第87話 訪問 その1



「あれかな? え……あれって、どこまでが敷地?」

「多分、あの壁の端までだ」

「え、端っこって……見えないよ!?」


 俺達はホテルから歩いて五分の地下鉄の駅から地下鉄に乗り、地下鉄からバスへと乗り継いでバスを降り、歩いて十分ほどで目的地のティアハイム前に到着した。ホテルからは一時間十分ほどで到着した。


 そしてその建物が見えた時、俺達が受けた最初の印象が「巨大」だった。

 ここは縦四百メートル、横三百メートルという広大な敷地に作られた、ドイツ最大の動物保護団体「ベルリン動物保護協会」の建物。入口付近から続く長い壁はその終端が霞んで見えない。それ程に巨大な施設だった。


「……これ、東京ドーム何個分?」

「多分、四つくらいは入るんじゃないか?」

「それにしても、大きいですねぇ……」

「うん、なんか怖くなってきたよ……」

「ああ、ここまでは出来ないかもって、思ったか?」

「うん……私のやっていることは、最終的にこうしなくちゃいけないのかなって……怖くなってきた……」

「恐れることはないさ」

「なんで?」

「これを……この巨大さを目指すのかと言われれば、それは違う」

「まぁ……そうなんだけどね……」

「ああ。俺達が目指すのはこの大きさじゃない。考え方や方法といった、今、俺達に出来ること。そして、今後どうすべきかという目的を見つけることだ」

「だよね」

「ああ。お前はよくやっている。自信を持て」

「うん」

 楓は笑った。


 俺達は建物に入り、受付に行った。

「(すみません。日本から来た、ベラ・レンコントという施設の者です。こちらの会社からご紹介をいただいて伺ったのですが)」

 俺はそう言うと、小玉さんから受け取った紹介状を手渡した。

「(あ、日本の動物保護施設の方ですね。伺っています。今、担当者を呼びますので暫くそちらでお待ち下さい)」

「(わかりました。ありがとうございます) そっちで待ってろってさ」

「うん」


 俺達は受付の横にあるベンチに腰掛けた。

「……ここ、国立公園か何か?」

 目の前には広い池があり、所々に噴水がある。その向こうにさらに塀が続いていた。

「いや、もちろん違うが……そんな感じがするな……」

 池には草が生い茂り、緑色の草と空を反射した池の水と、その向こうに見える白い壁とその奥の木々の緑のコントラストが美しい。日本で言ったら、国立公園の様な、城跡のお堀のような感じがする……。それほどに広い池は綺麗に整備され、落ち着いていた。

「比べちゃいけないんだろうけど……比べちゃうよね……」

「ああ……」

 大きさ、規模を気にするな……と言っては見たものの、どうしても自分たちの施設と比べてしまう……。いや、全然比べ物にすらならないんだが……。


「(お待たせしました。ベラ・レンコントの方々ですか?)」

 声がした方を見ると、四十代半ば位のドイツ人女性が立っていた。

「(はい。本日は、宜しくお願いいたします)」

 俺が立ち上がって頭を下げると、楓も一緒に立ち上がって頭を下げた。

「(ようこそお越しくださいました。この施設、ティアハイム・ベルリンの広報をしております、エレナ・ベッヘムと申します)」

「(私は片桐蒼汰。こちらは妻でベラ・レンコントの代表、片桐 楓です。宜しくお願い致します)」

「(こちらこそ、宜しくお願い致します。それにしても日本からとは……本当に遠くからいらっしゃいましたね)」

 エレナさんは笑った。

「(はい、遠かったです……)」

「(そのご苦労に見合うようにがんばります。それではご案内します。こちらへどうぞ)」

「(はい)いくぞ」

 俺は楓を見た。

「うん」


 その後、俺達はエレナさんに施設を案内してもらった。

 この施設はレンコントとは違い、多くの種類の動物を保護している。犬猫に始まり、うさぎや狐に山羊や羊、鶏にアヒル、猿や馬に豚や牛、イグアナや蛇など、ありとあらゆる動物たちだ。


