第8話 彼のいない昼下がり
昼少し前にいつも通り家へ向かうと、夕方に見るのとは違う緑の凪ぐ庭が出迎えてくれた。梅雨明け秒読みとなった夏を前に、植物たちは元気さを増しているようだった。
いつもは放課後にここへ
あんまりにも綺麗な光景だから、一人で来るとちょっと入るの躊躇っちゃうな。
「あれ、どったの?」
「あっ、こんにちは」
背後からやって来た
「練習しに来たんです」
「じゃあ、そんなところに突っ立ってないで。さ、入った入った」
肩を押されるままに、玄関を入る。
「ただいまー」
元気な小学生みたいな蓮さんの声が、空気すらも明るく変えていく。いつも静かで落ち着いた家の入口だとばかり思っていたこの場所も、蓮さんといるといっぺんに騒々しく感じる。
「お邪魔します」
私を置いてリビングに行ってしまった蓮さんの後を追って、私も廊下に上がって、リビングに進んだ。
「いらっしゃい」
「ようこそっ」
リビングでくつろいでいたのか、いつものソファーに腰掛けた二人がこちらに首を向けて、笑いかけてくれた。
「休日なのに悪いわね」
そう言いつつ、私に歩み寄って来た桜海さんがためらいなく私を抱きしめる。それから不意に力を緩め、何かに気が付いたようだ。
「今日、お邪魔虫は?」
お邪魔虫と言われ、察してしまう私もどうかと思いつつ、首を横に振る。
「亮吾さん、連絡取れなくて、今日は一緒じゃないんです」
「そうなの。珍しいこともあるものね」
「いつもは過保護なくらい、倖美ちゃんを大切にしてるのにね」
「おかげで俺は全然相手をさせてもらえないんだっての」
亮吾さんが聞いたら怒りだしそうな台詞を次々と。
まぁ、確かに今まで連絡が取れなかったことも、メッセージに返事がなかったこともないから、ちょっと不安ではある。
それにしても、桜海さん? いつになったら放してくれるんだろう。
「ま、その方がいいわ。こうやって倖美ちゃんを思う存分構えるからね」
「あ、あの……」
「桜海。倖美ちゃんをいじめたらだめだよ。僕らの歌姫なんだから」
桜海さんの腕越しに優しく微笑む和一さんが見えるけど、助ける気はないらしくこちらを見ているだけだ。なら、蓮さんはと思ったけど、軽い笑い声が聞こえたかと思ったら、和一さんよりも奥の位置に座ってしまった。
「和一、お茶出してやれよ。真昼間からきてくれてんだし、ちょっと休んでから練習したってバチ当たらないだろ」
なんて、のんきな二人だ。
誰もこの状況を止める気配がないな。としばらく桜海さんの腕の中でもがいたら、満足したみたいで桜海さんの方から放してくれた。
「……」
改めて思う。ここに来るときは、亮吾さんと一緒に来ようと。
「あーあ、こんな可愛い子亮吾だけが独占しているなんて由々しき事態だわ」
短パンにTシャツと言う非常にラフな格好でも、見劣りしない桜海さんがコケティッシュな表情を作って私の顔を覗く。
もう身体の自由が利くので、私はすかさずソファーへ逃げ込んだ。
「っもう、喰ってかかったりしないわよ」
あれよあれよと満足そうで晴れやかな表情に変わったってことは、とりあえずもう大丈夫ってことなのかな。
桜海さんを伺うようにソファーに飛び込んだので、一度座り直してテーブルに向き直る。和一さんが運んできたお盆から、甘い香りが漂った。
いつものベリーの匂いが、今日は何だか濃い気がする。
「今日は、紅茶だよ。ラムネ切らしちゃっててね」
手から手に渡されたカップを受け取ると、ほんのり
「紅茶にも入れるんですね」
「ん、あぁ、シロップの事? こういうのは何にでも使えるからね。暖かい方が混ざりやすくて香りも出やすいし、倖美ちゃんも家でやるといいよ」
「今度試してみます。どおりで、いつもよりいい匂いがするんですね」
「和一に無理に合わせなくていいんだぜ。こいつ食べもんの話になるとうちのお袋よりうるさいんだ」
「無理に合わせてなんかないです。むしろ面白いです」
和一さんの淹れた紅茶を一気に飲み干した蓮さんが、カップと一緒に運んでこられていたお菓子に手を伸ばす。
「そーか?」
「お前みたいなやつには分かんないんだよ」
いつも通りの口調で、やんわりと和一さんが鋭い言葉を言うので、思わず蓮さんの方を窺ってしまった。蓮さんの方も特に気を害した風もなく平然と和一さんが焼いたであろうスコーンを頬張っている。
そう言えば、練習しているときも結構な勢いで言い争うときあるけど、次の瞬間にはけろっとしてるんだよね。
「お二人って仲が良いんですね」
「「……は?」」
ほぼ同時に動作を止めた蓮さんと和一さんが、私の顔をまじまじと見つめる。横では、桜海さんがこらえきれていない笑いを噛み殺そうとしてるし。
間違ったことは、言ってないと思うんだけどな。
「だって……」
「時々鋭い事言うのね、倖美ちゃん」
そう思った訳を話そうかとも思ったけど、桜海さんの言葉に遮られ、私は口を閉じる。笑ったってことは、桜海さんもそう思ってることだと思う。きっと。
「あんたら両方とも口悪いくせに妙に仲いいんだから、そりゃわかる人には分かるわよ」
面と向かって口が悪いとか言える桜海さんもの同類では? なんて、口が裂けても言えないかな。
「まぁー、仲がいいつうか、半分腐れ縁みたいなもんだし」
