梅と竜(3)
『ナイトメアか』
シヴロの声は、電話越しだと妙に聞き取りにくい。
声に混じって、泡立つような音が響くせいだ。
『やつらに関しては、我々もずいぶんと手を焼いている。地球でも面倒を起こすとはな』
むしろ、呆れたような響きがあった。
ナイトメアとは、異界における種族の名称だ。
個体数は少ないが、保有している
なんでも百年ほど前には、『魔王』を名乗る王を旗頭として、異界のすべてを巻き込んだ戦争を仕掛けたという。
地球においては、歴史上に姿を現すたび、『悪魔』と呼ばれてきた。
そういう連中だ。
『しかし、《ブラザーフッド》。聞いたことがない血盟だな』
「血盟?」
耳慣れない言葉を、俺は聞き返した。
『ナイトメアが形成する集団の単位だ。地球で言えば、氏族と訳するのが適当かもしれない。領土を失ったナイトメアどもが共有する、唯一の帰属意識』
「わかった。マフィアのファミリーみたいなもんか」
『なるほど』
シヴロは本当に感心したような声をあげた。
『山岡、きみはごくまれに賢いことを言う。驚いた。いまの発言は記憶しておく』
「喧嘩売ってんのか? ムカついたし、もういい。俺は行く」
『待て。行くな』
どこへ、ではなく、『行くな』と来た。
こちらの目的地は聞くまでもなくわかったらしい。
土御門晴栄から聞いた、新宿の路地裏を抜けた先。
まもなく日が暮れる。
すなわち、ナイトメアの血盟、《ブラザーフッド》の縄張りへ向かっている。
『いますぐ引き上げろ。いくら汐月捜査官が同行していても、きみが関わった場合、事態がめちゃくちゃに混乱しかねない。いや、たぶん混乱する』
「やつらに事情聴取するだけだ」
『きみの場合、それだけでは済まない』
「悠長に構えてる時間があるか?」
才谷梅花という少年のことだ。
悪質なナイトメアの組織に捕まっているとしたら、どんな目にあうかわからない。
「やつらは人を食うって話だろ」
『必ずしもそうとは限らない。ナイトメアが人を捕食するのは、時と場合による』
「どんな場合だよ。言ってみな」
『相手が有益な
「よくもまあ、それを正直に言うよな。お前ってそういうところあるよ」
俺は一度だけ目を閉じ、また開いた。
やることは決まっている。
俺はこういうときに、命をかけるために生きている――と、そう思うことにしている。
そうでなければ、俺はそこから先の人生を、まともにやっていけない気がする。
俺は自分の臆病さに自信がある。
「俺は行く。室長に報告だけしとけ」
『反対する。きみは肉体労働で、私が頭脳労働を担当するはずだろう』
シヴロはなおも粘った。
『頭脳の私が言っている。行くな』
「自信満々だな。あのガキがエルフだっていう説も外したくせに」
『そんなはずはない。いまは九割五分で確信しているが、あの少年はエルフだ』
「占ってもらったんだよ。絶対に違うってさ」
『《星魔法》スキル? 【予言者】か? まさか。そんなはずはない。いや、だとしたら――』
そこまでで、俺は通話を打ち切った。
スマートフォンをポケットに突っ込んで、汐月を振り返る。
「俺の相棒も言ってる。とにかくガンガン行けってさ」
「そうでしょうか」
汐月は真面目な顔で首をひねる。
「引っかかります。シヴロ特別顧問は、あの少年をエルフだと言っていた。しかし、さきほどの占い師は違うという」
「まあな。あいつも結構いい加減なことを言うから、深刻に考えない方がいい」
俺はポケットに手を入れたまま、できるだけ堂々と歩く。わざと足音をたてるように。
見つけてくれと言わんばかりの態度。
「ですが、先輩。シヴロ特別顧問の状況判断力は」
汐月は言葉を止めた。足も止まる。
さすがに、俺も気づいた。
俺たちの行く手を塞ぐように、大柄な影が一人。
スーツの上から、分厚いコートを羽織った男だ。青白い顔で俺を睨んでいる。
俺は瞬時に《鑑定》スキルを発症させている。
こいつの所属は《ブラザーフッド》。だが、種族は人間――ナイトメアではない。せいぜい下っ端の見張りだろう。
「どうしますか、先輩」
汐月が、いくぶん強張った声で尋ねてくる。
