第四章 唯色の幽称(ソライロノカクリネ)
十月二十三日。
夜。
流れ落ちる星の下、全ては繋がり、何かが終わる。
今日の流星群のために、N学園は一般開放されていた。学校に自宅が近い生徒、またそれ以外の近所の住人で、N学園の校庭には、そこそこの数の人間が集まっている。三澄七緒も、そんな人間の中の一人だ。
彼女の待ち合わせの相手は、まだその姿を表さない。当然だ。まだ待ち合わせの時間までには一時間もあるのだから。
気象庁の予測によると、流星が見え始めるのもそれくらいの時間らしい、だからこそ、その時間に待ち合わせをしたわけだが。
(あーもー、何やってんだろうな、ボク)
どうしても、顔がほころんでしまう。七緒は自分が浮かれていることを、はっきりと自覚していた。
自覚したところでどうしようもないのも事実だが。
(ヤナギ、早く来ないかなぁ)
今日は星降る夜。願いの一つや二つ、簡単に叶いそうである。空のくれた奇跡を待ちながら、七緒は幸せをかみしめていた。
そして一時間後。
夜空は流星で埋め尽くされた。
天空に広がる黒のキャンバスに、無数の光の筋が流麗に流れては消える。
例えば今この瞬間なら、本当に流れ星が願いを叶えてくれそうだね、と志藤勝は、誰に言うでもない口説き文句を思いついていた。
願い。
人はこの世界に、いったい何を願うだろう。そのちっぽけな体で。
頭が良くなりますように。
大金が手に入りますように。
好きな子とうまくいきますように。
家族みんなが健康でありますように。
人類が平和でありますように。
(そんな事、人々が協力すれば簡単に出来ることなのに、だからこそ、人は願うのかな)
流星は、何も叶えない。
人の願いが、人によって叶えられること。その事を人が理解するまで、流れ星は人の前に姿を現し続けるのだろう。
志藤は思っていた。彼女は何を願ったのだろうと。十年前に世界に別れを告げた自分の娘は、何を思ってこの流星に埋め尽くされた空を見ていたのだろうと。
(キレイだと、そう思ってくれたのなら、嬉しいな)
結局この日まで、自分は娘の気持ちを知ることが出来なかった。父親失格だな、と会った事の無い娘に対して、志藤は詫びた。
そういえば、律子は理解できたのだろうか。
社会科資料室で彼女の過去を問いただしたあの日から、志藤は律子に会っていなかった。
あの日から、律子は学校に来ていない。真面目な彼女が連続で無断欠勤した事に、職員全員が驚いた。志藤もなんとか律子と連絡をとろうとしたのだが、携帯は何度かけても繋がらないし、職員名簿に載っていた自宅の番号に電話しても、一度も出ることは無い。住所から彼女の住んでいるアパートを調べておしかけてみても、インターホンに応える者はいなかった。
あの日、彼女が最後に言った言葉。
「志藤先生、私、絶対に理解するつもりです。幽称の気持ちを」
その言葉が、志藤には気がかりだった。
(まさか・・・!)
嫌な予感。
志藤は衝動的に駆け出していた。
十年前の今日、幽称の消えた場所に向かって。
時は戻って一時間前。
七緒が潤一の到着を心待ちにしているその頃。
潤一は自宅のベッドで、夢を見ていた。
それは思考の混濁であり、そして過去との邂逅、その夢の中にいながら、潤一は全てを思い出そうとしていた。
十年前のあの日、自分は確かに流星群を見ていたのだ。
両親に連れられ、今年と同じようにして、一般開放されていたN学園の校庭で、流れ落ちる星の束を、子供心にきれいだと思っていたのを、徐々に思い出していく。
その姿が、夢の中で忠実に再現されていく。
(俺はこの時から生意気なガキで、両親といるのが恥ずかしかったから、確か勝手に一人で、両親と離れた場所で見てたんだよな)
そして自分は、屋上の存在に気づく。
当時、年端もいかない幼児だった自分には、高校の建物は、まるで天空に続く神殿のように見えたのだ。
そしてその屋上、それほど空に近い場所で流れ星を見たのなら、どんなにキレイだろう、きっとその星を捕まえて、宝物に出来るに違いない。
そう思って、あの日。
自分は校内に潜入して、その後何度も上ることになる階段を、初めて上ったのだ。
少年の体に、その階段は長く、険しく、途中で何度もへばりそうだったのだが、それでも自分は諦めなかった。きっとその先には、誰も知らない楽園のような場所が広がっていると信じて。
そして少年は階段を上りきり、そこのドアを開け放ち、そこで、そこで・・・。
「そこで、あたしと会ったんだよね」
