第86話 優雅な時間




 二十時。

 ホテル。


 俺達は無事、ホテルに到着してチェックインを済ませると、部屋のベッドに横たわっていた。


「今日は蒼汰様様さまさまだったねぇ……」

 楓は俺の隣のベッドに横たわり、俺を見た。

「いや、それを言うならアリシア様様さまさまだ……」

 俺はアリシアを見た。

「だね……ありがとう。アリシアちゃん」

「いえいえ、私は自分のできることをしたまでですよ……でも、二人共英語が話せないって、どうするつもりだったんですか?」

「私は身振り手振りでなんとかなるだろうと……」

「なる訳ないじゃないですか……。現に楓は危うかったんですよね?」

「ま、まぁね……あはは」

 楓は苦笑いした。

「蒼汰はどうするつもりだったんですか?」

 アリシアは俺を見た。

「俺は一応勉強した……。ただ、そんな俄仕込にわかじこみでなんとかなる訳も無く……な」

「いえ、『な』って言われても……。蒼汰にしては珍しく楽観的ですね……」

 正直そんな時間はなかった。だが、それを言いたくないだけだ。

「まぁな……。でも本当に助かった。ありがとな、アリシア」

「いえいえ。お役に立てて何よりです」

 アリシアは笑った。


「ねぇ、もうお風呂にでも入ってゆっくりしたら寝よ?」

「そうだな。時差ボケもあるだろうし、正直疲れた……」

「うん。明日、起きられなかったら最悪だよ……」

「だな」

「蒼汰、露天風呂がどこにあるのか探して」

「いや、さすがに露天風呂はないだろ……」

 俺は電話のところにおいてあった、ホテルのパンフレットを取り出した。

「無いの? こんなに高そうなホテルなのに?」

「露天風呂ってのは、日本だけなんじゃないか? ってか、そもそも湯に浸かる文化がある国って、少なくなかったか? ああ、やっぱり共同浴場ってのはないな」

「無いのかぁ……。じゃ、お風呂の代わりは?」

「そこにあるシャワーだ」

 俺はバスルームを指差した。

「シャワーなのか……。ま、いっか……」

 楓はベッドから起き上がり、バスルームへ入った。


「な……なんじゃこりゃー!?」

 バスルームに入った楓が叫んだ。


「ん? どうした?」

 俺は起き上がってバスルームを見た。

「蒼汰! お風呂とトイレが一緒だよ!」

 楓はバスルームから顔を出して言った。

「ああ、欧米ではそれが普通だ……」

 俺は立ち上がると、バスルームへ入った。


「うお……。趣味悪っ!」

 バスルームに入ると思わず口から漏れた。

「まぁ、それは確かにね……」


 何故かバスルームだけ黒い大理石でできていた。部屋全体が真っ黒で、なんかこう……落ち着かない。外国の高級志向って、こういう事なんだろうか……?


「しかし……でかいな……」

 そう言えるほどの広さがあった。扉を開けるとすぐ右にトイレが有り、正面から続く短い廊下の左側には化粧台らしきもの、正面には洗面台、そして右奥にはまだ空間が広がっていた。

「あれ、湯船があるよ!?」

 楓が奥に進むと、壁の向こうを指差した。

「え? あ、ホントだ……」

 奥まで進むと、壁の向こうに大きな湯船があった。

「って言うかこれさ……どうして化粧台とお風呂が同じ部屋にあるの?」

 見ると大きな浴室の、浴槽の反対側にある壁には大きな鏡が置かれ、その前の台の上にコロンやらティッシュやら、別の鏡まで置いてあり、引き出しまでついている。その前には丸い椅子が置かれ、さながら化粧台としか思えないものだった。

