第三章 闇色の邂逅(ヤミイロノワクラバ)
十月十八日。
その日の三時間目は数学、音影律子の授業である。だからという訳ではないが、柳沢潤一は珍しく授業中に起きていた。
隣の席に目をやる。そこには誰の姿も無い。
柚葉と共に三人で屋上で昼食をとった日から三日、いや今日で四日目になるか、あれ以来、七緒の姿を見ていなかった。
欠席の原因は体調不良、三澄宅から学校のほうにあった連絡によると、そういうことらしい。
七緒が病気にかかったというのを、潤一は初めて聞いた。潤一のイメージでは、七緒は、ばかみたいに健康で、病気などとは縁の無い娘だと思っていたのだが、まぁ人間なのだから風邪くらいひくのかも知れない。
それにしても、四日は長い。
確かに病気が完治するには、それぐらいはかかるのかもしれないが、学校に来れないほどの状態が四日間も続いているとなると、そうとうな症状なのか、それとも他に何か理由があるのか・・・。
(知らない仲じゃないし、今日辺り見舞いにでも行ってみるか)
そう決めると、潤一はやっぱり寝だした。
そして昼休み、朝方コンビニで買ったパンを片手に、潤一は屋上を目指していた。篠崎がいるかどうかは相変わらず知らないが、まぁ、いなかったらいなかったで、天気もいいからそれはそれで良しとしよう。
それにしても、
(長い・・・)
潤一たち三年生の教室は、五階建ての建物の三階にあり、屋上に行くためには三階分の階段を上らなくてはならない。一年生の教室は五階、つまり屋上に行くのは、年々大変になっているわけである。逆に体育館や、一二階に固まっている科学室などの特別教室、なにより昇降口に行くのは年々楽になっているため、あまり文句は言えないが。
長い階段・・・。
そういえば、いつだったかも、こんなふうに長い階段を上って行ったような気がする。
(そりゃそうだろ、俺はほぼ毎日屋上に行ってんだから)
違う、そうではない。
もっと昔。
高校に入るよりも前。
中学に入るよりも前。
・・・?
(解せねぇな、くそ!)
ばしっ!
思考の混濁を強引に振り払うために、潤一は壁を思い切り殴りつけた。
下級生たちがチラチラとこちらを見る視線を感じる。殴った拳がジンジンと傷んだ。
それでも潤一の思考は、少しも晴れてはくれなかった。
「ちっ・・・」
潤一は舌打ちすると、再び屋上に向かって歩き出した。
(あった!)
進路指導室で探し物をしていた志藤は、一時間ほどの努力の末、つい
に目的の物を発見した。
それは十年前の生徒名簿である。
結局、流星群の資料からは何も解らず、行き詰まって生徒名簿に手を出すことにしたのだが、意外にも簡単には見つからなかった。というのもこの生徒名簿というもの、現役の在校生の物以外、特に重要視されない。つまりは卒業生の物となると、途端に扱いがぞんざいになるのだ。
なまじ人の資料というだけに、簡単に捨てるわけにもいかず、かくして卒業生の名簿というものは、収納スペースに余裕の在る、この進路指導室に追いやられる羽目になっていた。
とくに志藤が探していたのは十年前の物、誰かが意図的に捨てたわけではなくとも、自然に紛失してしまっている可能性もあったのだが、努力の甲斐あって、ついに探し当てたというわけだ。
長い間、誰も手を触れていなかったと思われるそれは、かなりの量の埃をかぶっており、とりあえずそれをどうにかするため、バンバンとはたいてみる。
「げほっ! げほっ!」
舞い上がる埃。志藤は思わず咳き込んだ。
「こりゃきつい、出よ」
そういって飛び出すように部屋を出る。
「はぁはぁ、まいったねこれは」
志藤は生徒名簿を小脇に抱えると、学年職員室に向かった。自分のデスクでゆっくりと目を通すためだ。やがて到着すると、予定通りにデスク前の椅子に座り、ページを開く。この時にも多少埃がまったが、先程のように堪えられないほどではない。
探すのは一人の名前、十年前に死んだ少女の名前だ。
その名前を見つけて、何になるのかはわからない。まさかそこに自殺の理由が書かれているわけでもあるまいに。