いつもと同じ。
ボーっとした。
眠たげな。
どこか寂しげで。
どこか楽しげな。
無表情なようで。
表情豊かな。
潤一の知る限り。
それは何の細工もない。
もっとも単純な笑みを浮かべて。
もっとも美しくて。
もっともかわいらしいと思う笑みを浮かべて。
目元と口元だけの。
曖昧な笑みを浮かべて。
彼女は、そこにいた。
「あぁ、そうだ。俺はあの時、十年前のあの時、俺はオマエと出会っていたんだ」
潤一は思い出した。
全てを。
彼女と自分を繋ぐ、その全てを。
「そうだったんだな、篠崎」
志藤は階段を駆け上がっていた。
目指す場所は一つ、屋上だ。
「はぁはぁ、くそっ!」
いくら若く見えるといっても、体力までもがそうはいかない。志藤の体は、早くも疲労に悲鳴を上げていた。
それでも、止まる訳にはいかない。きっと彼女はそこにいる。なんの確信も無いけれど、それでも彼女はそこにいる。志藤はそう思わずに入られなかった。
律子は理解するつもりなのだ。幽称の気持ちを。自分の娘の、最後の気持ちを。
彼女と同じ場所に立って、彼女と同じ流星群を見て、彼女と同じ風を感じて、彼女と同じ・・・。
「やらせない! そんなこと、絶対にやらせないよ!」
「ヤナギくん、久しぶり」
いつも通りに、本当にただ久しぶりに会っただけのように、彼女は言ってきた。
志藤とのドライブの日から、潤一は柚葉に会っていなかった。
屋上に行っても、彼女の姿は無く、彼らが出会ったのは、本当に久しぶりだったのだ。
しかし――
「いや、始めまして、だろ」
潤一は、そう言った。
柚葉はおかしそうにクスクスと笑う。
「そうだね、始めまして、だね」
潤一もつられて、クククっと笑う。そして語りだす、自分が思い出した記憶。自分が思い出した真実を。
「俺はあの時、ここでオマエに会った。そして目撃したんだ。オマエが飛び降りる瞬間を」
「うん、覚えてるよ。あたしが飛び降りる瞬間、ヤナギくんと目が会ったよね。覚えてる、今でも覚えてるよ」
「へっ、幽霊もどきの分際で、今でもも何も無いもんだ」
「くすくすっ・・・、そうだね」
柚葉の笑いはいつも通りだった。
本当に、いつもどおりだった。
「ねぇ、いつから気づいてた? あたしが世界の存在じゃないって」
面白がるように、まるで愉快犯サスペンスの犯人役のように、柚葉は聞いてきた。
「志藤から自殺した生徒の名前を聞いたときだな。その時、なんとなく納得した。それでも、ただ単に同姓同名って可能性もあったから、少し調べてみたんだ」
「今の学園の生徒に、篠崎柚葉の名前は無かった」
「くくくっ・・・。そう、無かった。オマエの名前は無かったよ。同学年だけじゃなく、全校生徒を探してみても、オマエの名前は無かった」
潤一は話しながら、すごく楽しんでいる自分に気づいた。どうしてかはわからない。柚葉と話すのが久しぶりだったからかも知れない。これで最後だと、どこかでわかっているからかも知れない。
「俺の可能性は、確信に変わったよ。十年前の流星群の日、世界に別れを告げた少女、それは篠崎、オマエなんだって」
柚葉もまた、すごく楽しんでいた。少なくとも、潤一の目にはそう見えた。
「じゃあ、あたしと会っていた事を、十年前の今日に、あたしと会っていた事を思い出したのは、いつ?」
「それはついさっきさ。この夢の中で、自分の記憶が再現されて、それで思い出した。けど篠崎、実際は違うんだろ? これは俺が自力で思い出したんじゃない。本当はオマエが、思い出すように導いたんだろ?」
潤一はそう思っていた。そうでなければ、今この場でこうして柚葉と話している訳がない。
それでも、いや、だからこそか、柚葉はとぼけるようにして言ってきた。
「さぁ?」
「なんだよ、さぁ、って」
「だって」
「なんだよ」
「どうだっていいじゃない」
「ほう?」
「だってヤナギくんは」
「俺は?」
「ヤナギくんは、思い出したんだから」
「・・・くくっ、確かに、そうだな」
「そうだよ」
「くくくっ・・・」
「くすくすっ・・・」
(ヤナギ遅いなー)
そうは言っても、約束の時間まではまだ三十分もある。潤一は悪くない。七緒が早すぎるのだ。
流星群は、まだ本格的に始まってはいない。それでも先程から、ちらほらと、少しずつ姿を見せ始めていた。
(うー、ヤナギが来るまで待ってくれてもいいのに)
七緒はまだ、流れ星に願をかけてはいない。潤一が来てから、一緒にするつもりだ。
願い事は決まっているのだ。あせる事はない。それにこういう願い事は、二人でやった方がいいだろう。