 あ。先に言っておくが、ここからは外国語と日本語を区別しないで話す。だが、あくまでも俺が翻訳しているという前提だ。決して楓がドイツ語や英語を話せるようになったとかじゃないので、そのつもりで読んで欲しい。


「そんなに沢山の種類を保護していたら、獣医さんは大変そうですね」

 楓はエレナさんを見た。

「そうですね。獣医もそうですが、それぞれに世話の仕方が違うので、ここの職員は多くの知識が要求されます」

「なるほど……じゃ、ここの職員になるのも大変なんですね?」

「はい。職員の多くは獣医師免許を持っています」

「あ、獣医師さんなんですか……それは大変そう……」

「ここの仕事は人気があって、競争率もとても高いんです。その分、質のいい職員が揃っています」

「職員の質……」

「自信なくなったか?」

 俺は楓を見た。

「うーん、少し。でも、まだ大丈夫!」

 楓は笑った。


「こちらが犬のセクションです。今こちらには約三百匹の犬が居ます」

「三百匹!?」

「はい。それぞれが個々の部屋と庭を持ち、庭に出ると他の子達と一緒に遊ぶことも出来ます」

「個々の部屋と、庭!?」

 案内された犬の建物の中には、小さく仕切られた多くの部屋が存在し、その中に一匹づつの犬が入れられていた。部屋は長細いのだが、広さはそれなりで四畳程度の広さはある。それこそ小さなアパートの部屋と言ってもいいくらいだ。

「あ、あの扉の向こうが庭ですか?」

 俺は奥の壁のガラスの一部に作られた、キャットドアを指差した。

「はい。あの外はこの部屋の倍くらいの広さのお庭です。その向こうに共通の庭があります」

 おお、庭付き一戸建てならぬ、庭付きアパート……。なんちゅう贅沢な……。

「あの、冷暖房はセントラルヒーティングなんですか?」

 楓はエレナさんを見た。

「冷房はそうです。暖房は各部屋に床暖房が付いています」

「床暖房!?」

「はい。犬の部屋はすべて床暖房付きの個室です」

 一人部屋の庭付きでさらに床暖房まで付いていた。

 もう寮とも言えないほどの設備だ……。

「あの、譲渡条件は厳しいんですか?」

 俺はエレナさんを見た

「条件はそれなりに厳しくしています。そうしないとまたここに戻ってきてしまうので……」

「ですよね……」

「例えば、初見で決めないように指導しています。何度も通っていただき、それでも飼いたいと思えるかどうか。それに、犬の場合は一日に八時間以上留守にする家庭には譲渡しません」

「それでも飼いたいと言われた時は?」

「何故犬なのか? 猫ではいけないのか? と問いただします。犬は一度捨てられると、長時間一人では居られなくなるのです。あくまでも保護犬ですから」

「なるほど……」

 そう言う所は同じだな……。

 俺は部屋の前に張り出されたカードを見た。


『ライル ジャーマンシェパード メス 推定2003年生まれ 8歳 彼女の所有者は一戸建てからアパートに移り、八歳の時にここに戻りました。彼女は一人で居られますが、良く吠えます。他の犬が好きではありません。人に対してはとても可愛らしく、従順です』


「あ、履歴も書くんですね」

 俺はエレナさんを見た。レンコントでも同様の札を付けて譲渡会に出しているが、その際、その札には履歴を書いていない。それは過去を振り返らずに、新しい生活を送ってほしいという思いからだ。

