでいく。
水切りをしている男の子たちは、我先にと石を投げるのに必死で、女の子がいなくなったことに気付かなかった。
ススキの茂みを進んだ先には、大きな土管が二つ並んで置かれていた。
土管の四方八方にもススキが長く生い茂っていて、土管の上に立ってみても空を見上げることしかできない。外部と完全に切り離されたような空間に、子供心で秘密基地と呼ぶにはピッタリの場所だった。
「ホントだ! すごい秘密基地だね!」
女の子は土管の上に座り空を見上げた。
「みんなにはナイショね」
男の子も土管の上に座り、女の子のに並びかける。
秋晴れの空は雲ひとつない快晴。陽は傾きつつあるも、まだその明るさを失ってはいない。二人はそんな空をしばらく黙って眺めていた。
「あ! 見て見て! 光ってる! 一番星だね!」
女の子は空の光を指差す。
しかしその時男の子は、空を見上げる女の子の横顔を見ていた。
「ひな。ちょっとこっち向いて」
「なあに?」
女の子が男の子の方を見ると同時に、二人の唇が触れ合った。
それは偶発的な事故ではなく、男の子の意思による必然的なものだった。
唇が触れ合うこと数秒。男の子は近づいていた身体を離し、なんでもないような顔で女の子に言った。
「ひなとキスしても、別になにも感じないな」
女の子は急な出来ごとに驚いていたが、その一言で怒りをあらわにした。
「勝手にしておいて、それはひどいんじゃないの!?」
男の子はため息をつき、空を見上げた。
「ごめんね。もうしないよ……絶対に」
それは、なにかしらの意志がこもった強い言葉だった。
「大変! 山内くんが川に落ちた!」
遠くの方で微かにそう叫ぶ声が二人に聞こえた。
落ち着いていた河原の雰囲気が慌ただしくなるのを感じる。
「なんか大変そうだし、俺達も戻ろうか」
男の子は足早にススキの茂みに戻って行った。
「え? ちょっと待ってよ!」
女の子も置いていかれないように、急いであとを付いていく。
――――――
***
これは遠い過去の出来事――
この時の二人には、空に輝く一番星は見えていたはずだった。
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