もしかしたら、確認したかったのかもしれない。十年前のその日まで、彼女が確かにここに存在したことを。
(えーと、彼女のクラスは・・・)
考えてみたら、そんな事も知らない。自分は彼女の・・・なのに。
仕方なく、順番にページをめくっていく。生徒名簿といっても、なにも名前だけが載っているわけではない。生徒名簿などと言う通称を持っているが、正確には生徒たちが入学希望時に書いた願書をファイルしたものだ。
これには生徒たちの住所、電話番号、会得している資格、趣味や特技に至るまでが書かれていて、教師が生徒の事を良く知るためにと、このようにファイルされているのだが、使われるのはもっぱら生徒が問題を起こした時ぐらいである。
志藤にとっては、カワイイ女子生徒の電話番号や趣味がまとめて書かれている、ナンパの資料であったが。
(へぇ、十年前にも結構カワイイ子がいたんだなぁ。みんな今は律子ちゃんとだいたい同い年か。よし、今度機会を見つけて電話してみるかな)
本来の目的を忘れかけた時、その衝撃は突然、志藤の目に飛び込んできた。
(なっ! なんだって!?)
ぐらぐらする頭を抱えながら、なんとか潤一は屋上へとやってきた。
思考の混濁は、まだ収まらない。いっそう激しくなる一方だ。
何かを忘れている。
潤一は確かにそれを感じていた。
しかし、それが解らない。
眠っていたはずの記憶の断片が、幽かに見え隠れを繰り返す。
(なんだっ!? 俺は何を忘れている!? 何を思い出せない!?)
どのくらいの前かは知らないが、とにかく過去の自分は、いったいどんな記憶を封印したのだろう。
わからない。
わからないが。
それでも潤一の記憶は確かにそれを渇望し、そして同時に拒絶していた。
(なんだよ。なんだってんだよ!)
フェンスに寄りかかると、そのまま崩れ落ちるように座り込む。
「はぁ、はぁ、はぁ」
自分の思考に飲み込まれることは、今までにも結構あった。それでもそれが自分を苦しめるなど、初めてだ。
息切れが止まらない。吐き気もする。このまま死んでしまいそうだ。
「ヤナギくん」
頭上から声が聞こえた。聞き覚えのある声、この声は、
「・・・篠崎」
「うん」
見上げると、柚葉が相変わらずの無表情でこちらを見下ろしていた。
「ヤナギくん、苦しそう」
だったらもう少し心配そうな声をだして欲しいものだ。潤一は思わず苦笑してしまった。
「あれ? そうでもない」
「んなことより篠崎」
「ん?」
「見えるぞ」
「何が?」
「スカートの中」
半分寝ているような体勢の潤一の前に、柚葉が立っているのだ。風が強いのも手伝って、かなりキワドイ事になっていた。
「見たの?」
「さぁて、どうだろうな」
話をしているうちに、潤一の気分は良くなってきた。自分以外の対象物の存在が、現実の認識を確立させているのだろう、と潤一は考える。
フェンスを掴んで体勢を直すと、潤一は持っていたパンを柚葉に向かって放り投げた。
柚葉がまるで雪でも受け止めるように、手の平を上に向ける。狙ったつもりは無かったのだが、パンは放物線を描いて、綺麗にその上に落ちた。
「やるよ、食欲ねーから」
特に喜んだ様子もなく、柚葉はパンの包装を破ると、もそもそと齧りだす。
「・・・もう少し美味そうに食えよ」
「美味しいよ」
「そうは見えん」
そのパンを買ったのは自分なのだが・・・。
しばらく黙って食事をしていた柚葉、それが唐突に口を開いた。柚葉の持つ独特のリズム、潤一はそれに飲み込まれる。
「わくらば」
「あん?」
「
「・・・篠崎」
「それは痛く、それは辛く、それは紅く、それは蒼く、それは白く、それは黒く、それは優しく、それは愛しく、それは厳しく、それは憎く」
「俺は」
「それは出会い」
「まだ」
「それは別れ」
「届いていない・・・」
引いた頭痛が、またぶり返す。
記憶の中の闇。
記憶の中の光。
記憶の中の風。
記憶の中の空。
俺は・・・。
あの時・・・。
(ここで・・・!?)
