第64話 あなたの遺伝子がほしい
四月。
俺が楓の会社に入社すると、俺のしつけ教室は本格的に動き出した。
楓は既に、しつけ教室の名前を決めていた。
『Lernejo de renkonto(レネイオ デ レンコント)』
またエスペラント語で「出会いの学校」という意味なのだそうだ。犬と犬が出会い、仲良くなるための学校で、人と犬が出会い、人と人が出会う学校という意味でもある。例えるなら、公園デビューやドッグランデビューを目的としたものだ。もちろんその根底には「人と犬との出会い」があり、飼い主と動物との共同生活を円滑にするという大きな目的がある。
これでレンコントという名の施設が四つ目になってしまった。
と言うのも、サロンの名前は……。
『Salono de renkonto(サロノ デ レンコント)』
うん、その予想であってる。「出会いのサロン」だ。
じゃ、次も分かるだろう。
動物病院の名前は……。
『Hospitalo de renkonto(ホスピタロ デ レンコント)』
「出会いの病院」だ。
つまり、楓がつける施設名には全てこのレンコント、出会いという意味の名前がついている。で、良く見てもらうと分かるのだが、全て同じ名前。「レンコント」なのだ。じゃ、どう呼ぶか? 団体名と建物名は共通で「レンコント」。で、あとは普通に「サロン」とか「動物病院」とか「しつけ教室」と呼ぶ。あえて言えば、名称自体が全く機能していない……。いや、楓のつけた名前に文句はない。むしろ素晴らしい名前だと思う。だが、誰もフルネームで呼ばない。
「ねぇ、蒼汰くん」
空さんは俺を見た。
「なんですか?」
「もう動物看護師を取っちゃったほうが良くない?」
「あぁ……」
俺の始めたしつけ教室は、まだ週に一度で三匹しか生徒が居ない。なので、これまで通りに五階の動物の世話を終えると暇になってしまう。もちろん、新しい子が来た時はちゃんと話が通じるまで話し込むので、それなりに時間がかかる。だが、一度話せるようになってしまうと、あとは他の人に慣れてもらう時間が必要なので、ずっと五階に居たりはしない。もっと多くのことを学びたい俺は、多くの時間を動物病院での、空さんの手伝いに費やしていた。
「でも、人間の看護師なら注射を打ったり、採血したり出来ますけど、動物の看護師ってその資格が無いんですよね?」
「おや、良く知ってるね。じゃ、この際蒼汰くんも医師免許取っちゃうかい?」
「いや、そんな簡単に言われても……」
「あれ……? 蒼汰くん、どうしていつも楓の手伝いじゃなくて、ここに来るんだい? いや、迷惑とかじゃないよ。むしろ助かるんだけど……君は楓の婚約者なんだろ? いや、まだ違うのか?」
「あぁ……実は……。気を悪くしないで聞いてくれますか?」
「ん? 私が気を悪くする理由があると?」
「いえ、空さんなら同意してくださると思うんですけど……」
「うん、わかった。話してごらん」
「実は……楓の知らないことを、覚えたいんです」
「楓が知らないこと?」
「はい、楓と結婚したとして、楓は間違いなく死ぬまでこの仕事をやり続けたい、やり続けると思うんです」
「うん、そうだね」
「だとすれば……他の人達が居なくなったり、去った時、一番困るのはここなんじゃないかって……」
「……なるほど。私がここを去ると?」
「いえいえ、そんな風には思っていません! 空さんは楓と二人でここを立ち上げた。楓の数少ない親友です。でも……」
俺は空さんを見た。
「言ってごらん、怒らないから……。というか、もう想像はついているけどね」
「はい。空さんが……仮にですけど、もし空さんが亡くなった時、誰が後を継ぐのだろうと……違うな……。誰がこの病院を継続させられるのだろうと……そう思いました」
「……なるほどね……。君、そんなに先のこと……とは限らないか。人間、と言うか、生き物全て、いつ死んでもおかしくない。それこそ明日は生きていないかも知れないんだものね……」
「はい」
俺はそれを前世で経験した。
「じゃ、本気で獣医師を目指すつもり?」
「いえ……良くわからないんです」
「そうなのかい?」
「はい。今はただ、少しでも覚えたいと……。仮に空さんがいらっしゃらない時に急病の子が来て、空さんから電話で指示されて、俺が一匹でも助けることが出来たら……。あ、それが違法なのは分かってます! ただ、何も出来ずに見ているだけなのは……嫌なんです」
「ほう……。その覚悟があるのなら、取るべきかもよ?」
「そう思いますか?」
「じゃ、その資格があるか、試してあげよう」
「資格……ですか?」
「ああ。私が学校に入った時、最初に教授にやられた思考テストだ」
「思考テスト?」
「うん。じゃ、始めるよ?」
「はい」
「ある犬が病院に来た。その犬はすでに他の病院から脱却、つまり足の切断の必要があると診断された犬だ。犬は右後ろ脚に大きな腫瘍がある。詳しく調べると思っていたとおり、癌細胞だった。しかもその癌はリンパ節には転移しておらず、骨との固着も見受けられない。つまり、切除が可能だったんだ。だが、癌は切除すればいいだけのものではない。その後のケア、再発防止が最も重要。ここまでは前置き。ここまでいいかい?」
「はい」
「では。この手術に二十万円かかる。さらにその後のケアに放射線治療をするとしたら、毎月八十万円かかる。さて、君はこの状況を、どの様に飼い主に説明する?」
「……た、高いですね……」
普通に払い続けられる金額ではない。毎月八十万って……。
「…………」
