梅と竜(2)
新宿の雑踏は、この数年でかなり様子が変わってきた。
十年前の《日異事変》以来、表向きは日本と異界の関係は安定した。
少なくとも、テレビや新聞ではそういうことになっている。
新宿の大通りで異界人を見かけることも増えた。
ドワーフやシャドウ、ナイトメア。ゴブリンにオーク。中には日本国籍を持ち、商売をしている輩もいるくらいだった。
だが、エルフは別だ。
あの貴族主義で秘密主義なやつらは、滅多に地球に姿を見せない。
見せたとしても、新宿のような人の多い場所なんかに近づかない。
だからエルフの関係者なら、わりと簡単に目撃証言を辿れるのではないか。
新宿へ出かけることにしたのは、そう思ったからだ。
「では、どこから始めましょうか」
汐月穂乃果は、手帳を片手についてくる。
「山岡先輩の捜査、勉強させていただきます」
彼女の物言いは生真面目すぎて、怒っているような印象がある。
おかげで、俺はなんだか落ち着かない。昔から学級委員とか、その手の優等生が苦手だったせいだ。
「言っとくけど、俺の捜査方法なんて参考にするなよ」
俺は汐月に釘を差しておくことにした。
「知ってるだろ。俺はまともなルートで雇われたわけじゃない。お前の方がよっぽど経験あるだろうよ」
「でも任務の達成率は、異事対でトップクラスです」
「そりゃ、任務に駆り出される回数が多いからな」
「室長は、山岡先輩を頼りにしているのだと思います」
「俺は違うと思う。シヴロのせいだ」
イド・シヴロ特別捜査顧問。
やつと室長の間で、どんな契約が交わされているのか、俺はまるで知らない。
だが、やたらと俺たちに下される任務が多いのは、やつの過去に関わることなのではないか。俺はそう見ている。
「今日も本当は非番の予定だったんだぜ。信じらんねえ」
「よほど急ぎの案件なのでは。手の空いている異事対のメンバーがすべて投入されているものと思われます」
「室長は大げさなんだよ。くそ。久しぶりの休暇が、また消えた」
「山岡先輩の休暇ですか」
汐月は、妙なところに反応した。
「本日は、どんなご予定があったんですか?」
「ああ。それがな、ちょっと」
俺は曖昧な返事をして、数秒の時間を稼いだ。
どうにかして言葉をひねり出す。
「ガーデニングとか」
言ってから、さらに付け加えた。
「最近、興味があるんだ。始めようと思って」
いま思いついたことだが、我ながら悪くはない。
危ないところだった。
非番の日となれば、一日中寝ているか、剣術道場に顔を出すしか思いつかなかった。そんなことを正直に言ってしまえば、ますます仕事人間のように思われるだろう。
そんなのは御免だ。
「なるほど。ガーデニングですか」
汐月は律儀なので、手帳にその一言をメモしたようだった。
「いいですね。ええ。わかります」
「詳しいのかよ、汐月」
「はい」
彼女は即答した。
「私も、嗜んで……います。様々な植物を育てていますから」
「そうか」
前から思っていたが、汐月は趣味の範囲が広い。余計に俺は落ち着かない気分になる。
「俺はこれから勉強する」
「では先輩、いかがですか。次の休暇には――」
「よし。ついた」
「え?」
「ここだ。汐月、止まれ」
俺が足を止めると、汐月は何歩か俺を追い越しそうになった。
小さなビルだった。
新宿の路地裏を、かなり奥に入り込んだ場所にある。
ガールズバー、アダルトグッズ、DVD販売、占い。なかなか胡散臭い看板が、外壁に並んでいる。
「ここは?」
汐月は俺を振り返った。わずかに、顔に不機嫌そうな気配がのぞいている。余計に怒っているように見えた。
「先輩、聞き取り調査のはずでは?」
「そのつもりだ。占ってもらう」
俺はさっさとビルのドアを開け、地下へ続く階段を下りる。
「これが一番手っ取り早い」
「占いですか」
「不満そうだな」
「いえ。ですが、つまり、これは――【予言者】
「本人が自称するところによると、陰陽師だそうだ」
陰陽師、という、この胡散臭い仕事は最近になって増えた。
異界との交流が始まってからだ。
大昔の江戸時代には、『陰陽寮』という機関が公式にも存在したという。
いまとなっては先進的な、魔法スキルを研究する機関だった。
しかし
「この店を構えてるのは、『陰陽寮』の頭領の子孫だ。少なくとも本人はそう名乗ってる。本当かどうか知らねえが、【予言者】
「そうですか。では、この店で――」
「待った」
狭い階段を降り切って、薄汚れた入口に行き当たる。そのドアノブに手をかけようとした汐月を、直前で止めた。
「俺が開ける」
軽い頭痛。《警戒》スキルが発症していた。予感。予兆。悪寒。どれともつかない、曖昧な不安感。このスキルは、そうした形で危険を伝える。
汐月にもそれを知っている。
わずかにうなずき、俺に譲る――そしてドアノブを回し、引き開けた瞬間に、俺の予感は現実になった。
《見切り》スキルが発症。
