第一章 泡色の日常(アワイロノヒカリ)
その年の残暑は、例年より厳しく、また、しつこかった。
しかし、それも十月半ばの十三日ともなれば、いいかげんその猛威も収まってくるというものであり、生徒達の憂鬱の種も、連日の高気温から、強風へと移り変わってゆく。
始めの頃こそ、涼しい涼しいと、大喜びだったものの、秋の到来を告げるその風に、服やら髪の毛やらを引っ掻き回されるのは(特に最近のファッションに気を使う世代としては)やはり気に入らない。
高校生、
「ヤナギぃー」
ふと、呼ばれたような気がして、彼は振り向いた。ちなみに「ヤナギ」というのは、彼のあだ名で、彼の友人のほとんどがそう呼んでいる。彼の苗字の頭文字「柳」に起因していることは、言うまでも無いだろう。
「おっはよー」
片手を上げて、慣れた調子で挨拶をしてきたのは、
「おうナナか、おはよーさん」
彼女はやや小走りに近づいて来て、潤一の横に並ぶ。彼女の身長は、潤一より頭ひとつ分くらい小さいため、潤一は少し見下ろす形になる。
「あっそうだ。ヤナギって確か牡羊座だよね?」
潤一の誕生日は四月の十二日、れっきとした牡羊座である。中学までは出席番号が生まれの順だったので、出席番号が三より下回ったことがないのが、彼の自慢にならない自慢だったのだが、高校に入ってからは、名前のアイウエオ順になってしまい、「や」で始まる潤一は、遥か後方まで番号を下げる羽目になってしまっていた。
それはさておき。
「牡羊座だけど、それがどうかした?」
「朝の占い、大吉だったよ」
「おまえ、そんなん信じてんの?」
少し呆れたように応える。
「信じてるわけじゃないけど、でもやっぱり大吉とかだと気分よくな
い?」
「べつに」
潤一の態度は、どこか素っ気ない。べつにこれは意識してやっているわけでも、また七緒が嫌いなわけでもでもない。これが地なのだ。仕方ないではないか。
(誰に言い訳してんだ、俺?)
七緒といえば、やはりそんな態度を気にした様子もなく、相変わらず
の人懐っこい笑顔を向けている。
「そういえばさ」
「ん?」
「もうすぐ流星群だよね」
「・・・なんだそれ?」
やはり素っ気ない感じで聞き返す潤一。だが七緒の方は、まさかそういった返答があるとは思っていなかったのか、驚いたように目を見開く。
いや、実際驚いているのだろう。それから、なんとか言葉を探すようにしてきりだす。
「ヤナギ、知らないの?」
「なにを?」
「流星群」
「だから、なんだよそれ」
「えーとー、だからぁ・・・」
日にちを指折り数える七緒。やがてそれが、今日から十日後の二十三日、つまりは両手の指が尽きたところで、
「十日後の」
と言ってくる。
「・・・さぁ?」
潤一の反応は、やはり要領を得ない。呆れた表情をするのは、七緒の番だった。
「うーん、ヤナギってテレビとか見ないもんね」
「そんなことないぞ、バラエティーに映画、あと歌番組だって見るし」
「言い方が悪かったよ、ニュースとか新聞とか見ないでしょ?」
「俺はマスコミが嫌いなんだ」
これは嘘でも冗談でもない。しかし、深い意味があるわけでもない。ただ、スポーツ報道にしろ有名人の追悼番組にしろ、アナウンサーの作り物の声と感情が頭に来るのだ。あんた、よくそんな事やってられるな、と。
一番腹立たしいのは、殺人やら事故やら、そういった被害者のでたニュースの、視聴者の同情を惹きやすい「被害者像」である。
何故そういった善人ばかりが死ぬ?
とくに殺人などの場合、殺されるだけの理由があったのではないか?
突発的な場合でも、それが善人とは限るまい?
それともなにか?
この世界では善人は、天命をまっとうできずに死んでいく運命にあるとでもいうのか?
そして、同情を惹いてなんになる?
見ず知らずの人間の死を、悲しむ理由が何処にある?
(それほどの価値が、人間の何処にある?)