潤一の到着は、もう少し先の事になる。
「聞きたいことがあるんだ」
「なに?」
記憶が蘇った時、潤一には、ある疑問が生まれた。それは、
「どうしてオマエは、俺の前に現れたんだ? どうしていつも、屋上で俺と会っていたんだ?」
それを聞くと、柚葉はまたまた笑い出した。
「くすくすっ・・・、おかしなヤナギくん」
「なにがだよ」
「だって、これは夢なんだよ? 夢の中だから、記憶は自動的に修正される、ヤナギくんの中のあたしの記憶だって、今この夢のために、今ここであたしと会うために、勝手に作られたものかも知れないよ? その全ての記憶は、真実ではないかも知れないよ?」
今度は潤一が笑う番だった。
「くくくっ・・・、いいさ、それでも。俺の中に、屋上でオマエと過ごした記憶がある。それだけで、それは俺にとって真実だよ。真実なんて、それを記憶する人間によって作られるもんだ。だから、俺にとって、オマエと過ごした事は、確かな事実だし、記憶の中にある、真実なんだ」
「真実は、それを記憶する人間によって作られる、か」
柚葉が潤一の言葉を繰り返す、そして、やっぱり、面白そうに笑った。
「そうだね。そうかも知れないね」
「だからこそ、俺とオマエが屋上で過ごしたことが事実だとして、真実だったとして聞きたい。オマエはどうして、俺の前に現れたんだ?」
少し考えるようにして、柚葉が押し黙る。しかし、おそらく実際に考えているわけではないだろう。
そして柚葉は、このような事を言ってきた。
「あたしが飛び降りる時にね、ヤナギくんと目が合ったでしょ?」
「あぁ」
「その時ね、潤一くんの目が、すごく儚そうに見えたんだ」
「儚そう、ねぇ」
「それでね、すごく気になって、この子と話してみたいなぁって、そう思って」
「そうして、俺の前に現れたと?」
「どうだろうね、真実は記憶によってつくられるから」
面白がるように答える柚葉。
「いいさ、オマエの口から聞けたんだ。それはもう、俺の中で真実だよ」
彼女の口から紡がれる言葉。それだけで、潤一は満足だった。
バタン!
「律子ちゃん!」
屋上に着いた志藤は、彼女の名前を叫んだ。どこにいるかはわからない。それでも彼女は必ずここにいる。
「律子ちゃん! 律子ちゃんどこだ!」
「志藤先生・・・?」
律子の戸惑ったような声が、微かに聞こえた。それは屋上に吹きつける強風に、簡単に掻き消されてしまうような声だったけれど、志藤は聞き逃さなかった。
声の聞こえた方に目をやる。そこに、律子はいた。
彼女はフェンスに手をかけ、その策を超えようとする、まさにその瞬間だった
「待つんだ!」
志藤は慌てて彼女に向けて駆け出す。律子のほうも慌ててフェンスをよじ登ろうとするが、志藤が彼女の手を掴むほうが早かった。
「わからない事は、まだあるんだ」
「なに?」
とぼけるような柚葉の声、心なしか先程からよりも、さらに楽しんで
いるように聞こえる。
「オマエの死んだ理由、世界に別れを告げた理由だよ」
「なんだ、そんなこと」
そう言いつつも、柚葉の表情は、その質問を待っていたかのようにほころんだ。そんな気がしただけかも知れない。
「そんなことって事は無いだろう。志藤はずっとその理由をさがしてたんだぜ?」
「ヤナギくんはどうなの?」
「なに?」
「ヤナギくんは知りたいの? あたしの死んだ理由」
潤一は、迷わず答えた。
「あぁ知りたいね、オマエみたいな変わり者が、いったいどういう理由で、自殺なんてしたのか」
それを聞いて、柚葉は嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。
それは潤一が見た、彼女の初めての満面の笑みだった。
「ヤナギくん」
「あん?」
「空は、キレイだよね?」
「何言ってんだ?」
「ヤナギくんなら、わかるハズだよ。あの日あの時、同じ空を見たヤナギくんなら。空は、キレイだよね?」
潤一は少し考え、そして解った。柚葉が何を言いたいのかを、柚葉が空に、何を見たのかを。
だけど、それを言葉にする事はできない。したくないのだ。
もしも言葉にしてしまえば、その素晴らしさは、潤一の中で風船のように広がったその素晴らしさは、途端にみすぼらしく凋んでしまいそうだったから。
だから、潤一は黙っていた。
柚葉も、その意味を理解していた。
「そのキレイな空は、何色?」
だから彼女の聞き方は、正しかった。本当の意味で、正しかった。
空は何色?
