第二章 人色の散花(ヒトイロノチルハナ)

 放課後、音影律子は校門から屋上を見上げていた。その瞳には幾つもの感情が揺らぎ、移ろいでおり、はっきりと何かを映してはいない。

 不安。

 幻惑。

 夢幻。

 慟哭。

 そして、羨望。

 それらの全てを含めたのを、感傷と呼ぶのかもしれない。

(あれから十年もたったんだ。ねぇ、私またここにいる、まだここにいるのかな。ねぇ、どうして? どうしてあの時あなたは・・・)

 刹那、屋上に一つの影が揺らいだ。

 いや、揺らいだ気がしただけかもしれない。それでも律子は、その影を見過ごすことは出来なかった。

(そんな、まさか・・・でもあれは確かにっ!)

 気づいた時には、屋上に向けて駆け出していた。



「死んだって、どういうだ?」

 最初に聞き返したのは、潤一だった。七緒が不安そうな顔をしているのを横目に見ながら、志道の答えを待つ。

 少しもったいぶる様にして、志藤が話し出す。

「うーん、死んだって言っても殺された訳じゃなくてね、自殺したんだ

よ、屋上から飛び降りて」

「・・・自殺って?」

 七緒の声は、少し震えている。彼女には感受性が高すぎる傾向があり、こういう話には、必要以上に反応してしまう事を、潤一も知っていた。

「自殺って? って言われてもね、わからないんだよ原因とか」

「なんだよそれ? 変な話だな」

 志藤の言葉に問い返す潤一。

「まぁ最後まで聞きなよ。そうすれば多分興味が沸くから。自殺があったのは十年前の十月二十三日。そう、今度の流星群と同じ日にちだね。実は十年前のその日にも、流星群が訪れたんだ。みんなその時は小学校の低学年くらいだから、もしかしたら覚えてる人もいるんじゃない?」

 そうは言うが、みな首を傾げるばかりで要領を得ない。潤一もそうい

った事に覚えはなかった。

「ふーん、流れ星が見えたのは夜中のことだったからねぇ、みんな寝てたかぁ、まぁいいや、十年前の同じ日の流星群。それにその日に起こった投身自殺、しかも原因は不明ときてる、なかなか意味深で面白そうでしょ?」

 その話を聞いて、潤一は胸になんだかスッキリしないものを感じていた。なんと言ったらいいか説明がつかないが、とにかく気持ち悪い。

(なんだ、この感覚・・・解せねぇ)

「そういうわけで、この事件の調査は柳沢と七緒ちゃんに任せたよ」

「・・・って何ぃ!?」

「なんでボクたちなんですか!」

 いきなりのことに、声を荒げる潤一と七緒。だがそれを聞いて、志藤は意外そうな顔をした。

「なんでって、今月の担当は君達でしょ、それとも今から何か別のテーマを見つける?」

「むぅ、それは・・・」

「だったら決まりだね、他の人も二人をサポートしてよ。それじゃ俺は職員室にいるから、用が会ったら女子が呼びに来るように、じゃあねー」

「えっ、おい、ちょっと!?」

 ガラガラガラ・・・バタン

「・・・行っちまった」

「ヤナギぃ、どうしよっか」

 困ったような声を上げる七緒。潤一は諦めたような、うんざりしたような声で呟いた。

「めんどいけど、やるしかねーだろ」



 バタンっ!

 軋むドアを強引に跳ね開けて、律子は屋上に飛び出した。

「どこっ!? どこにいるのっ!? ねぇっ!?」

 大声で叫ぶ、しかしそこには誰もいない。

(そんな、さっきは確かにいたのに・・・)

 黄昏時の屋上は、夕焼けに緋く染まり、なんとなく、世界から剥離していような、逆に、世界と自分の境目が曖昧になって、そのまま融けて無くなってしまうような、いずれにせよ自身というものが消失してしまいそうな感覚に陥る。

 広がる赤。

 繋がる赤。

 絶え間なく感じる赤、赤、赤。

 対象物の無い世界は、自己の存在を不確かにする。それほどに曖昧なのだ、人の存在など。

(けど、あなたは違ったよ。同時存在の私達とは決定的に違った。あなたは何にも混ざらず、確かに一つで、そう、幽称かくりねただ一つ唯一無二の超純粋、幽称かくりねだった)

