第3話 まつと菊

「勘三」

「へい。旦那」

「お主、毎晩、こんな雰囲気で晩飯を食べているのか」

 小典は、小声で後ろに小さく控えている勘三に聞いた。

 小典が住んでいる八丁堀の同心組屋敷からほど近くにある、勘三が住んでいる長屋の中である。

 小典の前には、簡易な箱膳が二台置かれていた。だが何も置かれていない。食器すらない。

 正面を見ると、土間にふたりの女がいた。その土間からいい匂いが立ち昇ってくる。かまどの炎が赤々と勢いがいい。置かれた鍋から大量の湯気が昇っている。その前を忙しく動き回っている女がひとりいる。もうひとりの女は、土間へと続く板の間にどっしりと座っている。そして、睨みつけるように土間にいる女を見ている。ふたりとも無言だ。その緊張感が部屋中を張り詰めさせていた。

 「へい。面目ねぇ。これが毎日でさぁ」

 勘三は小声でそう言うと、体を小さくした。言葉の中にふがいなさと小典を巻き込んでしまった事に対する申し訳なさが表れていた。

 そう。今日、奉行所内で、髙気様からご下知された内容がこれなのだ。

 つまり、

 〝勘三宅に行ってご内儀とご母堂の料理の是非をおさめよ〟

 であった。

 なぜ自分が、勘三の家の料理の是非をおさめなければならないのか、と不満であったが、勘三には、これまでもいろいろ便宜を図ってもらっているし、あまりに元気がないのも気の毒だ。それに、小典は、同心として、たびたび夫婦喧嘩やその他の喧嘩を仲裁してきてもいた。だから、それなりに自信はあった。ただ、料理の是非という部分だけが気になっていたのだが……

 確かに毎晩、こんな調子で晩飯を食べなきゃいけないなんて、考えるだけでゾッとする。

 小典は、腹を決めた。

 その時、

「お待たせ致しました」

 と先ほどまで土間にて動き回っていた女が、器を運んできた。

「改めまして、勘三の女房の菊と申します。鞍家さまのお口に合いますかどうか」

 そう言うと、箱膳に持ってきた器を置いた。

 濃い色合いのタレの中に魚の身がふっくらと浸っていた。醤油の匂いだろうか、香しい匂いが小典の喉を鳴らせた。

「これは?」

「煮付けでございます」

「なんの魚か」

にございます」

 ぼらは、安価で手に入り、江戸庶民のよく食べる魚のひとつだ。小典の家でもたびたび食される。

「さようか」

 小典は、そう言うと拝んでから、魚の身に箸を付ける。

 柔らかく肉厚な白い身はすぐにほぐれた。湯気が身からも上がっている。まずは、横にあるタレに浸さずに身だけを口の中に入れた。

 思わず目を剥いた。

「うまい」

 臭みが全くない。それ以上にぼらの身を引き立てる、なにか、ほんのりとした香りが鼻に届く。だが、それが何なのか小典にはわからない。

 菊の顔が、そうでしょう、と満面の笑顔で言っている。

 次ぎに、身をタレに浸して食べてみる。

「おお」

 小典は思わず感嘆の声を上げた。

 濃い醤油を基本としつつ柑橘系の爽やかな香りが最後に残った。思わず呑み込みたくなくて、いつまでも噛んでいたかった。しかし、身は淡雪のように口の中で綺麗になくなった。

 再度箸を付ける。口に運ぶ。目を閉じて、意識を舌に集中する。このタレの中に入っているのは一体何であろうか。

 ほんのりとした甘さもある。砂糖であろうか。わからない。

 無意識に箸が延びていく。

 考えながら食べていると、あっという間に身を食べ終えてしまった。

 白湯を出され、一口飲んでから聞いた。

「奥方、このタレにはいったい何が入っているのか?砂糖か?」

 菊は、ふふふ、と笑うと、

「砂糖は、入っておりません。ですが、これ以上は秘伝ですのでお答えしかねます」

 きっぱりと言った。

「菊ッ!旦那がきいてくださってるんだぞ!」

 勘三の怒声が飛んだ。

 小典は、まあまあと勘三を制した。

「たかが料理、されど料理。京には、料理の流派も存在すると人から聞いたことがある。つまり、それほど奥が深いのだろう。己が研鑽したものをおいそれと教えないのは武士も同じ。これ以上は聴くまい」