「確かに、どうみても化粧台だな……風呂入ってから化粧するんじゃないのか?」

「そういう文化は知らない……」

「だな……」

 少なくとも俺は知らない……。

「でも、浴槽があるなら風呂に入れるな」

「うん。お湯をためよう!」

「おう」

 俺はそのまま湯船へ行き、お湯を出した。

 ふと見ると、湯船の脇に銀色の容器が置いてあり、その中に見たことがある酒瓶がある。ご丁寧に氷水まで入れられていた。


「は!? 風呂に入りながらドンペリを飲めと!?」

 俺は固まった。


「あ、ロウソクまであるよ。点けようか!?」

「ああ……構わんが……」

「なんか楽しそうだね!」


 ──


「まま、旦那様。一杯どうぞ……」

 楓は俺と向かい合わせで一緒に風呂に入ったまま、俺にシャンパングラスをもたせると、グラスにドンペリを注いだ。

 電灯は全て消し、薄暗いバスルームにはロウソクの炎が揺れていた。三つのロウソクが照らし出す、暗くてほのかな炎の明かりは、グラスとその中の炭酸の泡に反射して、とても綺麗だった。

「おっとっとっと……」

 なんだかこんなゴージャスな雰囲気なのに、口調は居酒屋の様なものしか思いつかず、雰囲気に馴染めない自分が少し悲しい……。

 そのまま一口飲む。

「美味しい?」

「酒の旨さは良くわからん……だが、旨い」

「蒼汰はお酒飲まないしねぇ……じゃ、要らないなら頂戴」

「おう」

 俺はグラスを楓に渡すと、楓は一口飲んだ。

「あ、おいしいじゃん!」

「旨いのか?」

「うん……飲んだことがない美味しさ」

「そうなのか……少し羨ましい」

「飲めない人にはそうなのかもね……ふふふ」

 楓はそう言うと笑った。

「どうした?」

「初めて、蒼汰と一緒にのんびり出来たなーって思ってさ……。少し嬉しくなっちゃった」

「あぁ、そう言えばそうだな……なんかすまん」

「ううん。それは私のせいでもあるしさ、謝るのはやめよう?」

「だな……」

「はぁ……幸せだね……」

 楓は身体の向きを変え、俺の胸にもたれかかって足を伸ばした。

「ああ……こんなことで、こんなにゆったりした気分になれるもんなんだな……」

「そうだね……河口湖以来かな……」

「ああ、あの時か。その後は温泉とか、旅行には行かなかったのか?」

「うん……お母さんは何度かそう言ってくれた。でも、その度に思い出すのは小鉄のことばかり……。どこに行きたい? って聞かれたら、あそこになっちゃうんだよ……。そうじゃなくて、小鉄を忘れる旅行に行こうって、言ってくれるんだけど……。小鉄の影を追う……そんな旅行しか思いつかなくて……そうじゃない旅行には行く気になれなかった……」

「寂しい思いをさせて、すまなかったな……」

 俺は楓の腰を抱きしめた。

「ううん。今、こうしていられるのが嘘のよう……幸せって、こういう感じなのかな?」

 楓はグラスを湯船の外に置き、両手を俺の両手に重ねた。

「どうなんだろうな……。でも、今……ものすごく幸せを感じる」

「うん。私も……。それにさ、もう寂しくないよ……。前にも言ったけど、私は貴方に作られた、育てられたと言っていい。いや、もちろんお母さんに育てられたんだけどね……。でも、貴方のおかげで今の私がある。それは間違いない。だからさ、これ以外に言いたいことは何もないよ……」

 楓は俺に抱かれたまま振り返った。


「ありがとう」

 楓はそう言うと、俺にキスをした。


「私の猫になってくれて、あんなに色々してくれて……。そしてまた私を見つけ出してくれて。探してくれて、声をかけてくれて……。そして、結婚してくれて……」

 楓は笑った。


 ──


 俺と楓は風呂から上がり、部屋で体を拭いていた。


「アリシアちゃん、お風呂入ってお酒飲んで。ボトル開けちゃったけど、蒼汰は飲まないからさ、余っちゃった」 

「良いんですか?」

「もちろん! アリシアちゃんも楽しんで欲しいの。あ、一緒に入る?」

「そうですね、入りましょう!」

「うん! 蒼汰ももっかい一緒に……入るわけ無いか」

「ああ。俺はいい……女二人で楽しんでくれ」


「任せて! アリシアちゃん、内緒の実体化リアライズ!」

 楓は笑った。

「はい!」

 アリシアはそう言って笑うと、実体化リアライズした。

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