靖人と涼

「……願望」

 俺は呟いてスマホの画面を見つめる。

 この言葉の指し示す意味。文字の通り、それは俺自身が願い、そして望んでいるということだ。

 俺は誰にも恋愛感情を持たないことを願っているというのか?

 好きの感情が分からないんじゃない。それはあくまで、俺自身が望んでいるということで、意図的なものだとでも言うのか?

 あーなるほどね、そうだったんだ。なんて風に納得できないし、何故その考えに至ったのかも記憶にない。

 ただ、記憶にはないけど、それが自分の感情だということは理解できた。

 つまり、俺は何かを忘れている。忘れようとして、そのまま忘れてしまった。

 無性愛なんて言葉を見つけた時の、探し物を見つけたような感覚。恐らくそれは、自分が望んでいるものに対して漠然としたイメージしかなかったものが形を得たからだ。名前と定義を捉える事が出来た。

 なんとか記憶を奥底から引き上げようと試みるも、大事な部分はまるで浮かんでこない。思ったより、強固な封印を施されているような感覚だった。

 不安が過る――

 自分から望んで誰も好きにならないようにしている。何故そう思ったのか分からない。その経緯も思い出せない。じゃあ、ここらへんのことは思い出すことは諦めよう。無視して誰かを好きになるのを頑張ろう。

 根拠はないけど、それは無理だと確信できた――

 このままでは、誰も好きになれないことに気付いてしまった。

 恐らく、忘れたことを思い出すまでは……

 冬華とはこれからどうすればいい?

 やはり、俺は誰も好きになれない奴だからと突き放した方がいいのか?

 今まで通りにしていても、また傷つけることになってしまうことになるんじゃないか?

 全てを押し殺して、今まで通り誤魔化しながらやっていけばいいのか?

 自問自答を繰り返すも、堂々巡りで一向に答えに辿り着かない。


 すると突然、スマホに着信が入った。俺は、発信者の名前を見て一瞬躊躇うも応答する。

『あ、もしもし、こんばんは。どうも、宇佐美涼ですー』

『えー、突然ですけど、いつも皆が行っているカラオケ屋の駅ありますよね? あー、そうそう、その駅です』

『その駅の裏手の通り、分かります? あ、そうそっちです』

『その通りを真っ直ぐ進んで、二つ目の信号を右に曲がります。そしてすぐの曲がり角を左に曲がります。なにがあります? うん、そうですね。大丈夫、合ってます』

『そのまま真っ直ぐ進んだ三つめの信号付近分かります? え? そこは行った事ない? まあ、行けば分かるでしょう』

『そこらへんに、明日の十一時までに来てください。それじゃ!』

 通話終了――――


「…………はあ…………」

 深い溜息が漏れる。

 色々突っ込みどころ満載だったが、その都度突っ込んでいるのも疲れるのでこういう場合は大体流れに身を任せることにしている。

 明日……冬華にはまた学校で、と言われているし、どのみち明日は顔を合わせづらい。陽菜からも急襲の誘いも入っていないし、まあ……たまには付き合ってやるのもいいだろう。

 毒気を抜かれたせいか、先ほどまで渦巻いていた嫌な感情は、少し奥の方へ消えていた。


 翌日、俺は涼が指定した場所に十一時十分前に到着する。

 差し掛かる少し手前から、なにやら人の列が連なっていた。何かの店の入り待ちだろうと思っていたけど、涼はその列の一番先頭にいた。

「やあ、靖人。時間通りだね」

 俺の姿を見つけた涼は、ニコニコしながらこちらに軽く手を振ってくる。

 涼が並んでいる店はケーキ屋……いや、パンケーキ専門店か。並んでいる客層も女子、女子、女子、カップル、女子……よくこの列に男一人で並んでいられたな。しかも既に軽く三十組くらい並んでいる。この列の先頭って、一体何時から並んでたんだよ。

「ほら、ボーっとしてないで靖人もこっち来てよ。僕が朝の七時から並んでいる努力を無駄にする気かい?」

「本当に、お前の考えていることは良く分からん……」

 俺は観念して涼の隣に並ぶ。それを見た周りの女子数名が、何やらヒソヒソ話しだしたが、出来るだけ気にしないことにした。多分、店に入ってからも腐った視線を浴びることになるだろう。

「靖人は甘い物大丈夫だよね?」

「まあ、別に嫌いじゃない」

 この手の店は陽菜に連れまわされて、散々来ているから慣れたものではある。男二人と言うのは初の試みだったが。

 十一時に開店したので店内へ通される。

 壁際の席に座りとりあえずメニューを開くが、どうせ一番安いやつしか頼まないだろうと、涼に取り上げられてしまった。涼はメニューを一瞥し、ベリーパフェパンケーキとバニラホイップバナナパンケーキのドリンクセットを注文した。