空さんは黙っている。
「あの……手術と放射線治療はセットなんですか? それ以外の方法や組み合わせはないんでしょうか?」
「ほう……。手術には代案がない。だが、放射線治療には代案がある。抗がん剤を投与して、そこに電気治療を施すという処置だ。これだと毎月の費用は六万円になる」
「なるほど……犬の年齢はいくつですか?」
「八歳のトイプードルだ」
「八歳のトイプーですか……。でもまだ生きられそうだな……。その他の案は?」
「ない」
「なるほど……。では、俺ならこうします。まず、ベストの案として手術と放射線治療を説明します。手術は必須だけど、放射線治療には代案がある。但し、その効果はわからない……もっと言えば、放射線治療だって完全じゃない。どちらにしても完全な方法はない。だとすれば、可能な限りのベストで良いんじゃないか? 安い方を選んだからと言って、飼い主さんのせいではないのではないか? ……と、こんな感じでしょうか?」
「…………なるといい」
空さんは俺を見て少し驚くと、静かに言った。
「は……? あの、結果は?」
「君は私の上を行く、ベストな答えを出したと思う」
「そう……なんですか?」
「ああ。私の考える、ベストな獣医師に……君はなれるんじゃないかな? しかも動物と話せるし、動物の痛みがわかる……。まさにドクタードリトン!」
「いやいや、あれは架空のお話で」
「いや、君はその可能性を持ってる……。そうか! 君は夢のような獣医師になれるって事だ……なぜ今まで気づかなかったんだ……!? なるべきだ! 君は獣医師になるべくして生まれた人間だよ!」
「いや、あの……」
「よし! こうしちゃ居られない……」
空さんは急ぎ足で病院を出た。
「そ、空さん!? 診療の続きは!?」
俺は急いで後を追った。
「は……? 夢の獣医師?」
「ああ」
「蒼汰が?」
「ああ。蒼汰くんはそうなれる。なるべくして生まれたと言っていい」
俺と空さんは一階に降り、サロンでカットをしていた楓の前に居た。
「ってか、空。診療は? 暇なの?」
「いや、まだ五人待ってる」
「なんで来たの?」
「蒼汰くんが獣医師に最適な人間だと知って、居てもたっても」
「今すぐ戻って仕事しなさい!」
「え……あ、そうだな……邪魔した」
空さんは踵を返すと二階に戻った。
──
「空、あの時一体何しに来たの? 患者さんをほったらかしにしたりして……」
病院とサロンの営業時間が終わり、俺と空さんと楓は、三人で五階の動物の世話をしていた。
「すまない、気が動転して……居ても立ってもいられなかった」
「空がそんなに慌てるなんて、よっぽどの事なんだよね?」
「ああ」
「なんか、蒼汰が獣医師に最適な人間だ……とかなんとか」
「ああ。蒼汰くんは夢の獣医師になれる」
「……その、夢の獣医師って……なに?」
空さんは、昼に動物病院であったことを楓に話した。
「ふーん……」
「ふーんて……なぜ驚かない? 興奮しないのか?」
「蒼汰、なりたいの?」
楓は俺を見た。
「うーん……わからないんだ。俺はただ、楓の役に立ちたいと思って……」
「そっか……空」
楓は笑うと空さんを見た。
「なんだ?」
「今後、蒼汰に獣医師になれとか言うのを禁止します!」
「な……こんな逸材を、みすみす見逃せというのか!?」
「私は動物も大事だけど、蒼汰も大事。それにさ、蒼汰があの能力を使った獣医師になったとして、それは蒼汰にとって幸せかどうかはわからないよ」
「話ができて痛みがわかるなんて、他の人間には不可能なんだぞ!? それこそ、私が欲しいくらいだ!」
「空。それはただの無い物ねだりかもしれないよ?」
「……何が言いたい?」
「神様が与えてくれた蒼汰の能力は、蒼汰が獣医師になるために与えられたのだとすれば、もうなってる……って言うか、その道に進んでるよ……多分ね。でも、今はそうじゃない」
「だから、今からその道に!」
「うん、それも可能性の一つだよね。でもさ、蒼汰がなりたいかどうか分からないんなら、それを見守ってあげるのも私の役目。たとえ相手が空だとしても、蒼汰のためなら私は戦うよ? もちろん、そうしたくはないけど……」
「あんたって子は……」
「それに……論点はそこじゃない」
「ん? 私が蒼汰くんを大切に扱っていないと?」
「ううん。そこでもない」
「じゃ、なに?」
「蒼汰が本当に獣医師になった時。もし仮に、獣医師になれたとしたらさ……」
「他の獣医師よりも辛い思いをするはずだから……」
「……そっか、そうだね……分かった。もう言わないよ」
「うん。ありがとう! 空なら分かってくれると思ってた」
楓は笑った。
「そのかわり、一つお願いがあるんだけど……」
「なに?」
「蒼汰くんの遺伝子がほしい」
「は…………? それって、細胞を少しくれ……とか、そういう事?」
「いや、もっと率直に言えば……」
「蒼汰くんを私に譲ってくれ」
「……はぁ!? そ、そ、それって……蒼汰と結婚したいと!?」
「いや、結婚しなくても良い。遺伝子さえ貰えれば」
「え……あ、あんた……未婚の母にでもなるつもり!?」
「ああ。それでもいい」
空さんは真面目な顔でそう言った。
「そ、そ、そんな不潔な事! 絶対に許しません!」
楓は顔を真赤にしてそう言うと、空さんに向かって仁王立ちで睨みつけた。
だが、あまりの恥ずかしさからなのか、楓の顔は全く怖くならなかった。
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