「ヤナギ、聞いてる?」
「あ、あぁ悪い、なんだっけ?」
気づかぬうちにボーっとしていたようである。
潤一は、知らない間に、自分の思考に飲み込まれることがたまにあった。はたから見ていると、会話中に途端ボーっとしだすらしい。
不気味だと、自分でも思うのだから、他人からはもっと不気味だろう。
「だからぁ、流星群の日、ヤナギはなんか予定あるの?」
「俺? なんで?」
「なっ、なんでって・・・」
そこまで目を合わせて話していた七緒が、急に視線を逸らす。前髪をいじるのも、慌てているときの癖だ。
「せっ、せっかくのすごい日なのに、誰も一緒にいないんじゃ、ヤナギ
がかわいそうだなぁ、とか、その」
こういう七緒は、正直わかりやすいと思う。潤一だって、この反応の意味は知れたし、実際のところ、彼女の気持ちには、だいぶ前から気づいていた。
けれど、そういう時に限って、潤一はこんなふうに答える。
「ナナはどうなんだよ、こういう機会に、お近づきになりたいってヤロ
ーも多いんじゃないか?」
「そっ、そんなの、いないもん!」
これは多分、嘘だろう。七緒は顔も悪くないし(入学当初、某アイドルに似ている、とクラスの男子の間で、ひそかに騒がれていた)性格もつきあいやすい(潤一のような変わり者とも親しくなれるのだから、これが、つきあいやすい以外、なんだというのだ)
実際のところ、七緒はモテる。これは潤一の予想の範囲だけではなく、事実そうだった。それでも七緒が誰かと付き合った、または付き合っている、という話は、いまだ聞いたことがない。
(べつに、俺に責任はないよな)
こらえるつもりだったのだが、潤一の口元に、思わず苦笑が浮かぶ。
それが癪に障ったのか、七緒が怒ったような口調でまくしたててくる。
「でっ? ヤナギは暇なの!? 暇じゃないの!?」
「うーん、暇っちゃ暇なんだけどなぁ」
「だっ、だったらさ・・・」
「けど、忙しいっちゃ忙しいんだよなぁ」
「もう! どっちなんだよ!」
結局、潤一が七緒の提案を承諾し、二人で流星群を見る約束をしたのは、これより二十分ほど後、校門をくぐり、下駄箱で靴を履き替え、階段を上り、廊下を歩き、教室のドアが見えてようやくである。
それは、大体いつもどおりのやりとりであった。
N学園教師、
しかし、今、彼と並んで歩いているのは、同じ職場の女性教師、
「律子ちゃーん、おっはー」
「・・・おはようございます、志道先生」
両手を顔の前辺りで開いて陽気に挨拶をする志道。だが律子の反応は
残念なことに「つれない」ものだ。
「どしたの律子ちゃん、元気ないよ?」
「志道先生、前々から言ってるんですが、その律子ちゃんって言うの、やめていただけませんか?」
「どうして?」
「その、教師同士がそんなふうに呼び合うのは、なんていうか、生徒に示しがつきません」
出会って数十秒、この時点で二人の性格の違いがよくわかる。だがその程度のことでまいる志道ではなかった。こんなやりとりは、彼らが初めて顔をあわせた時、つまりは律子が新人教師、いや、新任教師としてこの学校にやってきてからの三年前から、いつものことだ。
「いいじゃない、教師同士が仲良くやったほうが、生徒の情操教育にもいいはずだよ。それにさ、なんとなくちゃん付けで呼びたくなっちゃうんだよね、職場の頼れる先輩としては」
「私はもう一人前です。先輩風吹かさないでください」
「ははっ、そう怒らないでって、俺も律子ちゃんは、もう一人前だと思
ってるから」
そう言いながら、志道の頭の中にあるのは「怒った顔もかわいい」とかいう、教師同士としては不謹慎な事であった。教師と生徒よりはマシかも知れないが、志道は生徒相手にも、そんなことばかり考えている。
「あとは、そうだね、ボタンを自分で直せるようになれば、完璧かな」
そう言って、志道は律子の羽織っているカーディガンの、一番下のボタンを指差した。
件のボタンは、糸がたるんでいるのか、はたまた器用に一部だけが切れたのか、ほとんど取れかかっており、律子の腰の辺りで、振り子のように、ぶらぶらと揺れていた。
「えっ? あっ!」
慌ててボタンに手をやる律子。しかし、それの状態は思った以上に深刻で、この場でどうこうできそうな具合ではなかった。
