◎斜陽の東晋の帝たち 総括

晋帝という、言わば世説新語における時間軸を一通り眺め終わった。なので、ここまでで感じたことをメモっておこうと思う。


ひとくちに言えば、世説新語、簡文帝周りについては「別の読み物」位の認識が必要であるよう感じた。なので、世説新語を無邪気に楽しみたい方は、簡文帝が絡むエピソードはほぼ飛ばすと良いように思う。


いっぽう、そんな「飛ばした方が良い」箇所が、正直なところ、非常に楽しい。なのでここの散文を読んで頂き、「0516こんなとこにヌラヌラしてんのかよキモッ」と感じて頂ければ良いのではないか。ヨイデハナイカ。


簡文帝は、世説新語の記述だと「人品高邁、なれど亡国の礎の徒」として記録されている。この主張に至るためのロジックが入念に、そして我々の感覚からすれば「陰湿に」練り込まれている印象がある。


これは簡文が登場しない箇所にも忍ばされている。具体的に言うと、

 武帝6、

 武帝13。

これと

 簡文27

を読み比べてみて頂きたい。実に見事な簡文 dis が決まっているのを感じて頂けるものと思う。


では、なんでそんな事態になっているのだろう。この点については、編纂者の来歴を覗いてみると面白いものが見えてくる。


世説新語の編纂者は劉義慶である。劉宋武帝、劉裕の甥。文人として名高く、無能であった父親(劉道憐)ではなく、有能であった叔父(劉道規)の後継者となった。


時の皇帝は文帝、劉義隆。劉裕の三男であるが、長男が帝位にあって役不足であると廃位、殺され、次男も謀反の疑いが掛けられて殺された。このような中での即位(424)である。更には即位後間もなく、主要幹部である徐羨之、傅亮、謝晦を処刑(426)。


更に後の話をしておくと、四男六男も謀反を起こし、処刑されている(451、454)。しかも、その文帝も嫡子に殺害される(453)、と言う、どこをどう見ても

文帝の血族の仲は最悪であった。あるいは貴族たちの権勢争いに、いいように利用されていた。


この宮中のへどぐちょを、少し外側から見ていたのが劉義慶である。世説新語の完成時期は明らかではないが、劉義慶の死亡年が 444 年、文帝死亡が 453 年であることを考えれば、文帝治世中の成立は間違いがない。実際に読んだかどうかはさておき、親族が編纂した書物である。存在を意識しない、と言うことは無かっただろう。


ここで簡文帝についても、簡単にまとめておこう。東晋を立てた元帝の末子。

そして即位の辺りで、やはり兄に謀反の嫌疑が掛けられていたりする。


ここは未だ憶測の範囲でしかないのだが、おそらくは簡文即位周りの宮中情勢、

思った以上に「琅耶王氏の権勢が非常に大きかった」文帝即位時と似通っていたのではないか。


そこから推論を進めると、見えてくることがある。「外部に振り回されてあなたの軸が定まらないと、簡文即位後の東晋のように、宋の皇統はグズグズになりますよ」と言う、劉義慶の諫言だ。


世説新語で有名なエピソードと言えば、曹丕が曹植に詠ませた、とされる

「七歩詩」だろう。以前どこかで、このエピソードと劉義隆との関連性を見て

「暗に劉義隆を批判している」と言う論を見かけた。


この認識の持ち方についてはひどく腑に落ちてきた感があったので、以後自分の世説新語観に大きく影響を及ぼしてきた。が、今回の簡文考察を経て、既に書いた通り諫言要素を強く感じるようになった。


批判と諫言は、近いが遠い。


さて、ここから先、桓温や謝安が描かれていくと、この辺りがどう変わっていくんだろう。楽しみである。ただその前に、五胡の君主たちに行っておきたい。ある意味ここも読んでおきたいところだったのだ。何せ「五胡十六国時代」だしね。

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