第8話:紫電キリエ(二)

 百合ケ丘繊維の朝は早い。


 「とりあえず様子見」と所長がなあなあの先送り判断を下してくれたお陰で、俺は所長の工場で働くことになった。7人の女子工員兼野球団員、所長、そして俺。「新東都スタヂアム」に併設された工場および工員寮では計9人が寝食をともにしている。

 俺には所長の隣、渚たちの部屋と通路を挟んで反対側の部屋を与えられた。元は物置だったという一室には、ところどころオイルの染みが広がっている。


「やっぱ何度確認してもこれだけか……」


 部屋で荷物を広げた俺は頭を抱えていた。目の前には、元いた世界から“こちらの世界”へと転送されてきたものが並べられている。


「カバンの中にはペンケース、ヘアワックス、モバイルバッテリー、家のカギ、数学と物理と地学の教科書とノートとイヤホンとガム……」


 あとは身につけていた高校の制服と下着、スニーカー。以上。せめて歴史の教科書を持っていればと地団駄を踏んでみたものの、ないものは仕方がない。


「まあでもこいつがあったのはよかったよな」


 俺は電源を落としたスマホをなでる。俺の命を救ったアイテム。これがなければ俺は工場を追い出され、今頃文字通り路頭に迷っていたことだろう。

 平行世界とはいえ戦後の混乱期である。現代世界でぬくぬく育った高校生など一夜たりとて生き延びられないことは明白だ。今はこいつのバッテリーが俺のライフラインに直結しているのだ。


 時刻は朝6時。俺はワイシャツにスラックス、高校指定のブレザーという一張羅を着ると部屋を出た。

「エージ、おはよう」

 声に振り向くと、海老原渚と剛力さららが連れ立って歩いてきた。

「おはよう、渚、さらら」

「……フン」

 渚は笑顔で手を振ってくれたが、さららは相変わらずつれない。

「あなたがここで働くことを所長は許したみたいだけど、渚に指一本でも触れてごらんなさい。2分で上半身の関節全部外してあげるわ」

「つくづくおっかねえな」


 俺は身をすくめた。冷静に考えれば、ここは女子7人+男性2人のプチ異世界ハーレムのはずだ。なのになんだこのラッキースケベの欠片も感じられない工員寮は。

「まあそれはそうと……なんかうまそうな匂いがする」

 さららから視線を外した俺は鼻をひくつかせた。右奥の部屋からなんだか懐かしい香りが漂ってくる。

「朝ごはんの時間よ。みんなで食べるの。エージも一緒に食べよう」

 渚が扉を開けてくれた。中は30人ほどが座れそうな食堂になっており、双子や麗麗華の姿も見える。


「…………」

 と、食事を載せた盆を持った少女が近づいてきた。身長は俺と同じぐらいで女子としてはかなり大柄だ。そしてこの時代には珍しく、ぽちゃぽちゃとふくよかなあんこ形。糸のように細められた目とつややかな頬が招き猫を連想させる。

「ありがとう、八重やえ」さららが90度のお辞儀をしながらノールックで盆を受け取った。

「エージ、この子は八重ちゃんよ。工員寮の食事を作ってくれてるの。野球団でのポジションはファースト」

「…………」

「八重ちゃんはね、百合ケ丘に来る前は女子相撲の力士だったの。“八重桜”って四股名で大関まで昇進したのよ、すごいでしょ」

「…………」

「相撲も、渚の弓道や私の合気道みたいにGHQによって禁じられたままだけどね」と不服そうなさらら。

「…………」

「……………………」

「………………………………」

 相変わらず下を向いたまま無言を貫く八重ちゃん。

「RPGの主人公かよ」

「ごめんねエージ、八重ちゃんは恥ずかしがり屋さんなの」

「よ、よろしく。八重ちゃん」

「…………」

 八重ちゃんはわずかに頬を赤らめ、そのまま振り返ると厨房に引っ込んでいった。

「ええと、八重ちゃんは女子相撲か」

 俺は朝食をかっこみながら確認した。朝食は麦飯、異様に味の薄い味噌汁のみ。


「……うまい」

 粗食も粗食だが、この世界に来て初めての食事だ。温かい汁が体に染み渡る。

(意外とうまいけど、量がこれっぽっちじゃあな)

 口には出さないものの、俺は内心肩を落とす。小さな茶碗半分ほどの麦飯は一瞬でなくなってしまった。飽食の時代で育った食べ盛りの男子高校生には腹の足しにもならない量だ。