 彼女は、律子にとって憧れだった。ちっとも人を幸せにしようとしない神より、知ったふうな顔でわからずやの親や教師より、時の権力者が記した歴史上の偉人より、律子は彼女を尊敬した。

(もう十年も前のことなのに、私は・・・)

 同い年のはずなのに、妙に大人びていて、そのくせ子供みたいに無邪気で、まるで世界の全てを知っているようで、けれど何も知らないようでもいて・・・。

(ねぇ、今度の流れ星を見れば、私もあなたの選んだ道がわかるかな?)

 夕焼けは、ただ、ただ、赤かった



 翌日の昼休み、潤一と七緒は屋上にいた。

 天気が良く、風もそんなに強くないため、たまには屋上で昼食を取るのも良いではないか、との七緒の意見に連れられ、昼飯を片手にやってきたのだ。

 屋上にはすでに先客がいた。篠崎柚葉がフェンスに寄りかかって座り、妙に緩慢な動作でパンをかじっている。相変わらずのボーっとした表情で、何を考えているかわからない。

 何も考えていないのかも知れない。

 眠いだけかも知れない。

「おーい、柚葉ちゃーん」

 七緒が声を上げて柚葉を呼ぶと、彼女はノロノロと辺りを見回し始める。

 ようやくこちらに気づいて、いつもの微笑を向けてきた時、もう潤一

と七緒は、柚葉の近くまで来てしまっていた。

「あっ、ヤナギくんにナナちゃんだ」

「オマエ、気づくの遅すぎ」

「まぁまぁ」

 潤一と七緒も、柚葉の近くに座り込むと、それぞれの弁当を広げる。と言っても、潤一の昼飯は朝コンビニで買ったパンなので、実際に弁当を広げたのは七緒だけだったが。

「羨ましい」

 唐突に、柚葉が呟く。

「お弁当?」

「ううん」

 ふるふる、と首を横に振る。なんだかその姿が兎みたいだな、と潤一は思った。

「ナナちゃん」

「えっ?」

「羨ましいのは、ナナちゃんだよ」

「ボク?」

「そう、ナナちゃん」

 柚葉との会話には、独特のテンポが生まれる。七緒もそれに飲み込まれたようだ。

 横から聞いていると、なんともかったるいスピードで話しているものだと思うのだが、不思議と不快さは無い。これは柚葉の持つ才能かも知れない、と思わないでもなかった。

「ボクが羨ましいって、いったい何が?」

 それは潤一も気になった。カレーパンを頬張りつつ、耳をそちらに傾ける。

 七緒の長所がではない。柚葉が他人を羨ましがるという事態が、そもそも人間に興味を持つことが、凄まじく珍しい事のような気がしたのだ。

 こちらの関心など、全く気づいていないのか(あるいはどうでもいいのか)いつもの調子で続ける。

「いつもヤナギくんと一緒」

 ブホォッ!

 思わず飲みかけていたカフェオレを吹き出す潤一。

「ヤナギくん、汚い」

「やかましいわ!」

 バンッ!

「ヤナギくんがぶった」

「あぁぶったぞ!」

「しかもカレーパンで」

「悪いか!」

「さすがにどうかと思う」

 むぅ、とうめいて潤一が押し黙る。

「だいたいオマエが変なことを言うからだな」

「冗談だよ」

「へっ?」

「くすくすっ・・・」

 そして、相変わらずの曖昧で単純で純粋な微笑み。なんとなく肩透かしをくらった気分の潤一である。

「まぁいい、そういう趣味の悪い冗談も、今に始まった事じゃないしな」

「あたし趣味悪くない」

「るせっ。おいナナ、オマエからもなんとか言ってやれよ。っておい? ナナ? 七緒さん?」

 七緒はこちらの言葉など耳に入っていないようで、真っ赤になってうつむいたまま、なにかをブツブツと言ってる。

「そりゃ確かに三年間クラス一緒だし、部活だって同じだし、お互い家が学校から近いから、休みの日とかも結構会ったりするけど、べつにいつも一緒なワケじゃないし、だから、その、あの、えっと」

(こんなんだから篠崎にまでからかわれるんだよ)

