第3話:海老原渚(投)
「渚クン、うちは身寄りのない少年少女の保護施設じゃないんじゃぞ」
目の前には初老の男性の姿。渚よりも小柄な体形、もしゃもしゃの白髪頭も相まって全体的に綿毛のタンポポのようである。
「紹介するね。この人は
「ど、どうも」
百合ケ丘所長は相変わらず渋い顔で俺を見上げているが、構わず渚が続ける。
目を覚ました俺が20分ほど歩いて連れてこられたのは、巨大な工場だった。3本の煙突が薄い煙を吐き出しており、何に使うのかからない機械が作動している。かすかに漂うオイルの匂いが鼻をついた。
「まあよいわ、ひとまず置いておこう。今はそれどころじゃないからの」機械の作動音のなか、所長が声を張った。
「渚クン、試合はもう始まっとるんじゃ。
「試合? 試合ってどういうことだ?」
「説明は向こうでするとして……おまえさんエージじゃったか? とりあえずコレに着替えてくれるかの」
所長が俺に差し出したのは、薄汚れた帽子と――野球のユニフォームらしき服。
「これは……」
「今日はひとまず、ワシらのチームのベンチに入ってもらおうかの――おっと、その前にじゃが、エージは『野球』というスポーツを知っとるかな? アメリカさんは『ベースボール』と呼んどるが」
「え? 野球?」
予想外の質問に、一瞬思考が停止する。
「あ、ああ、もちろん。野球は大好きだよ! プロ野球はもちろん、メジャーから甲子園に社会人、独立リーグだって――」
思わずそこまでまくしたて、俺は言葉を止めた。
「ワシらの、チームだって……?」
「そうじゃよ。おや、試合観戦はしたことないのんか?」
GHQも宣伝に熱心なんじゃがまだまだじゃのう、と所長がつぶやきながら俺に背を向けた。ついてこい、という合図のようだ。
いや、しかし。俺は後を追いながら手渡されたユニフォームに袖を通す。白地に桃色のラインが入ったラグランスリーブは、間違いなく野球のユニフォームだ。
だが、この時代にプロ野球チームが存在するはずはない。庶民の娯楽として根づくほど復興もしていないだろう。俺の記憶が正しければ、戦後日本でプロ野球が始まるのは終戦5年後の1950年のはずだ――
(俺の記憶が正しければ、だって?)
俺は首を振って自分の考えを打ち消す。元いた世界の記憶など、この世界で通用するはずがないのだ。今は昭和21年にして終戦の3年後。東京ではなく新東都。この世界は日本のようで日本ではない、紛れもない平行世界(パラレルワールド)――異世界なのだ。
先を歩く所長と渚は、巨大な工場の奥へと続く暗い廊下を歩く。最奥の扉が開けられた瞬間――
「ここじゃよ、エージ。ワシらのホームグラウンド『新東都スタヂアム』じゃ」
俺の目の前に現れたのは、真夏の光に照らされる芝生と土。
「おお……」
紛れもない、ボールパークだった。
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