 俺はかすかにためいきをつく。「ラノベ主人公が異世界に来て初めて食べるものランキング1位」は「屋台で買った異世界生物の串焼き肉」だと思っていたが、とはかくもシビアなものだ。

「エージ、あなたのせいで少ないごはんがさらに減ってるんだからね」

 心を見透かしたように、対面のさららから鋭い声が飛んだ。

「俺の、せい?」

「ちょっと、さらら」渚が割って入ろうとするが、さららの舌鋒は止まらない。

「そうよ。ウチ――百合ケ丘繊維はお遊びで野球やってるわけじゃないの。あなたみたいな野球もできない穀潰しが」「ひでえ」「――穀潰しがいたら、そりゃみんなの取り分が減るでしょ。慈善事業でやってるわけじゃないんだから」


 なるほど。俺はうつむいて今一度空の椀を見た。GHQから助成金が出ているとはいえ、この工場だって無尽蔵に予算があるわけではないだろう。ましてや戦後の混乱期だ。人数が増えるほどひとりの取り分が減るのは道理である。さららの言うことも一理、いや万里ある。

「そりゃすまなかったよ。俺も早く仕事に慣れて、この工場で頑張って働くからさ」

「頑張ってね! エージ。それに所長はエージを監督にするって言ってたわよ」

「え?」渚の意外なひとことに、俺は驚愕する。

「マジで!?」

「うん。実力はからきしだけど、野球を見る目はなかなかのものだって褒めてたよ」

 私のピッチングをひと目見てボールの回転まで見抜いたんでしょ、と渚。

「浮かれてんじゃないわよ。監督うんぬんにしたって、次の試合で結果見るって話でしょ」さららはしかし、相変わらず挑発的な表情を崩さない。

「私はまだエージ、あなたを信用していないわ。次の試合で勝てなかったらきっとあなたクビよ、クビ」

 薄い味噌汁を飲み干したさららが親指で首をかく素振りをする。


(所長の言ってた様子見ってのは「次の試合まで」の猶予期間ということか……)


 しかし監督とはかくも魅力的な響きである。一見無駄に思える野球知識も披露しておくものだ。俺は食堂のメンバーを見渡し算段する。


 職業女子リーグ全体の競技レベルは定かではないが、百合ケ丘繊維もなかなか個性的なプレーヤーがそろっている。女子相撲出身の八重ちゃんだって、力士といえば股割りだ。柔軟な下半身と長いリーチは一塁手にうってつけだし、投げる範囲が広いというのは送球時に野手の心をリラックスさせる効果もある。


 しかし一方渚の投球後のケア法に見られるように、この世界にはいまだ近代的な野球戦術は根づいていない。ならば――


(いやいやダメじゃん! そもそもこのチーム、メンバー7人しかいねえし!)


 俺は頭をブンブンと振った。対面の渚が不思議そうな顔をする。

「ちなみに渚、今季の百合ケ丘繊維の対戦成績はどんなもんだ?」

「ええとね、百合ケ丘繊維は去年から公式試合に参加してるの。初年度が50試合で0勝50敗。今季は今10試合ちょっとで、まだ0勝」

「……つまり一度も勝ってないってことだな」

 そりゃそうだ、メンバー7人しかいないんだもん。渚がてへへ、と恥ずかしそうに笑う。

(いくら俺の野球知識があったところで、初回から封鎖野球で勝てるはずがねえ)

