第4話:vs寺田螺旋工業①
工場の長い廊下は、スタヂアムの一塁ベンチへとつながっていたらしい。誰も腰掛けていないところを見ると、所長チームは守備についているのだろうか。
「それにしても――」
見事な球場を前に俺は息を呑んだ。工場に隣接されたそのスタヂアムは、市営のグラウンド並みの大きさがある。戦後の日本そのものといった道中の風景と比べ、不釣り合いな豪華さだった。
(終戦直後に、こんな立派な球場が)
もちろん、俺の野球史にこんなものは存在しない。俺が感心していると、マウンドに上がっていた少女がこちらに気づき手を振った。
「あ、渚が来ましたわ! 渚ー! もう、遅いですわよ!」
「ごめんね麗麗華」
膨れっつらをするのは、縦ロール巻き髪が揺れる可憐な美女。背番号は7。
(また女の子だ……)
麗麗華と呼ばれた少女も、渚や俺と同い年ぐらいだろうか。すらりとした長身に、現代世界でも通用しそうな華やかな美貌。艶やかな黒髪は縦ロールに巻かれ、彼女の動きとともにふわふわと揺れている。
「待たせちゃったね。道端で人が倒れてたのを助けてたんだ」
「渚のお人好しは相変わらずですのね……まあよくってよ。遅刻した分、びしっと抑えてくださいまし。ランナー3人も出しちゃいましたけど」
麗麗華がぺろりと舌を出し笑った。
「わかったわ。任せといて」
渚が静かに、しかし力強くボールを受け取った。どうやら渚がマウンドを引き継ぐらしい。彼女の背番号は1――つまり、このチームのエースピッチャーなのだろう。麗麗華はマウンドを降りるとそのまま外野へ向かった。
スコアボードに目をやると、現在六回表で一死満塁。なかなかのピンチのようだ。渚はロージンに軽く触れると、投球練習を開始する。が――
「なんだ、このフォームは……!?」
彼女のピッチングに、俺は目を見開いた。
マウンド上の渚は、左足を上げると同時に右手をだらりと垂らし一瞬制止。完全な脱力から一転、引き絞った右腕をスリークウォーターで振り抜く――
「――変則の二段モーションか。さすが異世界、なかなか興味深いフォームだな」思わず感想が口を突いて出た。「鞭のようにしなる腕から投げ込まれる、球速はないが独特のスピンがかかったボール。よほど鍛えられた体幹がなければあのフォームを維持することはできないだろう」
「漏れとる漏れとる、エージおぬし思考が漏れとるぞ。ちょい引く」
「あ、すんません。つい」
「ほっほ。しかし意外や意外、おまえさんなかなかの野球通じゃな」
隣で熱心にストレッチをしている所長が、俺の言葉に目を細めた。
「渚クンは、ウチに来るまでは弓道をやっていたんじゃ」
「弓道? 弓道って、あの弓道か?」
矢を引いて放つジェスチャーをする俺に、うなずく所長。静から動へと切り替わる、極端に緩急がついた投球フォームは、確かに弓道の構えを彷彿させた。
「じゃあ、行くよ……!」
投球練習を終えた渚が第1球を投げ込むべくセットポジションに入った。彼女の視線の先には――
「えっ、バッターも女の子なのか!? いや、よく見るとキャッチャーも……?」
驚いた俺はあらためてチームの守備陣を見渡す。外野、バッテリー、全員女子。味方のみならず、相手バッターも女子だ。
「なんじゃエージ、渚クンから何も聞いとらんのか?」
ストレッチを続ける所長が驚いたような顔で俺を見た。
「我々は女子職業野球球団『百合ケ丘繊維』なんじゃが。おまえさん、入団希望者じゃろ?」
「女子
思わず大きな声が出る。野球史ですら、早くも大きく違うレール上で走り始めているようだ。
「じゃあこれは遊びなんかじゃなく……」
「遊びとは失敬な」憤慨したように所長がぴょこんと跳ねた。頭の綿毛がぽわんと震える。確かに、こんな立派なグラウンドを趣味で使っているはずがない。
「GHQからのお達しでの。ほら、今新東都では柔道やら剣道やらといった、武道のたぐいが禁止されとるじゃろ?」
「う、うん」俺はあいまいに頷く。そこらへんは元いた世界でも同じような状況だった気がする。
「しかし、この混乱期に娯楽のひとつでもないと、いつ民衆の不満が爆発するかわからんからの。スポーツは手っ取り早い民衆の娯楽になる――早い話がガス抜きじゃな。しかし戦争で男手は足りん、武道もならんというんで、白羽の矢が立ったのがベースボール――『野球』じゃ。アメリカさんは自国の国技の普及に熱心でな」
「女子職業野球」という制度もアメリカにはずっと前からあるんだそうじゃ、と所長。それは俺も知らなかった。
「ウチは繊維工場じゃから、GHQから復興助成金をもらいながら工場を動かしつつ、新東都の連盟に加入してリーグ戦をやっとるんじゃよ。今日の相手は隣町のネジ工場」
所長が相手ベンチをあごでしゃくった。無論そちらも全員女子である。
「リーグ戦は年間50試合じゃ。最近はお客も増えてきての」
数十試合もこなすということは、なかなか立派なリーグのようだ。俺は観客席に視線を向ける。グラウンドに気を取られるあまり見逃していたが、なかかどうしてたくさんの観客が詰めかけているようだ。内野席の8割ほどが埋まっているところを見ると、100人前後、いやもっといるだろうか。
「なんでも、新東都におるGHQの兵隊さんも娯楽がなくて退屈しとったそうでな。女子リーグの開幕はあちらさんの強い要望と援助もあって実現したんじゃよ」