「もうすぐだね、流れ星」
柚葉の声に、潤一はハッと現実に引き戻された。彼女がフェンスに手をついて呟く。
「楽しみだね」
「・・・そうだな」
志藤勝は可能性を得ていた。
十年前と現在をつなぐ糸を、ようやく発見したのだ。あとはその糸を掴み、手繰り寄せるだけ。
(いた)
見つけた。そして彼はその名を呼んだ。
「律子ちゃん!」
「ふぇっ!?」
突然大声で呼ばれて驚いたのか、律子がビクリと大きく震えた。
「なっなんですか志藤先生、いきなり」
「あぁ、ごめんごめん。びっくりさせちゃったね」
確かに、少し慌てていたようだ。もっと落ちつかなければ。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ、いいかな?」
「えっ? はぁ、いいですけど」
人気の無い場所が良いと思い、昼休みは誰も近づかない場所、志藤御用達の社会科資料室やってきた。
「志藤先生、なんかヘンな事考えてません?」
「ちょーっと、考えてるかもね」
そうこう言っているうちに、社会科資料室へと到着する。
「ねぇ律子ちゃん、こんな話知ってるかな」
「なんです?」
「十年前に、この学校で自殺した、一人の女生徒の話さ」
律子の表情が、途端に強張る。
「さぁ、知りませんけど・・・」
「あれ? おかしいな、だってさ」
そう言って、志藤は小脇に抱えていた生徒名簿を広げる。件のページには枝折が挟んであり、その事実は一瞬で現れる。
「っ!」
「三年二組、出席番号十九、音影律子。十年前、律子ちゃんはこの学校の生徒だったよね」
押し黙る律子。なんだかイジメでもやっているような罪悪感に捉われる志藤だが、それでも続ける。
「それだけならイチイチ問いただしたりしない。でもね、ほら」
そう言って、枝折の挟んであるもう一つのページを開く。そこのページに載っていたのは、
「
律子の呟いた言葉の意味は分からなかったが、この律子の反応を見て、志藤の可能性は確信へと変わった。
「この生徒を知ってるね? 律子ちゃんはこの子と同じクラスだった。しかもこの年だけじゃない、調べてみたら三年連続で一緒だったこともわかってる。・・・ねぇ律子ちゃん、君の知っている事を教えて欲しいんだ。彼女、いったいどうして死んだんだ? どうしてこの世界に別れ告げたんだ?」
訪れる沈黙。
その沈黙は五分ほど続き、ゆっくりと破られた。
堪えきれずに漏れ出した、律子の嗚咽によって。
「律子ちゃん・・・」
「ごめんなさい、泣いたりして、でも、でも私・・・」
子供のようにしゃくりあげる律子。普段の志藤なら、こんな時は優しく抱き締めるのだろう。だが、今は違う。今はそうではなくて、ただ彼女の口から紡がれる言葉を、聞いていたかった。
「でも私、わからないんです・・・」
「わからない?」
「私、
志藤は呆然としていた。律子が十年前の少女と知り合いというのは確かだった。志藤に意味はわからなかったが〈
しかし、律子は知らなかった。
彼女が世界を去った、その理由を。
「悪かったね律子ちゃん、嫌なこと、思い出させちゃったみたいだね」
「嫌な事だなんて、そんな、私にとって
その後は聞き取れなかったが、何と言ったのか、志藤にはわかった気がした。
律子は涙を拭くと、最後にこう言って部屋を出た。
「志藤先生、私、絶対に理解するつもりです。
その日の授業は全て終了し、柳沢潤一は三澄七緒の家にやって来た。