 複雑な思いを、なんとか無視しながら、潤一はカレーパンにかぶりついた。



 志藤勝にとって昼休みとは、平日に長電話の出来る唯一のチャンスである。

 だから彼はたいていの場合、学年職員室には居ないで、昼休みには誰も足を運ばない、この社会科資料室にいる。

「うん、そうそう、そうなんだよー。駅前の新しい喫茶店。なかなかいい感じでさー、メニューも結構豊富でね。うんそう、マリちゃんの好きなバナナパフェもあるよ。値段も安くってさぁ、今度の休みに行ってみない? そうそう、ねっ? いいでしょ? 近くにいいホテルもあるしね。えっ? そっちが本命じゃないかって? うーんどっちだろうねー、マリちゃんしだいかなー」

 携帯電話を片手に、軽薄な声を撒き散らす。この社会科資料室、防音と言うわけではないので、当然声は廊下にもまる聞こえである。

 彼のこの教師らしからぬ行為は、他の教職員の間で冷ややかな噂になっているのだが、志藤自身、そんなこと事はどこ吹く風、今日もナンパモード全開である。

「うんうん、わかった。それじゃ土曜日の二時で、うん、じゃあねー」

 ピッ

「・・・志藤先生、電話終わりました?」

「あれ? 律子ちゃん」

 律子が部屋の隅から苛立たしげな声をだす。

「いつのまに? しかもどこから?」

「少し前に、そこのドアからです」

 律子が志藤の真正面のドアを指差した。

「はははっ、全然気づかなかったよ。それで、どうしたの? なんか用

事?」

「そうですよ、あのですね」

「あっ、デートの誘い? それだったらゴメンネー、ちょうど今、今週末の予定が決まっちゃってね、でも来週からなら律子ちゃんのために平日でも」

「違います!」

「そんなに力強く否定しなくてもいいのに」

 しゅん、とうな垂れる志藤。こういう時の彼はとことんカルい。

 少しばかり頭痛を感じながら、それでも律子はきり出した。

「これ、頼まれてた十年前の流星群の資料です」

 そう言って、満杯になったクリアケースを差し出す。結構、一生懸命にがんばってくれたのだろう。

(こういうのが、俺的に高感度アップなんだよね)

 そのクリアケースを受け取りながら、志藤が礼を言うと、律子が不思議そうに聞いてきた。

「それにしても志藤先生、こんな資料なんに使うんですか?」

「えっ? いやなにね、十年前の流星群と今回の流星群、偶然にも日程が一緒だろう? もしかしたら、他にも何か共通点があるんじゃないかって思ってね」

 これは嘘である。本当のところは、十年前の流星群と、その時の自殺との関連がないかを調べるためだ。

 だが、その事を律子に喋る必要は無いし、彼女の事だから、要らぬ心配をするのではないかと思い、志藤は事実のほどを黙っていた。

 それでも、少しだけほのめかしてみる。

「ねぇ律子ちゃん、十年前にこの学校で何があったか知ってる?」

「・・・なんですか、それ?」

「いやね、十年前の流星群の時、この学校は何かしてたのかなぁって事」

「さぁ、知りませんけど・・・」

 律子の表情が、サッと曇る。これは何かあるな、と志藤は思った。しかし、今すぐ聞き出そうとしても、恐らく答えてはくれないだろう。そう思って諦める。それでも近いうちには聞き出すつもりだが。