空の色は、一つではない。
晴れた日の藍。
曇った日の灰。
黄昏時の緋。
真夜中の紺。
夜明けの紫。
だが、彼女の言っているのは、そうではない。そうではないのだ。
潤一は答えねばならない。いや応えなければならない。潤一が見る空の色、潤一が感じる空の色を。他の誰でもない、潤一の言葉で。
そして、潤一は言った。
「空は、空の色は、透明な碧だ」
「半透明じゃなくて?」
「半透明じゃない、クリアブルーとは違うんだ。透明な、透明な碧。それが俺の見る、空の色だ」
その応えを、柚葉はかみしめるようにして繰り返す。
「透明な、ブルー」
そして、潤一もまた聞きたかった。彼女には、目の前にいる篠崎柚葉
には、空は何色に見えたのか。
だから潤一は、彼女と同じ聞き方で、その質問をした。
「そのキレイな空は、何色だ?」
柚葉は、またいつものように笑うと、そして当然のように応えてきた。
「決まってるよ」
その応えは。
「空は」
潤一にとって。
「空はね」
充分に。
「空色だよ」
素晴らしかった。
「離して! 離してください!」
志藤の腕を振り払おうと、律子は暴れた。だが志藤はその手を離さない。離すわけにはいかない。
「だめだ! 彼女の元へ、君は行かせない!」
「どうして!? 私は理解したいんです! 幽称の気持ちを、理解したいんです!」
律子の取り乱し方は、尋常ではなかった。
それはそうだろう。律子は今まで幽称の記憶に頼って生きてきた。幽称との思い出が、律子を支えてきたのだ。
「あの日と同じ流星群、私は幽称と同じ場所に立った。それでも! それでも彼女の気持ちがわからないんです! もう、彼女のように世界に別れを告げるしか、彼女の気持ちをわかる方法がないんです!」
律子は極限まで追い詰められていた。ここで幽称の気持ちを理解しなければ、自分は駄目になってしまう。そういうところまで、追い詰められていた。
自分が正気で無い事など、わからないほどに。
だからこそ、志藤は真正面から律子の狂気に挑んだ。
「俺だって! 俺だって理解したいよ! 娘の最後の気持ちを知りたいんだ! 何も出来なかった自分、父親になれなかった自分、それでも! それでもせめて! せめてほんの少しでも! ほんの少しでも父親らしくなりたいから! だから、もし今ここで世界に別れを告げて、彼女の気持ちを理解できるなら、今すぐにだって命を絶つ! だけど、俺はそれをしない! そんな事をすれば、きっと娘は悲しむから! 会ったことも無いけれど、きっと娘は悲しむから! だから俺は、死ぬわけには
いかないんだ! 父親にはなれなかったけど! 彼女の父親になる事はできなかったけど! それでも父親として、娘を悲しませるわけにはいかないんだよ!」
矛盾していると、自分でも思う。でもそれこそが、その矛盾こそが志藤の本音だった。
「そんなの、そんなの私に関係ないじゃないですか!」
そういわれる事は解っていた。それでも、彼女に伝えたかった。自分の生きてる理由、生き続ける理由を。
自分から律子にしか使えない、切り札のために。
「あぁ関係ない! これは俺の事情だ! でもね! 俺が生きている限り、君を死なせない! 絶対に死なせない! 君に生きてて欲しいからだ! これは俺のエゴだけど、一方的なエゴだけど、決して譲らない!」
「どうして、どうしてそんなこと言うんですか、どうしてそうやって私を苦しめるんですか、どうして私に、優しいんですか・・・」
突然ぶつけられた感情に、律子はどうしていいか、わからなかった。それでも、志藤の気持ちは、確かに律子の心に伝わろうとしている。
そして志道は、その切り札を、ついに使った。
「決まってるだろ! 君が好きだからだよ! 何があろうと、決して離したくないからだよ! 君と、他の誰でもない君と、一緒にいたいからだよ!」
「志藤先生・・・」