「強めに行くよ。あいつどうせ下っ端だし、反応を見たい」
「手帳は?」
「ガツンと頼む」
うなずいてから、俺は足を止めずに近づく。
「出てきてくれて助かるぜ、旦那。話が聞きたいんだ。あんた、《ブラザーフッド》だよな?」
「我々は警察です。この近辺で発生した、行方不明の――」
汐月もすぐに警察手帳を取り出し、掲げて見せた。それが良くなかったのかもしれない。
「警察!」
と、やつはその単語に反応した。よく見れば、血走った眼をした男だった。
「そうか、お前たちか」
唸るように尋ねてくる。
「あのガキをどこへやった? 才谷とかいう、あの頭のおかしなやつだ!」
「ん?」
俺は意表をつかれた。それはこっちが聞こうと思っていたことだ。
思わず汐月と顔を見合わせてしまう。
これも良くなかった。
「答えろ」
男はコートの内側から、一本の短い木の枝のようなものを引っ張り出した。
拳銃の類ではない。
そいつを見た瞬間、頭痛とともに俺の背筋が冷えた。
俺の《鑑定》スキルは、人間なんかよりも器物を相手にする方が強く作用する。だからわかることがある。
名称:オルザ&クェーラⅢ。
分類:短陣魔法杖。
マナ加工:《秘文魔法》。
装填:三段圧搾式。
「魔法の杖かよ!」
それも、かなりの最新型。
急いで汐月を押しのける動作は、ぎりぎりのところで間に合った。
「
奇妙な響きの言葉の連続。男の構えた杖の先端が、白く輝いた。
そう見えた瞬間、俺の肩に焼けるような痛みが走った。
じぃっ、という耳障りな音。
認識は少し遅れる。しなる蛇のような稲妻が一閃して、空間を焦がし、俺の肩をかすめていた。
《見切り》をはじめとした、防御用のスキルがまるで動作しなかった。
俺が保有する【剣士】
銃撃のような物理攻撃、あるいは精神に影響を与えるような攻撃なら、防御用のスキルがはたらく。圧倒的なアドバンテージをとることができる。
その反面で、魔法スキルには弱い。
魔法スキルが引き起こした物理現象を、即座に『攻撃』として認識できないせいだ。
「魔法?」
汐月が、壁際に押し付けられながら呻いた。
「なんで魔法の杖が、ここに……!」
彼女の言う通り。
この地球において、魔法の杖を民間人が所有しているとは驚きだ。
銃器とは取締のレベルが違う。間違いなく密輸だろう――それも大規模な組織が関与している。とにかく、これはよくない。
「やばい。ミスったな」
俺は痛みを《鋼心》スキルで抑え込む。汐月の肩を掴み、抱きかかえるようにして引っ張った。
「魔法の杖は予想外だ。逃げるぞ」
「あ」
「急げ!」
汐月の意見を聞いている暇はない。
さらにもう一度か二度、空気を焦がす稲妻が走ったと思う――それは俺の首筋だか、脇腹だかをかすめて焼いた。鋭い痛み。またスキルで抑え込む。
あとは全力で走るだけだ。
「逃げたぞ! 警察だ、こっちへ来い!」
あの男が叫んでいる。
いくつもの足音が聞こえ始める。
「先輩、追い詰められます」
息を弾ませながらも、汐月は冷静に言った。
俺も同感だ。この入り組んだ裏路地を縄張りにしている連中が相手で、しかも、もうすぐ日が暮れる。
そうなれば、ナイトメアの世界だ。
こっちはどう逃げればいいかわからない。
とにかく表通りに――向かうのは、絶対に読まれて先回りされるだろう。
ありえない。
他にできることは。
そう考えて周囲を見回したとき、俺は愕然とした。
「あの……こっち」
どこか眠そうな呟き。
小柄な人影が、地面から首だけを覗かせていた。
「潜った方がいいよ。危ないから」
マンホールか何かの蓋を持ち上げて、どういう表情も読めない、平然とした顔。その顔を知っている。すでに写真で見ていた。
才谷梅花だ。
行方不明中の少年。
「来ないの?」
愕然とする俺を挑発するように、少年は眉をひそめた。
「追いつかれると大変だよ。あの杖、かなり性能がいいから」
その台詞を聞いたとき、俺はなんとなく思った。
このガキとはソリが合わないだろうと。
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