 小典は、合掌した。

「馳走になった」

 菊は、黙って平伏した。

「鞍家さま。このまつの料理には、もったいぶったもんなんざありゃしません!」

 擦れた大声でそう言ったのは、いつの間にか土間で動いていたまつであった。

「秘伝だかだか知らないけど庶民の料理に、そんなご大層なものいりません!必要な物は、うまい!早い!安い!です」

 そう言っている間も、手は休めない。

 土間からいい匂いが小典の鼻に届く。奥方の菊の料理とは、違った香りだ。磯の香りが強いような気がする。

 そう考えているうちにまつが器を持ってきた。

「鞍家さまのお口に合いますよ、きっと」

 小典は思わず苦笑してしまった。合いますかどうかではなく、合いますときたか。

 箱膳に置かれた器の中には、半透明なつゆの中に魚のぶつ切りが入っている。

「これは」

「特性の潮煮でございます」

 潮煮は、小典もよく食べる。元々は、海水で魚を煮込んで食べたことからその名がついたといわれる江戸庶民の定番の魚料理だ。魚の頭や骨を出汁にしたもので潮汁とも言われる比較的簡単な料理だ。

 小典は、合掌すると器を取って、汁を飲んだ。

「うまい」

 驚いた。磯の香りが鼻に抜けると塩味と魚の出汁が非常にうまく合わさって舌の上に残る。

「魚はぼらだけか?」

 思わず小典は聞いた。

「身はぼらだけです。ですが、出汁として鯛、スズキ、さより……あとは忘れましたが、それらの頭や骨を使っています」

 まつは、あっけらかんと言った。

「ああ、そうそう。蛤の貝殻を使うのが隠し味ですね」

 そう言って大口を開けて笑った。

「なるほど」

 深みのある味はだからなのか。それにしても、と小典は思った。他の魚の骨や頭を出汁に使うのは他の家々でもやっているだろう。普段料理をしない小典ですら聞いたことがあるくらいだ。

「まつ殿。それだけの材料ならば、他の家々でもやっているだろう。やはり何か作るコツがあるのでは」

 小典は重ねて聞いた。

「そんなものありゃしませんよ。強いてあげるなら長年の感ですかね」

 笑いながらまつは言った。

 そう言われてしまえば、小典には何も言えない。

 気を取り直して、身に箸を付ける。

 弾力がある身がほぐれる。口に入れる。

「これもうまい」

 やはり何か違う。新鮮というだけなら小典もよくぼらを食べてるからわかる。何か下処理をしているのではないのか。

 チラリとまつを眺める。満面の笑みで小典を見つめ返す。

 なぜか、聞いても無駄だと思えてしまった。

 考え考え食べているうちに、全て平らげてしまった。

「馳走になった」

 まつも平伏した。

 さて、困ってしまった。

 これで、まつと菊の料理の是非を決めなければならないのか。

 奥方である菊の料理は、計算と工夫で考えられた料理。対する、まつは、長年の感を駆使した熟練の職人のような料理。正直、どちらも大差はなかった。同じくらいうまかったのである。あるとすれば、それは食べた者の好みだろう。

 小典は、腕組みをして考える振りして、ふたりを見る。

 ふたりともジッと小典を見つめていた。

 無言の圧力に、内心たじろいだ。

 「旦那。よろしくお願いしやす」

 後ろから、勘三の小声が聞こえた。

 ますます焦ってしまう。

 額に汗が浮き出てきた。この場をおさめるよい考えが浮かばない。どちらを選んだにしても角が立つであろう。しかし、おさめるには選ばなければいけなかった。

 額の汗が頬に流れ落ちてきた。部屋の中の張り詰めた空気が苦しかった。

 覚悟を決めなければならない。

 ――ええい。ままよ

 口を開こうとしたとき、

 勘三宅の引き戸が開いた。

「勘三さんいうお宅はこちらでええか」

 京訛りの声がした。

 

 

 

 

  



 

 


 

 




 




 



 

 




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