「あの、あのですね志道先生、私べつにお裁縫ができないわけじゃないんですよ? ただ今日はちょっと、うっかりしてたっていうか、ついっていうか・・・」
キーンコーンカーンコーン・・・
「おっ、予鈴だ、ほらほら律子ちゃん急ぐよ、いくらなんでも教師が遅
刻するわけに、いかないからね」
「えっ? ちょっと志道先生、まってくださいよ、志道先生ってば!」
N学園教師、志道勝と音影律子。この二人が「あやしい」という噂がたってしまうのは、まぁ、仕方のないことなのかもしれない。
「出席をとりまーす、来てない奴は手を上げろー」
年度の始まりから言い続けている担任教師、指導勝のこのギャグに、今更、笑う者は誰もいない。柳沢潤一もまた、この程度で笑うほど、バラエティーに飢えているわけではないし、笑ってやるほどの愛想も、持ち合わせてはいなかった。
しかし、そんなことすらも今更なのか、志道は全くためらうことなく、続ける。
「よーし、いないな、欠席者はゼロっと」
なんとなく、潤一は周りを見回した。朝のホームルームでは、真面目に自分の席に座っている奴など、少数のため、全てを確認できたわけではないが、誰かがいない、という様子はない。
「それじゃ、朝のホームルームは以上だ。諸君、今日も有意義な一日を
過ごすように」
芝居がかった口調で、それだけ言うと、志道はさっさとは教室を出ていった。彼の朝のホームルームは、いつもこんな感じだ。
「なぁナナ、一時間目って、なんだっけ?」
潤一は、横で小説を読んでいた七緒に声をかける。彼女の席は潤一の隣なのだ。七緒が文字から目を上げて、こちらを見る。
「えっ? なに? なんか言った?」
よほど熱心に読みふけっていたのか、聞き返してくる。心なしか目も少し潤んでいるような気がした。
「いや、一時間目、なんだったかなって」
「えっと、たしか物理」
ふーん、と呟いて、潤一は席を立った。
「ちょっと、出かけてくる」
「あっ、サボる気だ」
「いいじゃねーか、ナナも来るか?」
「うーん、ボクはいいや、これ読みたいし」
七緒が小説を指差しながら言う。
「そう、んじゃ、行ってくるわ」
それだけ言うと、潤一は廊下に向かって歩き出そうとし、ふと気になって、振り返る。
七緒は意識をすでに小説のほうに戻していた。
(あいつ、いったい何を読んでんだ?)
小説のほうに目をやる潤一。しかし、本には書店で付けられるようなカバーが付いていて、タイトルは伺えない。
諦めて行こうとすると、机の上に無造作に投げ出してある枝折に気がつく。書店で買う際に、本の中に元々挟まれているような紙の枝折だ。
「・・・」
そこには男子の潤一でも聞いたことがあるような、有名なBLレーベルの名称が、簡素なブロック体で記されていた。
(見なかったことにしよう・・・)
潤一は視線を戻すと、教室の外に向かう足取りを、わずかに速めた。
ギィ・・・
錆びついた金具が、きしんだ音色を奏でる。開けるのにかなりの力を要するそのドアに顔をしかめながら、潤一は屋上へとやって来た。
ここで過ごすのは、気温のちょうどいい、この時期が一番良い。あと一ヶ月もしたら、多分、寒くていられない。
地面から高いところは、なんだかそれだけで空気が新鮮な気がして、潤一は大きく息を吸い込み、そして、そんな自分の安っぽい価値観を自嘲しながら、ゆっくりと吐き出す。
一通り終わると、潤一は、そこにあるはずの人影を探した。
朝の屋上には、必ずいるはずの彼女を。
(・・・いた)
フェンスのところで、一人の少女が、ボーっと空を見上げている。潤一のサボり友達、篠崎柚葉である。
彼女がこちらに気づいた様子はない。潤一は、少しばかりやましい決心をすると、息を殺して、彼女の背後にまわる。
「てりゃ」
ピシッ!
「・・・いたい」
ようやくこちらに気づいたのか、後頭部を押さえ、やたらと緩慢な動作で、柚葉が振り向いた。
「なにしたの?」
「デコピンだ。デコじゃねーけどな」
へぇ、と呟いて、考え事をするような、はたまた全てが上の空のような、そんな彼女独特の、曖昧な表情を浮かべる。
そして、それが当然の繋がりであるかのように(川の水が上流から下流に流れるほどの、自然かつ必然であるように)かなり無造作な動作で、柚葉が拳を振り上げる。
その唐突で不自然な動作が、あまりにも自然に行われたため、潤一も判断が遅れる。
「仕返し」
「えっ?」
バキッ!
