褚裒2  馬小屋の貴人  

褚裒ちょぼう章安しょうあん県令から

郗鑒ちかんさまの參軍に抜擢された。


褚裒、その名はすでに有名だったが、

何せ、地位が低い。

なのであまり顔は知られていなかった。


そんな褚裒が東に出かける。

見送りの数人と共に客船に揺られて、

錢唐せんとうの宿屋に到着した。


そこにしんというひとがやってくる。

かれは呉興ごこう県令として客人を見送り、

浙江せっこうを渡ろうとしていた。


うひい、県令様だよ!

宿屋の主人、沈のために褚裒を

牛小屋に追い払い、場を確保。

やがてそこで宴会が始まった。


潮が満ちると、沈はふと散歩に出る。

すると、牛小屋におっさんが一人。


「主人、あれは誰だ?」


「昨晩ふらりと来た北人ですよ、

 県令様のお越しがあったため、

 あちらに移ってもらったのです」


へえ、そうなのか。

ここで出会ったのも、何かの縁かな。


沈、褚裒に呼び掛ける。


「おうい、北人のオッサン!

 餅でも喰いたくねえか?


 何て姓だ? 一緒に語ろうや!」


褚裒もそれに手を振り、答える。


「私か? 河南かなんの褚裒というのだ」


「!?」


沈、めっちゃビビる。

あの、広く名を知られた、褚裒。

そのひとと、なんと、こんなところで!


もう他のことは考えられない。

沈はダッシュで褚裒のもとに赴き、

名刺を差し出した。


それからすぐに牛を殺して

褚裒の前に提供する。


更には宿屋の主人を連行し、

こいつを鞭打ちします、

それでお許しください、と言い出した。


いやいや、褚裒は言う。


「そんなことよりも、語らおう」


そう言って、特に

怒ったようなところもなく、

共に宴会を楽しんだ。


宴会のあと、沈は褚裒を

県境まで見送るのだった。




褚公於章安令遷太尉記室參軍,名字已顯而位微,人未多識。公東出,乘估客船,送故吏數人投錢唐亭住。爾時吳興沈充為縣令,當送客過浙江,客出,亭吏驅公移牛屋下。潮水至,沈令起彷徨,問:「牛屋下是何物?」吏云:「昨有一傖父來寄亭中,有尊貴客,權移之。」令有酒色,因遙問「傖父欲食餅不?姓何等?可共語。」褚因舉手答曰:「河南褚季野。」遠近久承公名,令於是大遽,不敢移公,便於牛屋下修刺詣公。更宰殺為饌,具於公前,鞭撻亭吏,欲以謝慚。公與之酌宴,言色無異,狀如不覺。令送公至界。


褚公は章安令より太尉記室參軍に遷る。名と字は已にして顯らかなれど位は微なれば、人の未だ多きは識らず。公は東に出で、估客船に乘らんとせば、送故の吏、數人が投じ錢唐が亭に住く。爾れる時、吳興の沈充は縣令と為り、當に客を送りて浙江を過らんとせば、客は出で、亭吏は公を驅いて牛屋が下に移す。潮水の至るに、沈は起ち彷徨せしめ、問うらく:「牛屋が下は是れ何物か?」と。吏は云えらく:「昨に一なる傖父有りて來たり、亭中に寄らば、尊貴なる客有りて、權え之を移す」と。令に酒色有り、因りて遙問すらく「傖父は餅を食すを欲せるや不や? 姓は何らか? 共に語るべし」と。褚は因りて手を舉げ答えて曰く:「河南の褚季野なり」と。遠近に久しく公が名は承くらば、令は是に於いて大いに遽て、敢えて公を移さず、便ち牛屋が下にて刺を修し公に詣づ。更に宰を殺し饌と為し、公が前に具うらば、亭吏を鞭撻し、以て謝慚せんと欲す。公は之と酌宴し、言色に異無からば、狀は覺えざるが如し。令は公を送りて界に至る。


(雅量18)




原文には「沈充しんじゅう」と書いてあるのだけれど、ここは敢えて無視することにしました。というのも版によってあったりなかったりする字だし、本貫と姓が一致するからって沈充につなげられても呉興沈氏って地元の名族なんだし、それに沈充なんざ王敦おうとんの乱で王敦にべったり、かつ褚裒が郗鑒の下についた=蘇峻そしゅんの乱が勃発した時にはとっくに殺されており、無茶にもほどがある。世説新語の出た頃の時代における呉興沈氏と言えば、沈慶之しんけいしみたいな名将もいたはずなのにねえ。

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