ここのところ学校を休んでいる七緒の見舞いに来たのだ。
手ぶらで来るのも、なんとなく気が引けたため、来る途中に店に寄ってきたのだが、考えてみたら人の見舞いに行くことなど初めてで、正直何を買ったらいいか迷ってしまった。
結局、小さめなフルーツの詰め合わせを買ったのだが、制服姿でこれを持っているというのも、なんとも間抜けだ。ならばどんな服が合うのかと問われると困るのだが。
ピンポーン
インターホンを押して、訪問の許可を貰う。七緒の家に来るのは、これが初めてというわけではないので、特に抵抗は無い。
七緒の部屋は、確か二階の奥だったハズだ。潤一は階段を上ってそちらを目指す。
(着いた)
部屋のドアにコルクボードが貼り付けてあり、そこに専用のパーツだと思われる木製の平仮名が「な・な・お」と横に並んでいた。
潤一は少しだけ迷ってから、ドアノブに手をかける。
こういう時はヘタにしんみりするより、逆にテンションを上げていったほうが良いだろうと思い、勢いよくドアをあけた。
「おーっすナナ、見舞いに来てやったぞー」
ここで慌てふためく七緒にフルーツの詰め合わせを押し付けて、そのままの勢いでどうでもいいような話をして、適当なところで帰る。というのが潤一の予定だった。
しかし、
「・・・寝てやがる」
仕方なく、ベッドの横に置いてある勉強机の椅子に座る。見舞いの品を机の上に置くと、七緒の寝顔を見やる。
七緒の表情は安らかなもので、くうくうと気持ちよさそうな寝息をたてていた。
(起こすのもかわいそうだし、帰るかな)
潤一がそう思い始め、席を立とうとした時、
「・・・ヤナギ?」
「あっ、悪い、起こしちまったか」
七緒は眠そうに目を擦りながら、体を半分だけ起き上がらせる。
「もう、びっくりしたよ」
寝癖が気になるのか、手櫛で髪を直しながら、顔を赤らめる。
「なんか、恥ずかしいな・・・」
「なに意識してんだよ、ほれ見舞いの品」
言って机の上のバスケットを指差す。
「高かったんだからな、心して食えよ」
「うん」
七緒の声は、どこか元気が無い。寝起きだからだろうか、それだけではない気がする。
「そういや、病気の方どうなんだよ。見たとこ、そんなに辛そうじゃねーけど」
「うん・・・」
それきり七緒は黙ってしまう。
沈黙が、場を支配する。七緒とこういう気まずい雰囲気になったのは初めてで、潤一もどうしていいかわからない。
五分もそんな状態が続いたか、ようやく七緒が口を開く。
「この間の話」
「あん?」
「自殺は、悪い事じゃないとか、生きてることは罰だとか、そういう話」
あぁ、と潤一は思い出す。七緒が休みだす前の日、柚葉と一緒に屋上でした話だ。潤一としては、そんな話もあったなといった程度の事だが、この様子だと、七緒としては、それでは済まなかったらしい。
「ヤナギ言ったよね、生きる事、生き続けることは罰だって」
「そうだな」
「その罰は、ボクたちが〈在る〉ことの罪のものだって」
「言ったな」
そこで七緒は一度黙ると、やつれたような口調でそれを聞いてきた。
「ねぇヤナギ、ボク、生きていていいのかなぁ」
「ナナ?」
「だって、だってね、ボク生きていてもしょうがないんだよ。意味が無いんだ。無意味なんだよ。ボクはボクが生きているという事に、どうしても意味を見出せないんだ」
七緒の声はひどく疲れていて、今にも泣き出しそうだった。