「ぐはぁっ!」
さすがに、よろめく潤一。
「いきなり、なにしやがる!」
「それ、あたしのセリフ。だから仕返し」
「だからって、顔の真ん中をグーで殴るか? 普通」
「グーじゃない」
そう言って、柚葉が拳を作ってみる。
「一本拳」
「同じだ」
「それに、顔の真ん中でもない」
「・・・ほう?」
「人中」
人中というのは、鼻の下の急所、つまりは顔の真ん中である。もう一度、言い返そうと思った潤一だが、なんだか可笑しくなってきた。
「くくくっ、篠崎、やっぱりオマエは面白い奴だよ」
「そう?」
ボーっとした、眠たげな、そしてどこか寂しげで楽しげな、曖昧な微笑み。潤一の知る限り、それは何の細工もない、もっとも単純な笑顔である。
潤一は、この微笑が、まぁ、わりと嫌いではなかった。
「そうさ、俺の知ってる限り、オマエより面白い奴なんていないぜ」
「そんなこないよ、ヤナギくんのほうが面白いよ」
「へぇ? 俺? どこが?」
「だって」
「ん?」
「鼻の下、真っ赤」
「そりゃオマエのせいだ」
「くすくす・・・」
「くくっ・・・」
柳沢潤一と篠崎柚葉。この二人の関係を説明するのは、少々難しい。
まず、恋人同士ではない。これは確実だろう。それでは友人関係、これが多分、近いと思うのだが、潤一としては、いまいちピンと来ない。
そもそも、潤一と柚葉が、顔をつき合わせて話をするようなのは、この屋上がほとんどで、放課後や休日に、たとえ、二人きりでなかったとしても、柚葉と一緒にどこかに出かけたという事は無かったし、潤一もまた、特に行きたいとも思わない。
二人の多少変わったこの関係は、潤一が高校に入って初めてサボった、四月の一時間目の授業(たしかその時も物理だったとおもう)から続いていた。
どちらから誘い合わせる事も無く、潤一が屋上に出向いてきた場合、たいてい彼女はここにいる。そんなことが、もう二年半。
(それとも、たったの二年半、かな?)
潤一は思う。
この先なにも問題が無ければ、おそらくこんな関係が、卒業まで続くのだろう、と。
(いや、卒業までしか続かない、かな?)
それが寂しいことなのか、どうでもいいことなのか、はたまたそれ以外のなんなのか、この時点では、潤一にはわからなかった。
一方、柳沢潤一の欠員した教室では、三澄七緒を含む、それ以外の生徒達が、退屈な授業を受けていた。
といっても、授業内容を、精を出して理解しようとしている生徒は少なかった。実際、いないと言ってもいいかもしれない。
この時期になると、生徒の進路というものは、だいたい決まってきて、その生活パターンも、大きく二つに分かれてくる(グループ化できるほどに単純化される、といったほうが近いかもしれない)
そのうち一つ、大学、および専門学校を目指す「進学組」は、塾や予備校に通いだし、もしくは元から通っていて、学校の授業でやる内容など、とうに履修済み。復習のためと、もういちど聞いてもよさそうなものだが、ほとんどの者は、それ以外の、例えば自分の苦手科目の反復練習をしたり、または面接マニュアルと呼ばれるような本を、ページに穴が開くほど読み込んだり、また、連日夜遅くまでの参考書との睨めっこで疲れ果て、机を枕に眠り込んだりと、だいたいこんな様子だ。
そして、そうではない「就職組」だが、早い者は、もう行き着く先が決まっており、そうでない者も、目処のたっている者がほとんどで、だいたい三ヶ月以内には決まる。
安全圏に入った、というわけではないが、このグループの今やるべきことは、その仕事先への、挨拶であったり見学であったりで、今更退屈な授業に、勇んで興じようという者は、当然いない。
しかし、そんな一種ヒステリー集団の中で、七緒は、このどちらのグループにも属さないでいた。
表向きは、とりあえず「進学組」ということになっているが、七緒が進路希望のプリントに書いたのは、ただ地理的に近いだけの、七緒としては、これといって魅力も感じていない大学だ。
「三澄さんなら、もっと上が狙えるわ」