「ふーん、そう。じゃ、俺は行くわ、これ読みたいし」

 そう言ってクリアケースを軽く掲げる。

「そうですか、それじゃ・・・」

 言いながらも、先に部屋を出たのは律子である。残された志藤は、窓から見える校庭をしばらく眺めてから、部屋を出た。



 屋上では柳沢潤一、三澄七緒、篠崎柚葉のランチタイムが続いていた。

「なぁ篠崎、こんな話知ってるか?」

 何気無く潤一が話をきり出した。

「なに?」

 あまり興味無さそうな声で返事をする柚葉。いつも通りなので潤一も気にせずに続ける。

「十年前にこの学校で自殺した生徒の話」

「今度の新聞で書く記事なんだけどさ、柚葉ちゃん知ってる?」

 七緒が潤一の話に補足する。

 柚葉は少し、ほんの少しだけ笑うと、こんな事を言ってきた。

「ねぇ、自殺って悪いことかな?」

「あん?」

「えっ?」

 突然の質問に、思わず間抜けな声を発してしまう二人。

「どうかな?」

 ボーっとして、眠たげで、どこか寂しげで楽しげな、口元と目元だけの、曖昧だが純粋な微笑み。そんな、恐らく世界中で彼女だけにしか出来ないであろう笑みを浮かべる。

 潤一、そして七緒もが、一瞬その表情に魅せられ、慌てて正気に戻る。

「自殺、自殺ね、うん、そうだな」

 自分を落ち着かせるように少し間を置く。

「俺は別に悪い事だとは思わないな」

「へっ?」

 驚いた声を上げたのは七緒だ。そのまま不満そうに言ってくる。

「なんでだよー、自殺なんて良くないよ」

「どうしてだ?」

 七緒の問いに、逆に問い返す潤一。

「どうしてって、自分の人生を自分で終わらせるなんて、やっぱり良く

ないよ」

「そうか? 他人にピリオド打たれるよりは、よっぽどマシだと思うけ

どな」

「それは、そうだけどさ・・・」

「まぁ待てよ。自殺が宜しくないってのは、生きることをやめるのが宜

しくないって事だよな」

「・・・うん」

「つまり生きることは楽しい、生き続けることは素晴らしいってワケだ」

「それは・・・」

「違うよな。生き続けるってのは、もっと苦しいし、えげつねぇもんだ」

「・・・そうだね」

「だったら、そいつに嫌気がさして自分の手で終わらせるのも、悪い事じゃないんじゃねぇか?」

 潤一の言っている事は、七緒にも理解できた。自分も生きているのが辛くて堪らない一人なのだから。

 いつだって世界に馴染めない自分。

 がんばってるのに、すごくすごくがんばってるのに、いつも自分だけとり残される。

 世界に別れを告げる事だって、何度となく考えた。今ここにいるのだって、ギリギリなのだ。一歩踏み外せば、そのまま壊れてしまう。

 だからこそ、聞いてみたかった。彼の理由を。

「・・・なら、ヤナギはさ」

「それならヤナギくんは、どうして生きてるの? どうして生き続けて

るの?」

 七緒の声を遮るようなかたちで柚葉が問う。それでも聞きたかった事は同じだ。

 潤一は、ふっと吹き出すようにして笑った。なんとなく、柚葉の微笑みの真似をしてみようとしたのだが、上手くいかなくて、それが可笑しかったのだ。

 そうしてから、潤一は答える。

「罰だからさ」

「罰?」

 聞き返す七緒。迷わずに、潤一は続ける。

「そう、罰。生きること、生き続けることは、罰なんだ」

「なんの?」

 今度聞き返してきたのは柚葉だ。それを聞いて、潤一は苦笑すると、

逆に聞き返す。

「言う必要があるか?」

 柚葉の顔から微笑みが消え、潤一の顔を見つめる。無表情に、それでいて表情豊かに、ただ、見つめる。

「聞きたいよ、ヤナギくんの口から、ヤナギくんの言葉で」

 ふぅ、と軽くため息のようなものを吐いて、なんとなく視線を空の方へと向ける。

「生きる罰、生き続ける罰を負わなければならないほどの大罪・・・」

「いったい、なんなの?」

 不安そうな声の七緒。潤一は少しだけ言うのをためらったが、やはり口にした。

「それは、俺たちが〈在る〉ということ」

 沈黙が訪れ、それがほんの少しだけ続き、やがて、

「くすくすっ・・・」

 と、柚葉が笑った。

「なんだよ、なんか変なこと言ったか?」

 少しばかり不機嫌な声を出す潤一。自分でも珍しい事を言っているの

はわかっていたが、笑われるのは心外だ。

 柚葉が笑いながら続ける。

「うん。変。すっごく変」