「みんなきっと、こんな事考えないんだろうね、それはきっと、みんな世界を受け入れて、世界に馴染んでいるから」
「・・・」
「ボクは出来ない、ボクはどうしても世界に馴染めない、だから、だからボクは強くなろうとしたんだ、世界じゃなくて、自分に法って生きるヤナギみたいに、強く、強くなろうとしたんだよ」
七緒の声が、ついに泣き声に変わる。
「でも、無理だった、無理だったんだよ! がんばったのに、すごくすごくがんばったのに! それでも世界は痛くて・・・、壊れそうなくらいに痛くて・・・、ボクは、ボクは」
「七緒」
「ボクは死んでしまいたい、ボクが〈在る〉事が罪になるなら、生き続ける罰を負わなきゃいけないんなら、ボクは、ボクは、消えてしまいたい・・・」
「七緒!」
潤一は声を荒げて、彼女の名を呼んだ。「ナナ」ではなく「七緒」と。
「・・・ヤナギ?」
「いいか、良く聞けよ。七緒、オマエは勘違いしている」
「えっ?」
がしっと肩を掴み、真っ直ぐに七緒の瞳を見つめる。いや、睨みつけ
ると言った方がいいか。
「世界に意味なんか無い。人々も決して強くない。誰一人、世界に馴染める奴なんかいない! みんな同じだ、みんな必至で、必至で世界にしがみついてるんだ。無意味な世界に、必至でしがみついてるんだよ!」
七緒の瞳に、涙が溜まっていく。
「なんで、しがみついてなきゃいけないの? ボクには無理だよ、できないよ、この世界で生きていく罰に、ボクは、ボクは堪えられないよ」
潤一は嘆息すると、もう一度しっかりと七緒の瞳を睨みつけた。
「七緒、生きる罰、生き続ける罰は、その罰をいつでも放棄できるというところまで含めて罰なんだ。死は誘惑。甘美なる無への
「・・・でも、ヤナギ言ったじゃないか、自殺は悪い事じゃないって、苦しすぎる世界に、自ら別れを告げる事は、悪い事じゃないって、言ったじゃないかぁ、だから、だからボク・・・」
「確かに逃避は悪い事じゃない。生き続ける限り、世界に〈在り〉続ける限り、人は傷つく。しかし誰だって傷つく事は平気じゃないし、傷つけられる義務など存在しない。自らの手で世界に別れを告げる事、自ら命を絶つ事は、決して悪いことじゃない。けど、けど俺は!」
「ヤナギ・・・?」
潤一は、七緒の肩を掴んでいた両手を、そって背中にまわした。支えるように、慰めるように、そして、愛するように、
「オマエに、生きていて欲しい・・・。俺と、共に」
そっと、そして力強く、抱きしめた。
「ヤナギ、ヤナギぃ・・・」
七緒は泣いた。
声を上げて、泣いた。
それは、自らが愛されていることを実感し、そして溢れ出た、歓喜そのものだった。
それは。
自分を愛してくれる者を。
自分の生きる理由になってくれる者を。
ただ一人を。
柳沢潤一という一人を。
本当に見つけた瞬間だった。
「流れ星、一緒に見ようね」
七緒に、笑顔が、戻った。
七緒の家から出た時、時間は夜の十時を越えていた。潤一の家は、方向は違えど、七緒同様に学校の近くのため、一時間も歩けば帰宅することが出来る。
潤一の親も、何時に帰ろうが文句を言うような口煩いタイプではないので、そう言った事に問題は無い。
(まったく問題が無いとも言えないか・・・、向こうの両親にバレてなきゃいいけど)
潤一は思わず苦笑した。思い出し笑いというのかも知れない。
そして、ようやく自宅が見えた潤一は、見慣れない車が停まっている事に気づいた。
(なんだ? 親父の奴、新車でも買ったのか?)