「俺の処に来てくれ律子ちゃん! 俺は決して君を傷つけないし、君を傷つけようとする世界の全てから守ってやる! 俺は、俺は、君の生きる理由になりたいんだ!」
「私、私・・・」
もう、言葉は要らない。
志藤は掴んでいた律子の腕を、強引に引き寄せ、思い切り、彼女を抱きしめる。
抵抗は、無かった。
「私だって、生きたい・・・!」
「空色になりたかったの」
それが全てだと言うような声、それが柚葉の言葉だった。
「そのために、お前は死んだのか?」
「うん」
「なんで、死ぬ必要があったんだ?」
「だって、生きたままじゃ、きっと空色にはなれないから、それともヤナギくんは、生きたまま、生き続けたままで、空と一つになれたと思う?」
「・・・無理だろうな、人は生き続ける限り、決して空色にはなれない」
柚葉との会話は、この夢は、終わりに向かっている。それは全てのものがそうなのだが、潤一は終わりが近づいた今になって、ようやくそれを感じていた。
「どうして、そこまでして空色になりたかったんだ?」
だから聞かなければならない。
自分は彼女の全てを理解しなければならない。
それが、今ここにいる自分の使命。
自分を選んでくれた、彼女への礼儀だから。
「だって、キレイだったから」
「・・・それだけなのか?」
「あたし、べつに世界が嫌いなわけじゃないよ。世界は確かに汚いし、生き続けるのは苦しいけど、それでもあたしは、そういうのも含めて、世界が好きだった」
「なら、何故?」
「本当に、本当にキレイだったから。だからどうしても、あたしは空と一つになりたかった。ヤナギくんならわかるよね? あの日あの時、あの空を見たヤナギくんなら」
「・・・あぁ」
誰にも理解できないかも知れない。例えば、長年この理由を捜し求めていた志藤にこの話をしても、納得はしてくれないだろう。
それでも潤一には理解できた。あの日あの時、ここで空を見た潤一には、柚葉の言っていることが痛いほど理解できた。
それほどに空は素晴らしく、そして美しかったのだ。
「空色になるために、あたしは流れ星になる事を望んだ。空を駆ける無数の流れ星の一つに、そうすれば、きっと空と一つになれるから」
「だからあの時、オマエは跳んだのか。空と一つになる事を望んで」
「うん」
夢は、終局に向かっている。それはつまり、彼女との別れが近づいて
いるということだった。
「それで、オマエは空色になれたのか?」
「わからないよ」
「わからない?」
「だって、あたしまだここにいるから」
「それも、これで終わりか?」
「そうだね、ヤナギくんと話せたから」
「そうか」
「・・・」
「・・・」
夢は。
終局に向かっている。
それは。
つまり。
彼女との。
別れが。
近づいているという。
ことだった。
「じゃあね、ヤナギくんと逢えて、良かったよ」
星降る夜の屋上。
志藤の腕の中で、律子は安らかな寝息を立てていた。
きっと、張り詰めていたものが途切れたのだろう。その寝顔は、まるで子どもの様だった。
(そう、きっと彼女はこどものままだったんだ。だから世界に馴染めない、世界と折り合いがつけられない、そうして傷ついてしまうから、いつまでも幽称の思い出にすがりつく)
しかし、その事を誰が責められる?
世界に苛められ、ボロボロに傷つき、それでも生きていくために、綺麗な記憶にしがみつく事を、誰が責められる?
そうやって、そのまま飲み込まれて壊れてしまうのも、仕方が無いではないか。
(でも、もう大丈夫だよね)
彼女は言った。生きたい、と。
それはきっと、自分の思いを受け入れてくれたということだろう。ならば、もう大丈夫だ。
自分は彼女を傷つけない。彼女を傷つけようとする世界の全てから守ってやる。そう誓ったのだから。
志藤が律子を救った手段。これと同じ方法で、潤一は七緒を世界に繋ぎとめたのだが、それを志藤が知るのは、少し先の話である。
(結婚の手続きって、どうやるんだろう?)