「オマエなぁ・・・」

 柚葉の笑いは、まだ止まらない。彼女がこれほど笑い続けるのを見るのは初めてだ。

「それに、それにね」

「それに、なんだよ」

 ここでまた、柚葉の笑いがぶり返す。潤一はもはやどうでも良くなって、柚葉の次の言葉を待った。

「すごく、すごくね」

「あぁ」

「すごくヤナギくんっぽかったから」

「・・・なんだそれ?」

「ヤナギくんなら、きっとこんなふうに答えるんだろうなって思ってたら、その通りだったから」

「だったらいいじゃねーか」

「それが変。ヤナギくんっぽくて、すっごく変」

 柚葉の笑いはまだまだ終わりそうにない。放っておけば、永遠に笑っていそうだった。

 それも面白いかも、と潤一は一瞬だけ考えたが、やはり思い直す。

「あーはいはい、どうせ俺は変な奴だよ。けどな篠崎、それを言ったらオマエだって充分に変わり者だぞ」

「そんなの当然だよ」

「なに?」

「だって、あたしはヤナギくんじゃないし、ヤナギくんはあたしじゃないんだから」

「・・・そうだな、それなら変で当然だ」

「でしょ? くすくすっ・・・」

「くくくっ・・・」

 互いに笑いあう潤一と柚葉。そんな二人を、七緒が寂しげな表情で見つめていたことを、その時は気づかなかった。

「やっぱり、二人は強いよ」

 彼女の呟きは、ちょうど鳴り響いた予鈴に、空しく掻き消された。



 その日の夜、自宅に戻った志藤勝は、さっそく音影律子から渡された十年前の流星群の資料に目を通していた。

 流星群前後の新聞記事の切り抜きや、やはり当時出回ったと思われるチラシの類、さらには天体系の図鑑などからのカラーコピーであろう流星の資料、などなど・・・。

(いやはや、改めて見ると凄い量だね)

 帰りがけに買った缶コーヒーを飲みながら、志藤は感心していた。

 律子が用意した資料は、べつに教職員ではない一般人でも、その気になれば集められる物なのだろう。それでも自分の専攻は国語の現代文、天文学的な事など一切知らなかったため、そう言った意味で新たな発見も多い。

(なんか学生に戻ったみたいだ)

 しかし、そんなことの為に律子に資料を頼んだ訳ではない。新しい知識を吸収しつつも、志藤はその資料の中に、なにか自殺のキッカケになるものがないかを必死に探した。直接的な引き金にならなくとも、なにかないか、なにかないかと、あるゆる可能性を考えた。

 それでも見つからない。

 無理やりな可能性として、なにか宗教的な意味合いがあったのではないかとも考えたが、学生の事件としては、いくらなんでも飛躍しすぎている気がする。

(やっぱり、時間が経ち過ぎてるか。それにしても学校なんてのは閉鎖空間なんだね)

 外側からは何も見えない。いや、見えてはいるのだ。ただ見るほうの目が歪んでいるのだ。

 期待。

 欺瞞。

 同視。

 怠慢。

 美化。

 本来、相反するはずの白と黒のイメージが混ぜこぜになった、灰色の色眼鏡を通して見ているのだ。無意識に。

 だから真実は霧散し、大衆の望む安っぽい事実が記憶となる。

(俺のやろうとしてるのは、もしかしたら途方も無い事なのかもしれないな)

 たった一人の人間の死んだ理由を探すことが・・・。

 それでも志藤は、やめるつもりは無かった。

(諦めてたまりますかっての。だって死んだのは俺の・・・)

 志藤は視線を資料へと戻した。



 同時刻。

 三澄七緒は、自室のベッドに突っ伏していた。部屋の電気は点いておらず、当然のごとく部屋は真っ暗だった。

 夜といっても、時刻はまだ九時半を少し過ぎたくらいで、世間一般の高校生が寝るのには早すぎる時間だし、七緒もこんな時間に眠りについたりはしない。

 それでも今日に限っては、このまま眠ってしまいたい。すごいスピードで落ち込んでいく感情を、完全に止めてしまいたいのだ。

「うー」

 という自分の発した唸り声が、いったい何を意味するのかわからなかった。それはつまり、何の意味も持っていないという事なのだろう。

 そう、無意味だ。

 なにもかもが無意味だ。

(違う、無意味なのはなにもかもじゃない!)

 きっと世界には、ちゃんとした意味があり、そこで生きる人たちにも意味があり、また、世界に馴染まずとも、己に法って生きる数少ない者たちにも意味があり・・・。

(ボクだけが、世界でボクだけが無意味なんだ!)