というのが、最近行われた、進路相談の三者面談における、教師の言葉だった(本来、こういった事は、担任である志道がやるべきなのだが、彼がやったら、何を言うかわかったものではない、という教師側の意向と、そういった場を強制的に設けることを良しとしない指導教師本人の意向により、そういった形で行われた)その時は「そんな事無いです」とか「落ちたら嫌だし」とか、そんなことを言ってごまかした。
七緒はN学園にも、こんな感じで入学した。その事で後悔したことは無い。通学に二時間近くかかっている友人の話を聞くと、徒歩にして約三十分で通学できることは、ずいぶん得だと思う。それでも親や親戚には、もったいない事をした、とずいぶん言われた。
正直、七緒は受験とか、そういったものが、いまいちピンと来ていない。というより、皆がどうして、それに対してムキになるほど頑張れるのか、理解できなかった。
まるで、それ一つで、自分の価値が決まってしまうかのように・・・。
(違うよね。人間の価値ってそういうのじゃ、ないよね)
傲慢なのか、とも思う。実際の話、七緒は成績がよかった(今までに受けたテストというもので、彼女は一度も七十点を下回ったことが無かった)それでも、七緒は、自分は頭がいい、と思ったことは一度も無い。
しかしながら、この時期になると、友人との関係が、どこがどうというわけではないのだが、なんとなく、ギクシャクしだす。
(中学の時と一緒。ヤだな、こういうの)
そのことが、七緒には、堪らなく、辛い。
そして、世界に馴染めない自分の弱さが、堪らなく、嫌だった。
(強くならなきゃ、なにもボクを傷つけられないくらい、強く)
ヤナギみたいに・・・。
・・・。
次の休み時間に、自分も屋上に行こう。
そう決めると、七緒は机から、さきほどラストを迎えた小説を、もう一度ひっぱりだした。
キーンコーンカーンコーン・・・。
時間というものに、始めて区切りをつけたのは誰だろう? 学年職員室で、どこか音の外れたチャイムを聞きながら、志道勝は、そんな疑問を思い立った。
しかし、チャイムが鳴り終わる頃には、その疑問は逆だと気づく。
誰かが時間を区切ったのではない。悠久のたる時の流れに、一定単位の区切りをつけた事により、「時間」という概念が生まれたのだ。
(人は、そうやって、無限を有限に置き換え、己を支配する。世界を自分で管理できるように縛り付けて、自身が征服者であるために。さすがは霊長、と言ったところだね)
人はそれを、進化や成長と呼ぶ。そうやって、大きすぎる世界と、なんとか折り合いをつける。そうしないと、世界に飲み込まれて、生きていけないから。生き続けることができないから・・・。
チャイムが完全に鳴り終わると、一分もしないうちに、廊下や教室が喧騒に包まれる。つまり、今のチャイムは、一時間目の授業と休み時間の区切り、というわけだ。
二時間目は、彼も授業がある。志道はデスクの上に無造作に置かれた出席簿を取ると、廊下に出た。
「流れ星、まだかな」
彼の呟きが聞こえた者は、一人としていなかった。
音影律子。ピアニストかバイオリストになるために生まれてきたような名前の彼女の担当科目は、意外なことに、メロディの旋律からは最も縁遠いような、数学だった(三角関数の回答式に、クラシックの楽譜のような、不揃いなようで実は正確な、不安定な美しさでも見いだせるような変人でなければ、最も縁遠いと言っても過言ではないはずだ)
一時間目、その数学の授業が終わり、彼女が最初にやってきたのは、学年職員室でも、次の授業を行う教室でもなく、家庭科室だった。
というのも、朝方、志道に指摘されたカーディガンのボタンを直すためである。先ほどの授業も、そのことが気になって、教える立場の自分のほうが、なんだか上の空だった。
たかがボタンの一つぐらい、大して気にしなくてもいいと思うのだが、指摘してきたのが、あの志道だと思うと、なんだか妙に恥ずかしくなってしまう。
針と糸を手に取ると、律子はササっとボタンを付け直した。時間は一分もかかっていない、こういうことは、昔から得意なのだ。
裁縫道具を元の位置に戻すと、足早に家庭科室を後にした。
「もっと、しっかりしなきゃ」
一般的に、高校の部活において三年生は、一学期いっぱいで引退という事になっている。受験やら就職活動やらで忙しくなるのが、その主な理由だ。