志藤が律子の寝顔を見ながら、そんな事を考えていた時のことだ。
その声は、突然聞こえた。
「お父さん」
ハッとする。まさかと思う。それでも志藤は、振り返らずにはいられなかった。
彼女はそこにいた。志藤は知らない、いつも通りの微笑を浮かべて。
「・・・柚葉?」
「うん」
間違いなかった。いや、間違えるはずが無い。始めて会うけれど、自分はその少女を、間違えるはずが無い。自分の娘を、父親が見間違えるわけが無い!
「会いに来て、くれたの? こんな、俺に・・・」
「うん」
その姿は、自分が知っている、様々な写真のその姿と、少しも変わらなかった。いや、それよりももっと、美しい。
(まるで空でも見てるみたいだ。果てまでも抜けるように、遠く澄んでいて、飲み込まれてしまうような、それとも何処までも連れて行ってくれるような)
志藤は魅せられていた。月光に照らされ、無数の流星を背に、曖昧な笑顔を向ける、その少女に。
その少女は、初めて会う父親に、こんな事を言ってきた。
「生きてる?」
「・・・えっ?」
「お父さんは、生きてる?」
真剣なようであり、からかうようでもある、そんな口調。あぁ、こんな娘なんだ。と、志藤は何故だか嬉しくなる。
だから、志藤は真面目に応えた。相手は自分の子どもだ。本音で、本心で語らないでどうする?
「さぁ、どうだろうね。今までの俺は、生きていたとは言えないかもしれない。そう、言うなら、漂っていた。世界の中で、フワフワと漂っていただけだったよ」
「今は、どうなの?」
「生きてるさ。正確には、ついさっきから生き始めたんだ。律子ちゃんの生きる理由になったから。それは同時に、俺の生きる理由になったから。だから生きてる。俺は、生きてるよ」
志藤は胸を張って応えた。
「お父さんにとって、生きるっていうのは、生き続けるっていうのは、どういうこと?」
柚葉が更に聞いてくる。
「生きるってこと、生き続けるってこと、それは」
「それは?」
「それは・・・、立ち向かうことだよ」
「何に?」
「世界に、何もかもにさ」
そう言って、志藤は律子の頭を優しく撫でた。
「俺にとって生きるってことは、生き続けるってことは、そういうことだよ」
くすくすっ・・・。
柚葉が笑う。つられて志藤も笑う。初めて出会った父親と娘は、互いに楽しそうに笑った。
「じゃあ、あたしは逃げたのかな?」
「いや、よく解らないけど、多分、違うと思う」
「どうして?」
「・・・君だから、かな?」
目の前にいるこの少女なら・・・。
志藤は、そう思った。
「良かったね、律子ちゃん」
柚葉は視線を下げ、眠っている律子に語りかけた。
「お父さんは、律子ちゃんを生かしたこの人は、ステキな人だよ」
律子を起こそうかと、柚葉に目で訴えたが、柚葉は黙って首を振った。
(もう、大丈夫だから)
柚葉の目が、そう言っているように、志藤は感じた。
そうだ、彼女はもう大丈夫。
今、律子を支えているものは、途切れ途切れの記憶のような、時間の停まった思い出ではない。共に生き続けると誓った、自分なのだ。
だから、大丈夫。
大丈夫。
「志藤・・・先生・・・」
律子の寝息は、とても幸せそうだった。
「ふふっ・・・」
彼女の頭を撫でながら、志藤が笑う。
「どうしたの?」
「いや、なに、なんかさ、不思議なもんだと思ってね」
「なにが?」
「こうして、ここに君といることがさ」
「くすくすっ・・・」
「なに?」
「だって」
「うん?」
「今頃気づいたの?」
「ふふっ・・・そうだね」
風が、吹いた。
強風が吹きつける屋上に、ほんの一凪、穏やかな風が吹きぬけた。
その風が止む頃、志藤は決心して聞いた。自分が追い求めていた、彼女の理由を。
「聞きたい事があるんだ」
「それはもう、ヤナギくんに話したよ」
その質問を待っていたように、柚葉は直ぐに答えた。
「ヤナギくん、柳沢か?」
「うん」
それならいい、彼女はそれを誰かに話したのだ。それはつまり、自殺は彼女の意思によるものだという事だろう。何者も介入しない、柚葉だけの意思。そうであったのなら、自分は充分だ。
だから志藤は、その事は追及せず、別の事を口にした。
「へぇ、君たち、仲が良かったんだ」
「フラれちゃった」
「・・・そう、まぁ難しかったよね。彼、七緒ちゃんにゾッコンだもの、あれで周りが気づいてないとでも思ってるのかな?」
「あの二人も、もう大丈夫だよ」
「じゃあ、ようやく、くっついたんだ。後で詳しく聞きださないと」
仲のいい親子の会話。
それは、こう言ったものを言うのだろうか、少なくとも志藤は、始めてあった娘との会話が楽しんでいるし、こうした会話が出来た事が、嬉しくて仕様が無かった。
それでも、志藤はどこかで感じていた。彼女との別れが、刻々と近づいている事を。
だが、それを寂しいとは思わない。何故だろう?