「別に同じものでもよかったのに」

「せっかくだからシェアしないとね」

「女子かよ」

 店内は40席ほどあったが、すぐに満席になってしまった。行列の長さを考えるとまだ半分近くしか消化出来ていないようだった。あまり長居ができる雰囲気ではないな。


「さて。じゃあ、早速だけど昨日の事を話してもらおうかな」

 ニコニコした涼が話を切り出した。

「…………昨日のこと?」

「あ、僕が聞きたいのは学園祭が終わって、千歳さんと二人で帰った後の話かな」

「…………」

 そのくらいのこと、誰に聞いたわけでもなく涼なら気付いているとは思っていた。しかしそれを聞くために、わざわざこんな手間をかけたのかと思うと、呆れていいやら、感心していいやら複雑な心境ではある。話を聞くだけなら、昨日電話してきた時でも良かったのに。

「さあ、洗いざらい話してもらおうか」

 しつこい。そして言い方が腹立つ。

「そういえばお前、冬華と同じ小学校だったんだな」

「おや。露骨に話題を変えてきたね。余程話したくないことでもあったのかな? はは、だとしたら先攻は靖人に譲ろうか。確かに僕と千歳さんは同じ小学校だったけど、何か気になることでもあったのかい?」

「いや……気になることっていうか、小学校時代の話聞いた事なかったから、なんか話したくない事情でもあるのかなって、少し吹っ掛けたつもりだんたんだが……」

 あっさり肯定されてしまうし、その先を聞いても構わないスタンスで来られると、涼の戸惑う顔を見ようと思っていたこちらの思惑が台無しだった。

「話したくないっていうか、話すなって言われてるからね。千歳さんに」

「冬華に口止めされてるのか? 確かに冬華は思い出したくないから言いたくないって言ってたけど、それをお前が話してもいいのか?」

「千歳さんが僕と同小のこと認めているのなら、靖人には言っても大丈夫でしょ」

「まあ、そうなのかもしれないけど……」

「思い出すなあ……小学校の卒業式。『次の中学校、一緒なの私とあなただけなの。一緒の小学校だって知られたくないから、絶対誰にも話しちゃ駄目だよ! っていうか、今後一切私に関わらないで、話しかけないで、近寄らないで、目も合わせないで!』って言われたんだよね。あははは、コレ、酷くない?」

 涼はケラケラ笑いながら楽しそうに話す。

「それを言わせるだけの何かを、お前がしたんじゃねえのか……」

「うーん…………あ! 千歳さんってさ、小学校の頃からなかなか発育が良かったんだよね。主に胸とかおっぱいとか。だからこう、すれ違う時とかどうしてもいやらしい目つきで舐めまわすように見ちゃったりとかしてた事はあったけど……それかな?」

「それだろ」

「えー? 視姦してただけだよ?」

「視姦って言ってる時点でアウトだよ。全校の女子生徒に暴露したくらいの案件だ」

「それは僕のイメージが崩れるから辞めてほしいなあ。若気の至りってやつだから、勘弁してよ」

「俺に許しを請われても困るんだが……」

「まあ、理由はなんにしろ、僕は千歳さんに嫌われちゃってるみたいだからね」

 思っていたより、くだらない話になってしまった。普段、胸の内を話さない涼の、悲しくも切ない過去がさらけ出される的な事はなかった。本当に思考が読めない奴だ。

 

 しばらくして、目の前にベリーパフェパンケーキとバニラホイップバナナパンケーキと飲み物が運ばれてきた。バニラホイップの量がすごい。20センチくらいのタワーだった。

 涼は運ばれてきたパンケーキを両方二等分する。そして一皿に二種類ずつになるように取り分け、片方をこちらへ差し出した。

「はい、半分こ」

「カップルかよ」

 半分になったとは言え、相当量残されているバニラホイップと向き合う。やはり戦う覚悟が出来なかったので、とりあえず皿の横に避けた。

「はい、じゃあ次は靖人の番ね」

「俺の番?」

「うん、まだ昨日の事聞いてないよ」

 そういえば俺は先攻とか言ってたな。話題を変えたのだから、流してくれるものだと思っていたけど甘くはなかった。パンケーキはこんなにも甘いのに。

 そろそろ、いい加減にして欲しい。

「そういうの、あんまり趣味良くないぞ」

 投げやりに言い放ち、俺は目の前のパンケーキを頬張る。

「まあまあ、そう怒らないで。これでもこっちは心配しているんだ。言わなくても……靖人の顔を見てれば分かるよ。きっと傷つけてるんだろうな……って。彼女の事も、自分自身も……」

 言われてハッとする。本当にこいつは……

「俺、そんな酷い顔してたか?」

「うん、チューされそうになったけど、思わず拒否しちゃって凹んでる顔してる」

「どんだけピンポイントな顔だよ……」

 当てずっぽうだろうが、実際それで合っているのが悔しい。

「話しなよ。うまくアドバイス出来るか分からないけど、少しは楽になるだろうから。一人で塞ぎ込んで抱え込むよりずっといい」

 そういう涼の表情と声は柔らかかった。興味本位で俺を弄るために聞いてきたんじゃないのだろう……多分。少し信用出来ない部分も若干残るが……

「分かった。全部話すよ」


 俺は昨日の事を涼に全部話した。それこそ洗いざらい。最初は掻い摘んで要所要所話すつもりだったが、話しだしたら止まらなくなっていた。もちろん話の中には、俺が抱える最大の問題点も含まれている。確かに、全部吐き出したら少し気持ちが軽くなったような気がした。