潤一がさらに自宅に近づいた時、その正体がわかった。その姿は、潤一にとっては意外なものだった。
そこにいたのは、担任教師、志藤勝だったのだ。
潤一が帰った後、七緒はそのまま眠りについた。
そして夢を見た。
不思議な夢だった。
結ばれた夜ぐらい、その相手のことを見るものだと思っていたが、登場人物は違っていた。
「・・・柚葉ちゃん?」
そこにいたのは篠崎柚葉、七緒が強いと思っていた、もう一人の人物である。
彼女ただ一言、こう言った。
「もう、大丈夫だよ」
そこで七緒の夢は終わりを告げ、そして彼女の眠りは朝まで続く・・・。
「よう柳沢、ずいぶん遅い帰りだね。まさかどっかで一発決めてきたんじゃないだろうね」
志藤の軽薄な声が夜の静寂の中に響く。潤一は少々ドキっとしながらも、それでも何とか言い返す。
「高校男子ならこれぐらいの帰宅時間、珍しくもねーだろ」
「受験生の帰宅時間にしては、あまり感心しないね。見たところ塾に行
ってたわけでもないだろう?」
「俺の生活態度への説教だったら、明日ゆっくり聞いてやるよ。なんだったら反省文を書いてやってもいいさ。とにかく今日はいろいろあって疲れてんだ。家に入らしてくんねーか?」
潤一の態度は、とても教師に対するものとは思えない。彼は敬語を使ったりすることが、相手に媚を売っているようで嫌いだったため、志藤以外の教師に対しても、こんな感じだ。
志藤もそんなことで気分を害するようなタイプではない。むしろそちらのほうが気楽にやれると言った、くだけた教師である。
この場でも、やはりそれを不快に思った様子は無い。
「まぁそうトゲトゲしないでよ、俺も別に生活指導をしにやって来た訳じゃないから」
「じゃあ進路指導の家庭訪問ってとこか? 進路希望のプリントにナメた事ばっか書いてたんで、ついにキレたとか」
少し前の時期から、進路調査のためのプリントというやつを、生徒に対して何度も配布しているのだが(生徒の進路希望先が変わった事に、敏感に反応するためだ)潤一は、それに真面目に記入した験しがない。
例えば、希望する進路は? というのには、次の世界だとか、存在の至りだとか、とにかくふざけたものばかりだ。
「へぇ、ナメた事書いてるなんて自覚はあったんだね。俺としては毎回何を書いてくるのか楽しみにしてたけど」
「・・・いったい何の用だ。そろそろ本題に入ってくれてもいいんじゃねーか?」
不機嫌そうな声を出す潤一。志藤も悪ふざけはこのへんにしておこうと思い、表情を硬くする。そうしてから潤一の家の前に停めてある自分の車の助手席のドアに手を掛け、開ける。
「乗りなよ」
「はっ?」
思わず間抜けな声で聞き返す。
「だから乗りなって、せっかくドライブに誘ってやってんだから」
さすがに潤一も訝しげな表情をする。
「なんのつもりだよ。あんたが女好きってのは聞いたことがあるけど、男をドライブに誘うってのは、どういう了見だ? まさか女に飽きてそっちの気に目覚めたとか・・・」
「こらこら、変な想像をしない。俺は真面目な話があって来たんだから」
志藤の固くなった表情が、一瞬で崩れる。
「真面目な話っていうと、さすがにサボり過ぎたか、一時間目や五時間目とかをフケるくらい、どうって事ないと思ってたんだが」
「本題に入れとか言っといて、君のほうから話題をずらすなよ。そろそろいいかい?」
「・・・わかったよ」
観念して、潤一は志藤の車に乗り込んだ。
ブオーっ!
「おい志藤! ちょっと飛ばし過ぎじゃねーか!?」
激しいエンジン音が車内に響く。おそらく車外にはもっと響いている
のだろう。
一般道で百二十キロ、スピード違反を超えた完全な暴走行為である。
「感謝しなよ、俺の助手席に座った男は君が初めてだからね」
「オマエ、女乗せてる時もこんな運転を・・・」
「刺激的だろう!」
キキキキキキキっ!