 泣きそうだった。

 涙が今にも溢れそうだった。

 それでも、七緒は泣かなかった。

 一度泣いてしまえば、きっと、そのまま壊れてしまうから。



 夜十一時。

 音影律子は、高校の卒業アルバムや、当時の写真などを、部屋の奥から引きずり出していた。

 彼女の住んでいるのは、駅近くのアパート。家賃は六万と、それなりに割安なのだが、部屋の広さはなかなかのものだ。

 大学院を卒業して教職免許を取ってから、ここに住んでもう三年。

 なにか落ち込んだり、また急に昔が懐かしくなったり、はたまた世界がどうしようもなくつまらなく感じた時、こうやって昔の思い出に浸って、自分を癒していた。

 どちらかといえば、お堅い優等生で通ってきた自分。そのせいか、彼氏というのは、生まれてこのかた出来た験しが無かったが、友人は結構多いほうで、律子本人の写っている写真は、たいてい五人以上の集団写真になっている。

 無邪気にはしゃぐ写真の中の自分。こうした保存される断片的な映像が、思い出を美化させていくのだろう。

 それほどに曖昧なのだ、記憶なんてものは。

(べつに良い事なのかも知れないね、思い出は綺麗なほうがいいし、なにより誰にも汚されない)

 己自身で汚さない限りはだが。

 百枚近くに及ぶ写真の中から、とっておきの一枚を見つける。普通、そう言った写真は、例えば片思いのまま終わってしまった淡い恋心の、その相手とのたった一枚のツーショットだったりするものだが、律子の場合は少々、いや大分違っている。

 写っているのは一人だけだし、なにより被写体が男性ではない。十年前に学校の屋上で撮影したその写真には、制服姿の一人の少女が映し出されていた。

 屋上のフェンスに寄りかかって、ボーっと空を見上げているところを、不意打ちで撮影したものなので、写真の中の少女は、こちらを向いてはいない。だからこそと言うか、彼女らしい瞬間を抑えた一枚なので、律子はすごく気に入っていた。

(久しぶりだね、幽称かくりね

 そのとっておきの写真に向けて、律子は笑った。

 幽称、それは少女の本名ではない。律子が付けた呼称である。

 唯一。

 無二。

 無類。

 純粋。

 超純粋。

 他には無いただ一つの存在を意味するその言葉は、世界に決して混ざらない彼女にこそ、相応しいと思ったのだ。

『かっこいいね』

 初めて彼女をそう呼んだとき、のんびりとした口調で言ってきたことを、まだはっきりと覚えている。

 それだけではない。

 律子の中で、彼女との記憶は永久に色褪せない。彼女と話した事は全て思い出せる。

 幽称との記憶は、律子にとって特別なのだ。

 本当に、本当に特別なのだ。

 ぱたっ・・・。

 ぱたたっ・・・。

 手の中の写真を、涙が叩いた。

 幽称の記憶。

 そう、彼女は記憶になってしまった。十年前のあの日、秋の夜空を、流れ星が埋め尽くしたあの日、彼女は・・・。

 写真を抱きしめて、律子は泣いた。



 柳沢潤一は九日後の流星群の事を考えていた。

 というのも、ちょうど今そんな企画のテレビがやっていたからなのだが。

 どうも日本は全国的に、今度の流星群で大分沸き立っているらしく、潤一のように、そんなもの知りもしませんでした、という人種はどうも珍しいようである。

(いや、違うね、そうじゃない)

 世論が熱するから、人々が沸くのだ。もしも情報が沸騰していなければ、ほとんどの者は、流星群などに興味は持たないだろう。

(流星群、か)

 志藤の話やテレビによると、十年前にも流星群は訪れているらしい 

(俺はその時八歳、小学校の二年生か)

 はっきり言って、そんな昔の事は何一つ覚えていない。当然、自分の中に幾千の流星の記憶は無い。

 無い・・・?

 突然の映像。

 瞬間の記憶。

 刹那の連続。

(なんだっ!? 俺の中で何が起こっている!?)

 闇。

 光。

 風。

 空。

 そして・・・!

 潤一は気を失った。



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