彼女とは、綺麗な別れ方が出来ると感じていた。父親と娘なのだ、当然だろうと。
そして、その時は、やがて話題も尽きた頃に、どうしようもなく緩やかに、訪れた。
「そろそろ、行くね」
「・・・そう」
そう言って、柚葉が背を向ける。
「待って!」
思わず、そんなつもりは無かったのに、思わず呼び止めてしまった。
「なに?」
肩越しに振り向く柚葉。
志藤は聞いた。こんなこと、聞くつもりは無かったのに、わかりきったことなのに。
自分に父親の資格が無い事など、十分に理解しているのに。
「俺は、俺は、君の父親かな? 何一つ、何一つ出来なかったけど、知る事すら出来なかったけど、俺は、君の父親だと、言っていいのか? 思っていいのかな?」
後悔。
いや、懺悔かも知れない。
誰に?
娘に?
それとも・・・。
「お父さんは、お父さんだよ。間違いなく、あたしのお父さんだよ」
柚葉の声が、優しく、愛しく、響いた。
「・・・ありがとう」
志藤は少しだけ、ほんの少しだけ、泣きたくなった。
そして、涙で視界が霞んだ一瞬に、彼女は行ってしまった。
「律子ちゃん、君の友達は、本当にステキな人だね」
そっと、優しくキスする。
それは、これからへの約束。
それは、共に生きていく誓い。
それは、娘に伝える、自分のこれからの答え。
(ありがとう。本当にありがとう。そして、さようなら。愛する娘よ)
ふと、何かに惹かれるように、空を見上げた。
「あっ!」
志藤の見上げた先、無数に零れ落ちる流星の中、たった一つ、無性に惹かれる流れ星を見た。
その星は、一度だけ強く輝くと、そのまま夜の闇に飲み込まれていった。
まるで、空と一つになるように・・・。
「・・・そっか」
彼女が何を望んだのか、解ったような気がした。それは、充分な理由だと、志藤は思った。
「けれど、俺は生きるよ。それは君の理由だから、俺がやるわけにはいかない。それに、俺には生きる理由ができてしまったから、律子ちゃんと共に、生きていくと誓ったから、なによりそれが、俺の願いだから、だから・・・」
志藤は、ポケットから煙草を取り出すと、一本抜き取って咥えた。続けてライターを点火する。
その炎は、とても綺麗だったけれど、今見た流星の瞬きには、到底、適わない。
それでも自分の、いや、自分たちのこれからを照らすには、充分すぎるほどに眩しい灯火だと、志藤は思った。
だから、生きていけると。
「・・・叶えて、くれるよね」
「ヤナギ遅いよ!」
約束の時間に遅れる事、十分。N学園の校庭に到着した潤一を迎えたのは、七緒の怒声であった。
「悪ぃ悪ぃ、寝過ごしちまってな。これでも急いで来たんだぜ?」
「息切れ一つしないで、急いだ、なんて言われても説得力無いよ」
「そうカッカすんなって、行くぞ」
膨れたような顔をしていた七緒だが、それでも潤一が手を差し出すと、少し照れながらも、その手を握ってくる。その時には、もう笑顔だった。
その表情を確認すると、潤一は歩き出した。そう言っても、特に目的の場所がある訳ではなく、ただなんとなく、校庭の中央に向かう。
「ヤナギが来るまで、願い事しなかったんだからね」
「そりゃ良かった。俺もナナに会うまでは、何も願わないって決めてたからな」
「ホント!?」
あぁ、と潤一が答えると、七緒は嬉しそうに微笑んだ。
「良かったぁ。我慢してた甲斐があったよぉ」
「俺も」
無邪気にはしゃぐ七緒。
あの日以来、彼女から笑顔が絶えた事は無かった。元の七緒に戻ったのだと、潤一は考えている。
彼女は本来、こうして笑っていられる強さを持っているのだ。潤一が、いや、多くの人が、直ぐに忘れてしまう世界の明るさを、思い出させてくれる笑顔。生きる希望を湧かせてくれる、最高の笑顔。