「一般道でドリフトしてんじゃねー!」
激しすぎる志藤のドライブテクニックに、潤一が降参しようかと考えていた時、志藤はようやく語りだした。
「新聞どう? 進んでる?」
「全然、どうやって調べたらいいのか見当もつかねー」
「ふーん、顧問を目の前に良くそんな事が言えたもんだ」
「締め切りはまだ先だぜ? 問題ねーだろ」
「そうだね、別に催促しに来た訳じゃない」
志藤は上着のポケットから煙草とライターを取り出すと、器用に片手で火を点けた。
「生徒の前で堂々と喫煙するなよ」
「君も吸う?」
そういって、煙草の箱を潤一の方へと差し出す。
「これで停学になったりしねーだろーな」
「そこまで意地汚くないよ。銘柄、同じだろ?」
「なんで知ってるんだよ?」
「たまに屋上で隠れて吸ってんの、バレてるよ」
チッと舌打ちすると、潤一は煙草を乱暴に奪い取る。志藤が点火したライターを向けてきたので、それで火を点けた。
一度肺に溜めこんだ煙を吐きながら、潤一は志藤に問いかける。
「それで? 新聞が何だってんだよ」
「新聞って言うか、その事件に関してなんだけどね」
「十年前の投身自殺、もしかして何かわかったのか?」
「いや、イロイロやってみたけど、結局原因は解らなかった」
志藤の顔が曇る。何があったのか、潤一は気になったが、聞きはしなかった。イロイロなどと表現する時は、それは大抵話したくない事だ。
「実際、これは話すかどうか迷ったんだ。話して何が変わる訳でもないし、もしかしたら余計な事なのかも知れない。それでも君たちがこの事件に関わる以上、やはり知っておいて欲しい事なんだ」
「言えよ、大事なことなんだろ」
潤一がぶっきらぼうに答える。志藤は一度大きく煙を吸い込むと、溜め息のように吐き出した。
「自殺した女の子ってね、俺の娘なんだ」
「・・・なに?」
「娘、子どもなんだ。いや、子どもだった。かな」
「ちょっと待てよ志藤、自殺した奴は当時十七八だろ、オマエ今歳いくつだよ?」
「四十五」
「・・・マジかよ」
志藤の見た目は普通に見て二十代後半、どんなに老けて見ても三十代中盤といったところだ。
しかし、志藤が冗談を言っているようには見えない。つまりは、本当に四十五歳なのだろう。
「見えねぇ」
「それは褒め言葉と思っておくよ」
「つーかサギだ・・・。それで? 娘ってのはどういうことだ?」
「あぁ、て言っても、娘だと気づいたのは、彼女が死んでからだけどね、それまで俺は、自分に子どもがいることすら知らなかった」
「・・・どういうことだ?」
志藤が再び煙を吸い込んだ。ここからが、志藤の話の核心なのだろう。
「少し長くなるけど、いいかい?」
「そのために、俺を拉致したんだろ」
「・・・そうだね」
ほんの少しだけ笑う。
過去を自嘲した笑み。
潤一には、なんとなく、痛々しかった。
「俺はさ、昔からこんなんで、高校の時もいろんな女とヨロシクしてたわけさ。そんなふうに遊びまわってたある日、一人の女生徒が学校を辞めたんだ。俺が抱いた内の一人、その子とは自然消滅みたいな感じで終わってたし、その時は大して気にしたりしなかったんだよ」
志藤が車内の灰皿で煙草をもみ消す。潤一も自分の同じようにして煙草を消した。
「それからしばらくして、しばらくって言ったって、俺が教師になって大分経ってからだけどね。今から十年前、その流星群の日、この学校で一人の生徒が飛び降りた。これが俺が記事のネタとして提供した事件だよ。俺はその時、この学校の教師じゃなかったけど、住んでたのはこの付近だったから、そのニュースは知ることが出来たんだ」
志藤が次の煙草に火を点けた。潤一も一本貰うと、先程と同じように
志藤が火を点ける。
「その自殺した子、高校の時に学校を辞めた女生徒と、苗字が一緒だったんだ。まさかと思ったけど、なぜか、その時はものすごく気になってね。それで調べてみたんだ、その子の両親の事」
「・・・どうだったんだ?」
「・・・ピンポーンってな。その子の母親は、やっぱりあの時の女生徒だったんだ。彼女、俺と寝た時にデキちゃったらしくて、でも俺に迷惑かけるのが嫌だったから、黙ってて、それで一人で育てる決心をしたらしいんだ」