「はい。希望者と相談する際、とても重要なのです」

「相談する際……。あ、希望者が多いんですね?」

 それ程に希望者が多いのか……。

「ああ……そうなってしまうと思います。私達はここでの仕事に慣れてしまい、少し傲慢ごうまんになっているのかもしれませんね……」

「そんな事はないと思います。この子達が引き取られても戻ってこない。それが最も重要だと思います。ですが……現在の私たちには、まだそれが出来ません……」

「それは仕方のないことです。私達も最初はそうでしたから……」

「そうなんですか?」

「はい。最初からこうだった訳ではありません。ここは最初、動物園だったのです」

「動物園……?」

「はい、最初は動物園が動物の保護をしていました。その頃は本当にただ動物を一時的に飼っているだけで、それ以外は何もしていませんでした……。と言うよりも、出来なかったという方が正しいかもしれません……。後に動物保護の世論が高まるにつれ、動物福祉協会がここを動物園ではなく、動物保護施設とすることが決まりました。動物園の子たちは他の動物園に引き取られ、そこから本格的に動物保護施設としての活動が始まったのです。それが2002年のことです」

「じゃ、最初から飼育員さんとか、専門の方が世話をしていたんですか?」

「はい。それが最も良いだろうということで、動物園が保護を始め、そのまま現在に至ります。今では七十五人の獣医師や動物看護師が世話をしています」

「ボランティアの方は?」

「はい。ボランティアは六百人居ます」

「六百人!?」

「これだけ大きな施設になると、そのくらいの方々が交代で来てくださらないとどうにもならないのです」

「……ですよねぇ……」

 俺は建物を見渡した。

「あの、ここって何があるんですか?」

 楓が聞いた。

「はい。最初は三つの猫セクション、五つの犬セクション、小動物セクション、水鳥のセクション、診療所、墓地、犬の遊び場がありました。その後、エキゾチック動物と爬虫類の施設が作られ、シニアキャットのハウス、野良猫用の屋外施設が追加されました。そして2011年には犬用のリハビリとトレーニングを行うセンターも設立されました」

「最初から大きかった訳じゃないんですね……って、そりゃそうか……」

「はい。それに、お二人が運営されている施設は、日本でも有数の優良施設だと聞きました。是非、こちらで多くを知っていただき、お役に立てていただけるとうれしいです」

 エレナさんは笑った。

「あ、はい。是非!」

 楓は笑った。

 日本有数の優良施設って……どこで調べたんだろ? あ、小玉さんの会社か? 小玉さんならそう言いそうだ……。


「ん? 犬の遊び場って、さっき言っていた共通の庭の事ですよね? そこ以外にも庭があるんですか?」

 俺は犬の個室の奥に見える庭を指差した。

「はい、こちらへどうぞ」

 俺達はエレナさんに案内されて外へ出た。


「ここが共通の庭です。あそこに見えるそれぞれの犬舎の庭のドアから、ここに出られるようになっています。もちろん、全ての犬を会わせると喧嘩になるので、協調性のある子だけの扉を開け、ここに出しています」

「なるほど……」

 さっきまで見ていた個別の庭の先に、更に扉があり、その先が広い庭になっていた。

 なるほど、ここで一緒に遊ばせるのか。

「あの、しつけとかは……どうしてるんですか?」

 楓はエレナさんを見た。

「しつけですか?」

「はい。捨てられた子とか虐待された子は人間に怯えているので、譲渡する前にしつける必要があると思うんですけど」

「……ああ! 日本では違うんですかね……? ドイツではしつけは最初に、ペットを飼う時点で義務付けられています。全ての飼い主がしつけなくてはならないので、基本的なものはその時点でしつけられているんです」

「……義務!?」

「はい。基本的なしつけは最初に飼う時点で行われます。ですが虐待されたり捨てられたりした子に関しては、かなり時間をかけてしつけ直します。実はそれが一番大変なのです……」

「やっぱり……虐待とか、捨てられたりするのは、無くならないんですか?」

 楓はエレナさんを見た。

「無くなりません。どんなに教育に力を入れても、全ての人が変わる訳ではありませんから……」

「対処はないと?」

「教育こそが最も有効だと思います。それによって多くの人々の考え方が変わり、多くの動物達が捨てられずに済んでいると……そう思いたいです。ただ……それで虐待や遺棄が無くなるわけではないのです……」

 エレナさんは寂しそうな目をした。



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