いくつかの発砲音と、弾丸が飛来するのを俺は見た。
店内からだ。避けることはできない。真後ろには汐月がいる。斬り落とすこともできない。剣がない。
となれば、受けるべきだ。
そう決めた瞬間、連鎖的にいくつかのスキルが発症する。
《壮門景》――発症。
《臨兵の備え》――発症。
俺は急所の両眼と、喉元を腕でかばった。
衝撃を感じる。何発かの弾丸が、コートの上から食い込んできた。胸元、腹部、肩。なかなかの腕前だと思う。
めちゃくちゃ痛い。
だが、それだけだ。《壮門景》を構えた俺の皮膚は、拳銃くらいの弾丸はだいたい防げる。
防げる、というだけで、痛くないわけではないが。
「動くな!」
汐月が鋭く叫んだ。
拳銃を構え、薄暗い店の奥に向けている。
「山岡先輩、大丈夫ですか! 負傷は?」
「俺のことはいいよ。それより、なあ、
と、俺はその店の主の名を呼んだ。
土御門晴栄。それがやつの名前だった。
「ひでえ歓迎だな。どういうつもりだ?」
「いや――すみません。失礼しました」
店の奥、スチール製の棚の裏側から、一人の男が顔を出す。
かなり若い。黒々とした髪を長く伸ばし、一つにまとめている。片手に拳銃を持ち、喪服のような和装を身に着けているのが、やたらとミスマッチに見えた。
「ちょっと、このところ、色々と揉めてまして。山岡さんが来るなら、対戦車とか用意しときゃよかったですよ」
「褒めても何も出ねえぞ」
俺が苦笑したのは、《鑑定》スキルが発症した頭痛をごまかすためだ。
名称:土御門晴栄。
種族:ホモ・サピエンス。
所属:土御門。
「両手を上にあげろ」
汐月が冷たい声で命じた。銃口は、ぴたりと晴栄の額を向いている。
「武器を捨てて、ゆっくりと出てこい」
「山岡さん、この怖い人、なんとかしてくださいよ」
晴栄は、泣きそうな顔をした。
「喋れるものも喋れなくなりますから」
「汐月、その辺でいい」
「いえ。いまの行為は犯罪ですよ。いきなり発砲されました。先輩が――」
「いいんだよ。この男を脅しても無駄だ」
俺は汐月の肩を叩いて、拳銃をひっこめさせる。不満そうだったが、彼女と入れ替わる形で構わず店内に踏み込む。
「聞きたいことがある、晴栄」
「待ってください。そりゃわかってますよ、山岡さんの聞きたいことは」
晴栄は片手をあげた。
「私は陰陽師ですからね、人の顔を見れば用件がわかるんです」
「話が早いな。じゃ、答えを教えろ。報酬は――」
「それは結構。すぐに私を解放してくれるだけで、十分です」
妙な反応だな、と俺は思う。
汐月と目を合わせると、彼女も何か質問したそうに俺を見上げていた。
とにかくいますぐにでも、ここから逃げたいような気配。
「最近、物騒でしてね」
晴栄はこっちの思考を読んだように、口を挟んだ。
「このあたりを仕切ってるやつが交代したんです。で、私は折り合いが悪くなっちまって」
「夜逃げするところだったのか」
「まだ昼です。私だって、夜に逃げるほど馬鹿じゃない」
暗に、晴栄は何かを伝えようとしている。
夜に活発化する何者かが、この一帯の仕切り役の立場を奪った。そういうことらしい。
「そんなわけで、結論から言いますよ。山岡さん。この新宿区内に、エルフはいません。ここ数か月は足を踏み入れてもいませんね」
「それは違う」
と、これは汐月の発言だ。
彼女は晴栄を睨み、一枚の写真――例の帽子をかぶった『才谷梅花』とかいうガキの写真を突き出している。
「これは一昨日、新宿駅周辺で撮られた写真だ。この少年はエルフだと推定されている」
「信じなくても結構ですがね。私のスキルによれば、エルフはこの新宿区内にいません」
晴栄は肩をすくめる。
「あなた方、何か勘違いなさってるんじゃないですか?」
ますます汐月は目つきを鋭くしたが、俺は逆の意見だった。
晴栄の【予言者】
物事を「知る」ことに特化した魔法だ。
こいつが《星魔法》スキルを使って、なおかつ「エルフはいない」と言うのなら、実際にそうなのだろう。
「じゃあ――なにか? このガキはドワーフか、他の種族か?」
「いやあ、どうですかね」
晴栄は曖昧に笑った。
「そこのところが、私もわからない」
「人探しは、占い師なら得意だろ」
「たった一人の人間を探すなら、時間がかかりますね。私にもそんな暇はありませんし、山岡さんたちにだって」
「何が言いたい?」
俺は推理が苦手だし、駆け引きはもっと苦手だ。
「わかってるでしょう」
晴栄の笑いが、どこか薄暗くなった。
「この街で少年がいなくなって、死体さえ見つからないとなれば? そりゃあ、人さらいしかないでしょう。知ってます? この辺りを仕切ることになった連中のこと」
「ナイトメア」
「ご名答。《ブラザーフッド》なんて名乗ってますが、やつらは悪魔ですよ。本当の意味でね。急いだ方がいい」
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