「なんだよ、らしいらしいって」
不機嫌な声を出す潤一。志藤は再び自嘲するように微笑む。
「仕方ないのさ、本人から直接聞いた訳じゃないからね」
「えっ?」
「俺がその事を聞いたのは、彼女の両親からさ。彼女本人は、子どもを産んですぐ、つまらない病気で亡くなっている。子どもは施設に預けられていたよ」
潤一は何か言おうとした。けれど言葉が見つからない。こんな時、何と言ったらいいのか。
「いやー、彼女の父親にはボコボコに殴られたよ。オマエが娘の人生を台無しにしたんだって。しょうがないよね、その通りなんだから」
「・・・どうしてそいつらは、産まれた子どもを施設に入れたりなんかしたんだ? 経歴はどうあれ、そいつらにしてみれば孫なんだろ?」
「さぁね、自分の娘をボロボロにした男の子種が許せなかったのか、はたまた経済的に辛かったのか、そのへんの理由はわからない」
煙草の光が暗い車内に浮かぶ。志藤が一際大きく煙を吸ったのだ。
「俺は施設に行った子どものその後を追ったよ。その子が赤ん坊から少女になり、自ら命を絶ったその日まで、いったい何があったのか、俺の娘は、いったいどうして死を選んだのか、それを知りたくてね」
潤一も志藤と同じように、大きく煙を吸い込んだ。煙草の先端に灰が溜まり、それを灰皿に落とす。
「彼女の死んだ理由、それがどうしても解らなかった。イロイロと探したけど、どうしてもそこまで辿り着けなかったんだ。俺は思ったよ、きっと俺には、知る資格が無いんだろうなって、父親になり損ねた俺には、娘の死因を知る権利は無いんだろうなって、諦めた。いや、諦めていたんだ、最近までは」
志藤が二本目の煙草を灰皿に押し付けた。
「流星群。今年も十年前のように星が降る。しかも十年前と同じ日に、何か運命的なもの、いや因果かな、とにかくそう言ったものを感じちゃってね。それでもう一度、もう一度だけ探してみようって、思ったんだよ」
ブロロロ・・・。
車が停まる。外を見てみると、そこは潤一の家だった。どうやらここらへんの道路を一周してきたらしい。
「悪かったね、変な話して。でも十年前の事件が、俺にとってどういうものなのか、知っていて欲しかったんだ」
エンジンを切りながら、志藤が言う。しかし、潤一にはわからなかった。
「なんで俺に、そんな話をしたんだ? この記事に関係してる奴なら、七緒でも良かったろ。いや、そもそも俺たちでなくても良かったはずだそれが、どうして俺なんだ?」
くくくっ・・・。
と志藤がどこかの誰かのような笑い方をした。潤一としては気分が悪い。
「さぁ、どうしてだろうね。こんな事言ったら、君は笑うかもしれないけど、なんとなく、君ならやってくれるような、そんな気がしたんだよ」
「へぇ、そりゃ光栄だね」
潤一は車のドアを開けながら、苦笑するように言った。
「やってやるよ、俺にできる事は全部」
「柳沢?」
「俺は変わり者だけど、薄情じゃないんでね。それに、ここまで聞いちまった以上、後に引けるかよ」
くくくっ・・・。
志藤の笑いが再びぶり返す。
潤一はなんだかこっ恥ずかしくなってきて、そのまま後ろ手に車のドアを閉めようとする。
が、一つ気になった事があったので、振り向いた。
「なぁ、その自殺した生徒。なんて名前なんだ?」
「ん? 言ってなかったっけ?」
志藤がおかしいな、と言った声で言ってくる。
そして志藤は、その名前を口にした。
それは――
「・・・なんだと」
「なに、なんか知ってんの?」
潤一の中で、全てを結ぶ糸が見えたような気がした。
だが、それはまだ可能性。
そのどこにも現実性は存在しない。
だから、その時潤一は、自分の見えたものを語らなかった。
「いや・・・、まだわからない」
「そう、それじゃまた明日」
車を走らせ、志藤は行ってしまった。
自宅の前、一人とり残された潤一は、しばらく考え事をしていたが、やがて自宅の門を開けた。
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