第30話 vsジャガーズ【2回表】スピットボール
話は1日前、試合前日の夜にさかのぼる。
「ジョー、聞いてくれ。今から言うことは――俺たちだけの秘密だ」
俺は、覚悟とともに足元のカバンをゆっくりと開けた。
「これを使ってくれ」
俺が差し出したのは、小さなプラスチックケースに入ったヘアワックス。この世界に飛ばされたとき通学カバンに入っていたものだ。まさかこんなものが役に立つことになるとは思いもしなかったが。
ジョーが怪訝な顔でワックスの蓋を開けて、こわごわと鼻先に近づける。無色透明・無香料、ハードタイプのワックスを日頃から使っていたのはラッキーだった。
「この試合、渚が試合を組み立てることが絶対条件だ。相手の戦力はわからないが、あの大男どもぞろいだ。乱打戦になればおそらく勝ち目はない」
無言でワックスを見つめるジョー。
「ジョー、渚のストロングポイントはなんだ?」
「ええと、キュードーで鍛えたコントロール、ランナーを背負っても動じないメンタルでしょ。そしてジャイロ――ナギサ1号に代表される独特の回転よね」
「そのとおりだ。そのなかでも特筆すべきが、縦方向に回転しない直球、『ジャイロボール』。バックスピンしないボールは、外からの力に大きな影響を受けるんだ。重力や風、そして――」
俺は取り出したボールの側面にワックスを塗ってみせた。
「こういった異物の影響も、だ」ジョーがゴクリと喉を鳴らすのが聞こえた。俺の意図が伝わったらしい。
俺がジョーに指示したのは『スピットボール』。ボールにワセリンや歯磨き粉を塗り、いびつな変化をさせる悪質な投球法。
投手は、ボールにかけた指のわずかな角度でその行き先を自在に操る。付着物などあれば、打者、そして投手自身にも予想がつかない大きな変化をするのは当然である――言うまでもなく、ルールに反した不正投球なのだが。
がしかし、俺の世界で言えばこのダーティーな戦術がクローズアップされるのは20年後の1960年代。ゆえに誰もしらない。『裏・未来戦術』とでも言うべき作戦だ。
「ジャイロボール=ナギサ1号は、この細工の影響をモロに受ける。バックスピンによる揚力を得ていないからな。だから初見で弾き返すことはほぼ不可能。しかも投げるたびに変化する」
本来、サンライズの正捕手は剛力さららだ。しかし、竹を割ったような性格の彼女がこのような不正投球の片棒を担ぐことはあり得ない。俺は弱みを握ったジョーの合理的思考につけこんだのだ。
「ただ、すべての場面で使用するわけにはいかない。相手に気がつかれる可能性は低いと思うが、なにより渚に知られたくないんだ」
ジョーも静かに頷く。覚悟を湛えた青い瞳。
「だから、ここぞという場面でこのワックスを塗るんだ。指示はベンチから俺が出す。サインを確認したら、渚に返球するとき気づかれないよう塗ってくれ」
「――わかったわ」
ジョーが青い瞳で俺を見据えた。
「でも、ひとつ理解できないんだけど。ペニー少佐も売り言葉に買い言葉でああ言ってたけど、負けてもスタヂアムは接収されないのよ?」
それでも、おまえがアメリカに帰っちまうじゃないか。俺はそういいたいのをぐっと飲み込み、
「負けっぱなしでいるのは性に合わなくてな」こめかみに塗られた赤チンを撫ぜてみせた。
「――この『未来戦術』も、勝つため、よね」
「ああ、すべては勝利のためだ」
ジョーは何も答えず、ワックスを胸元に仕舞った。
「FUCK!!」
3球目、『スピットボール』を引っ掛けたダガーJはショートゴロに倒れた。
(アレックスといいダガーJといい、渚のスピットボールを初見で当てるだけで大したもんだよ……)
俺は内心冷や汗をかく。
しかし、ぶっつけ本番の『スピットボール』は俺の想像以上の変化を見せた。
不規則な軌道は打者を幻惑し、面白いほどバットをかわしジョーのミットに収まる。
アレックスにフェンス際まで運ばれたときは冷や汗をかいたが、打席の外からたった数球見ただけでとらえた彼の打撃力は本物だ。まともにぶち当たっていては勝ち目がないだろう。
続く5、6番打者もスピットボールを要所で使い、渚はこの回も三者凡退で抑えてみせた。
【二回表終了】百合ケ丘サンライズ0-0フライング・ジャガーズ
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