所長が指さした先はバックネット裏。数十人の欧米人が観戦している。皆ラフに着崩してはいるが迷彩柄の軍服姿だ。
「ストライク! バッターアウト!」
「ぃよしっ!」
控えめなガッツポーズ。マウンドでは粘るバッターを渚が三振に斬って取った。客席の軍人も大きく手を叩いて満足そうだ。
「イェア!」
「ナイスピッチ、ガール!」
「いいぞ! “サジタリウス!”」
「俺はこの回無失点に大金賭けてんだ、サジタリウス頼むぜ!」
ひとりの黒人兵が札束を掲げて叫んだ。わずかに聞き取れた英語に俺は得心する。
「なるほど、ギャンブル場も兼ねてるってわけね……ところで所長、サジタリウスってなんのことだ?」
「サジタリウス――射手座のことじゃ。ほら、渚クンが弓道をやっていたのはさっき言ったじゃろ? 彼女の『キュードー・ピッチング・フォーム』は欧米人受けがいいんじゃよ」
「ふうん、クールジャパン的なやつか」
まさか、異世界転移初日で職業野球が観戦できるなんて思いもしなかった。しかも、初めて出会ったのが女の子とはいえれっきとした野球選手だったなんて。
俺の異世界は剣と魔法の世界ではなかったが、これはこれでなかなかツイている――
――キン。
と。1ストライク2ボール、渚の投じた4球目が弾き返された。舞い上がった白球は猛スピードで新東都の空に舞い上がる。
「ガッデーム!」声援を送っていた黒人兵が頭を抱える。
「あーあ、長打になりそうだな」
俺は打球の行方を見てつぶやいた。左中間まっぷたつ間違いなしの打球速度、そして角度。前投手の残したランナーは3人だ。大量失点は免れないだろう。
しかし、マウンドの渚はまったく心配そうな素振りをみせない。――それどころか、キャッチャーともどもベンチに引き上げようとすらしている。
俺が怪訝に思ったそのとき。
「うりゃー!」
かわいらしい雄叫びとともに、俺の視界にひとりの少女が飛び込んできた。黒髪のふたつ結びが跳ねる小柄な中堅手。右手首には白のブレスレットが光っている。驚くべきは――
「麗麗華どいてどいてー!!」
「速い……! いや、速すぎるだろ!? レフトでもギリギリの打球だぞ!?」
先ほどまで浅めに陣取っていたはずのセンターは、わずか数秒のうちにレフトフェンス際まで達していた。彼女は疾走の勢いそのままスライディングに入り、落下してくる大飛球を地面スレスレでキャッチ。すんでのところでタイムリーを逃したバッターが天を仰いで息を吐いた。
「ななななんちゅう脚力だよ! 所長、あの子も女の子だよな!?」
「もちろんじゃ。彼女はつるちゃん――
「ファンタスティック! サンキュー、鶴ガール!!」落胆から一転、黒人兵は札束を振り回し狂喜乱舞である。
「やったー! 捕れたよー」
誇らしげに左手のグラブを掲げる中堅手・二神つるこ。小動物を思わせあどけない顔立ちは渚より大分幼く見える。先ほどの捕球でユニフォームが泥まみれだ。
「さすがつるちゃんだわ! 今日も素晴らしくてよ!」手を叩いてはしゃぐのはレフト・麗麗華。
「もう、褒めてないで麗麗華もちょっとは走ってよう」
「だってユニフォームが汚れてしまいますもの」
つるちゃんと麗麗華が、軽口を叩き合いながらも仲良く外野からベンチに戻ってくる。
「あれー? 麗麗華、知らない男の人がいるよ!」
「本当ですわね、ごきげんよう。初めてお目にかかりますわね?」
怪訝な顔のふたりに、マウンドを降りた渚が紹介してくれた。
「この人は青島エージ。さっき、暗黒街の近くで倒れてたの」
「暗黒街!? 怖いよう」つるちゃんがほっぺを両手で押さえる。
「まあ、暗黒街ですって!? よかったわ、渚が来なかったら貴方今頃どうなってたかわからなくてよ」麗麗華も信じられない、といった様子で後ずさった。
「ふたりとも安心して。暗黒街で倒れてただけで、あそこの街の人ってわけじゃないから」
怯えるふたりをなだめる渚。どうやら、俺がぶっ倒れてたのはかなりヤバいところだったらしい。少女たちのリアクションを前にして、ようやく俺にも現実が危機感を伴ってやって来た。
――ここはいくら日本に似ているとはいえ、現代の法も常識も通用しない異世界。麗麗華の言うとおり、渚に助けられてなかったら今ごろのんびり野球など見ていられなかったはずだ。のんきに構えていたがその実、かなりラッキーな九死に一生を得たのかもしれない。いまさながらぶるりと肌が粟立つ。
「つるちゃん、いい守備じゃったぞ」
「所長、新しいユニフォーム軽くて走りやすいよ!」
所長に頭をなでられ、つるちゃんが泥だらけのユニフォームでぴょんぴょんと跳ねる。
「そうかそうか、よかったわい。せっかくの新繊維じゃ、試合でアピールして
所長が満足そうに顎をなでた。
この試合は入場料を取る興行であると同時に、勝ち星を挙げて企業の名を挙げ、さらに繊維工場としての新商品プレゼンの見本市でもあるということらしい。ところどころ今のプロ野球とよく似ている。
納得しつつ俺は、手書きのスコアボードに目をやった。
「しかし7点差か。ひっくり返すのは厳しそうだなー」
「あら、大丈夫よ」ぽつりと漏らした俺のつぶやきを、麗麗華が自信たっぷりに否定する。
「次の攻撃はかめちゃんからですもの」
じっくりご覧になってあそばせ、と麗麗華が可憐な笑みとともに片目をつぶった。
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