 この間にパンケーキは完食したので、胃袋は重くなったが。


「誰も好きにならないことを望んでる……ねえ…………どんな昼ドラ展開を経験したらそんな発想に至るのかな? 正気の沙汰とは思えない」

「相談に乗る的なこと言っておいて、さすがにそれは酷くないか?」

「ははは、ごめん。ただ、靖人は自己暗示力がものすごく強いんだなって思った。そうなろうと思ったって、なかなかなれるものじゃないよ。自己催眠のレベルかもしれないね」

「自己暗示……ね。自己陶酔って言われなくて良かったよ」

「ふふ、案外それもあるかもね。まあ、なにがきっかけか、なんてこともまとめて忘れてるんじゃ、その点、僕は助力出来そうにないね。少しでも気楽に構えてた方がいいんじゃないかな」

「そうなんだろうけどな……ただ、冬華と今後、どう接していけばいいか分からない。やっぱり、思い出すまでは距離を置いていた方がいいんだろうか……」

「とりあえず二人で話し合ってみたらどうかな?」

「このままだと誰も好きになれないって言えばいいのか? それだとまた、傷つけることになるかもしれない……」

 すると涼は突然腹を抱えて蹲り出した。急な腹痛か? と一瞬思ったけど違った。こいつ……声を押し殺して爆笑してやがる……

「おい、いつまでそうしてるつりだよ」

 涼は身体を起こすも、クックックと肩を震わせながら笑いを堪えるの辞めない。

「あー、いやー、靖人が思った通りのバカだなあと思ってさ」

 涼はコップの水を飲み、一息入れる。

「彼女を傷つけることを恐れるなら、ちゃんと話はした方がいい。今、自分が抱えている問題はこれだってね。それで千歳さんが一緒にいられないって言うならしょうがない。それでも一緒にいたいって言うなら、そうすればいいさ。話し合いは大事だよ」

「話し合い……ね」

「ろくに話もせずに、相手の気持ちを分かったような振りして、抱え込むのは辞めた方がいいよ。結果的に相手を傷つけるし、後々後悔することになるだろうからね」

 涼の言葉には、言い知れない重みを感じた。

「なんか……知ったような口ぶりだな」

「まあね。自分の気持ちと相手の気持ちを向き合わせるってさ、意外と難しいもんなんだよ」

 涼の表情は悲壮感に溢れていた。どんなことも、ニコニコしながら笑って誤魔化している普段の涼からは、想像できないくらいの感情が表に出てきている。

 涼には涼なりに、過去に何かあったのだろう。

 さすがに、そこを深く追求するような野暮な真似は出来なかった。

「そうだな……今度、ちゃんと話してみるよ」

 俺は冷めきったコーヒーを飲み干した。


「あとは、靖人が千歳さんと、どうなりたいかの方向性はしっかり持っておいた方がいいよ」

「方向性?」

「結局、靖人は千歳さんを好きになるつもりで、今の関係を受け入れたのかい? それとも、好きだと言われたから何となく一緒にいるだけなのかい?」

「それは……」

 言われて口を開くが、次に繋がる言葉が出てこない。

「きっと靖人の中では、それも曖昧なんだよ。好きになろうとしていないわけじゃないけど、何となくさも否定できない。別に、好きになろうとしろって強要するつもりは全くないけど、どうしたいかはちゃんと決めておくべきだと思うな」

 言われてその通りだと思った。確かに、俺は冬華に対する想いは、どこか中途半端なところがある。貫きたい信念がないから、想いや感情がこんなにも揺さぶられていたのだろう。

「そうだな……俺は冬華と――」

「あー別に言わなくていいし、今決める事でもないでしょ。ゆっくり時間をかけて考えなよ。これは靖人にしか決められないことだからさ」


 最初来た時には考えられないくらい、有意義な時間を過ごせたと思う。イマイチ涼の思考や本心は把握し難いところはあるけど、そこがまた親友として楽しませてもらっているところだったりもする。

「せっかくこの流れだから俺も聞いてみたいんだけど、涼は実際のところどうなんだ?」

「ん? どうって?」

「あ、いや……好きな人とかいるのかなって」

 これは完全に興味本位。まあ、また笑って誤魔化されるのがいつものオチだが。

「いるよ」

「え?」

「大切に想い続けている一人は、僕にだっているよ」

 意外と正直に白状するので呆気にとられる。

「あー……告白とかしないのか?」

「難しいかな……なかなかハードルが高くってね……告白する機会すら与えてもらえないよ。だからずっと片思い」

 涼は苦笑いをする。

「それってまさか二次元とか、アイドルだったりしないよな……?」

「ははは。ちゃんと生身の人間だし、もっと身近な人物だよ」

「それって――」

 涼は、俺の言葉を遮るように言葉を重ねる。


「誰かは言えない。今はまだ……ね。でも、そのうち分かる日が来るよ。僕はいつか、その日が来ればいいと、心から願っている」


 そう言った涼の視線の先にあるものを、俺は計り知ることはできなかった。

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