 双子、麗麗華、渚&さららのバッテリー、そして力士の八重ちゃん。俺は食堂にいるメンバーを見ながら指を折った。と。


「そういえば、百合ケ丘繊維には7人のメンバーがいるって言ってたよな。あとひとりは?」

「ああ、もうひとりは……」


 そのとき。食堂の扉が勢いよく開いて、ひとりの少女が駆け込んできた。お団子ヘアに丸眼鏡。左手には紙束、右手にはなぜか大きな算盤を抱えている。


「遅いわよ、キリエ」

「はあはあ……ごめんよさらら……八重ちゃん、まだご飯残ってる? まあいいや、ちょっとみんな聞いて!」


 机に座るなり、眼鏡少女はすさまじいスピードで手元の紙に数式を書き始めた。八重ちゃんが無言で盆を運んでくる。

「渚、この子は――」一心不乱に鉛筆を動かす少女に圧倒される俺。

「エージ、紹介するわね。この子が百合ケ丘繊維の7人目、紫電しでんキリエ。ポジションはセカンドよ」

「ちょっと渚、黙ってて」渚を片手で制するお団子眼鏡少女。その間も鉛筆を動かす手は止まらない。

「やっぱり……」

 眼鏡の奥の瞳がキラリと光る。

「みんな見てこれ!」

「何それ?」

 一枚の紙切れを掲げて見せるキリエと、怪訝な表情の少女たち。


「何って、私たちのチームの得点と、長打率と出塁率の相関関係だよ!」


 眼鏡お団子少女は真っ黒になった紙をビシッ!と食堂の壁に貼りつけた。細かく刻まれた数値、グラフ、計算式の羅列。6人が一段と訝しげな表情になる。

「キリエ、どういうことでして? 説明してくださいまし」

「ほら、見てよこれ。今までチームの得点はバッターそれぞれの『打率』と相関関係にあると思ってたんだ。打率が高いほど得点が入りやすいってことね。でも、ヒットだけじゃなくてフォアボールとかでも出塁するでしょ? そいで徹夜で計算しなおしてみたら、得点は打率じゃなくて『出塁率』とも比例するわけ、まあ当然だけどさ。それでさらに長打――」

「「難しいよう!」」

 双子がそろって首をひねる。


「簡単に説明するとさ――『長打率』と『出塁率』を足した数値がもっとも“得点と近似な相関関係”にあったんだよ! これ大発見じゃない?」


 目を輝かせて力説するキリエ。メンバーはもちろん、わけがわからず呆然としている。

 沈黙、数分間。


「…………」

「えーと、どういうことー??」

「うーん、合気道しかやってこなかったから算術はわからない。キリエ、すまない」

 さららが90度のお辞儀。


「ちょうだりつ……? そうかんかんけい……?」渚も呆けたように繰り返すのみ。

「キリエ、野球は算盤じゃなくてバットとボールでするものでしてよ」

 麗麗華も縦ロールに指を通してつまらなさそうだ。キリエの熱弁は、残念ながら百合ケ丘ナイン(7人だが)にはまったく刺さらなかったようである。皆一様に首を傾げ、およそ理解できないという顔をしていた。――ただひとりを除いては。


「その子の言うとおりだ」


 俺のひと言に、しょぼくれていたキリエが顔を上げる。

「うう……あれ、男の人がいる。昨日所長とベンチにいた人だね?」

「俺は青島エージ。よろしく、キリエ」

 俺は壁まで歩み寄り、彼女の書いた紙切れをつぶさに確認した。

「今キリエが話してくれた理論は正しい。俺のいた世界ではオン・ベース+スラッギング――『OPS』と呼ばれている。アメリカで生み出された最先端の指標だ」

「ほんとう!? 私の計算、合ってるの!?」しょげていたキリエが一転、顔をぱあっと華やかせた。

「ああ。打者の力を計るのに、打率・長打率・出塁率よりだ」


 現代のメジャーリーグでは、この指標を元に数億ドルの移籍金が動く。しかしこの世界においてそれを知っている者はおそらくこの少女、紫電キリエしかいない。

 紙切れに書かれた数値に俺は驚愕していた。『OPS』は現実世界ならば、今から60年後の2000年代に定着する指標のはず。これを、この少女が編み出したというのか。俺はキリエの抱えた巨大算盤に目をやった。


「しかし……マジですごいな。これをキリエがひとりで計算したのか?」

「そうだよ! 私、毎試合のスコアつけてるんだもん。公式試合だけでなくて練習試合も、他チームの試合もね! もちろん全試合全球だよ」

 キリエは机の紙束を誇らしげにバンバンと叩いた。辞書ほどの厚さがある。

「全球だって!?」

「キリエはデータキ◯ガイなのよねえ」驚く俺に呆れたようなさらら。

 ふんだ、とキリエが不満げに口をとがらせる。

「これもけっこう面白いんだよ。スコアブックの数字を見てるとね、あのときの試合はああだったなーとか、この試合でこの回にこんなことがあったなーとか、昨日のことのように頭に浮かんでくるんだ」

 紙束を抱きしめ、うっとりするキリエ。周囲のメンバーは理解できない、というふうな視線を送っている。

「キリエ、ちょっと見せてもらってもいいか? このデータ」

 俺は隣の席に座り、紙束をめくる。

「え? もちろんいいよ。エージだっけ、珍しいね? 今までこんなものに興味示す人いなかったよ」

 喜々として紙束を差し出してくるキリエ。

「俺の世界にはたくさんいるんだよ、これに価値を見いだす人間が」


 ――面白い。

 俺はかすかに差した一筋の光明に内心でガッツポーズした。この子のデータさえあれば――使えるかもしれない、俺の野球知識が。

 紫電キリエは唯一の理解者の登場に、満足そうに麦飯をぱくついている。右手が鉛筆で真っ黒だ。

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