「腐れ縁?」
「俺と蓮の地元一緒なんだ。ど田舎だけどね。おんなじ集落の音楽仲間」
だから、別に仲が良いってわけじゃないよ。
「おんなじ時に同じように『グレン』に惹かれて楽器触り始めて、羽美莉さんに少しの間だけだけど、音楽を教えてもらったし。ずっと一緒にやるっきゃないだろ」
「お母さんに?」
それは初耳だ。桜海さんはうちの両親と知り合いみたいだったけど、蓮さん達もだったなんて。
「ちっさい頃のほんの少しだけだけどな」
「でも、その時に本物に触れたから、今でも音楽やれてるんだなって思うときはあるね」
眼鏡の奥の瞳が昔を懐かしむように、遠くを見つめてる。
「こっちに来たのもそれが理由でしょ」
澄ました声で、桜海さんが二人に続きを促す。
「やっぱ田舎じゃ限界あったからな、色んな音知りたかったし、羽美莉さんが見てきた本物を俺たちの目で見たかったから」
「桜海とはこっちで知り合ったんだ。羽美莉さんのツテで『グレン』のアシスタントさせてもらってたときに」
「私は
「出会ったが最後、バンド組んで、なし崩し的にシェアハウス紛いをするまでになったと」
確かに小さい頃からずっと一緒なら、言い合いをしてもすぐ切り替えて仲良くやっていけるか。それにしたって、音楽の為にそこまでできる蓮さんも和一さんはすごい。
それに比べて私は……
皆さんへ話せていない私の過去の事を思う。その時の自分なりに努力したつもりだった。さっきの蓮さん達の話を聞くと、もっとできることがあったんじゃないか。そう思ってしまう。
「どうしたの?」
桜海さんの困ったような顔が真正面に来る。私は慌てて首を横にした。
「何でもないです。皆さんがすごいなと思って」
とてもじゃないけど、私の話を桜海さん達にする事は出来ない。亮吾さんに話して、すっきりしたって言うのもある。私の過去を聞いて桜海さん達はきっと優しくしてくれる、それはもう過ぎるくらいに。
きっとそれを許してしまったら、私の音楽は死んでしまう。
だから、皆さんには今ある私だけを見て、音楽を一緒にしてほしい。
「そう?」
「そうです!」
桜海さんに悟られまいと、別の話題を必死に考える。
授業でも使わない頭を頑張って働かせてみるが、丁度いいような話題が思い浮かばない。
「俺たちの話はまぁ、こんな感じだったけど、倖美ちゃんと亮吾は? どうやって知り合ったの?」
見かねた和一さんが、話題を提供してくれた。
「そ、それは、」
「そういえば聞いてなかったわね。あんな奴とこんな可愛い倖美ちゃんがどうやって知り合ったのか興味あるわ」
無事に話を逸らすことに成功したようだ。とは言え、まさかこんな話になると思っていない私は、別の意味で慌てる。
素直に、遅刻した先で、塀を飛び越えていた亮吾さんと出会って、怒られついでにお茶屋さんに行ったなんて、言えるわけがない。かと言って、丁度いいような出会いを思いつけるはずもなく。私は掻い摘みながらありのままの話をすることにした。
唖然。苦笑。爆笑。
分かっていたけど、私の話を聞く皆さんはまさにこんな感じで、ころころと表情を変えていった。特に桜海さんが。
「どおりでアイツ、倖美ちゃんとどうやって知り合ったのか話さないわけね」
「にしても、学校の塀超えるとか……」
「どっかの誰かさんにそっくりじゃない」
「うるせぇ、大人になってからはやってねぇよ」
和一さんと桜海さんが向けた視線に、たまらず顔を逸らした蓮さんが不機嫌そうな声を上げるけど、そんな言葉で二人の追及が休まるわけもないようで。
「大人になってからもしてたら別の意味で心配するよ」
「大体、高校生の時点でだって普通はしないわ」
「……てめぇら、」
喧嘩するほど何とやら。楽しそうな顔の二人を見て、余計顔をしかめてしまった蓮さんが、おもむろに席を立つ。
「……先練習室行ってるぞ」
どかどか。と大きな足音で二階に上がってしまう。
「いいんですか?」
「いいの、いいの。どうせ私達が上がる頃にはけろっとしてるから」
「それに恥ずかしかったのはたぶん別の理由だしね」
「別の理由?」
二人にからかわれた以外に、何か理由があるんだろうか。
「蓮は亮吾くんの事、弟みたいに思ってるからね。自分の真似したって知って恥ずかしかったんだと思うよ。亮吾くんもちょっと前まで蓮にすごくなついていたから余計」
「なるほど」
自分を慕ってくれる人が自分の真似するのを見たり聞いたりしたら、そりゃ恥ずかしくなるか。
「何と言うか、申し訳なかったです」
「いいのよ。お陰で両方をからかういいネタになったわ」
「蓮はいいとしても、甥っ子にちょっとくらいは優しくした方がいいと思うよ」
「いいじゃない。甥っ子だから好き勝手出来るんだし」
食器の片付けを始める和一さんが、軽く桜海さんをたしなめた。桜海さんは不服そうだったけど、勢いよく玄関を開く音が聞こえて、一気に笑顔になる。
「お邪魔しますっ!」
亮吾さんの声だ。聞こえるのが先か、姿が見えるのが先か。そんな速さでリビングに入ってきた制服姿の亮吾さんは、私の顔を見るなり安心したように微笑んだ。
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