これは、何物にも勝る武器ではないかと、潤一は思う。これに適うものが、世界に存在するか? と。
ただ、彼女はたまに忘れてしまう。自分が無意識に放っている、その活力を。だから、世界に負けそうになる。自分の存在に無意味さを感じてしまう。それが、彼女の弱さだった。
そんな時こそ、自分が支えてやればいい。普段は七緒に支えられているのだから。
自分が七緒を、七緒が自分を、支えあって生きていけばいい。
(愛し合った俺たちは、それが出来るのだから)
かなり恥ずかしい事を考えているな、と、潤一は苦笑した。
「あっ、また考え事?」
「ん? あぁ、悪ぃな」
「ううん。それより、何考えてたの?」
「ナナの事」
えっ? と呟いて、赤くなってうつむく七緒。
「・・・ありがと」
「悪口を考えてたんだけどなぁ」
「なっ、ヤナギ!」
続いている。
あの時から、自分たちの時間は、留まることなく動き続けている。
それは、二人が望んだ流れ。
手を伸ばせば、いつでも手に入ったそれを、生きていくことに不器用な二人は、ようやく手に入れた。
多分、こういうものなのだろう、と思う。生き続けるという事は。
世界は嘘で出来ていて、やれることは圧倒的に限られていて、存在は生命という罰に縛られて、決して永遠にはなれない。
でも、だからこそ、無限なのだと。
望めば手に入る。世界はいくらでも変えられる。
だから自分は生きることを選んだ。罰を背負って、生き続ける事を望んだ。
(これが俺の答えだよ、篠崎)
実際のところ、潤一の中で、何かが変わったわけではない。相変わらず、生き続ける事は罰だと思っているし、自ら世界に別れを告げることも、悪い事だとは思っていない。
柚葉の意思も、充分に正しい事だと思う。
ただ、自分とは違った。それだけの事だ。
「願い事」
「えっ?」
「願い事、早くしようぜ」
そう言って、二人は空を見上げた。
流星が、留まることなく、夜の空を彩っている。
星が、いつも通りの輝きを、今夜も絶やさず光っている。
月が、決して明るくは無いけれど、それでも確かに、自分たちを照らしている。
「キレイな空・・・」
七緒が、うっとりとした声で呟いた。
「なぁ、ナナ」
「なに?」
「オマエはさ、この空と、一つになりたいと思うか? それが世界と別れを告げる事でも、零れ落ちる雫に、なりたいと思うか?」
何かの冗談だと思った。それはいつもの、彼特有の悪趣味で哲学的なジョークなのかと。
それでも、潤一の真剣な口調に、一つ間違えれば、泣き声にも聞こえかねない声に、七緒は圧倒され、そして魅せられた。
だから、彼女は応えた。
「なりたいと、思うよ。こんなにキレイな空なんだもん。この空と一つになれるなら、世界を捨ててもいいと思う」
七緒はそこで一度黙ると、一言一言を噛み締めるように、また語りだす。
「でも、でもね、今はそれをしないよ。だって、今、ボクは、ヤナギの傍にいるから。ヤナギの傍にいたいから。それがボクの生きてる理由だから。だからボクは、それをしないよ」
それは、自分と同じ、嘘で出来た世界で、罰を背負って生きていく事を選んだ者の、たった一つの確かに理由。
たった一つの、真実だった。
「・・・そうか、そうだよな」
星が流れた。
無数の流れ落ちる星の中で、たった一つ、潤一と七緒は、その流れ星
を見た。
その星は、一度だけ強く輝くと、そのまま夜の闇に飲み込まれていっ
た。
まるで、空と一つになるように・・・。
・・・。
潤一は、七緒は、その星に、願いを、かけた。
「ねぇ、ヤナギは、何を願ったの?」
「俺か? 俺はな・・・」
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