しかし、引退の時期が明確に存在しないため、二学期の中盤になった今でも、三年が顔を出すような部活というのも、やはり一般的に存在する。週に一回しか活動がなく、これといった大規模なイベントの無いマイナーな文化部がそうだ。
柳沢潤一の所属する新聞部も、そういった部活の一つであり、潤一本人もまた、そうした引退の時期が明確でない三年生の一人だった。
本来、めんどくさい事が大嫌いな潤一は、部活をやる気はなど毛頭無かったのだが、高校に入ってすぐ、七緒に半ば強引に入部させられてから、ダラダラと現在にいたっている。
それが、放課後あくびをかみ殺しながら(六時間目に寝ていたのだ)向かう先が、下駄箱ではなく、新聞部の部室である理由である。
昇降口のほうからの喧騒を、恨めしげに、と言うよりは鬱陶しげに聞きながら、いつか清掃業者でも呼んで真面目に掃除したほうが良いのでは、と思うほど汚れの染み付いた廊下を歩く。
「こらヤナギぃっ!」
突如、後方から聞きなれた怒声が飛ぶ。振り返ると、いたのは案の定七緒だ。
「うるせーぞナナ、人を大声で呼ぶんじゃねー」
やや小走りでやってくる七緒。
「なんで勝手に行っちゃうんだよ!」
「オマエが起きないからだよ、五時間目からぶっ続けでグースカ眠りやがって、ホームルームになっても起きないんで、志藤の奴、笑ってたぞ」
そのせいか、七緒の目は少し潤んでいる。あと、額も少し赤い。
「だって、お昼食べたら眠くなっちゃって・・・」
「いくらなんでも寝すぎだろ」
「うー」
話しているうちに、いくつもの部活名の書いた表札が見えてきた。一階の端の一角、ここは多くの空き教室が部室としてあてがわれており、
とはいえ、野球部やサッカー部などの運動部は、外に別棟の部室があるので、ここの住居者ならぬ住居部は、先にも述べた三年の引退時期が明確でない文化部がほとんどだ。
潤一たちの目指す新聞部の部室は、その部室蓮のちょうど中央辺り、オカルト研と写真部に挟まれた場所に存在している。
「着いたー」
ガラガラと壊れそうな音をたてて、引き戸を開ける。中には数名の部員がチラチラと顔を出していた。新聞部は総勢十人ちょいの小規模な部活だから、これでほとんど全員が出席している事になる。
潤一と七緒も適当な席に座り、特に何もせずにダラダラと過ごす。しばらくして志藤の姿が現れた。彼はこの部活の顧問でもあるのだ。
「うーっす皆の集、今月のテーマは決まったかー」
新聞部の主な活動内容は(といってこれ以外の活動など潤一はした事が無かったが)月に一度、昇降口前の掲示板に張り出される、学校新聞の製作である。志藤の言っているテーマとは、その内容の事だ。
発行日は毎月十日、締め切りはその月の九日までという事になる。
潤一たちが今書かなければならないのは来月号、つまりは十一月号なのだが、これが難しい。
九月は体育祭、十月は文化祭と今年に関しては流星群があり、書くネタにも困らなかったのだが、十一月はこれと言ってイベントがある訳でもなく、ネタ切れとなってしまうのだ。
こういう月は、なにも十一月だけではなく、そういう月は大抵、なにかどうでもいいような事を書いて終わらせるのだが、その「どうでもいいような事」が、まだ思いついていなかった。
そういう訳で、
「まだでーす」
という声がどこからともなく上る。
それを聞いて、志藤は何故だか嬉しそうな顔をした。
「そうかぁ、けど喜びなよ。今月は俺がネタを持ってきてあげたから」
おぉっ!
と歓声が響く、七緒も喜々とした視線を志藤に向けていた。けれど潤一としては、どうもいい予感がしない。
「しかも新聞部始まって以来の大スクープだ。内容は学園の歴史系なんだけど、地味にはならないよ。それどころか、下手したら学園全体に衝撃を走らせることが出来る」
志藤のどこか芝居がかった口調に、部員のテンションも上ってくる(と言ってもたかが知れた人数だが)
「学園に衝撃だって、なんだろうねヤナギ」
「さあな」
そんな中、潤一だけが素っ気ない。しかし志藤の次の言葉には、さすがの潤一も驚かずにはいられなかった。
「じつはこの学園でね、十年前に一人の生徒が死んでるんだ」
歓声が、ピタリと止んだ。
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